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尿の炙り文字による ナチス収容所からの手紙 ラーフェンスブリュック強制収容所

2017年02月22日 | ヒトゴロシ

ナチス収容所からの手紙、尿で綴った人体実験の実態

第2次世界大戦中、
ナチス強制収容所で行われていたポーランド女性囚人に対する人体実験の実態を、
同性の囚人が自らの尿で綴った27通の手紙が、
ポーランド東部ルブリンにある殉教者博物館に寄贈された。
 
1943年から1944年まで、ラーフェンスブリュック強制収容所で、
74人の女性囚人に対して行われた人体実験の事実を明らかにしたこの女性の手紙は、
一見すると家族に宛てた普通の手紙のようだが、
行間と余白には目には見えないメッセージが秘められていた。
手紙は、クリスティナ・チェズ・ヴィルガトさんの家族から博物館に寄贈されたもので、
中には保存状態が悪く判別不能なものもあった。
 
検閲をパスした手紙にしたためられたメッセージは、
いずれも細い木の棒をペン代わりに、自らの尿をインク代わりに書かれたもので、
尿の酸化作用で普通の状態では読めないが、
炙り文字の要領で火にかざせば文字が浮き出る仕掛けがされていた。
 
アウシュビッツ強制収容所のことは、いまや「負の世界遺産」として世界に知られることになったが、
ベルリンから僅か80キロしか離れていないラーフェンスブリュック強制収容所のことは、殆ど知られていない。
そこに収容されていたポーランド女性囚人の何人かが書いた隠されたメッセージのおかげで、
女性囚人に対して行われた壊疽に対する新薬などの人体実験の真相を世界が知ることになった。
 
終戦後ニュルンベルクで開かれた戦争裁判で、20人のナチス医師団が裁かれ、7人が死刑、7人が長期刑となった。
1939年から終戦の1945年までの間に、
13万の女性囚人がラーフェンスブリュック強制収容所に収容され、
そのうちの3分の1がポーランド人だった。

(ロイター 2017 2/21)

母と子のナチ強制収容所―回想ラーフェンスブリュック
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ナチス・ドイツの人体実験



ラーフェンスブリュック強制収容所(ドイツ語: Konzentrationslager Ravensbrück)
主に女性を収容していたことで知られる。
ドイツ東部メクレンブルク地方のフュルステンベルク市の近く、
ベルリンから北に80キロメートルほどの場所に存在していた。
総計12万人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したとみられる

囚人バラックの数は当初16棟だったが、収容者数の増加に伴い最終的には32棟にまで増設されることとなった。
1944年末には病人を処理するためにガス室が設置された
1945年4月30日にソ連赤軍がここに到着した時、女囚はフランス人女性数名だけであったという。
一方男性収容区には死体400人、生存者400人ほどが残されていたという。
もっとも生存者達も飢え死に寸前の状態であったという。



反抗や失態をした囚人には女性だからと手心が加えられることはなく他の収容所と同様に「罰」が下された。
殴打や犬に襲わせるといった虐待は日常茶飯事だが、他にもさまざまな罰が存在した。

棒で殴りつける「棒打ち」は反抗や失態の重さに応じて25回・50回・75回の3つが定められていた。
50回の「棒打ち」に処された者は致死率が高かった。75回はほぼ確実に絶命した。

「ポーズ」と呼ばれる罰も存在した。
囚人を直立不動で長時間立たせる罰だが、食事抜き・親衛隊員からの殴打を伴うこともある厳しいものだった。
また、「懲罰ブロック」も存在し、
ここに収容されると特に激しい肉体労働や糞尿処理、死体処理など苦痛な作業に回された。

ラーフェンスブリュックでの処刑は絞首刑・銃殺・毒殺・ガス殺でもって行われた。
絞首刑は点呼の際に全員が見ている前で執行された。死体は一日以上吊るされて晒しものとされた。
銃殺は死体焼却炉のそばの「銃殺刑囚の通路」と呼ばれる場所で行われていた。
また医務室に運ばれて毒殺される例もあった。

1944年12月から毒ガスによる殺害が始まった。
ガス処理の対象は主に病人ブロックの者達であった。
ガス室への移送をラーフェンスブリュック収容所では「ミットヴェルダ収容所へ移送」と記載している
(「ミットヴェルダ収容所」なるものは存在していない。)。



ラーフェンスブリュックでは女性囚人を使った残虐な人体実験が行われていた。
1942年8月から1943年3月にかけて
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの主治医である親衛隊高官の医師カール・ゲプハルトは、
ラーフェンスブリュックの15歳から25歳までの若いポーランド人の娘たちを収容所に用意させて
彼女たちの体を切り刻んでは筋肉・神経・骨の小片などを集めた。
切り裂いた傷口からさまざまな細菌の培養液を注入する実験も行っていた。
ゲプハルトたちは少女たちの激痛などお構いなしに骨が見えるまで切り開いた傷口に手で触れて見学していた。

1945年1月には120人から140人のジプシーの女性たちが
ホルスト・シューマン博士(de:Horst Schumann)、パーシヴァル・トライテ博士(de:Percival Treite)らによる
不妊手術の実験に使われた。
「下等人種」の女が子供を産めない体にすることを目的としていた。
実験に使われた者のうち最年少は8歳の少女だった。
ほとんどの女性は実験で死亡した。生き残った一部の者もガス殺されたとみられる

KZ Ravensbrück

Das KZ Ravensbrueck: Geschichte eines Lagerkomplexes
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夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録
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2 コメント

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Unknown (odies)
2017-02-27 18:44:15
昔アウシュビッツに行ったことがあります。悲惨さを表す展示方法にびっくりした記憶があります。とにかく物量で圧巻させる。亡くなった方々のメガネだけをデパートのショーウインドウのようなところに高く詰め込む・・・おなじく髪の毛・・・ガスの空き缶・・・
当時はアーティストでしたから、こういうのを正しいオブジェというのだろうとなんともいえぬ衝撃を受けたのを思い出しました。
返信する
odies様 (よしはら)
2017-03-01 10:30:27
アウシュビッツにもドイツにも行ったことはありませんので
肌身で感じるこたはできませんが
ナチ話はエグイやつの最高峰なので
時々あさってみます
この女性中心の収容所は知らなかったので
今更ながらあさってみました
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