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「女子高生コンクリ詰め殺人事件」準主犯格の孤独な最期

2025年01月07日 | ヒトゴロシ

女子高生コンクリート詰め殺人事件

 

被告人・少年B(犯行当時17歳)
第一審・東京地裁と控訴審・東京高裁にてそれぞれ「懲役5年以上10年以下の不定期刑」(求刑・懲役13年)の判決を受け確定した
出所後の2004年に、元少年B(当時33歳)は「三郷市逮捕監禁致傷事件」を起こして逮捕・起訴され、懲役4年の実刑判決が確定した。

東京地方裁判所にて懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(求刑・懲役13年)を受け、
判決確定後は少年刑務所を含め、3つの刑務所で8年間にわたり服役したが、
1999年(平成11年)8月3日に満期出所した。

元少年Bは刑務所で服役中に簿記2級・情報処理関連の資格を取得したが、
他の受刑者との諍いも絶えず度々処分を受けたために仮釈放は認められず、
28歳になる1999年8月3日に満期出所した。

同事件の刑事裁判で、元少年Bの情状酌量の理由として挙げられた点は
「罪の重大性を認識してその責任の自覚を深めつつある上、深く反省して成長の跡も相当にうかがえる」という点であり、
元少年Bは服役中に更生のための教育も受けていた。

一方で、服役中の元少年Bには拘禁反応による妄想が現れていたが、刑務所では適切な治療を受けていなかった。

元少年Bは出所後、パソコンのオペレーター業務会社・同業の人材派遣会社などで働くが、
家族と疎遠になった上に仕事も長続きせず、派遣会社に勤務してプログラマーの仕事をしたが長続きせず、
2002年頃からは定職に就かなくなった。

2003年(平成15年)9月頃には、元少年Bは暴力団に加入して組長・組の構成員らと知り合うも、犯行直前には組を抜けた。
そして、埼玉県八潮市内に居住しつつ、コンピューター会社にアルバイトとして勤務していた。

「コンクリ事件」の刑事裁判で男(元少年B)の弁護人を担当した弁護士は、『読売新聞』の取材に対し
「男(元少年B)は同事件で逮捕された直後こそ反省するそぶりもなかったが、
『大好きだった母親から幼少期に十分に受容されず罵られるなど、親子関係に問題があった』ことに理解を示すと
涙を流して反省の態度を見せた」と証言した。

一方で、コンピューター関連会社で勤務していた当時の男(元少年B)を知る関係者は、『読売新聞』の取材に対し
「(男は)『あんなひどいこと(コンクリ事件)をやったと(周囲が)俺をいじめる』と話していた」と証言した。

元少年Bは犯行前に被害者の男に対し、
「俺は少年の時に10年懲役に行ってきた」
「女を監禁していて、遊びから帰ってきたら、女が死んでたんだよ。
それでたばこに火をつけて、煙を鼻に近づけたら煙が揺れなかった。だから死んだってわかったんだよ」などと言って、
笑いながら、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」への自身の関与を誇らしげに語った。
また、元少年Bは、
「俺は警察を騙したり、検事を丸め込んだりするノウハウや知識を学んだ。
今度、何かあってもすぐに出て来られる」と語っていた

本事件の被害者の男(事件当時27歳)は加害者の元少年Bと知人同士だった暴力団組員が経営していた花屋で店員として勤務しており、同僚とともに東京都足立区内のマンションの一室で同居していた[判決文 1]。

被害者の男は事件前年の2003年12月頃、勤務先の花屋で加害者の親分格だった組長から加害者(元少年B)を紹介されて知り合ったが、
事件後の公判中に行方不明となった

 

 

「女子高生コンクリ詰め殺人事件」準主犯格Bの孤独な最期 3年前51歳で自宅トイレで…

1989年に起きた東京都足立区綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件

事件の加害者のひとりである準主犯格のBが、3年前に孤独死していたことが今回新たに判明した。

「足立区綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件」 1989年3月、東京都江東区若洲の空き地で、コンクリート詰めにされた女性の遺体が発見された。被害者は埼玉県三郷市に住む17歳の女子高校生だった。 事件に関わったのは主犯格A(18)、準主犯格B(17)、自宅が監禁場所となったC(16)、監視役のD(17)など、当時16歳から18歳の少年たち7人。 通りがかりの見ず知らずの女子高生をAが強姦目的で連れ去り、41日間にわたって足立区綾瀬のCの自宅の一室に監禁した。連日に及ぶ強姦、顔面や体を殴りつける、ライターで皮膚をあぶる、食事を与えない。非道の限りを尽くしたあげく、A・B・C・Dの4人は女子高生を殺害。遺体をドラム缶に入れて捨てたのだった。

1999年8月4日、Bは28歳のとき満期で出所。その2日後、義兄はBと初めて会った。 記者「最初に会ったとき、Bの態度や表情は?」 義兄「俺様という感じで、自分が一番だぞという態度でしたね」 Bは1971年5月11日生まれ。幼いころに父親が愛人をつくり家を出ていった。母親は2人の幼子を養うため働きに出ねばならず、Bは「家族そろって食卓を囲んだ記憶はない」と供述している。小学校では野球、中学校では陸上に打ち込み、大きな問題行動は起こしていない。だがスキーで足首を骨折し、得意のスポーツができなくなってから人生は暗転する。学校の成績は下がり始め、私立高校に進学したものの、身長180センチという目立つ体格からいじめにあい、不登校となって、最後は中退。前後して母親に暴力を振るうようになった。その頃出会ったCの自宅に出入りするようになり、Cの不良仲間だったAと知り合う。「道具のように使われる」として当初はAを避けていたが、Bが暴走族との間に起きたトラブルをAに相談してから、Aと行動を共にするようになり、Bの非行性が増す。 この頃、Aを中心とする不良仲間は、自動車などの窃盗や、見ず知らずの女性を連れ去って強姦することを繰り返していた。Bも何度か加わった。そして1988年11月25日夜、AとCが自転車で帰宅途中の女子高生を襲い、Cの自宅に監禁し、凄惨な事件が始まった。 裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。Aは懲役20年と最も重かった。Bは懲役5~10年、Cは懲役5~9年、Dは懲役5~7年のいずれも不定期刑だった(確定判決)。Bは、最終意見陳述で涙ながらにこう述べた。 「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛かったか。一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい」 1999年に出所したBは、弁護団のひとりから紹介されたコンピューター関連の派遣の仕事に就く。2000年12月、中国籍の女性と結婚し、千葉に引っ越す。女性は7歳年下で、歌舞伎町の店で働いていたとき、客として出入りしたBと知り合ったという。だが数年で離婚し、母親が住む埼玉県の実家に戻ると、再びBの人生は大きく狂い始める。仕事先でトラブルになり、退職。未払いの給料を取り戻すため、母親の知り合いを通じて暴力団幹部と付き合うようになる。 当時のBの様子を義兄は次のように証言する。 「会社をやめてからはフラフラするようになって、仕事はしませんでした。母親に金を無心するようになりました」 Bは、高級セダンの国産車を約200万円で購入する。 「出所したあとは、人生一からだからローンもたくさん組めるし、自分のやりたいことはすべてできたようです。高級車をローンで買うなど、やりすぎじゃないかなっていう生活を始めました。自分が一番だぞという態度でした」 2024年秋、私は東京都内の公営住宅で暮らすBの父親を訪ねた。突然の訪問にもかかわらず、居間に招き入れて1時間半も当時のことを話してくれた。父親は家を出てから別の女性と結婚し、新たに2人の子どもをもうけた。Bは出所後、中古の高級セダンに乗って、すでに新たな家庭を築いていた父親の元にも何度か顔を出したという。 父親「車に乗って何度かここにも来た」 記者「なんの用事で来たのか?」 父親「とくに用事はなかったようだ。しかし、妻が言うには子どもに手をあげていたという。俺は見ていないが」 Bは出所後、自分を捨てた父親に何を期待して会いに行ったのだろうか。 東京地裁から心理鑑定を依頼された福島章氏はBを次のように分析した。 Bを心理鑑定した精神科医・福島章氏 「少年時から人の顔色を見る、表裏のある子供だったが、暴力で他の子供を従え、自己中心的に自己の存在を主張する傾向もあった。しかし、父親に愛情を求めたり母親に甘えたり受容を求めたりする欲求が強いにもかかわらず、それが満たされなかったために心の深い層で傷ついており、それらの愛情欲求や自尊感情を自ら断念し、衝動性をもっぱら抑圧・分裂・疎隔化のメカニズムを採用して神経症的性格構造を形成したと思われる。かなり屈折した精神状態にあるといってよい」『精神状態鑑定書』(1990年2月9日付)より

出所後、一緒に暮らしていた母親は、Bに対して腫れ物に触るように接していた。母親によると、Bが離婚したあと「結婚して子どもでも作って、普通の生活をしたら?」と問いかけると、「事件の子どもって言われるから無理でしょう」と返してきたという。父親も「刑務所の話は絶対にしなかった」という。事件について親子が向き合うことはなかった。 2004年5月、Bは再び罪を犯す。知人に対する逮捕監禁致傷の罪で起訴されたBは、翌年3月東京地裁で懲役4年の実刑判決を受ける。 2009年、府中刑務所を満期で出所したのち、埼玉県のアパートでひとり暮らしを始める。そこは生活保護受給者や元受刑者など、部屋が借りにくい人たちを受け入れているアパートだったという。Bは仕事もせず、生活保護を頼った。ひとり部屋に引きこもる日々。 Bの最期は寂しいものだった。 「母親がいつものように弁当を持っていくと、トイレのなかで倒れた状態で発見されたのです。救急車を呼んだが、息をしていませんでした」 Bの最期の様子を知る人物は少ない。長年母子を支援していた女性は、「あまり報道しないで」と言いながらも、涙を浮かべながらBの様子を語ってくれた。 「事故だったんです。感情を抑える薬を飲んでいて、ふらついてトイレの中で倒れたんです。そうしたら便器とタンクの間に頭がはさまって外れなくなって、嘔吐して死んだんです。最期はかわいそうな死に方でした。本来は明るくて、物静かで、優しい子です」 Bが死亡したのは2022年7月16日。51歳だった。 義兄はインタビュー中、Bに対して哀れみや同情の言葉を一切発しなかった。そして、Bが犯した罪は許されるものでないとして、次のように突き放した。 「人にはそれぞれ生きざまがありますが、あれだけのことをしたわけですから、Bを許せる人はいないと思うんです。51年間生きていたということ自体、私には許せない」

2024年、義兄は離婚した。

 

51歳で孤独死した準主犯格Bの再犯の背景…義兄「普通ではない」更生を妨げた妄想「女子高生コンクリート詰め殺人」加害者の“その後”

 

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