桐島 聡(きりしま さとし、1954年〈昭和29年〉1月9日 - )
「自分は桐島聡だ」。神奈川県鎌倉市の病院に入院し、そう名乗り出た男が29日、死亡した。連続企業爆破事件で指名手配された桐島聡容疑者(70)とみられる男は約40年にわたり藤沢市の土木会社で「内田洋」と名乗り、住み込みで働いていた。身分証や銀行口座を持っておらず、周囲に気づかれた様子もなかったが、関係者の証言からは男の困窮した生活ぶりも浮かび上がる。
「手を貸してくれませんか。この人歩けなくなっちゃって」。藤沢市の土木会社の近くに住む男性会社員(61)は1月初旬、別の男性に声をかけられた。会社の入り口には桐島容疑者とみられる男が座り込んでいた。白髪交じりの短髪で、ジャンパーを着た男はげっそりと痩せていた。
「もうガリガリ。口からはよだれも出ていた」。会社員が声をかけても、男は「うー」とうなるばかりで、会話にはならなかった。
会社員は声をかけてきた男性と2人で男を抱えながら自宅まで連れて行った。既に力が入らない様子だったという。男が住んでいたという自宅は物置小屋のような建物で、6畳ほどの室内には弁当の空き箱や段ボールなどが乱雑に置かれ、散らかっていたという。
会社員は「石油ストーブが2台あった。その周りにも荷物がいっぱい。この人はどこで寝てんのかなと思った」と振り返る。土木会社の社長に男を部屋まで運んだことを伝えると、「ああ、内田君ね。ありがとう」と礼を言われたという。
その後、男は鎌倉市内の病院に緊急搬送された。健康保険証を持っておらず、自費で通院を続けていたとみられる。25日になって病院側に「自分は桐島聡だ」と名乗り出た。
神奈川県警から連絡を受けた警視庁の捜査員が接触したが、末期の胃がんで病状は重く、捜査員の取り調べ中にも意識が遠のくことがあった。「最期は本名で迎えたい」。こう言い残したものの、快方に向かうことはなく29日朝、死亡が確認された。
桐島容疑者の足取りが最後に確認されたのは49年前の事件直後だ。関与が疑われる昭和50年4月19日の韓国産業経済研究所で起きた爆破事件後の5月31日、広島県の実家に本人から電話があった。
「岡山に女と3人でいる。金を準備してくれ。国外へ逃亡することも考えている」。父親にこう話したという。同日中に女の声で「聡は元気で岡山にいる」との電話もあった。当時は岡山県内に潜伏している可能性が高いとみられていたが、以降の足取りは途絶えた。
最後の連絡から1万7700日余り。半世紀にわたる逃亡の末、自ら名乗り出てから死亡するまでの5日間で男は何を思い、何を語ったのか。男が桐島容疑者本人であれば、長期の逃亡生活や事件の全容解明は限りなく難しくなったと言わざるを得ない。警視庁公安部の捜査の行方にも注目が集まる。
警視庁公安部は桐島聡容疑者を名乗る男について、親族とのDNA型鑑定などを行い、身元の確認を進めている。数日程度はかかる見通しで、容疑者本人と確認できれば、死亡のまま書類送検する方針だ。また、容疑者をかくまうなどしていた人物が浮上した場合、犯人蔵匿容疑などが適用される可能性もある。
過去には、過激派「日本赤軍」の重信房子元最高幹部(78)をかくまっていたとして元病院職員が犯人隠匿罪で有罪判決を受けた。
昭和46年の渋谷暴動事件では、警察官を殺害したとして殺人罪などで東京地裁で懲役20年の判決が下された過激派「中核派」の活動家、大坂正明被告(74)=控訴中=をかくまっていたとして、中核派の非公然活動家の男が犯人蔵匿罪で有罪判決を受けている。
1972年12月、「東アジア反日武装戦線」という名称が決まった。
ただしこの名称は、全ての反「日帝」主義者が共同で使うべきものという認識から、「自分たちのグループ」を表す名称が別途必要であった。彼らは、孤高の存在というイメージから、グループ名を「狼」とした。
1973年は本格的な武装闘争に備えて、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めた。また自らの主張を世に発信し、闘争の意義や理念を共有するための後続武闘派諸個人・諸グループが、反日武装闘争潮流に合流することを期して、小冊子『腹腹時計』の執筆、出版に着手した(翌年2月に刊行)。
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