Pier Paolo Pasolini,
1922年3月5日 - 1975年11月2日
Les 120 Journées de Sodome, ou l'Ecole du libertinage
SALÒ O LE 120 GIORNATE DI SODOMA - TRAILER ITALIANO (1975)
パゾリーニは、原作では18世紀のスイス山奥の城館であった舞台を20世紀のイタリアに置き換え、この物語を現代における権力と個人の関係、消費社会のメタファーに作りかえた。
その構成はダンテの 『神曲』 の構成を借りており、「地獄の門」「変態地獄」「●尿地獄」「血の地獄」の4つの章から成る。
本作の完成後、パゾリーニ監督はローマのオスティア海岸で謎の多い死を遂げており、この作品が遺作となった。
イタリアが連合国に降伏した後、残余のファシストたちは、北部の町サロに集まり、亡命政権(イタリア社会共和国)を形成していた。このナチス傀儡政権の権力者たち、大統領・大司教・最高判事・公爵の4人は、自分たちの快楽のために、市町村条例を新しく制定する。その規定に従って美少年・美少女が狩り集められ、さらにその中から彼らの厳選した男女各9人が、秘密の館に連れ去られる。
権力者たちは、そこで自分たちの定めた規則に従って、あらゆる淫蕩・変態行為に耽る。毎日、集会所で4人の語り部たちのうち1人に猥褻な体験を話させることによって欲望をかきたて、少年少女たちを相手にその話を実行に移すのである。その変態行為は次第にエスカレートしていき、最後には死に至る拷問が待っている。しかし、犠牲者たち同様に狩り集められてきた館の少年警備兵たちは、苦悶する犠牲者たちを尻目に、ラジオの音楽に合わせてダンスのステップなどを踏んでいる。
パゾリーニ殺害事件
1975年11月2日、本作を撮影し終えた直後のパゾリーニが、ローマ郊外のオスティア海岸で轢死体となって発見された。警察は、パゾリーニから性的暴行を受けた少年による犯行と断定し、逮捕した。しかしパゾリーニの遺体は、全身が殴打された上に、パゾリーニ自身の車で何度も轢かれており、ネオ・ファシストによる暗殺ともうわさされた。
ローマ地方裁判所は、少年ペロージの単独犯行は不可能であるとして、未知の共犯者とともに行われた故殺とした。しかしローマ高等裁判所は、共犯者ありに関する条項を破棄した。そして、1979年に最高裁は、少年に殺意はなく正当防衛として9年7ヵ月の刑が確定した。
2005年5月7日、実行犯とされた少年ペロージがイタリア・Rai 3のドキュメンタリー番組“Ombre sul giallo”に出演し「自分は、犯人グループから家族に危害を加えると言われ、やむなく罪を被った。実際は、他の数人の男によるリンチ(パゾリーニを「薄汚いコミュニスト」などと罵倒していたという)により、パゾリーニは殺された」と告白した。
また、本作の脚本家でありパゾリーニの助監督を長く務めたセルジオ・チッティは、「フィルムの盗難も、殺害犯グループが仕組んだものである。パゾリーニは、フィルムの返還交渉のために犯行現場におびき出された」と証言している
Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage
ルイ14世治世の終わり頃、殺人と汚職により莫大な財産を有する、45歳から60歳の4人の悪徳の限りを尽くした放蕩者達、ブランジ公爵、公爵の兄弟である司教、キュルヴァルの法院長、財務官デュルセが真冬にシュヴァルツヴァルトの古城シリング城に集まり、彼ら4人の絶対権力の下に置かれた42人の犠牲者、4人の遣り手婆、8人の絶倫男と共に閉じ籠る。
犠牲者は4人の妻(それぞれがそれぞれの娘と婚姻している)と、両親の下から誘拐された若い少年少女たちである。4人の遣り手婆=「語り女」たちが、1ヶ月交代で1人150話ずつ計600の倒錯した物語を語り、主人たちはしばしばその場でそれを実行に移す。
作品は日誌の形で構成され、4ヶ月と「単純(性交を伴わない)」「複合」「犯罪」「殺人」の4種の情熱に対応した4部からなる(第1部は完成されているが、残りは草案のみ)。
犠牲者はありとあらゆる性的虐待と恐ろしい拷問の末に大半が殺される。
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