すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

松永太×小野一光

2019年12月25日 | ヒトゴロシ
「いやーっ、先生、わざわざ私のために東京から来ていただき、ありがとうございます。先生、いま私を取り巻く状況は、本当にひどい話ばかりなんですよ。とにかく聞いてください……」
 2008年11月、福岡拘置所。稀代(きたい)の凶悪殺人犯は、上下グレーのスウェットスーツを着て面会室に現れた。明るく晴れやかな表情で私の前に座ると同時に、堰を切ったように喋り始めた。
「もう私の裁判はね、司法の暴走ですよ。私自身、なにも身に覚えのないことなのにね、私ひとりに罪を被せようとする陰謀が、あらかじめ出来上がっているんです。ほんと、裁判所という機関は、いまではもうほとんど、事実を発見する仕組みが機能しなくなっていると思います。感情的にならず、冷静に判断することをよしとされる裁判官が、マスコミや一部の作家のアジ(テーション)に乗っかった意味不明の判断を次々に実行しているんです。いわゆる魔女裁判のように裁こうとしているんです」
 陽に当たらず地下で栽培されたウドを想像させる、漂白されたかの如き白い肌。歌舞伎役者のように整った顔立ち。だが、その見開いた黒目の奥には感情を窺えない闇が宿る。私はメモを取る手を止め、しばし彼の表情に目をやった。
 なんなのだろう、この饒舌な語りは。なんなのだろう、この罪悪感のなさは。
事件発覚直後から現場での取材を重ね、凶悪な犯行内容を知っている私のなかに、違和感ばかりが募る。自らの潔白と司法への不満を息もつかずに訴え、その合間に笑みを浮かべて私を持ち上げ媚を売る。そんな男を目の前にして、ひとつの確信が生まれていた。悪魔とは、意外とこんなふうに屈託のない存在なのかもしれない、と。
男の名は松永太(ふとし)。面会時は47歳。福岡県北九州市で1996年2月から98年6月にかけて、7人が殺害された「北九州監禁連続殺人事件」の主犯である。
2002年3月、松永と内縁の妻である緒方純子に監禁されていた17歳の少女が、同市内の祖父母宅へと逃走したことで犯行が発覚。逮捕された松永は、7人全員に対する殺人(うち1件は傷害致死)などの罪に問われて一審、二審ともに死刑判決を受けた。私が面会したときは、最高裁に上告中であった。
一方、共犯者として松永と共に逮捕された純子は、一審で死刑判決を受けるも、二審では松永の強い影響下にあった、との理由で無期懲役へと減刑されていた。
ちなみに被害者7人のうち6人が、純子の両親や妹を含む親族だ。原則4人以上の殺人は死刑という「永山基準」に当てはまる事件の被告人でありながらも、松永による精神的な支配下での犯行であったことが思料された。
さらに付け加えれば、後の最高裁でもこの高裁判決は支持され、2011年12月に彼女の無期懲役が確定する(同時に松永の死刑も確定)。つまり松永による抑圧は、それほどに苛烈なものだったのである。
この裁判を取材した司法記者に会ったとき、彼は松永が純子を支配した構図について、次のように話した。
「松永は間違いなくDV常習者。長期にわたり純子に対して殴る蹴る、さらには通電の虐待を繰り返してきた。だけど純子はDV被害者特有の心理で、暴力の原因は自分にあると思い込んでしまった」
 通電とは電気コードの先に金属製のクリップをつけた器具を躰に装着して、100ボルトの電流を流す虐待方法だ。松永は純子に通電を繰り返し、彼女の右足の小指と薬指は火傷でただれ、癒着するほど痛めつけられていた。記者は続ける。
「純子は二度、松永の許を逃げ出そうとしたが、連れ戻されてより激しい通電虐待を受けた。もう逃げられないという諦めと、通電の恐怖を心に植え付けられた彼女は、松永の要求を拒むことができない心理状態に置かれてしまった」
 かくして、純子は松永の主導の下、自分の身内を巻き込んだ大量殺人の共犯者となっていく。もっとも、二人が逮捕された直後は、これほどまでに被害者が多く、かつ凶悪な犯行であることは、捜査関係者を含めて誰も想像していなかった。だからこそ、偶然網にかかった鮫の腹を割いたところ、そこから無数の骸(むくろ)が出てきたような、予期せぬおぞましさを感じさせることになったのだ。
「2DKの部屋に入った捜査員全員が愕然とした。生まれて初めて霊感のようなものを実感したよ。本当に恐ろしかったんだ。部屋に入ってまず感じたのは、明らかに人間の血の臭いだった。部屋の片隅には消臭剤が大量に積まれていて、血の臭いを消すためだとすぐに想像がついた。風呂場やトイレ、部屋など、あらゆるドアに7、8個の南京錠がかけてあって、窓には全部つっかえ棒が釘打ちされていた。それはもう、なにもかも異様な光景だった」
これは、7人が殺害された三萩野マンション(仮名・北九州市小倉北区)に、家宅捜索で初めて足を踏み入れた状況について回想する捜査員の言葉だ。
2002年3月、監禁から逃走した少女・広田清美さん(仮名)は、捜査員に対して父親が殺されたことを訴えた。さらに「とにかく部屋を見てほしい」と繰り返した。そこで半信半疑の思いで家宅捜索をした捜査員の目に飛び込んできたのが、先の証言にある、手練れの刑事をも戦慄させた“殺人部屋”の痕跡だった。
1996年から1998年にかけ7人が殺されたこの部屋で、最初の犠牲者となったのは、清美さんの父親・広田由紀夫さん(仮名・当時34)である。
北九州市で不動産会社に勤めていた由紀夫さんは、客の知人として知り合った松永に社内での不正行為などの弱みを握られて勤務先を退職。娘の清美さんとともに、三萩野マンションでの同居を強要された。
そこで松永による、殴る蹴るの暴力や通電が繰り返されることになる。さらに由紀夫さんには1日1食の食事制限も加えられ、徐々に衰弱していった。1996年2月、彼は閉じ込められた浴室内であぐらをかいたまま上半身を倒し、脱糞している状態で見つかった。当時11歳の清美さんが掃除をしている目の前で、由紀夫さんは息絶えたのだった。
純子から報告を受けた松永は、『ザ・殺人術』という本を参考に、遺体をバラバラにすることを決め、純子と清美さんの2人に命じて、遺体を浴室で解体・処分させた。
その次に、この部屋で松永が暴虐の限りを尽くしたのが、純子の親族・緒方家の人々である。それまでは福岡県久留米市にある純子の実家で、実直に暮らしていた3世代家族の6人は、松永の謀略にかかり、1997年4月頃からこの部屋で軟禁状態にされた。
殺害されたのは純子の両親である誉(たかしげ)さん(当時61)と静美さん(当時58)、妹の理恵子さん(当時33)とその夫の主也(かずや)さん(当時38)、さらに2人の子供である彩ちゃん(当時10)と優貴くん(当時5)である。
その悪辣な手口をすべて紹介するには紙幅が足りない。時期とおおよその殺害状況のみを記しておく。
●1997年12月 誉さん殺害
 心臓部への通電によるショック死。誉さんの反抗的な発言に怒った松永の指示により、家族の前で純子が通電したところ、座ったまま前のめりに倒れた。死亡したことが確認されると、松永の誘導で遺体は純子と静美さん、理恵子さん夫婦と彩ちゃんの5人で解体することになった。
●1998年1月 静美さん殺害
 誉さんの死後、松永は静美さんへの通電を集中。精神に異常をきたした彼女は奇声を上げ、食事を拒絶するようになったため、浴室に閉じ込められた。松永の指示で主也さんが電気コードで首を絞め、理恵子さんが足を押さえて殺害。遺体は純子と理恵子さん夫婦、彩ちゃんの4人で解体した。
●1998年2月 理恵子さん殺害
 静美さんの死後、松永による顔面への通電など、衝撃の強い虐待が集中する。彼女もまた奇声を上げるようになり、松永から殺害を示唆された純子と主也さんが話し合い、主也さんが電気コードで首を絞め、彩ちゃんが足を押さえて殺害。遺体は純子と主也さん、彩ちゃんの3人で解体した。主也さんは「とうとう自分の嫁さんまで殺してしまった」とすすり泣いた。
●1998年4月 主也さん殺害
 元警察官の主也さんの体力を奪うために、松永が食事を制限し、通電を繰り返したところ、やがて衰弱して水も受け付けなくなった。浴室に閉じ込められ、痩せ細った主也さんに、松永が眠気覚まし剤と500ミリリットルのビールを飲ませたところ、1時間後に死亡。遺体は純子と彩ちゃんの2人で解体した。
●1998年5月 優貴くん殺害
 主也さんの死後、松永が「大人になったら復讐するかもしれない」と純子に殺害を指示。その上で松永は「優貴はお母さんに懐いていたから、お母さんのところに返してやったら」と遠回しに彩ちゃんに殺害を了承させる。そして純子と彩ちゃんが電気コードで首を絞め、清美さんが足を押さえて殺害した。遺体は純子と彩ちゃんの2人で解体した。
●1998年6月 彩ちゃん殺害
 優貴くんの死後、松永は彩ちゃんへの通電を集中させた。これまでの食事制限もあり、2歳児のおむつが穿けるほどに痩せ、衰弱した彩ちゃんを松永が説得。逆らうことのできない彩ちゃんは、優貴くんが殺害された場所に自ら横たわり目を瞑った。純子と清美さんが首に巻き付けた電気コードで絞殺。遺体は純子と清美さんの2人で解体した。
 このように緒方家については、およそ月に1人のペースで殺人が繰り返された。松永は主犯であるにもかかわらず、自分の手は一切汚さずに、7人もの命を奪ったのである。だが、拘置所で面会した私に向かって彼は嘯(うそぶ)く。
「いまさら嘘はつきません。私は殺人等の指示はしておりません。私を誹謗する報道ばかりですが、小野さんは違った角度からこの事件を見てください。それは、松永は無実であるという視座からです。それが事実なんです」
 大きな目でこちらを射抜くように直視して言い切る姿は、確信に満ちていた。嘘をついていることへの後ろめたさや、信じてくださいとすがりつく卑屈さといった、ある意味で人間的ともいえる湿り気は、まったく含まれていない。人間に酷似したヒューマノイドロボットをテレビで見たときのような、目の前にある存在はたしかに人間の姿かたちをしているのだが、そこに魂の存在が感じられないという経験だった。
もっとも、彼が自己の無実を強弁する背景もわからないではない。犯行の段階で松永は、遺体の解体や処分の方法について細かく指示を出し、彼なりに“足がつかない”ように工夫していたからだ。当時の福岡県警担当記者は説明する。
「遺体は包丁やノコギリを使って、細かく切り分けられてから鍋で煮こまれました。そうして肉と骨を分離させ、肉はミキサーでさらに細かくしてからペットボトルに入れ、近くの公衆便所などに捨てています。骨は細かく砕いて缶に入れ、大分県と山口県を結ぶ旅客船などから海に投棄したそうです。解体場所となった浴室は、松永の指示で念入りに掃除されており、誉さんには台所の配管の交換を、主也さんには浴室のタイル交換をさせていました」
こうして7人の遺体の痕跡は完全に消されたのだ。まさに“遺体なき殺人事件”だった。当然ながら、遺体から殺害方法を割り出すことはできず、あくまでも関係者の証言を含めた状況証拠を収集して、殺人を立証するほかない厄介な案件である。
事件発覚後すぐに北九州市へ飛び、現場で取材を始めた私は、三萩野マンションの複数の住人から話を聞いた。そのときに印象に残っている言葉がある。
「深夜にね、あの階からギーコ、ギーコってノコギリを挽く音がするんよ。それが何日も続き、しばらく間が空いては繰り返されよった。もう、なんの音なんやろうかっち思いよったね」
また別の住人はこんなことも口にしていた。
「夏とかにすごい異臭がしよったんよ。もう、レバーを煮たような、なんとも言いようのない臭い。とくにあの階から臭いよった。それでね、廊下や階段の踊り場に人間の小便や大便がされとったこともある。足跡があの部屋に続いとったことがあるけ、別の階の人が注意したんやけど、中年の女が出てきて子供の頭を叩き、『あんたがやったん?』って怒りよった。いまから思えば、臭いをごまかすためやったかもしれんね」
それはまさに、遺体を消し去る作業を実行する音であり臭いだったのだ。取材で入ってきた捜査情報とこれらの証言が結びついたとき、酸鼻をきわめた現場での様子を想像し、戦慄を覚えずにはいられなかった。
なぜ、被害者は逃げずに犯行に加わってしまったのか
さらに2002年6月から2005年9月までに77回開かれた一審の公判で、事件の詳細が明らかにされると、そのあまりに悪辣な犯行内容に唖然とさせられた。実際、旧知の地元テレビ局の報道担当幹部は次のように嘆息していた。
「こんなこと言うと被害者に申し訳ないけど、この事件はテレビ向きじゃない。あまりにも犯行内容が残酷なんで、映像にできないんですよ。だから経過だけを粛々と報じるしかない」
 松永が主導した事件の残忍なところは、殺害現場に親族を立ち会わせる、あるいは親族に手をかけさせるという点だ。さらにはその遺体を子供を含めた親族に解体させ、処分まで担わせている。
松永は助言という体で命令を下し、逆らうことのできない相手に殺害や遺体処理を実行させた。さらに「自分たちで考えろ」と示唆することによって、相手が忖度して自発的に行動するように持ち込んでいた。
当時、この事件に携わる誰もが疑問に感じていたことがある。
なぜ、被害者は逃げられなかったのか。なぜ、自ら犯行に加わってしまったのか、ということだ。
あの場にいて、唯一生き残った清美さんは後にこう証言している。
「(松永と緒方家の関係は)王様と奴隷でした」
つまり、まったく抗うことができなかったのである。このような状況を生み出したのは、松永が周囲の者を精神的に支配するための段階を踏んでいたからだ。
そのほとんどは、まず甘言で近づき、信用した相手から不満を聞き出し、そそのかして外の世界と繋がる勤務先などの集団から離脱させる。続いて自らの手元に置き、不信の元となる情報を囁いて親子や夫婦、姉妹といった絆を断ち切る。そして子供を人質にしたり、犯行に加担した弱みを握ることで逃げられなくする。さらに互いの監視を命じて常に1人の生贄を作り、その生贄に浴びせた苛烈な暴力によって、皆に「次は自分かもしれない」との恐怖心を叩きこむというものだ。
なにゆえ、このような悪魔の所業を思いつき、実行に移すことができたのか。それを知るには、松永太という男の足跡を辿る必要があった。
松永太と福岡拘置所で面会してからすぐに、彼からの封書が自宅に届いた。
中身は3枚の便箋。黒字のボールペンを使い、神経質な印象の細かい字で書かれた手紙には、マスコミの報道や有識者による見解を恣意的として批判する言葉が並んでいた。そのうえで客観的に証拠を見てほしいということが、繰り返し書かれていた。
また、松永はとある作家の名前を挙げ、同人は勝手な想像をふりまわしているだけだと断じ、私に対してそのような作家に“なり下がらないように”との注意も書き添えていた。
それ以降にやりとりした手紙もほぼ同じ論調だった。私(松永)は事実しか話していない。だから証拠を純粋な目で見て貰えば、無実だと分かるはず、というものだ。
拘置所のアクリル板越しに対面した松永は、私について当初は「先生」と呼び、続いて「小野さん」となり、さらには「一光さん」と変遷することで、親近感を演出しようとした。加えて、さも真実を語っているという声色で強調する。
「一光さん、神に誓って私は殺人の指示などはしていません。それらについては、控訴審での私の陳述書を読まれても、分かってもらえると思います。一光さんを信用していいのか不明ですが、私は小野一光という人は信用できると思ってこの話をしています。だからこそ、私が殺人の指示などしていないことを信じてもらいたいのです」
松永がそのように主張する理由はすぐに理解できた。なにしろ彼は殺人を実行していないのだ。おまけに、そう命じたことが録音で残されているわけでもない。つまり客観証拠がないから無実だと言いたいのである。事実、その点に注意を払って犯行を重ねてきたのだろう。
しかし、事件当時に子供だった広田清美さんの供述だけでなく、成人の緒方純子までが、当初の黙秘から自身の死刑判決を覚悟した全面自供に転じたことで、状況証拠の信用性が格段に上がったことは、松永にとって計算違いだった。
いくら“遺体なき殺人事件”とはいえ、1994年に発覚した「埼玉愛犬家連続殺人事件」を持ち出すまでもなく、状況証拠の積み重ねで有罪となった例はいくつもあるのだ。
捜査員は次のような言葉を口にしている。
「なによりも緒方が自供したことが大きかった。それに尽きる。我々の誰もが、卑劣な松永を絶対に許さないとの執念で、捜査を続けてきたからね。その思いがやっと実を結んだということに、万感の思いがあった」
犯罪捜査のプロにここまで言わせる凶悪犯の原点は、松永家の実家がある福岡県柳川市にあった。
「頭も顔も良かったけど、みんなからは好かれとらんやった」


 
松永は1961年4月、福岡県北九州市で畳店を経営する両親のもと、長男として生まれた。上に姉が1人いる2人姉弟だった。やがて彼が7歳のとき、祖父が柳川市の実家で営んでいた布団販売業を父親が継ぐことになり、同市に家族で移り住んだ。
地元の公立小学校から公立中学校へと進んだ松永は、当時から自分よりも弱い存在に対してのみ、横暴な態度を取る子供だった。小・中学校時代の松永の同級生は、「いい印象がない」と前置きして語る。
「体格の良かった松永は、中学時代はバレー部に入り、わりと頭も顔も良かったけど、みんなからは好かれとらんやった。というのも、自分より強い奴にはなんも言えんくせに、弱い相手ばかりにイジメば繰り返しよったから。よく、背の低い同級生に『早く飲んで見せろや』と言って、無理やり牛乳ば飲ませよった」
この証言者によれば、後に松永の起こした事件が明らかになったとき、同級生同士で「あん奴はしかねんやろ(あいつならやりかねない)」との会話が交わされたのだという。
中学卒業後、松永は久留米市(当時は三潴(みづま)郡)にある公立高校に進学した。同学年には後に共犯者となる緒方純子も通っていたが、軟派な松永と真面目な純子との間に接点は見られない。高校に入った松永は、持ち前の甘いルックスと不良っぽい言動が受けて、急激にモテるようになった。小学校から同級生だった谷口康治さん(仮名)は、高校時代にそんな松永の家によく遊びに行っていた。谷口さんは当時を振り返る。
「あいつは本当に口が達者やったと。女の子にはマメに連絡を取るし、家に連れて来るまでのアプローチが上手いったい。それで同級生やら年下の女の子を部屋に連れ込んでは、見境なくコマしよった」
両親があまり干渉しない松永の実家は、女性を連れ込んでも注意されないため、友人たちのたまり場になっていた。そこで谷口さんは、次のようなことを松永に話した記憶があるという。
「あの当時、俺がよくいきがって『女を人と思っちゃいけん。女をカネづると思わな』って言いよったけんがくさ、その影響ばモロに受けて、松永は女に飯代ば払わせることにプライド賭けとったね。あと、あいつは極端にキレイな女の子には行かんったい。それよりはあんまりモテんで、自分に簡単になびくような子にばっか声をかけよった」
そんな松永は高校2年のときに、家出した女子中学生を家に泊めたことから、不純異性交遊の咎で退学処分となり、久留米市の私立高校に編入した。その高校では自分が暴力団組員と繋がりがあるかのように装い、「俺に手を出すと酷い目に遭う」と口にして、同級生に信じ込ませていた。
1980年に高校を卒業した松永は、福岡市内の菓子店や親類の布団販売店などを転々とした。とはいえ周囲からは、「なんもしよらんように見えた」との声が上がるほど、不真面目な働きぶりだったようだ。
じつは同年の夏、松永と純子との間に、初めて互いを意識する関係が生まれていた。その事情を知る元福岡県警担当記者は語る。
「松永がほとんど面識のなかった純子に電話をかけ、外で会ったというのが2人の馴れ初めです。でも、それは松永がたまたま、自分が退学になった高校の卒業アルバムを見て、当時交際中の女性と同じ『ジュンコ』という名前なので、ふざけて電話したというのが真相です」
もしここで松永の気まぐれがなければ、純子は犯罪者にならず、親族の6人は死なずに済んでいたはずだ。だが、運命はこんな些細なことで狂わされてしまう。
この記者によれば、件の電話で当時短大生だった純子と1度は会うが、次に松永が電話をかけて彼女をふたたび誘うのは、それから約1年後のこと。ただ、再会時の松永は、高校時代に培った“スケコマシ”の技を発揮したという。会社を経営して成功していることや、音楽の才能を認められていることなど、学生の純子の前で大風呂敷を広げ、好印象を残した。
 1981年に松永は別の「ジュンコ」と結婚するが、翌1982年に純子が勤務先の幼稚園で巻き込まれたトラブルの相談を松永にしたことで、男女の関係を結ぶ。妊娠中の妻のいる松永との不倫交際の始まりだった。
当時、ろくに仕事をしていなかった松永は、事業の世界に乗り出した。1981年5月に父親の会社を引き継ぐことになり、翌1982年には、柳川市に布団訪問販売会社『ワールド』を興したのだ。
この家業引き継ぎの経緯を含め、松永と両親との関係について、松永家および親族は取材を完全に拒否しているため、窺い知ることができない。ただ、松永は1985年に祖父や実父の反対を押し切って約5千万円を銀行から借り、実家があった場所に3階建ての自宅兼事務所を新築。さらに1988年にはそこで同居していた両親を自宅から追い出している。
『ワールド』時代の松永の行状こそが、後の犯行に重なる、詐欺と暴力にまみれた世界だったことは、紛れもない事実である。



 20歳の松永が布団販売会社を引き継ぎ、自分の布団“訪問”販売会社とした途端に、営業方針は激変した。高校の同級生のうち、自分の意のままに操れる2人を側近の幹部社員に据え、「お前らの友だちに『会社が倒産しそうなんで助けてくれ』と頼み込み、土下座してでも布団を売れ」と仕事を強要したのだ。
松永が押しつけた“泣き落とし商法”では、原価数万円の布団を、S(シングル)25万円、W(ダブル)30万円という法外な値段で販売した。同時に、幹部の彼らがさらに同級生へ声をかけ、従業員集めをするようにも命じた。その際、松永は次のような檄を飛ばしている。
「世間知らず、お人好し、それである程度言うことをきく人間を探し出せ」
 そこで実行された従業員の獲得手段は、まさに“生け捕り”といえるものだった。
元同級生の幹部社員や従業員から強引に契約させられた結果、高額の支払いに窮した者は、従業員として無給で働くことを迫られる。また、そこで保証人になった者も同じで、代金を肩代わりできない場合は働かされた。さらには、布団の購入が無理なら販売を手伝って欲しいと頼まれ、それくらいならと了承したところ、社名入り名刺を作られるなどの既成事実を口実に脅され、従業員にさせられた者もいた。
そのようにして確保された住み込みの従業員たちが寝泊まりしていたのが“生け捕り部屋”なのだ。
従業員たちは残飯のような食事しか与えられず、命令に従わないと殴る蹴るの暴行を受けた。さらに逃走を防ぐために相互監視を命じられ、従業員どうしの密告が横行していた。まさにその後、北九州市の三萩野マンションで実行された虐待のひな形が、柳川市の『ワールド』内で萌芽していたのである。
前出の記者によれば、この時期に後の松永の人格を形成する、3つの大きな要素があったという。
「まず1つ目は松永の親戚である義男さん(仮名)の存在です。彼は20年以上前に内臓疾患で亡くなっているのですが、松永家や『ワールド』にも出入りしていました。義男さんは結婚詐欺や手形詐欺など、詐欺についての知識が豊富で、松永は彼の影響を受けています。その結果、松永は従業員に名義貸しや、架空人名義での信販契約を締結する詐欺行為を強要するようになったのです」
松永は違法行為を恐れる従業員に向かって、「犯罪を犯しても自白しなければいい。物証さえ残さなければ大丈夫だ」との持論を展開していた。
「2つ目は栗原物産(仮名)という、暴力団のフロント企業との親密な関係です。この会社の人間が松永家によく顔を出していて、松永も個人的に連絡を取っていました。彼は自分が暴力団と繋がりがあるように振る舞うことで、周囲に恐怖心を抱かせることができることを実感しました」
 そのため『ワールド』の従業員のみならず、緒方家やその他の“獲物”に対しても、自分は暴力団と繋がりが深いと吹聴。さらには、「知り合いの暴力団員に頼めば、どこに逃げても見つけ出せる」と脅すことで、逃走を諦めさせていた。
「そして3つ目は父親の布団販売会社を継いだということです。人に使われるのではなく自分の会社を持ったことで、松永は自由に動くことができました。そこで詐欺の方法や人を恐怖で支配する方法を体験したことは、松永にとって後の犯行のための蓄積になっています」
たしかに、松永にとってこの『ワールド』時代の経験は、ある種の“実験場”だったと思えてならない。後に被害者たちを恐怖で支配するため頻繁に使った通電による虐待も、ここで生まれている。
 松永と純子が一審で裁かれている時期に、私は『ワールド』の元従業員を取材した。
彼、生野秀樹さん(仮名)は、1984年秋に友人から頼まれて『ワールド』の名義貸契約に応じたところ、従業員を探していた松永から因縁をつけられて“生け捕り”にされた。
「布団販売の数字が悪いと、松永から拳や電話帳で顔を殴られたり、木刀で腕を殴られたりしました。そんな生活が半年くらい続いた1985年春、私を会社に引き込んだ男から、剥き出しにした電気コードで腕に通電されたんです。そいつは工業高校を出ていて、電気の知識があったんですけど、ショックで倒れた私を見て、目の前の松永が笑いながら、『それ、いける』と……。以来、従業員を使って、人体にどんな影響があるかの実験が繰り返されました」
 当時、新築したばかりの『ワールド』社屋の3階には、防音設備が施されたオーディオルームがあり、そこが“通電部屋”となった。
「私は過去に100回以上、松永の指示で通電されましたが、あいつはどうすれば相手が死なないか、傷が残らないかを研究していたのです。片腕と片足に電流を流された時は、『心臓がバクバクするか?』と聞かれました。腕や足に傷が残った時は、『こりゃ改良せないかん』などと言ってました。あと、手や足だけでなく、額や局部にも通電されました。額はいきなりガーンと殴られるようなショックがありました。局部はもう、言葉に表せません。蹴られる以上の衝撃と痛みでした。それを松永はニヤニヤ嬉しそうに眺めていました」
 通電は従業員への罰として連日行われ、なにか気に食わないことがあると、松永は「電気!」と声を上げ、すぐに通電器具が用意された。
 取材を終え、生野さんに通電された痕を見せてもらった私は息を呑んだ。肘から先と、膝から下、そのすべてに幅一センチほどの縄を巻いたような、ケロイド状の火傷痕が残っていた。しかし生野さんは事もなげに口にする。
「手なら手でね、手首と肘の二箇所に剥き出しの電線を巻いて、電気を流されるわけですよ。そうすると電線が熱を持つでしょ。だから火傷してしまうんです。ただ、こっちのほうが額や局部よりは楽でした」
この原稿を書くにあたり、私は改めて生野さんの許を訪ねた。前の取材から10年以上が経過していた。
「あれから時間が経ちましたけど、ずっと人を信じることができないんです。気づけば相手を疑う感情が出てしまう。そのため、松永の許を逃げ出してからも、職場の上司を信じられず、職を幾つも変わりました」
 そう語る生野さんの両手足には、ケロイド状の火傷痕が生々しく残る。
「松永に対する恐怖はいまもあります。死刑が確定しましたけど、それでもまだ安心できない。再審請求を続行しているし、あの男のことだから、いつか出てくるんじゃないかとの思いがある。いまだに当時の恐怖がふとしたときに蘇り、声を上げそうになります」彼はつとめて冷静な口調で言った。
「たぶん会ったら殺してしまうと思います」
その重い言葉を聞き、松永の被害に遭った者の心の傷を直に突きつけられたような気がした私は、ただ頷くことしかできなかった。
ある種の“実験場”と化した『ワールド』時代の経験を経た松永は、その残酷な知識を更に発展させ、新たな獲物を探し、殺し続ける。
詐欺まがいの手段で得たカネをばらまき、柳川市内の夜の街でそう豪語していた松永だが、『ワールド』の内情は、1980年代後半にはすでに火の車だった。
本業の布団訪問販売業では、これまでの名義貸しなどの詐欺商法を看破され、信販会社の加盟店契約を解除されることが相次いだ。そのため出資者を集めてヤミ金を始めたり、手形を騙し取るなどして、自転車操業を繰り返していた。
1985年2月から経理担当社員として加わった純子のほか、常に5人ほどいた従業員は、通電の恐怖に耐えかねて1人、また1人と逃げ出した。1988年5月の段階で松永と純子、そして通電の実験に利用された生野さんの3人しか残っていなかった。
ちなみに、暴力団の存在をちらつかせて脅したにもかかわらず、従業員たちが逃げ出したこの経験から、松永は相手を逃がさないために“人質”を取ることの重要性を認識したようだ。というのも、それ以降の犯行で彼は子連れの“獲物”に対しては、常に子供を親から引き離し、手元に置くようになったからだ。
1992年10月、失敗から学んだ教訓と効果的な虐待方法を身に付けた松永は、柳川市から敗走した。
 松永と純子に生野さんを加えた3人で“夜逃げ”したのだ。目指したのは知人が宿を手配した石川県。幌付きの1屯トラックに最低限の荷物を積み、ひっそりと姿を消した。
資金繰りのために詐欺事件を起こしたことと、手形の不渡りを免れるために信用金庫の支店長を脅迫したことで、松永と純子が指名手配されたことが逃走の原因とされるが、追われたのは警察からだけではなかった。先の記者は言う。
「松永は地元の保険代理店と組んで、車両事故を装った保険金詐欺を企みましたが、その代理店が松永を裏切って暴力団員と組み、松永に追い込みをかけたんです。そのため柳川にいられなくなった」
銀行から『ワールド』に融資された約9000万円の返済は滞ったまま破綻。松永や純子が消費者金融などから借りたカネも焦げ付かせた。また、松永が甘言を弄して知り合った女たちを騙して借金させ、返すと伝えていたカネも、当然の如く放り出した。
用意された宿が想像と違うとの理由で、わずか1泊の滞在で石川県から福岡県に戻ってきた松永らは、北九州市を潜伏先とした。しかし1993年1月には、松永の暴力に身の危険を感じた生野さんも逃走するに至る。
そして松永と純子の2人が残された。潜伏中の身であるため偽名を使いながら、手っ取り早くカネを得る方法は、もはや松永が身に付けていた“特技”しか残されていない。
それは、女を食いものにするということだった。
「松永太がアジトとしていた三萩野マンションや篠崎マンション(仮名・北九州市小倉北区)の室内からは、大量の写真やビデオテープが出てきた。それは松永がこれまでに関わった女性との性行為や、相手の乳首や性器に電極を当てて虐待しているものだったりと、見るに堪えないものばかり。なかには緒方純子が松永と相手の性行為を撮影した写真もあった。完全に倒錯の世界だ」
 捜査員がうんざりした口調で洩らす。緒方家を支配した際も、松永は純子だけではなく、母・静美さん、妹・理恵子さんとも肉体関係を持っていることを、家族全員の前で口にした。そうして諍いを生み出し、家族の絆が分断されていく様を楽しんだ。元福岡県警担当記者は、松永による支配の様子を記録した、ある写真の存在について口にする。
「押収物のなかに、静美さんと理恵子さんの2人が全裸で並ばされ、お尻を突き出している写真がありました。それは当時の松永が、緒方家の女性を性的にも完全に支配していたことを象徴しています」
 松永は1984年、純子との不倫交際を知った静美さんが交際に反対したところ、「人目のないところで純子との別れ話を相談したい」と静美さんをラブホテルに連れ込み、無理やり肉体関係に持ち込んだ。また理恵子さんについても、1997年に純子が一時的に逃走した時期に、北九州市内のビジネスホテルで松永が迫り、肉体関係を結んでいた。
松永は2人との性行為に止まらず、写真やビデオでその痴態を撮影し、公表すると脅していた。
そもそも彼には、自身の犯行の原点ともいえる、柳川市で布団訪問販売会社『ワールド』を経営していたときにも、数多の女性を毒牙にかけた過去がある。
高校時代こそ相手に食事を奢らせる程度で済ませていたが、『ワールド』を興してからは、完全に“金づる”として女性と接した。ただ貢がせるだけでなく、消費者金融で借金をさせるなどして、現金を引っ張るようになっていたのだ。
端整な顔立ちの松永は、拘置所面会室のアクリル板越しに、甲高い声で訴えた。
「この事件をフェミニズムの観点で非難する人がいますが、そんな先入観を排して、証拠を客観的に見たときにのみ、事件が正しく見えてくるのだと思います。そうすれば私が事件に関与していないことは明らかになるはずです」
そんな松永の逮捕から半年以上経った頃、福岡県の某市に松永の元彼女がいるとの情報が入った。樋口佳代さん(仮名)は、戸惑いながらも私の取材に応じた。
 佳代さんが勤めていたクラブで松永と初めて会ったのは1980年代終盤、19歳のときだった。店のママに「いいお客さんだから」と席に呼ばれたのだという。
「27歳の松永はスーツにネクタイ姿で、布団販売会社の社長ということでした。銀行の支店長と一緒だったので、若いのにやり手だと思いました。それからは店に来ると、私を席に呼ぶようになったんです。接待があるから付き合ってと言われて、何度も同伴しましたが、そこでは『僕の彼女』と紹介されました」
やがて松永は夜逃げして、佳代さんの前から姿を消した。以来、連絡は途絶えたという。私が「松永におカネを用立てたことがありますよね」と問うと、彼女は黙って頷いた。
「従業員の緒方純子が事故を起こして、示談金が200万円必要との話だったんです。それで百数十万円を消費者金融で借りて、手渡しました。向こうからは目途が立ったら返すからと言われ、断りきれませんでした」
佳代さんは暴力や脅迫の被害を受けておらず、その点では不幸中の幸いだったといえる。
松永は緒方家の女性たちがそうされたように、自分と肉体関係を持った女性の性的な写真を、脅しの材料として撮影していた。加虐趣味もあったが、それは相手女性にカネを工面させるだけでなく、自分の要求を拒絶できなくする“枷”としての役割も果たした。実際、純子も法廷で「自分の裸のポラ(ロイド写真)が松永の手にあり、なにかあるとばら撒くと脅された。それでもう先がないと思って諦めた」と証言している。
夜逃げの際に行動をともにした元従業員の生野さんは、松永がこまめに女性たちと会う姿を見ていた。
「私が車を運転して松永をコンビニとかスーパーの駐車場に連れて行き、そこで待ち合わせた女性の車に乗り換えて逢引きをしていました。記憶にあるのは20歳くらいのフリーターや、30代のスナックママ、あと看護師や学校の先生もいました。みんなチャーミングな感じの女性です。ほかにも、高校を卒業して『ワールド』の事務員として働いていた地味な感じの女の子とも、社内でセックスしている姿を目撃したことがあります。松永は付き合った女性に布団の信販契約をさせたり、借金させたりして、カネを引っ張っていました。逮捕後に警察の人がやってきて、松永に騙された若い女性が自殺していた話を聞き、胸が痛みました」
 潜伏先となった北九州市から生野さんが逃げ出した1993年1月、松永は次の“獲物”として、1985年ごろに一時交際し、その後主婦になっていた元同級生の末松祥子さん(仮名)に電話で連絡を取った。
子育てに追われていた祥子さんの愚痴を聞き、彼女の恋心を呼び覚ました松永は、善意の第三者を装って、「じつは自分の会社の従業員で気の毒な人がいる」と純子を紹介した。純子は妊娠中で出産を控えていたが、それは松永の第1子だった。
 祥子さんの父親を取材した私は、その時期の様子について次のように聞いた。
「祥子が毎晩出かけると婿さんから聞いて、私が問い質したんです。そうしたら『緒方さんという知り合いに、もうすぐ子供が生まれるとやけど、旦那さんが助からんごとある(助からない)病気で、ものすご大変なんよ』と言うんです」
 祥子さんは純子に手術費用を貸すため、約230万円を振り込んだ。さらに1月後半に純子が出産してからも、彼女と会うために外出した。
「娘が夜に出歩くのを止めないことを咎めると、涙を流しながら、『緒方さんはかわいそうな人なの。貧乏で子供のミルク代もなかけん、米のとぎ汁やら飲ませようとよ』と……」
 松永と純子の“演技”にすっかり騙された祥子さんに対し、松永は結婚をちらつかせて、子供を連れて自分の許に家出してこないかと持ちかけた。その誘いを真に受けた祥子さんは、1993年4月に子連れで家を出て、7月には夫と離婚してしまう。
祥子さんは北九州市で娘と新生活を始めたが、夏には松永、そして純子と彼女が産んだ長男が移り住んだ。もちろん祥子さんは疑いを抱くことなく、松永は自分と結婚するものだと思い込んでいた。そのためそそのかされるまま、子供の養育費名目で実家や前夫にカネの無心を続け、松永に手渡した。
 同年10月、祥子さんの3歳の娘が頭に大けがを負い、母親だと称する純子に連れられて病院に運び込まれた。しかし娘は死亡し、「椅子から落ちた事故死」として片付けられた。純子は実際には事故の現場を目撃しておらず、現在も真相は闇に包まれたままだ。
ショックに打ちひしがれた祥子さんへ追い打ちをかけるように、その頃から松永による通電の虐待が始まった。そして1994年3月、大分県の別府湾で祥子さんの水死体が発見された。彼女の死については自殺か事故で、事件性はないとして処理された。父親は嘆く。
「1300万円近い金額を送ったとに、祥子の遺体を引き取りに行ったとき、あの子は家を出たときと同じ服装でした。それに預金口座には、3000円しか残されとらんかったとです」
松永の犯行をトレースしながら、なんども独り言を呟いた。口を閉ざして頭の中だけで考えていると、全身に毒が回りそうな気がしたのだ。口に出して少しでも毒抜きをしておかないと、どんな酷いことに対しても無感覚になってしまうような、危機感を覚えた。
それで耳かきの先くらいは、常に松永のそばにいた純子の心理を想像できたと思う。客観的に事件を追う私ですらそうなのだ。渦中にいた彼女が、いかに残酷な行為についての拒絶感を喪っていたことか……。
「私はこれまで(裁判で)自分の主張じゃなく事実を言ってきただけです。もし一光さんがこの事件をやられるならば、少なくともこれまでのマスコミや、訳のわからない裁判所の判断に拘泥されることなく、フラットな気持ちで見て欲しい。私は証拠に基づかない主張はしません」
祥子さんの死からほどなく、後に松永と純子の許から逃げ出し事件を発覚させた少女・広田清美さんとその父・由紀夫さんが囚われの身になった。同時に、松永は別の“獲物”を狙った。
その女性、原武裕子さん(仮名)は、彼女の夫が由紀夫さんの親友という関係だった。松永と純子は詐欺目的で、由紀夫さんに同夫婦を紹介させるように仕向け、面識を得たのである。
松永は1学年上で夫と子供のいる裕子さんに対し、京大を卒業した「村上博幸」と名乗り、現在は塾講師をやっていると説明して、悩みを聞くなど彼女の相談にのっていた。やがて常套手段である結婚をちらつかせて夫との別居を迫った。
由紀夫さんの死(1996年2月)と緒方家の人々の殺害(1997年12月~)の間となるこの時期、松永は夫と離婚した裕子さんと同居した。1996年10月のことだ。そこで裕子さんから搾り取れるだけカネを奪った松永は、いきなり態度を豹変させた。
自分の姉だと紹介していた純子とともに、裕子さんを殴り、手首に電気コードを巻き付けて通電を加えるなどの暴行を重ね、アパートの一室に監禁。室内に約3カ月半閉じ込められた裕子さんは、1997年3月に2階の部屋から飛び降りて逃走を図り、腰椎骨折や肺挫傷の重傷を負いながらも2人から逃げることができた。
その後の彼女について、前出の記者は語る。
「逃走から5年が経っても、裕子さんは重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいました。松永が逮捕された後、警察が捜査協力を求めても、彼女は松永に対する恐怖心が消えず、小さな物音で躰がビクッと震えてしまうような状態でした。さらに監禁された部屋から逃げ出した際に、自分の幼い子供を置き去りにした(後に保護)。その罪悪感をずっと引きずっているのです」
緒方家の親族6人が死亡した大量殺人から逮捕までの3年9カ月の間、松永と純子は変わらず“獲物”を求めて蠢いていた。
2人が逮捕された日、清美さんが監禁されていた篠崎マンションと数々の殺人が実行された三萩野マンションとは別の、泉台マンション(仮名・北九州市小倉北区)で4人の男児が保護された。
そのうち当時9歳と5歳の男の子は、松永と純子の子供。そして6歳の双子の男の子は、松永が甘言を囁いて1999年に夫と別れさせた金子友里さん(仮名)の子供だった。
友里さんに対し松永は「医者の田代」、純子は「“逃がし屋”で探偵の岡山」と名乗って接触。松永が結婚を申し込み、その気にさせていた。
そそのかされた彼女は、山口県で水商売の仕事に就き、子供を松永らに預けている。さらに、逃走費用、盗聴防止費用、事務所スタッフの人件費、子供の養育費などの名目で、約3300万円を渡していた。もし2人の犯行がいつまでも発覚しなかったら、友里さんと子供たちの運命はどうなっていたかわからない。
さらに松永と純子は、友里さんを陥れる作業と並行して、新たな“獲物”を、方々で物色していたことも明らかになった。
2001年夏ごろから松永と純子は、中年の女性を連れて、北九州市内のカラオケ店に週1回のペースで出没した。同店では松永が東大卒の医師、純子が看護師長だと偽り、中年女性は看護師だと紹介。当時19歳の女性店員を松永が狙ったのだ。
その女性店員・林めぐみさん(仮名)が彼らの犯行を知ったのは、松永と純子が逮捕されてからのこと。福岡県警の捜査員より連絡があり、押収物のなかに彼女の顔写真と住所を書いた紙があったと聞かされている。めぐみさんを直撃したところ、彼女は困惑の表情を浮かべた。
「写真を撮られたり、住所を教えた憶えはありません。ただ、店で松永は私を指名して、飲み物を持って部屋に行くと、いつもお酒を飲まされていました。それで『僕はめぐみさんのことが好きだから』と口にして、何度も飲みに誘われました」
スーツ姿だった“医師”の松永との交際を、落ち着いた色のカーディガンを着て、いかにも“看護師長”の純子が遠まわしに薦めていた。
「緒方は、『先生はすごい人で、週に1回、大学でも教えている』と話していて、『付き合うとかはできんやろうけど、相手しちゃってね』と言われてました。もう1人の中年女性はいつも黙っていて、緒方は『あの子は無口だから』と話していました」
松永はめぐみさんの同僚の男性店員にチップとして1万円を渡し、彼女の携帯番号を入手。何度か電話をかけて誘うなどしていた。結果的にめぐみさんが2人の毒牙にかかることはなかったが、さらに多くの被害者が生まれる可能性は十分にあった。また、同席した中年女性の素性は判明しなかったが、彼女自身がすでに“獲物”だったかもしれない。
拘置所で実際に対面した松永という男について、いまだに目に焼き付いているのは、分厚い裁判資料を抱えて面会室に入って来てからの、ニヤニヤとした表情だ。決してニコニコではなく、ニヤニヤと粘ついた笑顔。私にはそれが、顔の表面に貼り付けられた仮面に見えた。
また彼は何度か、1992年に少女2人が殺害された「飯塚事件」について触れた。冤罪を訴えながらも、2008年に死刑が執行された久間三千年・元死刑囚を引き合いに出し、自分もそれと同じだというのだ。
「一光さんね、久間さんは私のすぐ近くで生活されていました。あの人はどう見ても無罪です。証拠上も明らかです。つまり証拠なんかどうでもよく、裁判所に都合の悪い証拠は無視するやり方です。一光さん、どうか私の弁護人の視座に立って、検証してみてください。そうすればいかにこの裁判がデタラメであるかわかるはずですから……」
いったい被害者は何人いるのか。殺人で事件化されただけで7人。しかしそれ以外に松永の周辺で出た死者を加えると、少なくとも10人。さらに詐欺や傷害などにも範囲を広げれば、その4、5倍の被害者がいることは容易に想像がつく。
そんな稀代の凶悪犯罪者である松永と、彼に支配されて犯行に加担した純子の逮捕から、今年(2015年)3月で13年になる。当時取材した関係先をまわると、あるところはそのままの姿で残り、またあるところはすっかり様変わりしていた。
7人が殺害された三萩野マンションはそのままの姿で残っていた。住人によれば、事件の現場となった部屋は、いまだに空き部屋だという。
一方で、松永が従業員を虐待しながら緒方と詐欺行為を行っていた柳川市の『ワールド』事務所は、すっかり更地となり、「売地」の看板が立てられていた。
そして、住んでいた6人全員が殺され、姿を消した久留米市の緒方家は、家屋こそ当時のままだが、競売にかけられた末に、いまではまったく関係のない家族が住んでいる。
それらはみな、どのような形であれ、時の経過を感じずにはいられない変化を遂げていた。だが、松永による被害を受けた人々は、いまだに変わらぬ苦しみを抱えている。
北九州市内にあるマンションのチャイムを鳴らすと「どちらさんですか?」と年老いた男性が顔を出した。私は訪問の理由を説明した。
彼は松永と緒方の元から逃走した清美さんが助けを求めた祖父で、現在81歳の古谷辰夫さん(仮名)である。私は清美さんが逃走のあとで、たしか児童相談所の施設に入っていた記憶があることを口にした。
「施設は半年で出て、小倉にアパートを借りて独りで暮らしとりました。そのときは児童相談所で手伝いのアルバイトをしよりました」
やがて清美さんは仕事を見つけ、県外に出て行ったと彼は続けた。
「それから1年くらいして、うちに顔を出して、結婚するって報告がありました。子供も2人生まれています。電話連絡で知りましたが、両方とも男の子です」
じつはそのあたりの事情については把握していた。彼女は施設にいるときに知り合った男性と交際していて、一緒に県外に出て結婚したのだ。
あの残酷な事件の被害者として生き残った清美さんについて、それ以上詳しく質問することは憚られた。私は帰り間際、せめて亡くなった彼女の父親・由紀夫さんの墓参りをしておこうと思い、その場所を訊ねた。
「由紀夫の墓は建ててないんですよ。遺骨もなんもないからねえ。位牌だけ、うちの仏壇のなかに置いてるだけですよ」淡々とした言葉が返ってきた。
2008年の面会を機に始まった松永との手紙のやり取りは、翌年の春を迎える前にぷつんと途切れた。彼の言葉を信じようとしない私について“使えない奴”と判断したのだろう。本来ならばもっと上手に付き合い、彼が訴える“真実”の正体をつきとめるべきだったのかもしれない。だが、私はどこかで松永との糸が切れたことに胸を撫で下ろしていた。
 
 怖かったのだ、彼が。





 


 
 
 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 井坪政被告(31)監禁・殺害 ... | トップ | knee socks ニーソックス  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ヒトゴロシ」カテゴリの最新記事