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小平義雄

2024年12月15日 | ヒトゴロシ

小平義雄

小平事件

「妊婦の腹を引き裂き胎児を取り出したこともあった」女性7人を強姦殺害、遺体にわいせつしたことも…「昭和最悪のレイプ魔」の正体

 

 食料、就職難につけこんで7人の若い女性を強姦・殺害…。人並み外れた性欲から、戦中、戦後まもない間にかけて、多くの女性を“食い物”にした小平義雄(こだいら・よしお)。かつて国から勲章を授けられるほどの功績を上げた男が「昭和最悪のレイプ魔」に堕落した理由とは?

 新刊『 戦後まもない日本で起きた30の怖い事件 』(鉄人社)より

 太平洋戦争末期から敗戦直後の東京を中心に、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦、少なくとも7人を殺害した男がいる。小平義雄。己の性欲を満たすためだけに尊い命を虫けらのように奪った小平はまさに性獣、その犯行は鬼畜と言うよりない。  小平は1905年(明治38年)、栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)で6人兄弟の三男として生まれた。父親は一時、村一番の商人宿を経営する金持ちだったが、酒や博打、女にうつつを抜かし破産。暮らしは貧しかった。  吃音症の友人の真似をしているうちに自らも吃音を患ったのが4、5歳のころ。ほどなく入学した尋常小学校での成績は芳しくなく、卒業時の成績は23人中21番だった。  15歳で上京し鋼材会社の見習工や食料品店店員、地元の足尾銅山の古河精銅所工員など職場を転々とした後、1923年(大正12年)6月、18歳で自ら志願し海軍に入隊。ここから人生が狂い始める。  まずは横須賀海兵団で訓練を受け、機関兵として戦艦や潜水艦に乗り組み、海外への遠洋航海へ。大きな影響をもたらしたのが日本軍が中国に進出した山東出兵さなかの1928年(昭和3年)5月、蒋介石(1887-1975)率いる国民革命軍と日本軍が山東省済南市で武力衝突した済南事件である。当時、小平は海軍陸戦隊員として日清紡工場の防備に当たっていたのだが、事件勃発により激しい市街戦を体験。中国兵6人を銃剣で刺殺する“成果”をあげる傍ら、同僚とともに中国人の家庭に押し入り、父親を縛り上げ娘を強姦した。  後の小平の証言によれば「強盗強姦は日本軍隊につきもので、時には妊娠している女の腹を引き裂き胎児を取り出したこともあった」そうで、中国でのこの犯罪経験が後の残忍な強姦殺人に関連していることは想像に難くない。  1929年、戦功を認められて勲八等旭日章を受け、三等機関兵曹として除隊。約6年間の海軍生活では兵隊相手の女性との性交渉が何よりの楽しみで、特にヨーロッパに寄港した際はそのたびに白人娼婦を買い漁り一晩で5回射精することもあったという。小平の性欲は人並み外れていた。  兵役を終えて古河精鋼所に復職。1932年1月、28歳で勤務先の上司の姪のてると結婚する。が、その裏で小平は親戚の娘2人(当時18歳と21歳)と性的関係を持ち、1人に妊娠・出産させていた。同年6月、この事実が明るみとなり、激怒した妻が離婚を申し立て半年足らずで実家に舞い戻る。復縁を懇願するも、てるは聞く耳を持たない。これに小平は逆上。

同年7月2日午前2時ごろ、上都賀郡東大芦村(現・鹿沼市)のてるの実家に押し入り、約75センチのバールで家族を滅多打ちにし、彼女の父親(当時64歳)を殺害。その妻、てる、孫、長男、次男、四女、同家に泊まっていた男性の計7人に2週間~5週間の大怪我を負わせる。  騒ぎを聞きつけ駆けつけた近所の住民に取り押さえられ緊急逮捕。この殺傷事件により懲役15年の実刑判決を下されるも、国家の慶事による2度の恩赦で刑期は短縮され1940年9月、事件から8年あまりで仮出所する。その後は、機関兵の経験を活かしボイラーマンとしていくつかの工場を転々とし、太平洋戦争勃発時には飛行場建設要員としてサイパンへ渡航。  1943年8月、東京都品川区の海軍第1衣糧廠のボイラー係となった。そして1944年2月に前科を隠し再婚。翌1945年2月に長男が生まれたが、空襲が激しくなってきたため妻子を妻の郷里の富山に疎開させ、自分も後から衣糧廠を退職して同地へ疎開。

敗戦後、再び上京して渋谷の近くに住み、妻子を迎えて、1946年3月に新聞広告に応募して芝高浜町(現在の東京都港区)の海軍経理学校跡にあったアメリカ軍のランドリー兵舎(洗濯工場)で働き始める。過去に殺人・傷害の前歴があるにせよ、表の経歴だけをたどれば順調に社会復帰を遂げたとも思えるが、その間、小平は世にもおぞましい強姦殺人を働き続けていた。 「言うことを聞かないと殺す」と脅しながら首を絞め、下半身の衣服を剥ぎ取り…2ヵ月で4人の女性を強姦殺人「昭和最悪のレイプ魔」恐るべき犯行手口 へ続く

 

続き

太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で行われた連続殺人事件である。当時は戦中・戦後の食糧難で、ラジオ放送のインタビューの内容が「何を食べているか?」、子供へのインタビューにおいて最近嬉しかったことを聞くと「パンが配給された」と回答するほど、人々が食を求めていた時代であり、食糧の提供や就職斡旋といった言葉は魅力的だった。鈴木厚は一連の事件について「犯罪史上最も凶悪」な事件であり、かつ「当時の食糧難を象徴する事件」であったと評している

初めの強姦・殺人事件から1年以上を経た1946年(昭和21年)8月17日、7人目と思われる被害者女性が遺体となって発見されたが、直前にこの女性と会っていた小平 義雄(こだいら よしお、当時41歳)が同年8月20日に逮捕され、犯人であると判明した。小平が他の事件への関与も自供したことから、一連の連続強姦殺人事件が発覚した。小平は10件の事件について起訴された。小平は、否定した3件が証拠不十分で無罪、7件が有罪となった。小平は40名の女性に関係を迫り、殺さなかった30名は「人目につくおそれのあったこともあるが、大部分が素直にいうことを聞いたから」という1948年(昭和23年)11月16日、小平に対する死刑判決が確定し、翌年10月5日に宮城刑務所で刑が執行された

 

 

 

 

 

 

 

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