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ケイ・セージ Kay Sage 1898.6.25 - 1963.1.8

2020年09月17日 | アート・絵画
(Kay Sage、1898年6月25日 - 1963年1月8日)
アメリカの画家、詩人。夫は画家イヴ・タンギー。



父は木材産業で財を成した上院議員であったが
早くに両親が離婚し(1900年に別居、1907年か1908年頃に離婚)、
アルコール依存症などの問題を抱える母との複雑な関係のなかで成長。
転校を繰り返し、母と頻繁に旅行するなど、家庭生活、学業とも不安定であったが、この間にフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語を学ぶ機会を得、特にフランス語とイタリア語が流暢であった。

イタリアの貴族ラニエリ・ディ・サン・ファウスティーノ(Ranieri di San Faustino)と出会って1925年に結婚。
夫に同伴して社交界に出入りするなど、貴族としての生活が始まった。
1935年に離婚するまでの10年間は、絵を描く時間はほとんどなく、画家としての「自らの可能性を閉ざしてしまう」ことになった

1937年に渡仏。1938年のシュランデパンダン展(フランス語版)に油彩を出展し、シュルレアリスムの作家アンドレ・ブルトンと画家イヴ・タンギーに絶賛された。これを機に、ブルトンが率いるシュルレアリスムの運動に参加し、同じ1938年にパリで開催された国際シュルレアリスム展に出展した。 
タンギーと恋愛関係になったものの、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカ人のセージは帰国を余儀なくされ、ニューヨーク市に居を定めた。ニューヨークでは、シュルレアリストらフランスの芸術家の亡命を助けるためにビザ申請や渡米後の一時滞在施設の確保に追われた。 

1940年、米国に亡命したタンギーと再会して結婚。翌年、コネチカット州リッチフィールド郡ウッドベリーに越した。
1941年からタンギーが亡くなる1955年までは、セージにとって最も実り多い時期であった。
通常は夫タンギーと共同で仕事をすることはなかったが、1952年にはハートフォードのワズワース・アセニアム美術館で二人展が行われた。
 
1955年に夫タンギーが脳出血で急死し、セージは深い精神的痛手を受けた。さらに白内障を患った彼女は、次第に人付き合いを避け、鬱状態に陥った。
画風も変化し、1956年制作の『通過』には、茫漠とした無機質な空間でたった一人彼方を見つめる女性の背中が描かれている。1959年に自殺を図ったが未遂に終わり、詩作やアサンブラージュの制作をしながら、タンギーの作品を整理し、目録を作って過ごした。これは1963年にカタログ・レゾネ(総作品目録)として刊行されることになるが、セージは刊行の数日前に再び自殺を図り、64歳で死去した。 
セージは芸術作品のほか、詩集4冊(3冊はフランス語、1冊は英語)と自伝的テクスト『陶器の卵』を遺した。没後、タンギー、ブルトン、カルダー、マッソン、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォーの作品を含むセージの個人コレクション約100点がニューヨーク近代美術館に所蔵された。 















 

 
 


 
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