
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
警察庁広域重要指定117号事件
1988年 - 1989年
宮﨑 勤 (1962年8月21日 - 2008年6月17日)
フジが独占入手!宮崎勤元死刑囚の肉声…10・7放送「衝撃スクープSP」
1988~89年に幼女4人が殺害された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の実行犯、宮崎勤元死刑囚(享年45)の肉声をフジテレビ報道局が独占入手。10月7日放送の同局系「衝撃スクープSP 30年目の真実~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人犯・宮崎勤の肉声~」(後9・0)で初公開することが23日、分かった。事件を追う刑事の戦いを描いた実録ドラマでは俳優の金子ノブアキ(36)が主演。日本中を揺るがした出来事だけに注目を集めそうだ。
世間を震撼(しんかん)させた史上最悪の事件発生から30年目を迎えた今年、新たな真相が暴かれる。
フジテレビ報道局は、関係各所への徹底取材を行い、これまで誰も触れることはなかった猟奇殺人犯・宮崎元死刑囚の肉声データという空前のスクープを入手。さらに肉声をもとに取材を重ね、当時の報道やワイドショーの映像も使用しながら、凶悪事件を追う刑事の戦いをドキュメンタリードラマ化する。
1988~89年に4人の幼女を次々と殺害し、暗号文を交えた不気味な「犯行声明文」を出したり、被害女児の自宅に遺骨を届けたりと、異常な犯行で社会に大きな衝撃を与えた宮崎元死刑囚だが、動機や背景などは何も語らずじまい。2008年6月には死刑が執行され、真相は闇に包まれていた。
それだけに宮崎元死刑囚が「(遺体を)そばに置きたい…」「そばに置いている間は自分のものになるから。相手にされないから…女性に」などと語る肉声をもとに描かれる鬼気迫る取り調べのシーンは必見。番組では巧妙で異常な行動の裏側に隠された意外な人物像にも迫る。
宮崎元死刑囚(坂本真、40)と対峙(たいじ)する主人公の刑事役に抜てきされた金子は「30年経っていることに驚きました。(当時は)8歳くらい。あまりにも非現実的というか、ゆえに鮮明で…とてもよく覚えています」と振り返り、「本当にデリケートなこと。一言一句、一挙手一投足、本当に(監督らに)見張ってもらって誠実に演じたい」と熱演を宣言。犯人の肉声入りドラマは、世間に大きな衝撃を与えそうだ。
衝撃スクープSP 30年目の真実 ~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人犯・宮崎勤の肉声~
10月7日(土)よる9時~11時10分放送。刑事vs宮崎勤元死刑囚、 犯行自供のすべて。実録ドラマで描く攻防の真相。
「犯人は埼玉に」偽装 宮崎勤元死刑囚の供述詳細が判明 幼女連続誘拐殺人事件
昭和63年から平成元年にかけ東京と埼玉で起きた幼女連続誘拐殺人事件で、宮崎勤元死刑囚=20年に死刑執行、当時(45)=が逮捕された際の、取り調べの詳細なやりとりが6日、判明した。居住した都内に捜査が及ばぬよう「埼玉の犯人に仕立てたかった」と偽装工作を供述。来年8月で最初の事件発生から30年。公判で「覚めない夢の中でやった」などと述べ精神鑑定されたが、逮捕当時は逡巡(しゅんじゅん)しながらも事件の経緯を淡々と語っていた。
裁判記録や複数の関係者によると、宮崎元死刑囚は動機について、「子供が欲しかった」と話し、大人の女性に相手にされなかったが、誘拐することで子供を持つことができると思ったとして4人の幼女を誘拐。「(遺体を)そばに置いている間は自分のものになる」と語ったという。
報道機関に送った「犯行声明」で使用した偽名の「今田勇子」については「実在しない名前を自分で考えた」とした。
2年3月の初公判で宮崎元死刑囚は殺意を否認し、弁護側は意見陳述で「遺体の一部を食べた」など、それまでの取り調べでは語られていなかった事実を明かしていた。
宮崎元死刑囚 浮かぶ狡猾さ 「偽装で頭いっぱい」「自分かわいかった」 幼女連続誘拐殺人事件
東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚=平成20年に死刑執行、当時(45)=の取り調べ時の詳細なやりとりが6日、判明した。裁判記録や複数の関係者への取材をもとに当時の状況を再現すると、公判での特異な言動と異なり、偽装や逡巡など狡猾な人物像が浮かんだ。
宮崎元死刑囚は女児の裸の写真を撮影しており、動機はわいせつ目的が疑われていた。取調官は「性癖を満足させるための誘拐じゃないのか」と尋ねる。これには「それは違います」と否定する。
では動機は何か。「なんで違うんだ。説明して」「あくまで理性として、かわいがりたい。そばに置く間は自分の子供であると…」と、理性があっての犯行だと主張する。
「なんで自分の子供が欲しいんだ」「相手にされないから」。大人の女性からは拒絶されていることを示唆する。
「女性に相手にされないってことは」と促すと、「子供ができないってこと」と、子供が欲しいことを強調。「自分で子供を持ちたいと思っているのか」の問いに、「はい」と言い切った。
「じゃあ結婚するよう努力すればいいじゃないか」とただすと、「逆に行ってしまったんです」。取調官は要約して尋ねる。「結婚しなくても誘拐すれば簡単に子供が持てると、そういうことか?」「うん」と認めた。
3人の女児殺害を認めたが、遺体が見つかっていない4人目の女児の殺害は否認していた。取調官は現場の状況を突きつけて迫る。
「(女児の失踪当日)なんでいなくなったときにそこ(失踪現場)へ行かなきゃいけなんだ」
「通っただけです」
「車をとめているだろ。タイヤ痕でわかる」と事実を突きつけるが、「ジュース買っただけです」とかわしたため、さらに追及する。「なんでジュース買ったときと、いなくなったときが一致するんだ」。これには「覚えてません」とはぐらかす。「分かっていることだから、ちゃんと話しなさい」。なおも迫るが「ジュースを買うために…」と認めない。
このため「もっと言わせるのか」と詰め寄ると、態度が変わる。「そんなつもりはありません」
「なんのつもりがないか、はっきり言いなさい」
「何で黙っていたかというと、わけがあるんです」。宮崎元死刑囚は追い詰められていた。
「なんだ」
「殺したんです」。ついに4件目を自供した。
犯行声明や告白文で使用した「所沢市 今田勇子」の意味は何だったのか。当時、宮崎元死刑囚は東京都内に住んでいた。「今田勇子って何だ。どっからヒントを得た」「実在しないから」「何から見つけてとったの」「見つけてませんよ。考えただけですよ」「自分で考えたの」「うん」
だが、どこかにヒントがあるはずだと疑う。「どっかの雑誌かなんかでみたのでは」「本当です。ありきたりな名前にしたんですよ」。あくまで空想の思いつきだったと主張する。
告白文は独特な字体で書かれていた。宮崎元死刑囚の字体ではない。「字はわざと変えたのか」「人が普通書くような字以外にしようと思ったから」
偽装工作も口にした。「(埼玉に遺棄すれば)埼玉県の犯人に仕立て上げれるだろうと。(自身の住む都内など)埼玉県外に目を向けさせたくなく、埼玉に集中させて埼玉の犯人に仕立てることで頭いっぱいでした」。声明で「所沢市」としたのもそうした経緯とみられる。
「自分のやったことについてどう思っている」
「かわいそうにと思っています」。女児の無念さを口にする。「いつそう思った」「殺して逃げるとき」。本心なのか、取調官は問い詰める。「では何で自首しなかった」
「自分がかわいかった」。利己的な感情があったことを聞き出した。
「殺された子の母親や父親はどう思っていると思うんだ」との問いかけに「悔しい、悲しい」。
遺族への思いも宮崎元死刑囚は述べていた。
取り調べの重要性再認識 宮崎勤元死刑囚の証言 幼女連続誘拐殺人事件
幼女連続誘拐殺人事件は「ネズミ人間が出てきた」「覚めない夢の中でやったような感じ」など、公判での宮崎勤元死刑囚の証言が強く印象に残るが、逮捕当初はこうした供述はなかったという。
幼い女児が誘拐され殺害される事件は、その後も全国で相次いでいる。今年3月にも千葉県松戸市でベトナム国籍のレェ・ティ・ニャット・リンさん(9)が殺害され、殺人容疑などで元小学校保護者会長の渋谷恭正(やすまさ)被告(46)が逮捕された。渋谷被告は黙秘しており、公判で真実が語られるかは不透明だ。過去の事件でも当初は容疑を認めてもその後、黙秘や否認に転じる例は少なくない。
現在は客観証拠となる科学捜査で証拠を集める捜査が中心だ。だが、宮崎元死刑囚のやりとりを再現すると、供述の真偽を見極め真相を究明する取り調べがいかに重要であるかが、改めて認識された。事件から30年近くになるが、残した教訓は過去のものではない。
(2017年10月7日 産経新聞)
ずいぶんひっそりと 宮崎勤死刑囚に死刑執行 2008年06月17日
被告人たちです
「夢のなか、いまも」宮崎勤 2007年10月
1988年8月22日 - 埼玉県入間市内にて第一の事件発生、4歳の女児Aを誘拐、殺害。
第一の被害者
歩道橋にて事件は起こる。宮崎は「涼しいところに行かない?」と女児Aを誘って、車で東京都八王子市の山林へ猥褻行為を目的に連れ込む。ところが、山林の中で女児Aが急に泣きだしたため、午後6時30頃に幼女Aを押し倒して、絞殺。
翌23日、宮崎はレンタルビデオ店でビデオカメラをレンタルしてから殺害現場に戻ると、遺体にイタズラをしながらビデオ撮影を行った。
遺体はその後、第三の事件で殺された被害者女児Cの父が「遺体だけでも戻って何より…」と語ったのを見た宮崎が、女児Aの遺体頭部を野焼きしたうえで、遺族に怪文字などと一緒に同封して返却した。
その後、手足の骨は女児Aが殺害されてから1年後、東京都五日市町の山林にて発見された。
葬儀の際にも、宮崎は「今田勇子」名義で怪文書を送りつけた。その中には「(女児Aの)葬儀をあげてくださるとのことで、ありがとうございます」などを始め長々と記されており、挑発的な文面に遺族達は激しく憤った。
1988年10月3日 - 埼玉県飯能市内にて第二の事件発生、7歳の女児Bを誘拐、殺害。
第二の被害者
小学校の近くで発生。「道を教えて欲しい」と迷い人を偽り女児Bに接近、誘拐した。そして、そのまま車で東京都八王子市の新多摩変電所まで向かい、そこから徒歩で日向峰まで行くと、午後5時頃に絞殺。その後宮崎は遺体にイタズラしていたが、その時点で女児Bは瀕死ながらも生きていたようで、痙攣したため恐怖を感じて逃走した。
第一の被害者同様、遺族に遺骨を送りつけようとしていたが、遺体の場所がわからなかったため断念した。この時の帰り道で車が脱輪し、通りがかった他の車に救助を求めたことで足がつき、宮崎が移動手段に使っている車が日産のラングレーであったことや、付けていたナンバープレートが3桁の数字であるなど、有力な手がかりとなった。
殺害から一年経とうかという時、遺体はこの時点で逮捕されていた宮崎の供述を元に、第一の被害者と同じ東京都五日市町の山林で衣類と白骨遺体が見つかった。
1988年12月8日 - 埼玉県川越市内にて第三の事件発生、4歳の女児Cを誘拐、殺害。
第三の被害者
被害者自宅団地付近で発生。遊んでいた女児Cに「温かいところに行こう」と誘って誘拐。車で移動中、女児Cが泣き始めたため途中で停車、「お風呂に入ろう」などと言って服を脱がせ、女児の裸をカメラで撮影していたが、また泣きだしたので午後7時過ぎに絞殺した。
遺体は殺害から6日後と早急に発見された。横瀬川の河川敷で宮崎が遺棄した女児Cの衣類が見つかり、続いて遺体が名栗村の山林で発見された。
この時の被害者父親の発言が、意図せず宮崎に「被害者遺族へ遺体を送りつける」という行動を起こさせるきっかけとなってしまった。
1989年6月6日 - 東京都江東区にて第四の事件発生、5歳の女児Dを殺害。
第四の被害者
公園で発生。遊んでいた女児Dに「写真撮ってあげる」などとして近づき、車で連れ出す。離れた場所に移動した後、ご機嫌とりにチューインガムを渡すも、宮崎は女児Dに生来の身体障害(手を回すことが出来ない)を笑われ、激昂して絞殺した。
帰宅途中にレンタルビデオ屋でカメラをレンタルし、帰宅後遺体の身体を拭いて綺麗にした後でイタズラを行い、いつものように撮影を始めた。
女児Dの遺体のみ、長らく宮崎の手元にあった。しかし、数日後には遺体の匂いがきつくなったため、宮崎は女児Dの身体をバラバラに切断し、あちこちに遺棄した。
この時、頭部は頭髪と歯を全て抜いたという。その間、女児Dの指に醤油をかけて食べたり、ビニールに溜まりに溜まった血を飲んだりなどした。
胴体は殺害から5日後、宮沢湖霊園のゴミ箱にて発見された。
二ヶ月後、東京都奥多摩町の山林で宮崎の供述を便りに頭部の一部が発見された。
第五の被害者(未遂)
宮崎勤が逮捕された事件。7月23日、東京都八王子市において「写真を撮らせて欲しい」と宮崎は姉妹に近づいた。危険を察知した姉はすぐに帰宅して父にこのことを報告、父は宮崎の後を追った。
車の中で宮崎は全裸の女児を撮影しようとしていたが、ついに女児の父が追いついて身柄を取り押さえられ、さらに通報によって駆けつけた警察に現行犯逮捕された。
逮捕後、宮崎の自供によって上記の四つの事件が宮崎勤の手によって行われたものであると判明した。
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