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TBSビデオ問題と隠蔽体質

2024年07月26日 | 社会

TBSビデオ問題
1989年(平成元年)10月26日、東京放送(現在のTBS)のワイドショー番組『3時にあいましょう』の制作スタッフが
オウム真理教の幹部に対して弁護士の坂本堤がオウム真理教を批判するインタビュー映像を放送前に見せたことで、
9日後の11月4日に起きた坂本弁護士一家殺害事件の発端となったマスコミ不祥事・報道被害。

事件はオウム真理教への強制捜査(1995年3月22日)が行われたのちの一連のオウム真理教事件の捜査の途上で浮上し、
当初は否定していたTBSが1996年3月になってから認めたもので、TBSビデオ問題などとも呼ばれる。

TBSは、1989年(平成元年)10月に
当時すでにサンデー毎日『オウム真理教の狂気』特集などで批判されていたオウム真理教の取材映像を放送予定であったが、
反オウムの弁護士坂本堤のインタビュー映像が合わせて放送されることを知ったオウム真理教は、
坂本のインタビュービデオを見せるようTBSに要求し、オウム真理教幹部の早川紀代秀(坂本弁護士事件実行犯の1人)らがTBS内でこのビデオを視聴した。
その後、麻原彰晃は坂本堤の殺害を指示、11月4日に坂本弁護士一家殺害事件が発生。

事件後に早速オウム真理教の関与が疑われたものの、オウム真理教に対し特に目立った捜査も無く、
坂本弁護士事件は(1995年まで)迷宮入りとなった。
この時、TBSの担当者は事件直前にオウム真理教の幹部がビデオを見に来たことを公表しなかったため、
もし公表していれば捜査に影響を与えたのでは、そもそも何故ビデオを見せたのか、
殺害決行のきっかけになったのではないか、などと批判された。

1989年(平成元年)10月26日、オウム真理教について翌27日の放送で取り上げることを企画していた『3時にあいましょう』は、
10月26日午前中にオウム真理教批判の急先鋒であった坂本弁護士、牧太郎、永岡弘行のインタビューを収録。
昼、曜日担当プロデューサー(武市功)率いる取材班(社会情報局)は、
オウム真理教富士山道場にて報道局社会部と合同で麻原彰晃(本名:松本智津夫)による「水中クンバカ」の実演を取材。

TBS報道局記者の西野哲史によるインタビュー終了後、
「3時にあいましょう」取材班の麻原インタビューが開始するも紛糾、
オウム関係者が「そんな取材でどんな放送をするつもりなのか」と迫った。
「麻原の実演の様子と被害者の会や坂本弁護士のインタビューを、バランスをとった形で放送する」ことを
金曜日担当プロデューサー(武市功)がオウム側に明らかにすると、
ビデオの確認を求めたオウム側と押し問答となった。
結果として曜日担当プロデューサーがオウム真理教に対して事前にビデオを見せることを認め、その場の事態を収拾した。

10月26日の深夜、オウム真理教の幹部、早川紀代秀、上祐史浩、青山吉伸らがTBSを訪れた。
まず曜日担当プロデューサーが応対し、暫くして総合プロデューサー(多良寛則)が同席した。
ここでオウム「被害者の会」に関係する坂本弁護士らのインタビューが収録されているビデオについて、オウム側が執拗に見たいと要求した。

総合プロデューサーは、部下にオウム側がインタビューに応じるならば、
坂本弁護士のインタビューを収録した当該ビデオを3人に見せてもいいと交渉。
坂本弁護士のインタビューを収録・管理している制作会社・TBSビジョン(TBS‐Ⅴ、旧TBS映画社、現在のTBSスパークル)の担当ディレクターと
当夜に居合わせた編集マンに坂本テープの間詰め編集をするよう指示し、
編集後にその坂本弁護士のインタビューテープをオウム側が視聴した。
早川はこのときのことをメモにとっている(早川メモ)。
結局、TBS側スタッフはインタビューを放送しないことを承諾・約束し、オウム側幹部はその場を後にする。

10月31日に早川、上祐、青山ら3人は、坂本弁護士が所属する横浜法律事務所を訪れたが、
坂本弁護士からは教団を告訴する旨を告げられたため交渉は決裂。
4日後の11月4日、坂本弁護士一家殺害事件(当時は「失踪事件」)が発生する。

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