すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

神武天皇

2010年02月11日 | 社会

日本国民にありながら神武天皇のことを知らないとゆーのはいささか気が引けるん
非国民の子として子供たち(21歳と17歳)に投石されるのも不憫でやんす
では調べときましょうね

ま 最近でのご家庭ではWikipediaさんで調べられるんが一般的なので
神武天皇
へぇ~ 初代天皇さんやねんて~ 知ってたぁ~?
つーかよー 俺は↑月岡芳年先生の絵やったんがめっさ嬉しいんやで

天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。

あとはめんどくさいので 各自自習しといてください 僕はもうエエです



天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、舟軍(ふないくさ)をひきゐて、日向から大和へお向ひになつた。さうして途中所々にお立ち寄りになり、そのあたりを平げつつ長い間かかつて難波(なには)におつきになつた。
 天皇は、河内から大和にお進みになろうとした。わるものどものかしらに長髄彦(ながすねひこ)といふものがゐて、地勢を利用して御軍(みいくさ)をふせぐので、これを打ち破つて大和へおはいりになることは、むづかしかつた。そこで天皇は、道をかへて、紀伊からおはいりになるなることになった。そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かつたので、ひととほりのお苦しみではなかつた。しかし、天皇は、ますます勇気をふるひおこされ、八咫烏を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、たうたう大和におはいりになつた。
 天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになつた。しかし、長髄彦の手下のものどもが、いつしやうけんめいに戦ふので、御軍もたやすく勝つことが出来なかつた。時に、空がにはかにかきくもり、雹が降出した。するとどこからともなく金色の鵄(とび)が飛んで来て、天皇のお持ちになってゐる御弓のさきにとまつて、きらきらと強くかがやいた。そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦ふことが出来なくて、まけてしまつた。長髄彦も、まもなく殺された。
 やがて、天皇は、宮を畝傍山の南西にあたる橿原にお建てになり、初めてご即位の礼をお挙げになつた。この年をわが国の紀元元年としてゐる。さうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、国民はこぞつて、この日に紀元節のお祝をするのである。



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