そう言えば小学生低学年の時に、普段は子供なんかを遊ばせ
なかった父親が、珍しく私と友達のW君を連れて八幡神社の
境内でボール遊びをしたことが確かにあった。
野球の真似事だったと思うが、W君が父親の投げたボールを
打って走り出したので、うれしくなって私もW君の後ろを
走り出したら、走るのはボールを打ってからだ、とかなんとか
言われて、えらく怒られた記憶がある。
ただの遊びではあるが、一応ルールを教えようとする気持ちが
強かったのかなと今にして思う。
父親は無口な方だったので、これは母親から聞いた話である。
戦前・戦中の時代は、まだまだ結核とか胸の病気が多かった
らしいが、父親は10代後半ぐらいから肋膜炎に罹ってしまい
結構大変だったみたいである。
年齢からして戦争末期ごろと思うが、徴兵検査では当然
不合格で、その時面接官?から、国家の大事な時にそんな
身体でどうするんだ、などとひどく叱られたそうで、時代と
はいえ何とも無慈悲で理不尽な話ではある。
父方の祖母は医者から、息子さんはもうそう長くは、と宣告
されてから、お寺(三角寺 四国八十八ヶ所65番札所)に、
昔の事だから徒歩でお百度参りしたそうである。祖母がそう
して祈願してくれなかったら、もしかして私は生まれて
来られなかったのかもしれない。
(↑川之江町 城山公園)
また下らない事をぐだぐだ書いてしまったが、今日は最近
作った句を少しだけ。
産土(うぶすな)の境内の森秋日濃し
岨道(そばみち)を無心にゆくや秋遍路
木椅子古(ふ)る海辺の橋や秋の暮