あまりバカな事ばかり書いていると、怒られそうだが
今日は地元にちょっとだけ縁のある、よさこい節で歌わ
れて誰でもご存知の幕末の土佐で起きた出来事について。
川之江町の八幡神社は国道11号線に沿っていて、この道を
神社から香川県方向へ7、8分も歩いたところに純信堂がある。
ここは今まで前を通り過ぎるばかりだったので、数日前に
行ってみたのである。
お堂自体は小さいもので、周辺も草が蔓延っていてあまり
整備が行き届いているとは言えない感じがして、あの
はりまや橋がガッカリ名所と言われているそうだが、私も
少なからずガッカリしてしまった(笑)
純信堂は、高知の名刹五台山竹林寺住職の純信さんが、
お馬さんとの駆け落ちに失敗して土佐藩から国外追放になり、
川之江で地元の顔役の川村亀吉の支援を受けて、寺子屋を
営んでいた跡地に建つお堂である。
この記事を書くに当たってネットをあちこち見て、自分
自身思い違いをずっとしていた事に気付いたことがあって、
それは、はりまや橋の小間物屋でかんざしを買ったのは、
純信さんではなかったということ。
母親の手伝いの雑用で寺に出入りしていたお馬さんに最初
懸想(古!)したのは純信さんの弟子でまだ修行僧だった
慶全で、一時恋仲になったがお馬さんは次第に住職の純信さん
に想いを寄せるようになったそうで、そうすると慶全はお馬
さんに振り向いてもらおうと、今でいう繁華街だったはりまや
橋の小間物屋で衆目も顧みずかんざしを買ってしまったので
ある。
当時、僧侶は妻帯禁止であり、慶全の噂は町中に広まって
それが純信さんの耳にも入り、慶全は寺を追放になる。
それで恨みを持った慶全は、かんざしを買ったのは純信さん
だとふれて回ったそうで、これが藩の耳にも入って純信さん
は謹慎、お馬さんは寺の出入りを禁止になったそうである。
そうして二人はとうとう安政2年(1855年)の5月の深夜
駆け落ちして、一旦阿波(徳島県)に入ったあと琴平の
旅籠にいたところを、関所破りの罪で追手に捕まってしまう。
そして後々まで未練があったのは純信さんの方だったらしく
画家の河田小龍が土佐への帰国途中に川之江に会いに来て
くれた時に、お馬さんへの手紙を託した事もあったらしい。
土佐で純信さんと同時代を生きた人々の一人である武市
半平太(純信さんより10歳年下)は、この安政2年から
6年後の文久元年に土佐勤王党を結成している。
また安政の大獄が始まるのは安政5年からだから、うまく
言うのは難しいけれど、この駆け落ち騒動はこれから世の中
が本格的に動乱の渦に巻き込まれていく直前の、一種の前触れ
というかサインのようなものだったのかもしれない。
(*昨日26日に記事をアップした時に、純信さんと武市
半平太が同い年と書いてしまいましたが、間違いでした。
文章を訂正して、お詫び致します。11月27日)