平らな深み、緩やかな時間

414.ハリスのメッセージから柄谷行人、クリプキ、高階秀爾について考える

先月のはじめにアメリカの大統領選挙が終わり、いまや新大統領のトランプさんの発するメッセージや新たな政権の人事などに話題が移っています。

そしてその後、選挙結果についてさまざまな分析がなされていますが、それはともかくとして、敗北したハリスさんが11月6日にハワード大学で発したメッセージをあらためて読んでみると、とても立派なものだと感心してしまいます。とくに若い方に向けた部分が感動的ですので、その部分を引用してみます。

 

いま聞いてくださっている若いみんな、悲しんだって、失望したって大丈夫。物事はきっと良くなる、そのことを忘れずにいてください。選挙戦の間、私は何度も“闘うことで勝利する”と伝えてきました。ですが、闘いには時間がかかることもあるんです。それは、勝てないということではありません。大切なのは、決して諦めないことです。絶対に、諦めてしまってはいけません。この世界を、より良いものにするための努力を、絶対に止めなでください。あなたたちには力があります。力があるのだから、前例がないから不可能だなんて言われても、耳を貸してはいけません。あなたたちには、並外れた善を成すだけの能力を持っているのですから。

 

To the young people who are watching, it is OK to feel sad and disappointed, but please know it’s going to be OK. On the campaign, I would often say, “When we fight, we win.” But here’s the thing: Sometimes the fight takes a while. That doesn’t mean we won’t win. That doesn’t mean we won’t win. The important thing is don’t ever give up. Don’t ever give up. Don’t ever stop trying to make the world a better place. You have power. You have power. And don’t you ever listen when anyone tells you something is impossible because it has never been done before. You have the capacity to do extraordinary good in the world.

 

皆さん、絶望なんてしないでください。今はまだ手を上げる時ではなく、袖をまくり上げる時なのです。自由と正義のために、そして私たちの誰もが信じて疑わない未来のために、団結し、行動し、共にあり続ける続ける時なのです。

 

And so to everyone who is watching, do not despair. This is not a time to throw up our hands; this is a time to roll up our sleeves. This is the time to organize, to mobilize, and to stay engaged for the sake of freedom and justice and the future that we all know we can build together.

 

https://www.elle.com/jp/culture/career/a62836461/message-of-hope-kamala-harris-concession-speech-2024/

 

日本とアメリカでは、選挙の方法が違うので、日本の総理大臣になれなかった人が、若者に向けて直接、このようなメッセージを発する機会はありませんが、もしもそのような機会があったとして、このような言葉を発する人がいるでしょうか?

 

この中の「袖を捲り上げる時なのです」という言葉に対して、何かそれにあてはまる良い曲がありませんか、とラジオ番組でリクエストされたピーター・バラカンさんは、自分はこの言葉から次の曲を連想しました、と言ってMavis Staplesさんの “No Time For Crying”という曲をかけました。

 

その曲のライブ映像があったので、リンクを貼っておきます。

https://youtu.be/3OPklsSZI8M?si=o7UP8KikPXPk11qr

 

この曲の歌詞はシンプルです。

 

No time crying

No time for tears

Got no time for crying

Got no time for tears

 

We've got work to do 

 

https://www.anti.com/releases/if-all-i-was-was-black/tracks/no-time-for-crying/



「泣いている暇はない、やるべきことをやるんだよ!」というような意味でしょうか?

この歌の言葉の意味は単純なものですが、それがハリスさんのメッセージと同様に、私たちの心を動かします。この歌詞のどこが感動的なのでしょうか?

この場合に、どんなに複雑なレトリックよりも、「No time crying」、「We've got work to do」というシンプルな言葉が心に響きます。このような言葉の不思議な働きに、私は驚きを禁じ得ません。これらの言葉のどこに、このような力があるのでしょうか?

言葉というものは、何かの意味をあらわすものです。そして、その言葉の意味は、何かの論理へと私たちを導きます。

そういえば、美術や絵画も、ときに言葉によって、そしてその言葉が紡ぐ難しい論理によって、その動向が牽引されることがあります。とくに20世紀以降の現代美術は、その傾向が強いと思います。そして今や、言葉と論理はますます複雑になり、その一方で面倒な言葉を遺棄するような傾向も目立ちます。

 

そのような現状において、今回は柄谷行人さんの著作を手がかりに、クリプキ (Saul Aaron Kripke、1940 - 2022)さんというアメリカの哲学者、論理学者の思想に少しだけ触れてみます。そして、現代美術における言葉についても触れてみたいと思います。

ただし、これは簡単な問題ではないので、今回はその考察の第一歩ということになります。この先、どこまで歩いていけるのか、まだ見通しも立っていません。しかし、「We've got work to do 」という歌詞を見習って、とにかく始めることにしましょう。

 

さて、私がクリプキさんという哲学者の名前をはじめて知ったのは、柄谷行人さんの著書だったと思います。例えば『内省と遡行』(1985)の「付論 転回のための八章」では次のようなことが書いてあります。

 

ヴィトゲンシュタインは、言葉に関して「教える」という視点から考察しようとした。これは、はじめてではないとしても、画期的な態度の変更である。子供に言葉を教えること、あるいは外国人に言葉を教えること。いいかえれば、私の言葉をまったく知らない者にそれを教え込むこと。

<中略>

試みに、日本語をまったく知らない外国人に、日本語を教える場合を考えてみよ。この思考実験を極端化したとき、他者は、ヴィトゲンシュタインの「恐るべき懐疑論者」(クリプキ)としてあらわれるだろう。それは私自身が思いこむ確実性を崩壊させてしまう。この懐疑は、たとえばデカルト的な懐疑とはちがっている。後者においては、一つの確実性、私が疑っていることは疑いがないという確実性に到達する。実は、このような内省は、「習う=受けとる」側から出発することであり、意味を前提してしまうことなのだ。そこでの懐疑は、せいぜい論理的に独我論のパラドックスをもたらすにすぎない。しかるに、前者の懐疑はほとんど倫理的な問題なのである。

哲学は「内省」にはじまっている。いいかえれば、それは「習う=受けとる」立場に立っており、「内部」に閉じこめられている。われわれはこの態度を変更しなければならない。「教える」立場あるいは「売る」立場に立ってみること。私の考察は、平易なようで困難なこの問題をめぐって終始するだろう。

(『内省と遡行』「付論 転回のための八章」柄谷行人)

 

この「付論 転回のための八章」は、もしかしたら文庫化された後から付け足されたものかもしれません。柄谷さんは、その後の『探究』のシリーズにおいて本格的にヴィトゲンシュタインさんやクリプキさんについて論じています。もしも今回の話題に興味を持たれた方がいらしたら、柄谷さんの著作の『内省と遡行』から『探究Ⅰ』、『探究Ⅱ』へと進むことをお勧めします。

私は、これらの論稿が出版された1985年頃、懸命に柄谷さんの著作を追いかけていました。就職したばかりの余裕のない中でしたが、単行本が出版されるとすぐに購入して、仕事の合間の時間に読んでいました。しかし正直に言えば、中身についてほとんど理解できませんでした。現在も、ほとんどわかりませんけれど・・・。さきほどの「付論」が、出版当時の本にあったのかどうか、それすらも記憶にありません。いまでは手元に残っていないので、確認できません。

さて、文中に出てくるウィトゲンシュタイン(柄谷さんは「ヴィトゲンシュタイン」と表記しています;Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)さんですが、その後の言語哲学や分析哲学に多大な影響を与えた哲学者です。彼の『論理哲学論考』や『哲学探究』の著作は難解で、さらっと読める人はほとんどいないと思います。

そしてクリプキさんは、ウィトゲンシュタインさんの思想をモチーフとして『ウィトゲンシュタインのパラドックス』という著書を著わしているのです。この本は、その解釈が画期的であるとか、間違っているとか、さまざまな意見があって賛否両論に分かれているようです。このblogでは、次回以降にこの本について取り上げることにしましょう。

そしてここで、またしても偉大な哲学者、デカルト(René Descartes、1596 - 1650)さんが登場しています。ここで取り上げられているのは、もちろん、彼の有名な「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum)です。「すべてのことを疑ってみたけれども、疑っている私という存在は否定しようがない、だから私は確かに存在する」という、その後の哲学の原理となる名言です。

しかし柄谷さんは、このデカルトさんの懐疑は、「そこでの懐疑は、せいぜい論理的に独我論のパラドックスをもたらすにすぎない」と書いています。つまり柄谷さんは、デカルトさんの「私が疑っていることは疑いがない」という疑いは、しょせんその言葉の意味を理解できる人同士の、つまり同じ哲学的な仲間同士の内輪の論理だと言っているのです。

この当時の柄谷さんは、そんな内輪の論理で自足していてはいけない、もっと広い場所に出て話をしなければならない、と果敢に言っていたのだと思います。私が、柄谷さんの著作に惹かれていたのは、ひとえにその真摯な姿勢に感銘していたからです。しかし、先ほども書いたように、悲しいことにその内容を理解できるほどの知性が、私にはなかったのです。

話を戻しましょう。

しかし、そのような「内部」から外に出ること、つまり「外部」に出ることがとても難しいのだと、柄谷さんはいうのです。内輪の話の外に出て、もっと広い場所で議論するためには、言葉の意味を理解しない外国人に、「私が疑っていることは疑いがない」ということを理解させることに等しい、と柄谷さんは言っています。このような問いかけは「平易なようで困難な(この)問題」なのだ、と柄谷さんは書いているのです。

それはそうでしょう。言葉の意味が通じない、つまり何も前提がないところで謎かけをしても、容易に理解しあえるはずがありません。こうして説明されると、「平易なようで」という前置きが不要に思えますが、そもそも私たちは「内部」にいても、それが「内部」であることに気が付きません。だから「内部」も「外部」も実感できないのです。それゆえに「外部」に出ることの困難さがわからない、だから「平易なようで」という前置きがほしくなるのでしょう。

 

このように、言葉の問題を「内部」とか「外部」とかいうような抽象的な概念で語っていると、いったい何を話しているの?それが何か重要なことなの?という根本的な疑問がわいてきます。

ここで具体的な美術の話をしてみましょう。

先ほども書いたように、美術の動向はときに言葉による論理によって牽引されることがあって、20世紀以降の現代美術では、とくにその傾向が強くなりました。その例として、前回取り上げた高階秀爾(たかしな しゅうじ、1932 - 2024)さんの『名画を見る眼』という著作を今回も取り上げてみたいと思います。今回は『名画を見る眼Ⅱ』の方です。

『名画を見る眼Ⅱ』では、その最後の章でモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)さんの『ブロードウェイ・ブギウギ』 (1942 - 1943) について解説しています。前回もご紹介したように、その小見出しは「華やかなネオンの輝き」、「都市のイメージ」、「垂直線と水平線」、「新造形主義の美学」、「晩年のジャズのリズム」、「歴史的背景」ですが、そのうちの「新造形主義の美学」の解説を読んでみましょう。

 

スーラと同じようにきわめて理知的な精神の持ち主であったモンドリアンは、その「新造形主義の法則」を、彼自身次のような簡潔な言葉で説明している。

(1)造形手段は、三原色(赤、青、黄)および非色(白、黒、灰色)の平面または直方体でなければならない。建築においては、空虚な部分が非色であり、材質部が色彩にあたる。

(2)造形手段の等価性がつねに必要である。大きさや色彩が異なっていても、それらは同じ価値のものでなければならない。一般に均衡は、非色の大きな平面と、色または材質の小さな平面との間に保たれる。

(3)同様に、構成にとっては、造形手段における対立の二元性が必要である。

(4)持続的均衡は、その基本的な対立における位置の関係によって達成され、直線(造形手段の極限)によって表現される。

(5)造形手段を無力化し、抹殺する均衡は、それらが配置され、生きたリズムを生み出す比例の手段によって達成させられる・・・

このような、まるで幾何学の公理を思わせる基本原理によってすべての造形表現を統一し、「純粋な色と線との純粋な関係」によって、「純粋な美」を実現しようというのがモンドリアンの新造形主義の考え方であった。

それは、あらゆる造形表現に共通する一般的な原理であるが故に、絵画にかぎらず、建築やデザインなど、その他の領域にも大きな影響を与えた。1930年代以降のモダン・デザインが、多かれ少なかれこの新造形主義の影響を受けていることは、広く知られている通りである。

(『名画を見る眼Ⅱ』「新造形主義の美学」高階秀爾)

 

このような造形原理から生まれたのが、次のような作品です。

https://blog.messortiesculture.com/article/comment-piet-mondiran-a-revolutionne-la-peinture-945

 

この作品は『赤、青、黒の構成』 (1926)ですが、まさに三原色と無彩色によって構成され、直線のみで作られています。この「新造形主義の法則」は、モンドリアンさん個人の作品のための「法則」ではなく、「絵画にかぎらず、建築やデザインなど、その他の領域にも大きな影響を与えた」ものです。モンドリアンさんにしてみれば、これは新しい時代の芸術のための論理であり、新時代の美学的な真理であったと思います。

さて、ここで考えてみたいことは、この作品が素晴らしいのは、「新造形主義の美学」の論理を正しく実践しているからでしょうか、それとも、それ以外の要因によるものでしょうか?

この作品の特徴は、「新造形主義の法則」によって形作られていますから、もちろん、この作品の素晴らしさと、この「法則」は無縁ではありませんが、その要因はやはりモンドリアンさんの感性と技術によるものだと私は思います。近代になって、「〇〇派」とか、「〇〇主義」というふうに、共通した論理や理念によって集まった人たちが、同じ理論的な背景をもって作品を制作することがよくありますが、その理論をもっとも正しく実践した人が、もっとも素晴らしい作品を残すとは限りません。モンドリアンさんの場合は、「新造形主義の法則」を正しく実践するとともに、優れた作品を制作した人でもあったのですが、それは「(5)・・・生きたリズムを生み出す比例の手段によって達成させられる・・」という感性的な法則を実践できたことによるのかもしれません。

 

ところで、なぜ私がこのようなことをウダウダと考えているのかと言えば、美術における理論というのは、いったいどのようなものだろうか、と考えてみたいからです。

1920年代のモンドリアンさんたちからすれば、この「新造形主義」の理念を推進することが、何よりも重要だったと思います。時代の流れはモダニズムの発展を求めていて、先ほども書いたように、これはただ絵の制作のための理念ではなく、「新造形主義」は世界のあるべき姿をデザインするためのものでもあったのです。ですから、「新造形主義」は新たな美しさの法則であると同時に、世界がそうあるべきだという正しい方向性を示す法則でもあったのです。

今にして思えば、このときのモンドリアンさんたちは、「新造形主義」という理念の「内部」にいたのだと思います。「新造形主義」の「外部」に出ること、つまりこの法則から外れてしまうことは、あるべき方向性から外れてしまうことであり、それは正しさを放棄することでもあったでしょう。

しかし、その当時の「新造形主義」について、あるいはその後のモンドリアンさんの動向について、『名画を見る眼Ⅱ』の先ほどの続きの「晩年のジャズのリズム」という章の中で、高階さんは冷徹に次のように書いています。

 

1920年代のモンドリアンの作品は、まるで中世の苦行僧のような禁欲的な厳しさのなかで、幾何学の図形を作るように描かれた。われわれは、それらの作品のなかにも、なお知性の詩人モンドリアンの肉声を聞き取ることができるが、しかし同時に、あまりにも厳しい法則性のなかに、いつかその肉声が失われてしまうのではないかという危惧の念を感じないわけにはいかない。事実、モンドリアンほどの緊張した精神と鋭い感受性を持ち合わせていない「新造形主義」の作品ほど、世につまらないものはない。

だが幸いにして、モンドリアンは創造的な芸術家がすべてそうであるように、自分の作り出した法則の虜とはならなかった。この「ブロードウェイ・ブギウギ」を頂点とする晩年のいくつかのニューヨーク時代の作品は、彼が「法則」よりも自分自身の感受性をいっそう大切にする人であったこと、すなわち、理論家であるよりも芸術家であったことを証明してくれている。

(『名画を見る眼Ⅱ』「晩年のジャズのリズム」高階秀爾)

 

高階さんの紳士的でやさしい物腰からすると、「モンドリアンほどの緊張した精神と鋭い感受性を持ち合わせていない『新造形主義』の作品ほど、世につまらないものはない」というのは、なかなかの書きようです。モンドリアンさんも、そうならないかと心配になったけれど、彼は「自分自身の感受性をいっそう大切にする人であった」と高階さんは評価しているのです。そしてモンドリアンさんは晩年を過ごしたアメリカのニューヨークにおいて、「70歳を越えた高齢にもかかわらず、友人といっしょにハーレムに黒人たちの演奏を聴きに出かけたりした」というのですから、何とも愉快な話ではないでしょうか。ハーレムの黒人たちに交じって、ブギウギのリズムに身体を揺するモンドリアンおじいさんの姿を見てみたかったですね!もしかしたら、一緒に踊っていたのかもしれません。

このブギウギに魅了されたモンドリアンさんは、垂直と水平の線による構成を堅持しているものの、すでに「新造形主義」の法則の「外部」に身を乗り出しています。なぜなら、『ブロードウェイ・ブギウギ』は、「新造形主義の法則」の「(2)造形手段の等価性」を逸脱して、色彩が躍動することを欲しているからです。

このようにモンドリアンさんの事例を見ていくと、美術における論理とはいったい何なのか、と考えてしまいます。例えば、そもそもモンドリアンさんにとって、「新造形主義」の理念は必要だったのでしょうか?

このように考えてしまうのは、私たちがモンドリアンさんの時代からおよそ100年が経ち、「新造形主義」の「外部」にいるからでしょう。もしも同時代に生きていれば、これほど客観的にモンドリアンさんの芸術を評価できなかったはずです。自分の時代を一生懸命に生きた人ほど、その「内部」に深く浸透しているため、「外部」を想像することが困難になるのでしょう。

それに、モンドリアンさんの木を描いた有名な連作を見ると、「新造形主義」の理念がモンドリアンさんの芸術の根源であり、エネルギーであったことがわかります。

https://www.wikiart.org/en/piet-mondrian/avond-evening-the-red-tree-1910

 

この素晴らしい連作は、繰り返しになりますが「新造形主義」の理念が正しく反映しているから美しいのではなくて、モンドリアンさんの芸術的な感性と技術が卓越しているから美しいのです。しかし、それは「新造形主義」の理念と無縁ではありません。理念と感性・技術は車の両輪のように、その時代において深くかかわっており、何かが欠けたらその芸術家の作品も変わってしまうのです。

 

しかし、ここで考えておきたいことは、高階さんが発した厳しい評価、すなわち「モンドリアンほどの緊張した精神と鋭い感受性を持ち合わせていない『新造形主義』の作品ほど、世につまらないものはない」という警句です。

私たちは、モンドリアンさんが危うく逃れられたように、「自分の作り出した法則の虜」とならないようにしなくてはなりません。あるいは「自分が作り出した」ものではなく、その時代が用意した「法則」であっても同様です。その「法則」は、車の両輪のようにあなたをどこかへ連れて行ってくれるかもしれませんが、それは「法則」や理念の息苦しい「内部」の奥底であって、健全な「外部」ではないのかもしれないのです。むしろ、「内部」へと連れていかれることの方が自然なことでしょう。

そもそも問題なのは、私たちが今生きている時代のどこが「内部」で、どこが「外部」なのかがわからないことです。何も考えず、のほほんと生きていれば、それは「内部」にいることに他ならないでしょう。私たちは、その時代の理念の「内部」にいた場合に、それが「内部」であることに気づかず、なおかつ「外部」の存在など想像もできないからです。

ここで、もう一度、柄谷さんの言葉を思い出してみてください。

 

哲学は「内省」にはじまっている。いいかえれば、それは「習う=受けとる」立場に立っており、「内部」に閉じこめられている。われわれはこの態度を変更しなければならない。「教える」立場あるいは「売る」立場に立ってみること。私の考察は、平易なようで困難なこの問題をめぐって終始するだろう。

(『内省と遡行』「付論 転回のための八章」柄谷行人)

 

ここで私たちは、「哲学」を「芸術」と読みかえても良いでしょう。「平易なようで困難なこの問題」の「困難」さは、困難であることすら気づかずに、何事もなく「平易」であるかのように見えることにあるのです。

この困難を解消するのは、一般的には「時間」です。100年も経てば、私たちはモンドリアンさんが対峙していた「新造形主義」の「内部」と「外部」の問題を把握することができます。しかし、その時代のただなかにあって、その「内部」から「外部」へと出ることは至難の業なのです。この困難な課題を考えるときに、柄谷さんが注目したことのひとつの手がかりが言葉の問題であり、ウィトゲンシュタインという思想家と、彼を研究したクリプキさんの著作だったのです。

そこで私は、これまで勉強してこなかったクリプキさんについて、少し学習してみようと思います。うまくいけば、次回以降にその成果をここに書くことができるはずです。よかったら、継続して読んでみてください。

 

さて、少しだけ最初に掲げたハリスさんのメッセージのことを考えてみましょう。

あるいはステイプルさんの歌った歌のメッセージについて考えてみましょう。

彼女たちのメッセージがシンプルであればあるほど彼女たちの言葉が私たちの心に響くのは、私たちが同じ問題を共有しているからでしょう。つまり私たちは、いささか病んでいる時代の「内部」にいて、同じように問題を共有しているのです。そして私たちよりもさらに小さな「内部」に身を置いて、自分たちだけの幸福を享受しようとしているのが「自国第一主義」を掲げる人たちなのです。残念ながら、彼らは世界各国にいて、次第に力を強めているように見えます。

そう考えると、ハリスさんやステイプルさんのメッセージがより切実なものに聴こえてきます。

 

And so to everyone who is watching, do not despair. This is not a time to throw up our hands; this is a time to roll up our sleeves.

 

No time crying

No time for tears

We've got work to do 

 

彼女たちのメッセージは、病んだ「内部」から「外部」へと出るためには今こそ動かなくてはならない、そして「内部」にとどまろうとする人たちとともに、そこから出なくてはならない、と言っているように思います。そしてその時にも、彼女たちが発したようなシンプルなメッセージが必要になるのだと思います。どんな人にもわかるような言葉が必要なのです。

そして私たち芸術を愛する者は、そのような社会的な動きに先んじて「外部」を察知する役割を担っているのだと私は考えているのです。そのカギは、言葉の問題にあるようです。

私は言葉の問題から読み取ったことを、自分の絵画の中で実践していきたいと願っています。

そして、その道程の記録をこのblogで書いていきたいと思うのです。

うまくいくかどうかわかりませんが、今、動かないという選択肢はありません。

 

This is not a time to throw up our hands; this is a time to roll up our sleeves.

 

繰り返しになりますが、よかったら、継続して読んでみてください。

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