平らな深み、緩やかな時間

416.『ウィトゲンシュタインのパラドックス』クリプキについて

はじめにお知らせです。

このblogでも取り上げた美術史家の高階秀爾(たかしな しゅうじ、1932 - 2024)さんについて、NHK教育テレビの『日曜美術館』が特集番組を組みました。

 

『名画は語る 美術史家・高階秀爾のメッセージ』

初回放送日:2024年12月22日

西洋美術史入門のバイブルとして、半世紀を超えて読み継がれる名著『名画を見る眼』。その著者である美術史家の高階秀爾さんが、今年10月、92歳で亡くなった。日曜美術館では、今年6月、高階さん自身が、著書の世界を語る番組を放送。その番組を中心に、1970年代から、日曜美術館で、さまざまな画家や名画について語った貴重な映像を発掘。美術の楽しみ方から、美術史家の使命まで、高階さんが語ったメッセージを届ける。

再放送:12月29日(日) 午後8:00〜午後8:45

https://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/217842LLM8/

 

さすがに要領よくまとめられていて、『名画を見る眼』についても画像で確認することができます。見逃した方は1週間以内なら配信で確認できますので、ご覧になることをおすすめします。



次に、ある絵本作家の展覧会のお知らせです。

 

『レオ・レオーニと仲間たち』

板橋区立美術館

2024年11月9日(土曜日)〜2025年1月13日(月曜日・祝日)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000016/4001836/4001852.html

 

レオ・レオーニ(Leo Lionni、1910 - 1999)さんは、オランダで生まれ、アメリカ合衆国、イタリアなどで活躍したイラストレーター、絵本作家です。レオーニさんの絵本作品としては、『あおくんときいろちゃん』、『スイミー:ちいさなかしこいさかなのはなし』などが、とくに有名です。

しかし私にとってレオーニさんは、何と言っても『平行植物』の作者としてのインパクトが強いです。以前にもこのblogでご紹介していますが、この奇妙な本のことを知らない方は、次のリンクを開いてみてください。

 

平行植物 絵本作家レオーニが贈る幻想の博物誌

https://www.kousakusha.co.jp/DTL/heikou.html

 

目次を見ると、何かの学術書みたいでしょう?

これがすべて空想の産物なのですから、本当に傑作です。

板橋区立美術館は遠いので、私も行けるかどうかわかりませんが、お近くの方はぜひ覗いてみてください。ただの子供の本の作者だと思って行くと、おそらく愉快な肩透かしを食らうと思います。




さて、前回、前々回からの続きです。

ここまで私は、哲学者の柄谷 行人(からたに こうじん、1941 - )さんの著作から、言語哲学者のウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)さんや論理学者のクリプキ (Saul Aaron Kripke、1940 - 2022)さんについて、少しだけ触れました。

柄谷さんは、思想における「内部」と「外部」の問題について考えました。そのときに、問題をより根本的に考えていくために、言語の問題に突き当たったのです。

(今回は、そのことについて、もう少し掘り下げたいと思います。)

そして私は、柄谷さんの方法を参照しながら、抽象画家のピート・モンドリアン(Piet Mondria、1872 - 1944)さんの「新造形主義」の論理について考えてみたのです。「新造形主義」の論理は、時代がモダニズムへと向かう中で必然性があって生まれてきたのですが、その論理に忠実であることが芸術を豊かにするとは限らなかったのです。そのことを正しく指摘したのが美術史家の高階秀爾さんで、前回は彼の『名画を見る眼Ⅱ』を参照しました。偶然ですけど、うまく『日曜美術館』とリンクしました。

 

そして今回は、クリプキさんがウィトゲンシュタインさんについて書いたテキスト『ウィトゲンシュタインのパラドックス』について考えていきましょう。

クリプキさんは、この『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の第二章を次のように始めています。

 

『探究』の第201節において、ウィトゲンシュタインは次のように言っている、『我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。』この本のこの第二章において、私は私自身の仕方で、問題のこの「パラドックス」を展開してみようと思う。

(『ウィトゲンシュタインのパラドックス』「二 ウィトゲンシュタインのパラドックス」クリプキ 黒崎宏訳)

 

何を言っているのか、わかりますか?

ウィトゲンシュタインさんは、あるいはウィトゲンシュタインさんの著作から導かれたクリプキさんは、たぶん次のようなことを言っているのです。

私たちは、ある「規則」があって、その「規則」から「結果」が導かれる、と普通は考えます。だから、ある「結果」(にあたるもの)と出会ったときに、その「結果」からさかのぼって「規則」を推測します。そして、もしも「結果」が示されていないような事象に出会ったときには、私たちは「規則」として推測したものから、あるべき「結果」を予想するのです。

その典型的な例が数学的な思考であり、数学の問題です。

数学が苦手な方(私もそうです)には申し訳ないのですが、次のクリプキさんの説明を読んでみてください。

 

例えば、「68+57」は、私がかつて全く行ったことのない計算である、としよう。私は過去においてー私の公に観察可能な振舞においては言うに及ばず、沈黙のうちに私の心の中においてであろうともーただ有限回の計算を行ったはず、沈黙のうちに私の心の中においてであろうともーただ有限回の計算を行っただけなのであるから、そのような例は確かに存在する。事実、この同じ有限性が、加法の計算における二つの数の両方が、共にこれまでのあらゆる加法の計算の二つの数を越えているような例が存在する、という事をも保証している。以下において私は、「68+57」を、そのような例としても用いることにする。

さて私はこの計算をし、そして勿論、「125」という答えを得る。私は、おそらく私の計算を検算した後に、「125」は正しい答えである、という事を確信する。この答えは、算術的な意味において、即ち、68と57の和は125である、という意味において、だけではなく、メタ言語的な意味において、即ち、ここにおける「プラス」は、私が過去においてその語を用いようと意図した時がそうであったように、私が「68」と呼ぶ数と「57」と呼ぶ数に適用すれば、125という値をもたらす関数を表している、という意味において、正しいのである。

ここで私は、突飛な懐疑論者に出会った、と仮定しよう。この懐疑論者は、私の答えに対する私の確実性に関し、私が今「メタ言語的」な意味と呼んだところの意味において、疑問を投げかけるのである。彼の示唆するところによると、おそらく私が過去において「プラス」というタームを用いたとき、「68+57」に対して私が意図したであろう答えは「5」であったにちがいない!のである。勿論、この懐疑論者の示唆は、明らかに正気ではない。

 (『ウィトゲンシュタインのパラドックス』「二 ウィトゲンシュタインのパラドックス」クリプキ 黒崎宏訳)

 

数学というほどの内容ではないので、繰り返して言い直すまでもありませんが、簡単に振り返ってみましょう。

クリプキさんは、「68+57」という足し算を考えてみましょう、と言っています。ただし、この計算をはじめてやってみる、というふうに考えてみてください、と言っています。

これはどういうことでしょうか?

例えばあなたは「68+56」までの計算なら、やったことがあるのです。その答えが「124」だということは、経験からもわかっています。しかし「68+57」は、やったことがない、という想定なのです。「68+56」は「68」足す「56」という加算の規則によって、「124」という結果が計算できて、その規則がまちがいない、ということを経験からも知っています。しかし、同じように「68+57」が「125」だということは、規則によって予想できるけれども、経験としては知らない、という想定なのです。

そうすると、どういうことが起こるのでしょうか?

ここで「懐疑論者」という面倒な人が現れます。この「懐疑論者」は、「68+57」の答えは「5」にちがいない!と言うのです。この人は「明らかに正気でない」と私は考えます。どうしてこの人はこんなことを言うのでしょうか。

クリプキさんの説明の続きを読んでみましょう。

 

彼(=懐疑論者)が言うには、結局のところ、私が過去において「+」という記号を用いたときには、私の意図は、「68+57」は125になるべきである、というものであった、という事に私が今どんなに確信を持っていようとも、そのような事はあり得ないのである。そのような事は、「68+57」という特定の事例において加法を行ったその結果は125である、という事を私が明示的に私自身に指示したのだから、といっても、あり得ないのである。なぜなら仮定によって、そのような事を指示する事を私はしなかったのであるから。しかし言うまでもなく、この「68+57」という新しい事例においては、私が過去において何回も何回も用いた関数や規則とまさに同一のものを用いるべきである、というのが我々の考えではないか。しかし、と挑戦者(=懐疑論者)は続けるであろう、誰が一体、私が過去において用いたその関数がどんな関数であったと言うのか。過去においては、私自身、その関数で計算をした具体的事例をただ有限個与えているのみである。私が考えた事例の全ては、57より小さな数の間の加法なのである。それゆえたぶん、私は過去において「プラス」と「+」を、私が「クワス(quus)」と呼び、「⊕」によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたかもしれないのである。その関数は、

もし x,y<57 ならば x⊕y=x+y

そうでなければ  x⊕y=5

によって定義される。誰が一体、これは私が以前に「+」によって意味していた関数ではない、と言うのだろうか。

懐疑論者は、私は今、私自身の以前の使用法を誤って解釈しているのである、と主張する(あるいは、主張するふりをする)のである。彼が言うには、「プラス」によって私は、常に「クワス」を意味していたのである。しかし今は、ある精神異常者の発作、あるいはLSDの働きの影響下にあるので、私は私自身の以前の使用法を誤って解釈してしまっているのである。

 (『ウィトゲンシュタインのパラドックス』「二 ウィトゲンシュタインのパラドックス」クリプキ 黒崎宏訳)

 

これも簡単に振り返ってみましょう。

この「懐疑論者」は、次のようなことを言います。

「68+57」が「68」足す「57」という計算を意味するのは、二つの数字のいずれかが「57」よりも小さい数字の場合であって、それらがいずれも「57」以上になってしまったら、答えは「5」になる、という規則だったのだ・・・。だから「68+56」が「124」であったとしても、「68+57」は「5」になるのだ、というわけです。

彼はこのヘンテコな規則のことを「プラス」ではなくて「クワス」というのだ、ともっともらしいことを言っています。

そんなヘンテコな規則があるなんて、私は知らなかった、とあなたなら言うでしょう。

そうすると「懐疑論者」は、それは無理もありませんよ、だってあなたは「68+57」をはじめて計算するのだから、と言うでしょう。

思い出してください。あなたは「68+57」という計算をはじめてやってみる、という仮定でした。だから、あなたが「プラス」だと思っていた加法計算は「68+56」までしか有効ではない、実は「68+57」からは「5」になる、という規則だったことを、あなたはこれで初めて知ったのだ、ということになります。

 

さて、こんな屁理屈にどんな意味があるのか、とあなたは思うでしょう。

そのことについて考えるに際して、ここで、はじめに引用した文章の一節を思い出してみましょう。

 

・・・ウィトゲンシュタインは次のように言っている、『我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。』

(『ウィトゲンシュタインのパラドックス』「二 ウィトゲンシュタインのパラドックス」クリプキ 黒崎宏訳)

 

この文章を、「68+57」の例に当てはめてみましょう。

私たちは、足し算という「規則」によって、「68+57」が「125」である、という私たちの「計算する」という「行為」を決定することはできません。なぜなら、「68+57」が「5」であるとする「規則」も想定することができるからです。「68+57」が「5」である、という計算行為も、「クワス」という「規則」に一致させることができる、というわけです。

このような理屈(一般的な感覚で言えば「屁理屈」)を用いるなら、どんなヘンテコな答えを導き出す計算行為であっても、ヘンテコな規則と一致することが可能です。これをクリプキさんは「ウィトゲンシュタインのパラドックス」と言っているのです。ちなみに「パラドックス」の意味を確認しておきましょう。

 

「paradox」とは

「paradox」とは、一見すると矛盾しているように見えるが、より深く掘り下げると真実を含んでいる主張や状況を指す英語の単語である。これは、ギリシャ語の"para"(反対の)と"doxa"(意見)から派生した言葉で、文字通り「反対の意見」を意味する。例えば、「最も早く進むためには、時には遅く進む必要がある」という主張は、一見矛盾しているように思えるが、深く考えると真実を含んでいるという意味で、これをパラドックスと呼ぶ。

https://www.weblio.jp/content/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

 

しかし、こんなことを考えて、どんな意味があるのでしょうか?

私は哲学者ではないので、ウィトゲンシュタインさんの思想も、クリプキさんの論理学も理解できるわけではないのですが、おおよそ次のようなことが言えると思います。

私たちは、なんとなく感覚的に「クワイン」のような事例を「屁理屈」と言ってしまい、考えるに値しないことのように思ってしまいますが、これを論理的に深く考えるとどうなるのでしょうか?

どうやら、これを簡単に論破することは、できないようなのです。だからこそ、これは「屁理屈」ではなく、「パラドックス」と呼ばれるのでしょう。

しかし、そうだとすると、これは学問的に大問題ではないでしょうか?

 

この数学的な問題を、もっと一般的な言葉の問題として考えてみましょう。

例えば私たちは、私たちの目の前にある「机」を、「机」という言葉で言い表しています。しかし、この言葉の意味はどこまで確からしいものなのでしょうか?

いったい、あなたと私は同じものを見ているのでしょうか?あるいは、私が「机」という言葉でイメージするものと、あなたが「机」という言葉でイメージするものとは、どこまで一致するのでしょうか?

そして、私があなたとはまるで違うものを「机」だと思い込んでいたとしても、私の「机」という言葉の意味を正当化する「規則」がどこかに存在し、私の「机」と「規則」が一致するのかもしれません。私のイメージする「机」という言葉の意味を、あなたが「それは間違っている」と言ったところで、私の「机」の意味にも根拠?があるのです。

疑いだすとキリがありませんが、もっときわどい例でいうと、私が感じている「痛み」を、あなたはどこまで理解しているのでしょうか?私は腰痛もちで、ぎっくり腰になったときの耐え難い痛みをよく知っていますが、この「痛み」をぎっくり腰の経験のない若い方に理解していただくことは、ほぼ不可能でしょう。

このように考え出すと、例えば私たちが論理的にものごとを考えるときに用いる「言葉」の意味が、根底的に疑わしくなってしまいます。私は哲学的な深い思考のことはよくわかりませんが、おそらく学問的な世界では、これは大問題なのだと思います。

と書きつつも、私にはその問題の価値がよくわかっていないのです。

 

かろうじて、私になんとなくわかるのは、この言葉の問題が前回の柄谷さんの「内部」と「外部」の問題とからんでいるということです。このような面倒な問題に煩わされることなく、私たちが何の疑いもなく「言葉」の意味に充足している状態を、柄谷さんは「内部」に閉じこめられている状態だと考えたのでしょう。自分の言葉の意味に何の疑いも抱かず、その危うい状態の中で安穏と理屈をこねている状態、これは「井の中の蛙」のような状態ではないか、というわけです。

しかし、だからと言って、言葉の「外部」に出る、ということは、はたして可能なのでしょうか?

私たちは「言葉」によって思考しているわけですから、普通に考えれば、「言葉」を使っている限り、その「外部」へと出ることはできません。私たちは「言葉」の「内部」でしか思考できないのです。

しかし、おそらく柄谷さんはこう考えたのです。

唯一、言葉の「外部」に出ることができるとしたら、それは言葉の「意味」を疑うことによって、ということでしかないのではないか・・・。自分たちの使っている言葉の「意味」が疑わしいものであること、それすらも言葉によって考えるしかないのですが、そのような居心地の悪い「パラドックス」に気づくことだけが、唯一、言葉の「外部」に出て、「外部」から言葉の意味を考えることになるのだ、と柄谷さんは考えたのだと思います。

「内部に自らを閉じこめ、徹底化することで自壊させる方法」というのは、柄谷さんが主著『内省と遡行』から『探究』へと至る過程で選択した方法です。柄谷さんは言葉を「自壊」させるために、ウィトゲンシュタインさんやクリプキさんの思想を参照したのです。

柄谷さんは『内省と遡行』の中で、次のように書いています。

 

たとえば、言語が標準的な意味でもちいられているときは、「意味している」ことが成立し、そうでないときは危ういと考えてはならない。そのような区別を許さないところに、ヴィトゲンシュタイン的懐疑の徹底性がある。言語が本来対話的であり、他者に向けられているというバフチンの主張でさえも、今やそれだけでは不十分である。ヴィトゲンシュタインは《他者》を、「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」とみなしている。むろん、それは子供であっても動物であってもかまわない。肝心なのは、「話す=聴く主体」における、「意味していること」の内的な確実性をうしなわせることであり、それを無根拠的な危うさのなかに追いこむことなのだから。

(『内省と遡行』「付論 転回のための八章」柄谷行人)

 

ここまで読んできた『ウィトゲンシュタインのパラドックス』は、まさに言葉の「意味していること」の「内的確実性をうしなわせること」であり、それが「無根拠的な危うさのなかに」言葉を「追いこむこと」になるのだ、ということだと思います。追いこんで、追い詰めて、言葉を自壊させて、その先に見える視界を柄谷さんは体験したかったのでしょう。

私はやっと、若い頃に読んだ柄谷さんの著書が何を参照し、そこから何を探究したのかを確認している状態です。この歳になっても、それは十分ではありません。40年越しの問題ではありますが、今後も私は確認を怠らないようにします。

 

さて、いずれにしても、このウィトゲンシュタインさんやクリプキさんの示している言葉のパラドックスの問題は、なかなか難しい問題です。

そこで私たちは、この「ウィトゲンシュタインのパラドックス」を現代絵画に応用してみたいと思います。美術に関することで考えてみると、私たちにも、なんとなくわかることがあると思うのです。

なぜなら、現代絵画におけるある有名な言葉が、それが「理論」として、あるいは「規則」として作動し、私たちを長い間、苦しめ続けてきたからです。現代絵画について考えてみると、私たちは「わかる」、「理解する」というよりは、「こういうことだったのか(?)」とおぼろげに実感できるはずだ、と私は思うのです。

 

このことについて書き出すと、また少し長くなってしまうので、この続きは次回に書きます。

よかったら、次回もお読みください。

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