平らな深み、緩やかな時間

413.気候変動について少しだけ、それと『名画を見る眼』高階秀爾について

11月30日のNHKスペシャルで、次のような番組が放送されていました。

 

『調査報道 新世紀File7 気候変動対策の“死角”』

ことし世界の平均気温が過去最高を記録するとされ、待ったなしの気候変動対策。人工衛星など最新のテクノロジーを使った調査でその実効性に様々な疑念が…。各国が公表している温室効果ガスの排出量よりも実際の排出量が上回っている可能性や、企業が投資する森林保護プロジェクトの効果“水増し”疑惑。トランプ氏の米大統領再選で先行きに懸念の声が上がるなか、気候変動対策の見過ごすことのできない“死角”に調査報道で迫る。

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/ZGMX6PXP1Y/

 

番組では、温室効果ガスの排出源が人工衛星でわかるようになっており、そのデータがまもなく公開される、と報道されていました。日本には大量の排出源はなさそうですが、日本の企業が海外の排出源となる工場から多くの燃料を購入している、というのは事実のようです。

温室効果ガスを相殺するカーボンクレジット(温室効果ガス削減効果をクレジットとして売買できる仕組み)もありますが、その効果を検証してみると、実はその効果が「水増し」されていた、ということが明らかになります。つまり、現状ではあまり効果がないということが分かってしまったのです。それでは、どこに投資をすれば本当に温室効果が削減できるのか、真剣に検討している企業の努力も報道されていますが、今のところ正解はないようです。

個人的には、私たちの暮らしを豊かにするために、遠い異国の森林を保護するというのは、なんだか違っているような気がします。現在、残っている森林を保護するために資金を提供することは大切ですが、それと同時に私たちの暮らしを見直すことも重要です。これまでに豊かさを享受してきた老人の私にこんなことを言う権利があるのか、とお叱りを受けそうですが、やはりそれぞれの国が自国内で温室効果ガスの削減を目指すのがまともな方法ではないか、と思います。

私の関係する学校教育で言えば、夏がこれだけ熱くなっているのに、クーラーを使って大量の電気を消費しながら授業をやることに違和感を感じます。また、熱中症の危険がある中で夏休み中に大きな大会を設定せざるを得ない運動部の活動も心配です。生徒の体のこともありますが、スポーツの専門家ではない顧問の先生が大勢いるのに、技術向上から安全管理まで、あまりにも多大な責任を負わなくてはならないことに無理があると思うのです。手遅れにならないうちに、気候変動にマッチした生活様式を考える必要があります。

世界の状況を見ると「トランプ氏の米大統領再選で先行きに懸念の声が上がる」と書かれているように、決して良い方向には進んでいません。戦争や紛争で大量のエネルギーを消費している愚かな為政者もいます。それでも絶望せずに、せめて自分にできることを見出して、希望を持って生きていきたいものです。



それでは、本題に入ります。

高階 秀爾(たかしな しゅうじ、1932 - 2024)さんが10月に亡くなりました。その時に、そう言えば私が美術に関する本を読んだのは、彼が書いた『名画を見る眼』であったかもしれない、と思い出しました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/e882904be4543f8cd6c84827881173c6

 

高階さんについて、あらためて何か書いておきたい、と思っていたのですが、今回はその『名画を見る眼』について書いておきたいと思います。

 

高階さんは、今さらいうまでもなく、日本の美術史学者、美術評論家の第一人者でした。穏やかで、知的で、謙虚で、紳士的で・・・、私がテレビなどで見た高階さんは、そういうイメージでした。

しかし、その高階さんへの私の評価、というと大げさですが、私の思いは、時代によって、あるいは私の成長(?)によって変わってきました。もしかしたら、私と同様の思いを抱いていらっしゃる方もいるかもしれないので、そのことについて少し触れておきましょう。若い現代美術の表現者の方には、アカデミックな学問との接し方について何かの参考になるかもしれません。

 

先程も書いたように、十代前半から半ばの頃に著書やテレビの美術番組の解説で触れた高階さんは、優れた文化人とはこのような人のことを言うのだろうなあ、と思わせるような方でした。

それが、自分自身も美術をかじるようになり、芸術大学に入って現代美術に興味を持つようになると、高階さんのことをアカデミズムを象徴する人だと思うようになりました。まだロクな作品も作れていないのに、自分はそのアカデミズムを否定し、いずれは乗り越えなくてはならないのだ、と思うようになったのです。現代美術を志した人ならば、私と同じような思いを抱いた人も多いのではないでしょうか。古い価値観のアカデミズムは、否定すべき遺物であり、乗り越えの対象であったのです。

しかし、実はその当時にあっても、高階さんの著書は意外な輝きを放っていました。アカデミックな西洋美術史の研究者、という高階さん本来の顔以外に、彼は日本の美術の発展について真摯に考えた人でもありました。私が西洋美術と対峙するとはどういうことだろうか、と考えていた時に、高階さんは『日本美術史論』という著書の中で、そのことについて論じていたのでした。

例えば日本における西洋絵画の開拓者、高橋 由一(たかはし ゆいち、1828 - 1894)さんの独特の空間構成について、それを西洋美術の未熟な習得結果と見なすのではなく、そこに独自の創造性を見出そうとしていました。私はその意見に賛同はしませんが、美術史家として日本美術を真剣に考察しようとする高階さんの眼差しを感じました。遡ってみれば、高階さんは世紀末美術や現代絵画を批評する著書でデビューしたのであり、すでに評価の定まったアカデミックな作品を論じるだけの研究者ではなかったのです。しかし、そのことを知らなかった私は、このように果敢に定説を覆す高階さんの真摯な一面に驚いたのです。

そのような高階さんの一面はさておき、西洋美術のアカデミズムを知って、そこからの脱却へと向かった私の変化は、日本人の美術との向き合い方とも、ある程度リンクしていたと思います。ちょっと話が大きくなりますが、日本は第二次世界大戦後の敗戦の混乱期からようやく立ち直って、経済的な高度成長期を迎えました。私はそのさなかに育ったのですが、日本全体がやっと芸術や美術に触れる余裕ができてきた頃だったのだと思います。その状況下で、若き高階さんは理想的な西洋美術の解説者の役割を果たしたのだと思います。

さらに話がそれますが、思い起こせばその頃の日本には、美術館などの文化施設が十分になかったのだと思います。西洋美術を紹介する企画展の場所として、デパートの催事場がその代替を果たしていました。今ではあまり考えられませんが、ルネサンスから印象派、初期の現代美術などの重要な展覧会が、デパートの上階の催し物場で開催されていたのです。伊勢丹や三越、高島屋などで開かれた展覧会に、私もよく通ったものです。たぶん私が大学生の頃に、いわゆる地方美術館が林立したのだと思います。

そのデパートの展覧会は、当然のことながら集客優先になりますから、印象派を中心としたわかりやすい美術展が中心でした。そんな中で、西武デパートが主に現代的な美術を紹介する西武美術館を作ったのは、画期的なことだったと思います。おそらく、過去の西洋名画ばかりでなく、現在の文化、芸術を見てみたい、という欲求が若い人たちを中心に出てきたのだと思います。これは当時子どもだった私が大人になるにつれて感じたことですから、私よりもご年配の方から見ると、その動きはもっと早くからあったのかもしれません。

そしてその頃には、高階さんは東京大学の教授になり、さらには国立西洋美術館の館長になり、というふうにアカデミズムの頂点に登りつめていました。高階さんの著書の履歴を見ると、高階さんご自身はその頃も変わらずに西洋美術を掘り下げ、日本美術と対峙し、というふうに研究活動を続けられていたようですが、現代美術にばかり目を向けていた私の視野からは、高階さんは完全にはずれてしまっていたのです。

今から振り返ると、若い頃の私は何をやったらいいのかもわからずに、ただ焦っていましたので、仮に高階さんの著書を読もうと思い立ったとしても、落ち着いてその研究成果に向き合う時間を持てなかったと思います。その当時は時代の流れも、最先端の科学やテクノロジーを追い求める時代であり、あえてアカデミックな絵画を顧みる雰囲気ではなかったと思います。それに情報の流通もずいぶんと早くなりましたから、過去の西洋美術ならば美術全集でいくらでも見ることができるようになりました。そんな中で、たぶん高階さんの果たす役割も変わっていったのではないでしょうか。一般的な西洋美術の啓蒙よりも、もっと高いところに立ってやらなくてはならないことがたくさんあったのだろうと推察します。そして、そのようなアカデミックな高みにあるポジションというのは、私から見るともっとも縁の遠いものだったのです。

 

さて、そのあとの時代にあたる現在の世界の状況ですが、近代の科学や思想が行き詰まりを見せ、地球の温暖化や環境破壊、貧富の格差などのさまざまな課題が現れています。その状況下で、自ずと過去との向き合い方も変わってきました。美術の世界でも、モダニズムからポスト・モダニズムへ、という掛け声ばかりが虚しく聞こえてきて、その混迷は深まるばかりです。そのことについて書き出したらキリがありませんので、ここでは触れません。このblogの主要なテーマでもあるので、継続して読んでいただけるとありがたいです。

そして私自身も、先端的な美術の動きを追いかけることに違和感を感じるようになりました。その一方で、過去に逆戻りすればよい、というものでもないことも、わかっています。おそらく、これからの世界は、これまでのことと、これからのことを落ち着いて考え、判断するべき状況にあるのです。それは、私自身においても同様です。

 

前置きが長くて申し訳なかったのですが、そういうときに高階さんの訃報に触れ、若い頃に読んだ高階さんの新書版の啓蒙書を思い出し、読み直してみようと思ったわけです。この思いは、どうやら私一人のものではないようです。かつての高階さんの新書が、今になってカラー版になり、あるいは電子図書となって話題となっている現在の状況は、多くの人たちが過去との向き合い方を再検討しているからではないか、と思います。

あるいは、もしかしたら初めて高階さんの著書に触れ、その魅力に気づいた若い方たちがたくさんいらっしゃるのかもしれません。そうだとしたら、その幸せな出会いを大切にしてほしいものです。私の文章が、その一助になればうれしいです。

ということで、高階さんが37歳のときに出版された『名画を見る眼』という著書の魅力について、私なりに書いてみたいと思います。

まずは『名画を見る眼』の出だしの文章に注目してみたいと思います。この本には「はじめに」というような序章の文章はなく、いきなりファン・アイク(Jan van Eyck、1395頃 - 1441)さんの『アルノルフィニ夫妻の肖像』(1434)に関する章から入ります。それだけに、その最初の文章は重要です。

https://artmuseum.jpn.org/mu_arunolufini.html

 

ここでは、何もかもが魔法の世界のように輝いて見える。

舞台は特にこれと言って変わったところのないフランドルの富裕な承認の家の内部で、そのなかにやはりフランドル風の礼装をした夫妻が、手を握りあって立っている。部屋の様子は、特に飾り立てたとも見えぬ質素なものだが、天井から吊り下げられた豪華なシャンデリアや、壁にかけられた凸面鏡、ふたりのあいだの床の上にその一端を覗かせる多彩な敷物などに、この家の主人の趣味と財力とがうかがわれる。しかもそのシャンデリアや敷物や、その他室内のひとつひとつの調度品からふたりの人物の衣裳にいたるまで、何と精緻に、見事に描き上げられていることだろうか。

(『名画を見る眼』「Ⅰ ファン・アイク『アルノルフィニ夫妻の肖像』」高階秀爾)

 

この「ここでは、何もかもが魔法の世界のように輝いて見える」という文章が、『名画を見る眼』の導入の文章であり、『続名画を見る眼』にもつながっていくのです。ちなみに、この二冊の本は、現在では『名画を見る眼Ⅰ』、『名画を見る眼Ⅱ』として整理されています。

二冊目の本の出だしはモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんの『パラソルをさす女』です。その最初の文章は「近代の巨匠たちのなかで、モネほど光を愛し、光に憧れた画家はいない」というものです。これも良い文章だと思いますが、「何もかもが魔法の世界のように輝いて見える」という文章ほどのインパクトはないように思います。高階さんは、これから世界の名画を一般の人たちに紹介するにあたって、説明的な記述はさておいて、何とかその魅力的な世界へと導入したい、と苦心されたのではないでしょうか。

私のおぼつかない記憶では、高階さんが『名画を見る眼』でどの絵を取り上げたのか、長い間あいまいなままでした。しかし、そのはじまりが『アルノルフィニ夫妻の肖像』であったことを忘れたことがありません。先ほども書いたように、私は本来、美術史をしっかりと学ばなければならない時期に、そのアカデミックな学習を遠ざけてしまいました。ですから、ファン・アイクさんにそれほどの魅力も感じていませんでしたし、ろくな知識も身につけませんでした。その後、アイクさんの名画の実物が来日して、その美しさに驚愕しましたが、それは少し後の話になります。『名画を見る眼』を読まなければ、『アルノルフィニ夫妻の肖像』に注目することもなかったでしょう。考えてみると、十代前半にこの本を読んでいなかったら、私は美大生としては許しがたいほど美術史に無知な人間になっていたのかもしれません。

 

この本の名画に関する説明ですが、図版を入れてもそれぞれ20ページにも満たない短いものです。各章の文章には小見出しが設けられていて、例えば『アルノルフィニ夫妻の肖像』の章では、「驚くべき迫真性」、「画面の意味」、「さまざまなシンボル」、「歴史的背景」と4つの小見出しがつけられています。この本の詳細に立ち入るとキリがありませんが、小見出しのつけ方について少しだけ他の章と比較してみましょう。

 

次の作品はボッティチェルリ(Sandro Botticelli, 1445[1444とも]- 1510)さんの『春』(1477 - 1478頃)です。この章の小見出しは「春を呼ぶ神がみ」、「フローラとクロリス」、「三美神の輪舞」、「ヴィーナスの治国」、「歴史的背景」です。

https://irohani.art/study/15370/

 

この本の最後の章はマネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)さんの『オランピア』(1863)です。小見出しは「最大のスキャンダルを呼ぶ」、「『恥知らず』という近代性」、「トランプの絵」、「歴史的背景」です。

https://bijutsufan.com/realism/manet-olympia/

 

『名画を見る眼Ⅱ』もチェックしておきましょう。先ほどのモネさんの『パラソルをさす女』の章では、「光への賛歌」、「戸外での制作」、「印象派の誕生」、「色彩分割」、「歴史的背景」です。

https://artistsbio.blogspot.com/2015/05/claude-monet.html

 

『名画を見る眼Ⅱ』の最後の章はモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)さんの『ブロードウェイ・ブギウギ』 (1942 - 1943) です。小見出しは「華やかなネオンの輝き」、「都市のイメージ」、「垂直線と水平線」、「新造形主義の美学」、「晩年のジャズのリズム」、「歴史的背景」です。

https://www.moma.org/collection/works/78682

 

これらの小見出しを見ると、おおよその内容がわかるのではないでしょうか。それぞれの作品について語られている内容が、作品の時代的な背景によって変わっているのです。そう考えると、高階さんがどのように名画を選んだのかが気になります。この『名画を見る眼』ではアイクさんの初期ルネサンスの作品からはじまって、マネさんの印象派の始まりの頃までの作品が選ばれています。そして『名画を見る眼Ⅱ』では、モネさんの印象派から始まって、モンドリアンさんの抽象絵画へと至るのです。その間、全体で500年から600年ぐらいの幅の年代から、それぞれの名画が選ばれているのです。

高階さんはその選択について、『名画を見る眼』の「あとがき」で次のように書いています。

 

時代をルネサンスから19世紀までとしたのは、歴史的に見て、ファン・アイクからマネまでの400年のあいだに、西欧の絵画はその輝かしい歴史のひとつのサイクルが新しく始まって、そして終わったと言い得るように思われたからに過ぎない。マネの後、19世紀後半から、また新たに新しい別のサイクルが始まって今日にまで至っていることは、よく知られている通りである。

(『名画を見る眼』「あとがき」高階秀爾)

 

なるほど、この二冊の本は、ここで示された歴史的なサイクルに合わせたものになっているのです。そして、この二つのサイクルの間に、絵画の見方もずいぶんと変わったというわけです。それが小見出しの内容にも関わっているのです。

先ほど確認した小見出しですが、ファン・アイクさんの章では、「驚くべき迫真性」というアイクさんの絵の特徴を語る内容から始まっています。そしてそのあとに「画面の意味」、「さまざまなシンボル」などという内容が続きます。

例えば「さまざまなシンボル」の小見出しの中に、次のような文章があります。

 

このように画面の特殊な意味をいっそう明らかにするため、ここにはいろいろなシンボル(象徴)がさりげなく描きこまれている。例えば、あの艶やかな金属の肌の輝きを見せるシャンデリアである。窓の外は明らかに昼間であって、明るい光に満たされているのに、このシャンデリアには、蠟燭(ろうそく)が一本灯されている。むろんそれは、この場を照らし出すためではない。一本だけ灯された燭台(しょくだい)は、中世以来、「婚礼の燭台」と呼ばれて、結婚のシンボルなのである。

(『名画を見る眼』「Ⅰ ファン・アイク『アルノルフィニ夫妻の肖像』」高階秀爾)

 

このように、「画面の特殊な意味をいっそう明らかにするため」に、画面に描きこまれた「シンボル(象徴)」が何を表しているのかを解き明かす研究のことを「イコノグラフィー/iconographie」と言います。日本語に翻訳すると「図像学」ということになりますが、これは描かれた図像の持つ意味を判定する学問のことです。

https://artscape.jp/dictionary/modern/1198082_1637.html

 

高階さんはシャンデリアだけでなく、椅子の背の木彫の飾り、足元の犬、ロザリオの数珠、窓の前の果物などの意味を次々と解き明かしていきます。高階さんは、図像学の知見を活かして、私たちに古典的な絵画の見方をそれとなく教えているのです。

 

この『アルノルフィニ夫妻の肖像』の章が、作品に描かれた現実的な室内のさりげない物についての記述から私たちの興味を誘っているのに対し、次の『春』では、まるで芝居の舞台のような場面から、ヴィーナスやキューピット、三美神やフローラ、クロリスなどの登場人物について、その物語を解き明かしていきます。

ここではローマ時代の詩人、オウィディウス( Publius Ovidius Naso、紀元前43 - 紀元後17または18)の長編詩『祭暦』の春の情景について解説しています。例えば、画面の右端の風の神ゼフュロスに捕まえられようとしているクロリスと、その左のフローラは同一人物だというエピソードを紹介して、私たちを驚かせます。そのあとで、高階さんは次のように書いています。

 

事実、オウィディウスの詩のなかで、花の女神フローラは、はっきりこう言っている。

「私は昔はクロリスであったが、今はフローラと呼ばれている」。

ところで、大地のニンフ、クロリスは、好色な西風ゼフュロスによって追いかけられる。ボッティチェルリの作品では、このゼフュロスは、頬をふくらませた風の神の姿で、ニンフを追いかけながら、画面のいちばん右の端から登場してくる。その風の勢いに、ここでだけ樹が大きくしなっている。ニンフは何とかして風の神の追跡から逃れようとするが、ついにつかまえられてしまう。ゼフュロスの手がクロリスの身体に触れた瞬間、彼女の口から春の花が溢れ出てはらはらとこぼれ落ちる。そして白衣のニンフは華やかな花の女神に生まれ変わるのである。

(『名画を見る眼』「Ⅱ ボッティチェルリ『春』」高階秀爾)

 

このように『アルノルフィニ夫妻の肖像』では図像学を駆使して解説していた高階さんは、次の『春』では古代詩の物語を解き明かしながら、私たちの興味を誘うのです。

さらにこの後の章では、あるときは聖母子像の系譜について語り、またある時には古代や中世の世界観について言及しています。そして必ず各章の末尾では、「歴史的背景」という小見出しを設けて、その作品の作者について、あるいは作品の歴史的な位置づけについて、簡略な言葉で解説しています。かくして私たちは、高階さんの豊富な学識から選ばれた話題を、それぞれの作品に応じて楽しむことができるのです。

 

二冊目の『名画を見る眼Ⅱ』についても、すこしだけ触れておきましょう。19世紀以降の作品になると、さすがに図像学や古代詩などの話はでてきません。その代わりに、その作品が描かれた動機や理由、その当時の時代の流れ、文化や思想との関連性などにページが割かれています。これは、今の私たちから見た場合に、500年前の絵と、近代絵画とでは知りたい情報が異なるからであり、そういう読者のニーズに配慮しているのです。ですから、この『名画を見る眼』と『名画を見る眼Ⅱ』は、手堅い西洋美術の研究に裏付けられた啓蒙書でありながらも、知的な娯楽の書でもあるのです。

そのことについて、高階さん自身は「あとがき」で次のように書いています。

 

私は自分の専門として西欧の美術を研究するようになってから、精神的なものと物質的なものとが微妙にからみあっている芸術というものの不思議をつくづくと感じさせられた。

もちろん、絵というものは、別に何の理屈をつけなくても、ただ眺めて楽しければそれでよいという見方もある。それはそれで大変結構なことに違いないが、しかし私は自分の経験から言って、先輩の導きや先人たちの研究に教えられて、同じ絵を見てもそれまで見えなかったものが忽然と見えてくるようになり、眼を洗われる思いをしたことが何度もある。

(『名画を見る眼』「あとがき」高階秀爾)

 

こういう体験から、おそらく高階さんご自身が「どう書いたら、読者に新たな気づきを印象付けることができるだろうか」と半ば楽しみながら書かれたのではないか、と推察します。その楽しみの感覚が、この本を魅力的にしているのだと私は思います。

 

さて、今回は本の中身にあまり立ち入ることができませんでした。本来ならば、とくに高階さんが近代以降の作品についてどのように語り、どのように評価しているのか、ということが気になるところです。なぜなら、それこそが若い私がアカデミックな基準として退けようとしたものだったからです。そのことについては、別の機会においおい触れていくことにしましょう。

 

それにしても、今になって若い私の態度を振り返ると、高階さんに象徴されるようなアカデミックなものがしっかりと存在したから、それへの反発が生まれたのだと思います。ですから、アカデミックな芯となるものが不在のところでは、革新的なものも生まれないのではないか、という気がします。そう考えると、私たちの世代はのちの若い人たちが反発するほどのしっかりとした芯のあるものを残せたのだろうか、と心配になります。

例えば、現在の某国立芸術大学の学長の方ですが、高階さんの学識が10だとすると、彼はどれほどの学識をお持ちなのだろうか、とよけいなことを考えてしまいます。彼がアカデミックなことを遺棄するあまり、泡沫的な知識や感性のみをのちの世代に伝え残してしまう結果になるのではないか、と心配になってしまうのです。それはあまりに罪深いことだと思います。

 

ということで、余計なお世話ですが、もしも私のように美術史的な知識に疎いとお考えの若い方がいましたら、まずは高階さんの『名画を見る眼Ⅰ』、『名画を見る眼Ⅱ』をお読みになることをお勧めします。そして、近現代についてもう少し読んでみたい、という方は、同じく平易な啓蒙書である『近代絵画史:ゴヤからモンドリアンまで』 (上・下)を読んでみましょう。高階さんの著書は、最新の現在にコミットする本ではありませんが、もしもあなたの美術史的な知識の手薄なところを補うことになれば、それはもうけものです。もっと興味がある方は、そこから専門的な本に進めばよいのです。

 

私は現在という時代は、最先端の表現を追いかけるばかりでなく、自分の興味が赴くどの時代の表現からはじめてもよいのではないか、と思っています。ただし、先人たちの業績をよく理解して、あえて現在、自分がそれを表現することの意味を感じていることが大切だと思います。

今回のblogの冒頭に書いたように、私たちはどんどん先に進めばよい、という時代を生きているわけではありません。より快適に、より便利に、という生活を追いかけていけばよいという時代ではないのです。そういうときに、高階さんの本を読むということは、数年前、数十年前に彼の本を読むこととは違った意味を持ってくるのではないか、と私は考えます。

 

先ほども書いたように、私も時折、これらの本を読み返して、高階さんのアカデミックな考え方を、今の私たちがどう受け止めたらよいのか、ということを考察していきたいと思います。

また、お付き合いいただければうれしいです。

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