平らな深み、緩やかな時間

415.『谷川俊太郎と死の絵本』、『坪田菜穂子展』から考える

昨夜(2024年12月14日)、NHK教育テレビの「ETV特集」で,、先ごろ亡くなった詩人の谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、1931 - 2024)さんを偲んで、谷川さんがテキストを書いた絵本『ぼく』の特集番組が再放送されていました。

「NHK+」の視聴・配信期限が12月21日(土) 午後11:59までとなりますので、取り急ぎお知らせします。また、再放送が12月19日(木) 午前0:00〜午前1:00にあるようです。

どのような内容なのか、番組の公式サイトの紹介文を引用しておきます。

 

「ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本」

初回放送日:2022年2月12日

詩人の谷川俊太郎さんが11月に亡くなった。90歳の時に出した絵本の創作に、番組は密着していた。テーマは「子どもの自死」。リモートで行われた絵本作りの2年間、絵を描く合田里美に谷川は何度も描き直しを求めた。意図は何?合田は必死に探る中で、谷川の死への思索、そして子どもたちへのメッセージを見つけていく…合田の作画をアニメ化し、特異な絵本の誕生を追体験。谷川が遺した“死の哲学”に迫る。 語り:石田ゆり子

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/7J3N7LZXVV/

 

なお、本に関する情報は、書店の公式サイトで紹介されています。

谷川さんの推薦文のほか、番組に登場されていた編集者の方のメッセージも読むことができます。

https://www.iwasakishoten.co.jp/book/b596583.html

 

上に書かれている通り、NHKの番組では、新進気鋭のイラストレーター・合田里美さんが絵の制作者として選ばれ、その合田さんが谷川さんのテキストと格闘する過程が描かれています。

絵本の出来がどうなのか、谷川さんの「子どもの自死」への思いは存分に描かれているのか、という点は、絵本を読んだ方によって意見が分かれると思います。安易にその答えを示さないところが谷川さんの詩人らしいところで、テーマの難しさとあいまって、謎ばかりが残った、と感じる方もいると思います。それはそれでよい、というか、それで仕方ない、というか、とにかくあとは読者が自分自身で感じ取り、考えていくほかないのです。

 

私自身は、このような絵本の評価に関することよりも、「子どもの自死」について、言葉と絵で過不足なく表現するために、谷川さん、合田さん、それに編集者の筒井大介さん、堀内日出登巳さんが葛藤する様子を見ることに興味を覚えました。

 

例えば、はじめの方で筒井さんは、谷川さんのテキストにある「おにぎり」や「むぎちゃ」を絵に描き入れているところを「説明的」だから、という理由で削除するように要請しました。そうか、編集者は「詩人」と「イラストレーター」をコーディネイトするばかりでなく、内容についてもこのように責任を負うのだなあ、とわかりました。

また、筒井さんは途中でも、谷川さんのテキストに書かれた「おとうさん」と「おかあさん」に関する記述が「男親」と「女親」の役割を固定してしまっている、と感じて谷川さんにその旨を申し入れます。大詩人に対して、なかなか勇気のある行動だったと思いますが、谷川さんはあっさりとその部分を削除することに同意しました。

これらの筒井さんの指摘は的確だったと思いますが、その指摘に対して、新進作家の合田さんばかりでなく、90歳の谷川さんが柔軟に対応する様を見るのは気持ちの良いものです。谷川さんは、合田さんに対しても、編集者に対しても、一人の人として対等に接しているのだと思います。あたりまえのことのようですが、これは素敵なことだと思いました。

しかし、そんな谷川さんも「スノードーム」については迷走します。

この絵本の中で、主人公の少年の持ち物として「スノードーム」が出てくるのですが、これはもともとは合田さんが絵の中の小道具として思いついたものでした。それを谷川さんが、少年の内面性を喚起する力があるモチーフだと考え、頻繁に本の中に登場させることを提案したのです。あれ、そんなことをすると、「スノードーム」が絵本全体の鍵を握ることになってしまいますが、それでいいの?と思いながら番組を見ていると、絵本の仕上がりに近い段階で、谷川さんはその提案を撤回しました。

ああ、こんなふうに谷川さんのような経験豊富な人でも迷いながら進むのだなあ、ということがわかるエピソードです。

絵を描いている方なら、この話は絵を描くのと同じだな、と思うのではないでしょうか。絵を描く前に、私たちはある程度のイメージをもって描き始めます。しかし、それは制作途上では、まだ形が見えません。あれこれと試行錯誤しているうちに、こうした方がいいかな、などと手を加えたり、プランを変更したりしていきます。その変更が、その局面ではうまくいっているように見えても、最終的には絵全体のイメージを損なうものであったり、はじめのねらいから外れてしまうものであったりするのです。

このような制作途上での迷いは、ときに作品をロクでもないものにしてしまいますが、その一方で、この迷いや試行錯誤こそが作品を豊かにするものでもあります。その見極めが難しいのですが、この「スノードーム」に関して言えば、最後の谷川さんの判断が正しかったのだと思います。「スノードーム」の描かれ方によって少年の内面がわかり、少年の「自死」の理由が予測できるというのでは、この本のテーマからすると、あまりにも内容が単純なものになってしまうからです。谷川さんは、「自死」をする少年の内面の複雑さ、つまり明らかな理由がなくても人は「自死」に至る存在である、ということを言いたかったはずなのです。

 

そして出来上がった絵本はすばらしいものですが、この制作過程を見てしまうと、若い合田さんがあまりにも優秀すぎて、谷川さんや編集者の要請をとてもうまく受容してしまうことに感心すると同時に、少しものたりなさも感じてしまいました。「もう、やってられないよ!」とごつごつぶつかるような感じもあってよかったのでは、と思ってしまったのです。ただ、この絵本の制作当時は新型コロナウイルスの感染警戒時期でもあったので、対面での打ち合わせはできなかったようです。そういう特殊な時期の仕事だったということが、その制作に影響していたのかもしれません。あるいは、実は放送されていないだけで、合田さんはもっと暴れていたのかもしれませんが・・・。

そして番組の最後に、谷川さんは次のような趣旨のことを言っていました。

 

今は「意味」偏重の世の中で、誰でも、何にでも「意味」を見つけたがる。でも、「意味」よりも大事なことは、何かがそこに「存在」するっていうことなんですよ。その「存在」を言葉を介さないで感じ取るっていうことが、すごく大事だとぼくは思っているんだよね。生きているうえで、そういうふうに「意味」を回避する、というか、意味づけないでじっと見つめる、がまんする、ということをみんなやらなくなってしまっている、そして意味を見つけたら満足してしまう。そうじゃないものを作りたいと思っています。

 

この最後の「意味を見つけたら満足してしまう」という部分を肝に銘じておきましょう。

私自身は理知的な人間ではないし、「意味」だけで満足するような人間ではありませんが、言葉を介して作品を語るときには、とりあえず何か「意味」のあることを言おうとしてしまいます。私は自分で話したり、書いたりしているのですから、そんな言葉ではまったく十分でないことを実感していますが、その言葉を聞く人はどうでしょうか。私のような半端な人間の言葉でも、何かもっともらしい「意味」を含んでいれば、聞く人は「ああ、そうか」と、それでわかったような気になるのかもしれません。そしてわかってしまうと、対象に対する興味を失ってしまうのです。

しかし美術作品というのは、まさに言葉を介さないで何かを実感するためにあるのです。

例えば、その作品の制作の意味づけが浅はかなものであっても、その美術作品が出来上がってしまえば、作品の存在感は否定しようのないものとなります。もしもその美術作品が素晴らしいものであるならば、最初の意味づけを超えて、その作品はさらにさまざまな「意味」を紡ぎだしていくはずです。

でも、そんなふうに「意味」を過剰に語る前に、谷川さんが言うように「意味づけないでじっと見つめる」ということが必要でしょう。その時間に耐えた後で、それぞれの人たちがそれぞれの言葉で何かを語ればよいのです。きっと、そのときの言葉は「意味」がわかれば終わり、というような軽いものではないでしょう。

このことについては、最後にもう一度、確認しましょう。



さて、今回はもうひとつ、12月14日まで開催されていた展覧会について書いておきます。東京・京橋の「ギャラリー檜」で開催されていた『坪田菜穂子展 迂回の先、森の手前』という展覧会です。

坪田さんはキャンバスにタブロー形式の作品も描きますが、ペンや鉛筆の細密な描写に抑制的な色彩を施す作品に、今のところの彼女の特徴があります。

https://hinoki.main.jp/img2024-12/e-2.jpg

 

そして私は、以前に遠近法的な描写と平面的な彩色とを行き来する坪田さんの作品について、文章を書いたことがありました。

 

205.『稲 憲一郎 展』ギャラリー檜B・C、『坪田菜穂子展』ギャラリー檜e

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/5e3c066acd0c5cc19dcf8b1e45ff374e

 

今回の作品も、着実にその歩みを進めている成果が見られて好ましいものでしたが、まずは作家の言葉を参照してみましょう。

 

ここに描かれているのは、関東近郊のごく普通のありきたりな風景です。

私自身はこれらの風景の前に実際に立っていましたが、見る人に「何処か特定の場」を伝達するのではなく、各々の記憶と照らし合わせてささやかな美しさや感情を想起して欲しいと考えています。

それは、私が風景の移り変わりに心を投げてきた経験からくる欲望です。

 

坪田さんの文章は、作品と同様に抑制的で、過不足なく自分の思いを表現しようという気持ちに満ちています。

しかし、その一方で「風景の移り変わりに心を投げてきた」という不思議な表現で結ばれていることに注目しましょう。これは見慣れた風景に、いかに坪田さんが心を奪われてきたのか、ということを示していて、控えめながらとても力強い言葉です。坪田さんは、そんな風景に対し、ときに遠近法的な正確な描写で、ときに絵画的で平面的な線と色で、自分の思いを私たちに伝えようとしているのです。

 

坪田さんの手法は、例えば「分析的キュビスム」のような理詰めのものではありませんし、またはマティス (Henri Matisse, 1869 - 1954)さんのように大胆な平面性、装飾性を意図するものでもありません。以前のblogで私は現代絵画の二人の作家を坪田さんの作品を見る人たちへの参考例として挙げましたが、誰のことを書いたのか、興味のある方は上のリンクから確認してみてください。

そして、私は次のように書きました。

 

 私はそのような彼女の制作方法の中に、たんなる幾何学的な構成絵画を超えた、新たな絵画の可能性が秘められていると思います。それは目新しい絵画ではないかもしれません。しかし表現者である彼女の空間意識が、それまでの旧套的な空間意識とは違ったものであれば、自ずとその絵画は新鮮に見えるはずです。

 

今回の作品でも、私の感想は大きく変わりませんが、彼女がより積極的に遠近法的な空間と平面的な表現との間を行き来しているように見えて、それがとても興味深かったです。

例えば、上の彼女のDMの写真に掲載された作品のように、作品の一部を平面的に抜き取ったような表現は、もう彼女にとってお手の物だと思います。すぐれた作品がたくさんあって、多くの人たちが部屋に飾っておきたい、と思ったことでしょう。

それに加えて今回は、大きめの作品に見られたように、陰影や色彩などの調子の変化がありながらも、画面全体を見れば平面的にも見えるような、そんなきわどい表現もありました。絵画の奥行きと平面性を同時に表現するという難しい手法ですが、坪田さんはそれに果敢に挑み、一定の成果を上げていたと思います。

あるいは、ネットフェンス越しに風景を見たときの、平面的であり、かつ奥行きのある難しい感覚を、何とか絵画として表現しようと試みていました。彼女はフェンスの向こう側に他の風景を合成するなど、意識的に画面を構成することで自分の感覚を正確に私たちに伝えようとしていたのです。

それらの試みは、いずれもすっきりと彼女の意図が私たちに伝わる、というものではありませんでした。そもそも、試みていることが複雑なので、それを単純化して伝える必要もないのです。

ここで、先ほどの谷川さんの絵本の意図を思い出してみましょう。

ああ、なるほど、こうすれば「自死」を防げるのか、という便利な方法はなく、もしも谷川さんの絵本がそのように解釈されるようなものであるならば、それは欺瞞にしか過ぎないものになるでしょう。しかし谷川さんは、わからない複雑さをそのままに表現し、その先を私たちにゆだねたのです。

坪田さんの作品も、いずれもっとこなれた表現になるのだと思いますが、そのときに複雑な思いを単純化することだけは避けていただきたいなあ、と思います。私が以前、「たんなる幾何学的な構成絵画を超えた、新たな絵画の可能性が秘められている」と書いたのは、坪田さんが現在の試みを継続されることによって実現できる、と考えたからなのです。

 

そして、こうして坪田さんの展覧会を見た後で、谷川さんの言葉を聞くと、谷川さんの言葉の意味がより明確に伝わってきます。

 

「意味」よりも大事なことは、何かがそこに 「存在」するっていうこと

 

おそらく坪田さんは、この言葉と同様の直観に基づいて風景と出会い、絵を描いているのだと思います。坪田さんの作品の面白さは、彼女が風景の中に何かが「存在」するということを感じていて、そのことを何とかして私たちに伝えようとしていることから生まれているのだな、とよくわかります。



意味づけないでじっと見つめる

 

この谷川さんの言葉は、まさに坪田さんの態度に当てはまるのではないか、と思います。そして同時に、次の坪田さんの言葉を参照してみましょう。

 

私自身はこれらの風景の前に実際に立っていましたが、見る人に「何処か特定の場」を伝達するのではなく、各々の記憶と照らし合わせてささやかな美しさや感情を想起して欲しいと考えています。

 

この坪田さんの言葉と、谷川さんの最後の言葉を読み比べてみてください。

 

意味を見つけたら満足してしまう、そうじゃないものを作りたい

 

この最後のところも、坪田さんの感性と一致するのではないか、と私は推測します。坪田さんは「伝達する」のではなく、「ささやかな美しさや感情を想起して欲しい」と書いていました。「意味」に満足しないで、自分の作品を見る人には「感情」を抱いてほしい、と坪田さんは言っているのです。

 

そしてさらにここで、言葉の「意味」が作り出す「理論」と芸術との関係について、もう少し考えてみたいと思います。

そのために、前回の高階秀爾(たかしな しゅうじ、1932 - 2024)さんの『名画を見る眼Ⅱ』に書かれたモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)さんのことを思い出してみましょう。

モンドリアンさんの「新造形主義」の理論は、その時代における重要な意味を担っていたものの、その意味に忠実に表現することで優れた芸術作品が出来上がるわけではない、ということを私たちは学びました。

もう一度、高階さんの文章を引用しておきます。

 

1920年代のモンドリアンの作品は、まるで中世の苦行僧のような禁欲的な厳しさのなかで、幾何学の図形を作るように描かれた。われわれは、それらの作品のなかにも、なお知性の詩人モンドリアンの肉声を聞き取ることができるが、しかし同時に、あまりにも厳しい法則性のなかに、いつかその肉声が失われてしまうのではないかという危惧の念を感じないわけにはいかない。事実、モンドリアンほどの緊張した精神と鋭い感受性を持ち合わせていない「新造形主義」の作品ほど、世につまらないものはない。

だが幸いにして、モンドリアンは創造的な芸術家がすべてそうであるように、自分の作り出した法則の虜とはならなかった。この「ブロードウェイ・ブギウギ」を頂点とする晩年のいくつかのニューヨーク時代の作品は、彼が「法則」よりも自分自身の感受性をいっそう大切にする人であったこと、すなわち、理論家であるよりも芸術家であったことを証明してくれている。

(『名画を見る眼Ⅱ』「晩年のジャズのリズム」高階秀爾)

 

私たちはここまで学習してきて、海の向こうの遥かかなたの『ブロードウェイ・ブギウギ』を見るまでもなく、芸術において理論がどのように作動するべきなのか、身近な作家、すなわち坪田さんの絵画からでも、それがわかるような気がするのですが、いかがでしょうか?

絵画の平面性は、モダニズムの時代において、さまざまな作家、理論家の苦心の末に、表現として定着してきました。その理論化の時代のさなかにあっては、理論をどのように正確に表現に置き換えるのか、ということが問題でした。しかし、その同時代においても、少し上から時代を俯瞰すれば、「あまりにも厳しい法則性のなかに、いつかその肉声が失われてしまうのではないか」という高階さんの警告を感じとることができたはずです。

 

このようにモンドリアンさんの作品において、私たちは高階さんの言葉に導かれて「新造形主義」の「外部」から作品を見ることができます。しかし、現代という時代は、ある意味ではモダニズムの文化の延長上にあります。私たちは、まだモダニズムの「内部」にいるのです。

モダニズムの理論の「内部」から見れば、坪田さんの作品は、旧套的な遠近法にとらわれていて平面性も不徹底である、という結論になるのかもしれません。理論を重んじる批評家からすれば、坪田さんのような作家は論じにくい芸術家なのかもしれないのです。

しかし優れた芸術家は、つねにその時代の「外部」を感じ取りながら生きています。谷川さんは、その良い例だったと思います。

 

意味を見つけたら満足してしまう。そうじゃないものを作りたいと思っています。

 

まさにその通りで、絵画の平面化の理論がそこにあるとして、その理論を解釈し、その意味の通りの作品を作ってしまえば満足して終わってしまう、というのでは、何のために表現活動をしているのかわかりません。そのことがわかれば、坪田さんが「ささやかな美しさや感情を想起して欲しい」と書いたことが、理解できるはずです。

坪田さんは決して声高に宣言したりはしませんが、もしかしたら自然体でモダニズムの「外部」を覗こうとしているのかもしれません。私が彼女の作品に感じている可能性は、大げさに言えば、そういうことなのです。



そして最後に、次回のblogにつなげるために、批評の言葉についても少しだけ書いておきます。

ここまで考察してきて谷川さんの言葉を読むと、私は次のようなことを感じます。

 

そうか、私は言葉の限界を理解しつつ、それでも坪田さんの作品の素晴らしさを伝えるために言葉を紡ぐしかない・・・。だから私の書いていることの「意味」を多くの人に理解してほしいし、だからといって、それでわかったような気になってほしくもない・・・。私の言葉によって、坪田さんの作品を理解したような気になってしまい、坪田さんの作品への興味を失ってしまう人がいるとしたら、それは論外である・・・。

 

私は実は、このような複雑な事態に陥っているのです。

でも、批評って、そういうものでしょう?

 

このように、「言葉」や「意味」、それらが作り出す「理論」は矛盾に満ちたものですが、そのことがわかっていないと、その時代の「内部」に閉じこめられてしまいます。

そこから活路を見出そうとしたのが、前回取り上げた柄谷行人さん、クリプキさん、ウィトゲンシュタインさんたちなのです。

次回、もう少し彼らが言っていることに、より具体的に耳を傾けてみたいと思います。

たぶん、ずいぶんと理屈っぽい話になりますが、ここまでの事情が分かっていただけると、どうしてそのような理屈っぽい話が必要なのか、おぼろげにわかっていただけたと思います。

そして、その結論は今回、すでに書いた通り、「『意味』よりも大事なことが在る」ということです。ですから、安心して読んでいただけると幸いです。

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