平らな深み、緩やかな時間

407.田中一村と日本の絵画、ノーベル文学賞について

スウェーデンのストックホルムにある選考委員会は日本時間の10月10日午後8時すぎ、2024年のノーベル文学賞の受賞者に、韓国の現代文学を代表する作家のハン・ガン(韓江)氏を選んだと発表しました。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2024/literature/article_01.html

 

ふだん、小説をほとんど読まない私ですが、このニュースを見て、さっそくハン・ガンさんの『すべての、白いものたちの』を読んでみました。小説というよりも散文詩のような作品で、文章の美しさと悲しさと、内容の密度の濃さにびっくりしました。無駄のない文体で、読もうと思えば30分ほどで読めてしまいますが、とにかく素晴らしい作品です。

ノーベル文学賞は韓国で初めてであるとか、アジアの女性の受賞は初めてであるとか、いろいろなことが言われていますが、ここで彼女のことを論じるには、もう少し作品を読んでからにします。

それはひとまず置いておいて、私は今日の朝日新聞の記事に注目しました。翻訳家の斎藤真理子さんが寄稿した記事です。その結びは次のような文章でした。

 

各地で戦争が激化し、毎日遺体が運ばれてくるのに何を祝うのかとハン・ガンは言い、記者会見を固辞したそうだ。ガザのジェノサイドは、今すぐにもやめられるはずのものである。

<中略>

無念さが、今日も現在進行形で反復されている。

ハン・ガンの意思表明に同意する人は多いだろう。と同時に、アジア人女性初の受賞を喜ぶ私たちの気持ちを作家が受け止めてくれていることも、間違いない。だから、おめでとうを言った後、それぞれのやり方で、この世の最も残酷な場所へ心を寄せたいと思う。静かに本を読みながら。

https://www.asahi.com/articles/DA3S16060522.html

 

これを読むと、今を生きる作家は社会状況と無縁ではないなあ、と当たり前のことを思い、私もハン・ガンさんの意思表明に共感してしまいました。

ノーベル文学賞は、優れた文学作品に贈られた賞だから、政治や社会に引き寄せて考えすぎてはいけないなあと思いつつ、それでも無知な私は、たびたびこの賞によって、文学的にも社会的にも意義ある芸術活動をしていた作家について、新たに知ることになったのです。

例えば、いまではコミック作品としても日本でよく知られている『戦争は女の顔をしていない』を書いたスヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチ(Svetlana Alexandrovna Alexievich, Svyatlana Alyaksandrawna Alyeksiyevich、1948 - )さんですが、彼女のことを知ったのも、2015年のノーベル文学賞受賞がきっかけでした。実際に私が彼女の著書を読んだのは、そのかなり後のことでしたが・・・。

そして悲しいことに、その後のロシアのウクライナ侵攻によって、彼女の発言がますます世界的に注目されることになったのです。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB0637X0W2A300C2000000/

 

芸術作品も、人間社会に存在する以上、社会情勢と無縁ではありえません。とくにハン・ガンさんやアレクシエーヴィッチさんは、現代社会における女性の痛みに寄り添った仕事をしてきただけに、同時代の戦争の痛みにも敏感であり続けるのでしょう。

私が主に興味を持っている美術作品の多くは、直接的にそのときの社会情勢に関わるものではありません。しかし、表現者の感性がヴィヴィッドであればあるほど、やはりその時代の社会状況を反映してしまいます。今回取り上げる田中一村さんも、どちらかといえば社会の趨勢に背を向けて、自分の芸術を一人で追求した人です。しかしそれでも、あるいはそれだけに、彼はその時代の日本の状況に深くコミットしてしまったのではないか、と私は考えています。

今回は、そんな視点から一村さんについて書いてみます。

 

 

さて、私は田中一村(たなか いっそん/1908-1977)さんの展覧会を見に行きました。『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』(Tanaka Isson: Light and Soul)という展覧会です。東京都美術館で2024年9月19日(木)から12月1日(日)までの期間で開催されています。

展覧会の紹介文を書き写しておきましょう。

 

本展は、一村の神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、その全貌をご紹介する大回顧展です。

世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるものでした。

自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです。

本展は、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅する決定版であり、近年発見された資料を多数含む構成により、この稀にみる画家の真髄に迫り、「生きる糧」としての芸術の深みにふれていただこうとする試みです。

https://www.tobikan.jp/exhibition/2024_issontanaka.html

 

田中一村さんは日本画の大御所、東山魁夷(ひがしやま かいい、1908 - 1999)さんと同じ歳ですね。明治41年の生まれです。一村さんは、すぐに退学してしまいますが、二人は東京美術学校の同級生だったようです。東山魁夷さんが日本を代表する画家として有名になったのに対し、一村さんは晩年に奄美大島に渡り、一人で黙々と絵を描いた人です。

ただし、「世俗的な栄達とは無縁」と紹介文に書かれていますが、それは幼い頃から優秀であった画家にしては、ということだと思います。大きな展覧会では落選をしたものの、注文されて描いた絵もたくさんあったようですし、その成功や人とのしがらみを振り払って、あえて奄美大島での孤独な環境を求めたのだと思います。

一村さんの展覧会はこれまでも開かれていますし、私もたぶん、二回ぐらい見ていると思います。そんな中で今回の展覧会は、とりわけ大規模な展示でした。そして、これまであまり展示されてこなかった幼少時の作品や、新発見の作品が数多く展示されていましたが、やはり奄美大島で描かれた晩年の作品に注目が集まっていたように思います。

しかし私は、一村さんの晩年の作品に関しては、学生時代に見てずいぶんと感心した覚えがあるので、今回はそれほど驚きませんでした。それよりも私が魅かれたのは、一村さんの中期のころの作品、今回の展示で言えば「第1章 若き南画家『田中米邨』 東京時代」の終り頃から「第2章 千葉時代 『一村』誕生」の真ん中あたりまでの作品でした。その一例が見られる画像のリンクを探しました。

 

次のリンクの四番目の作品が「秋色」です。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000523.000018219.html

 

次のリンクに「白い花」と「四季花譜図」があります。

https://note.com/momidiba/n/nbaef4f263eb4

 

「白い花」は展覧会の公式サイトでも見ることができます。

https://isson2024.exhn.jp/exhibition/

 

最後の公式サイトのページから、この時期の一村さんを説明した文章を抜粋すると、次のようになります。一村さんにとって社会的に恵まれた時期ではありませんでしたが、「南画」や大規模な「展覧会」といった様式や制約から離れて、無心で絵を描く一村さんの姿が目に浮かぶ内容となっています。

 

家族の不幸が重なり、何度も転居し苦心しながらも米邨は、社会や画壇の状況をにらみ方向性を探っていました。従来は、後年の手紙に綴っていた通り「23歳の頃、自分が本道と信じた新画風が支援者の賛同を得られず義絶した」ため、「南画と訣別」した「寡作で空白の時期」とみられていましたが、言葉通りの断絶ではなく新しい関心で描き続けた新展開がわかってきました。

(「第1章 若き南画家『田中米邨』東京時代」より)

 

27歳で父も亡くした一村は、昭和13年(1938)、30歳の時、親戚を頼り千葉市千葉寺町へ移りました。畑で農作業をし、内職をしながらも、周囲との繋がりや支えを得て、絵で生きる暮らしが貫かれました。身近な小景画、デザイン的な仕事や木彫、仏画、節句掛や季節の掛物などからは、展覧会への出品作とは違う、画家の生業というものが具体的に伝わってきます。目に見える相手に向けて丁寧に手がけた一点一点は思い出とともに大切に残され、よく見直せばその時々の画家の画風や志向などを読み取ることができる貴重な資料です。

(「第2章 千葉時代 『一村』誕生」)

 

さて、ここに「南画と訣別」という言葉がありますね。

皆さんは「南画」とは何かご存じですか?

これが「南画」だ、というわかりやすい解説はないのですが、つぎの兵庫県立美術館の「南画」に関するQ&Aを読むと、たんに「南画」という言葉の理解を越えた、興味深い事実がわかります。ところどころ抜粋しながら、まとめてみます。

 

「南画」とは、中国の元・明の絵画に影響を受け日本で18世紀半ば(江戸時代後期)におこった一つの画派をいいます。「南画」という言葉は、中国絵画のひとつ、南宗画(なんしゅうが)に由来し、その略語とされています。南宗画とは明時代に生まれた言葉で中国・江南地方の平坦な地形と温暖な気候風土のもとに生まれた山水画をいいます。これに対し、北宗画(ほくしゅうが)というものがあり、これは中国・華北地方の険しい山岳や岩山を硬い輪郭線で描いた峻厳な山水画を指しています。日本の画家たちが主にならったのが南宗画であったため、その略として南画という言葉が生まれたといわれていますが、実際にその言葉が使われ出したのは江戸末期ごろからのようです。江戸末期に読書人口が著しく拡大し、文人の大衆化という現象がおき、それにともない、南画は知識人の教養のひとつとして愛好されました。技術よりも人格を重視する南画の考え方により、素人でも容易に描けるということも普及の一因であり、幕末から明治にかけて南画は大変流行しました。

ところが、明治15年、近代日本画の育成に尽力したアメリカ人、フェノロサは美術に関する講演の中で、南画を批判しました。しかし、明治末から大正にかけて南画を再評価する動きが現れました。日本画の革新に燃えていた当時の若き日本画家たちが西洋の後期印象派などの表現に着目する一方で、南画に目をむけるようになります。というのは、作家の精神(内面)を重視するという南画の考え方を当時のヨーロッパにおける絵画の非写実的傾向(=表現主義の絵画)と重ねあわせようとしたのです。

https://www.artm.pref.hyogo.jp/2002-2008old/exhibition/t_0804/faq.html

 

一村さんが生まれたのが明治時代の末頃ですから、「南画」がフェノロサさんによって批判され、それが再評価された、という流れの後のことです。ちなみにアーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853 - 1908)さんは、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で明治時代に来日した「お雇い外国人」です。日本美術を評価し、海外への紹介に努めたことで知られていますが、フェノロサさん自身の業績、その仕事が及ぼした日本美術への影響などについては、評価が分かれるところでしょう。

それはともかく、一村さんは「南画」を幼い時期から学び、東京美術学校を退学した頃には、若き「南画家」として活躍していたのです。一村さんが東山魁夷さんと同級生であったことは前に書きましたが、それにしては一村さんの方が年上の画家のように私には感じられるのですが、それは一村さんが東山さんよりも「南画」の伝統に根ざした作品を多く残していたからでしょう。

このように、一村さんの生涯は「南画」という様式と深くかかわっていたのです。彼が「南画」と距離をとり、比較的自由に絵を描いたのは、先ほど私がお示しした東京から千葉へといたる若い頃と、奄美大島で過ごした晩年の頃だったのだと思います。そして、この二つの時期の作風には、かなりの相違があります。

一村さんの芸術の集大成だと位置づけられている晩年について、先の公式サイトでは次のように解説しています。

 

自らの覚悟の甘さを認識することになった一村は、昭和36年(1961)、不退転の決意で再び奄美へ戻ると、紬工場で染色工として働いて制作費を蓄えたら絵画に専念するという計画を立て、借家に移って切り詰めた生活を実践しました。連作の構想をたてて構図等の配分を考え、写生は対象により肉薄したものとなり、画材は綿密に計算のうえ東京の専門店から調達しました。昭和40年(1965)には生涯の理解者川村幾三氏や姉が逝去。そして5年間勤めた工場を辞めて、昭和42年(1967)から45年(1970)までの3年間、制作に没頭します。この間に《アダンの海辺》をはじめとして奄美に於ける主要な作品の多くが描かれたとみられます。それは誰のためでもなく自分の良心だけをとことん突き詰めた制作で、一村はついにそれを自らの力で実現したのです。

(「第3章 己の道 奄美へ」)

 

この中で、作品に関わって気になる部分は「連作の構想をたてて構図等の配分を考え、写生は対象により肉薄したものとなり、画材は綿密に計算のうえ東京の専門店から調達しました」という一文でしょう。一村さんは、構想を立ててから作品を完成するまで、いろいろと計算するようになったのです。これは、展示の最後の方にあった未完成の作品からも、その制作方法が伺えます。緻密な鉛筆による下描きの上から、色の重ね描きを考えて、まずは下地になる色からていねいに塗っているのです。

私は日本画の制作について確かなことは言えませんが、これは現代的な日本画の制作の方法に近いものではないでしょうか?即興性や筆の勢いや筆致を重んじる「南画」の伝統から自由になった一村さんは、緻密に構想を練ってそれを実現する現代的な画家へと変貌したのです。

それは、一村さんにとって必要な変化だったのだと思いますが、私にはそのことによって失われてしまったものがあったと思います。それは、一村さんが高度に身につけていた即興性と、筆によるやわらかなデッサン力です。硬質な鉛筆によるデッサンもときに魅力的で、例えば一村さんの晩年のエビのデッサンなど、鋭くて硬い線が本当に素晴らしいですが、その一方で、鳥の羽毛や柔らかな植物の葉の表現など、かつての一村さんにあった生き生きとした表現が、やや硬直したものに見えてしまうのも否めないのです。

しかし「南画」や「文人画」といった、古い東洋的な伝統に束縛されたくない、という一村さんの指向性もわかります。私は、「南画」の様式にとらわれず、なおかつ、それまでの一村さんの技術や才能が生かされた作品として、先程から指摘している東京から千葉へと至る若い頃の作品に注目したのです。

 

先に三点の作品を例示しましたが、その画像を見て皆さんはどのように思われるでしょうか?

実物を見ると、簡略な筆致で的確に対象を捉え、その草木の硬さ、柔らかさ、微妙な色調の変化などを色の滲みを巧みに使い分けて描写するテクニックが、素晴らしいと思いました。確かに、そこには晩年の作品に見られるような、奄美の自然の素晴らしさを余す所なく表現しよう、というような雄大な構想は見られません。若い時期に自分の行くすえを逡巡していた頃ですから、その身の丈に合った表現となっているのでしょう。しかし、私にはその時期に一村さんがキラリと見せた才能に、舌を巻いてしまうのです。

展覧会場でいうと、最初のフロアから次のフロアへと移るあたりにそれらの作品が展示されていて、作品数が多いだけにうっかりと見ていると、見過ごしてしまいます。また、その時期に一村さんは「南画」を再び学び直そうとも考えたようで、そういう作品とも混ざり合って展示されているのです。おそらくは、日本の絵画は西欧絵画にない多くの可能性を秘めていたのですが、一村さんのような破格の才能を受け止める受け皿がなかったのだと思います。それが一村さんの逡巡となり、もしかしたら一時的に理想的な表現を手にしていたのにもかかわらず、それを十分に展開することなく、一村さんは構想的な作品へと突き進んでいったのです。

 

これは私の私的な評価ですから、おそらく一村さんの研究者の方たちから見れば、メチャクチャなものだと思われるでしょう。しかし、若い時期の評価についてはともかくとして、一村さんが日本の絵画表現の困難さと対峙し、その中で自分なりの答えを見出そうとした画家だったことは確かだと思います。

そして一村さんの才能を受け止める様式を持たなかった日本画の状況は、ある意味では現在でも、多くの画家たちに当てはまるのではないでしょうか?そういう観点から一村さんを、あるいは日本の絵画の歴史を見直すなら、一村さんの絵画を「自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです」といった情緒的な文言で結んでしまうのは、あまりにもったいないです。一村さんの抱えた課題を、現代に続くアクティブな問題として捉え直すことが可能なのだと私は思います。

 

ここでは、これ以上の考察を加えるだけの用意が私の中にはありませんが、私がこのように思うのは、例えば美術史家の高階秀爾(たかしなしゅうじ、1932― )さんが著した『日本近代美術史論』の中の「高橋由一」の中に、次のような文章があるからです。

これは江戸末期から明治時代を生きた洋画家、高橋 由一(たかはし ゆいち、1828 - 1894)さんの「花魁(おいらん)」について、高階さんが書いた文章です。

 

しかも、由一の「花魁」の前で感じた新鮮な感動のなかには、例えばロマネスクの教会堂やルネッサンスの名作に接した時に受ける感動とは、どこか微妙な点で食い違うものがあるように思われた。少なくともヨーロッパにおいては、「花魁」を前にして私が覚えたような苛立たしさに似た感じ、一種の違和感とも言うべきものをほとんど感じたことはなかった。

その違和感というのは、単に自分にとって馴染が薄いという感じとは違うものである。西欧の芸術作品のなかにも、自分にとってきわめて身近なものという共感を与えてくれるものもあれば、どうしても自分には馴染みのないという縁遠い存在もある。しかしいずれの場合にせよ、作品に強い印象を受けた時、その印象がいかに思いがけないものであっても、私はほとんどつねに納得させられた。ヴェズレーの教会堂においても、システィナ礼拝堂においても、私があらかじめ自分のなかに作り上げていたイメージは見事に崩壊させられてしまったが、しかし私は、その驚きを自分で受け入れることができた。だが由一の「花魁」の場合はそうではなかった。私は納得させられなかったのである。ヴェズレーやローマにおいて私の感じた感動が、「なるほど、そうだったのか」という驚きをともなっていたとすれば、「花魁」から受けた感動のなかには「いや、そんなはずはない」という違和感が、拭い去り難くつきまとっていたのである。

(『日本近代美術史論』「高橋由一」高階秀爾)

 

ちなみに、「花魁」は次の作品です。

https://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=4124

 

高階さんは、「花魁」について感じた違和感から、日本が西欧の近代とどのように向き合ったのか、という普遍的な問題にまで考察を進めたのです。この興味深い論考について知りたい方は、『日本近代美術史論』を手にとって読んでください。西洋美術の親切な案内人の役割を果たした高階さんが、実は私たちにとって切実な問題を取り上げて、それと真摯に向き合った研究者であったことがよくわかります。

話は脱線しますが、少し前に、高階さんが昔書いた新書が、改めて話題になっていたことがありました。実は私も中学生の頃(たぶん)に、高階さんの本を読んで、はじめて本格的な西洋美術に触れたのです。

その話は、いずれまた書きます。その前に、その新書を読み直さなくてはなりませんね。

 

さて、話がそれました。

 

ということで、できれば多くの方に、一村さんのこの展覧会を見ていただきたいと思います。もちろん、一村さんの自然の表現に堪能しても良いし、その絵画の才能に圧倒されても良いと思います。でも、例えばピッタリの服を見つけることができずに一生涯逡巡した表現者として一村さんを見てみると、社会状況と芸術家との関わりについて普遍的な課題を私たちに残した人として捉えることが可能だと私は思います。それは、高階さんが言うような、一つの作品への違和感から始まるのかもしれません。

そしてそう考えると、たとえ一村さんの絵画に興味があってもなくても、やはり一見する価値のある展覧会だということがわかっていただけると思うのです。

 

もしもあなたが、一村さんの作品に圧倒されつつも、何かすっきりとしないものを感じたとしたら、そのことについて、ぜひ少しだけ深く考えてみてください。

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