平らな深み、緩やかな時間

238.川上未映子『ヘブン』、与謝蕪村について②

友人からのすすめで川上未映子さんの『ヘブン』を読みました。

この小説は2022年「ブッカー国際賞」最終候補作に残っているということです。ふだん小説はあまり読むことのない私ですが、緊張感のみなぎる作品で、一気に読んでしまいました。それで、ちょっとした私見を述べてみます。

これをいじめをテーマにした小説だと思って読むと、教師の存在感が希薄なことに焦燥感を覚えてしまいます。そもそも教師というのは、こういう緊急事態のときに相談相手になりえないというのが、一般の人の感覚なのでしょうか。たしかに「いじめ」に関してマスコミに報道された教育機関の対応を見ると、自分たちの地域には「いじめ」などなかったことにしようという思惑が透けて見えます。そしてその圧力に対して現場の教師が無力であり、またそんな問題意識も持ちあわせていないように見えてしまいます。しかし、多くの教師が子どもたちの苦しみに対して心を痛め、何かをしようとしていることをもっと知っていただきたいと思います。

そんな常識的な、あるいは現実的な話ではなくて、人間の存在意義そのものを問う小説なのだと思うと、二人の主人公をギリギリまで追い詰める展開がドストエフスキー( Фёдор Миха́йлович Достое́вский、1821 - 1881)の小説の方法とも似ている気がして、読み応えがあります。

そしてその主人公の一人である女の子が、人間社会においては常に底辺に置かれる存在が必要とされており、いまの自分たち(主人公二人)がそういう存在なのだ、だから仮に自分がそこから逃れても、代わりの誰かがそこにあてがわれてしまう、と考えているのです。現実にそんな子がいるのかなあ、などと思わずに、とりあえず読み進めていきましょう。その生徒は、だから自分は意志を持って底辺に居残って受苦を受け続けるという、極端思想を持つのです。私たちは、そうじゃないよ、とその生徒に言ってあげたいのですが、だからと言って彼女の考え方を明確に否定できるだけの論理を持ち得ているのだろうか、と考えると心もとなくなります。

卑近なことで言えば、そもそも私自身がなにをやってもうまくいかない人間であり、子供の頃から今に至るまで、ずっと底辺にいるような存在です。そんな自分だって社会から必要とされている、だから生きる価値があるのだ、と思い込むためには、この主人公のような論理が必要なのかもしれません。

あるいは世界全体を見渡せば、先進国と言われる国の人たちが、発展途上国と言われる国の人たちを犠牲にすることで、現状の生活を維持しています。この小説の主人公たちが被っている「いじめ」は、発展途上国の人たちの苦しみを象徴しているのかもしれません。

この絶望的なヒエラルキーの概念が隅々まで行き渡った世界を、私たちは何とか変えなくてはなりません。自分自身がヒエラルキーのトップを目指すのではなくて、底辺が底辺でなくなるような社会にしなくてはならないのです。多くの政治家は、そんなことを言っていると日本は発展途上国のようになってしまう、お前たちにそんな覚悟はあるのか、と脅迫じみたことを言い、実際にそういう議員の集まる政党が勢力を伸ばしているようです。しかし、そのような論理のすり替えをしている間に、世界は不幸な方向へと向かっていって、取り返しのつかない事態になるのではないかと心配です。

そしてこの小説は、劇的な展開でクライマックスを迎えます。そのことについては、ここでは書きません。ぜひ小説を読んでください。そして小説のなかでその結末後の状況が具体的には書かれてはいないのですが、その解釈は私たち一人ひとりに委ねられているのだと思います。

この小説が海外でも広く読まれていて、大きな賞の候補になっているのは、小説に描かれている主人公たちの苦しみが切実なものであり、それと同時に普遍的なものでもあるからでしょう。それと小説の技術的なことは、私にはわかりませんが、この読みやすさはただごとではありません。過不足なく主人公の置かれた状況や心情をこちらに伝える手腕が、素晴らしいと思います。川上未映子さんは歌手でもあり、詩人でもある方のようですので、言葉に関する感性がとりわけ鋭いのでしょう。

この後、話題にする蕪村もそうですが、表現することに関して開かれた感性を持っていると、その特性が作品にあらわれるものなのかもしれません、うらやましいです。

 

さて、ということで与謝 蕪村(1716 - 1784)についての2回目です。前回は導入として、研究者の藤田真一さんの蕪村に関する説明を引用しました。そこに書かれている通り、蕪村は絵画、俳句ともに生前から人気のあった作家でした。その蕪村を近代文学の眼差しで再発見したのが、俳人の正岡 子規(まさおか しき、1867 - 1902)だったそうです。子規は蕪村の再発見について、次のように書いています。

 

蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村歿後に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。

(『俳人 蕪村』「緒言」正岡子規)

 

正岡子規が言うには、蕪村の名前は画家として知られているけれども、俳人としては今ひとつであった。これは蕪村の生前とは逆である、ということのようです。しかし子規は蕪村の非凡さを認め、尊敬する、と書いています。

さらにその再評価の事情について、子規よりも20歳ほど年下の詩人、萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886 - 1942)は、こんなふうに書いています。

 

蕪村は不遇の詩人であった。彼はその生存した時代において、ほとんど全く認められず、空しく窮乏の中に死んでしまった。今日僕らは、既に忘れられて名も知れなくなってしまった当時の卑俗俳諧の宗匠たちが、俳人番附の第一席に名を大書し、天下に高名を謳われている時、僅かその末席に細字で書かれ、漸く二流以下の俳人として、影薄く存在していた蕪村について考える時、人間の史的評価や名声やが、如何に頼りなく当にならないかを、真に痛切に感ずるのである。すべての天才は不遇でない。ただ純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である。殊に就中蕪村の如く、文化が彼の芸術と逆流しているところの、一の「悪しき時代」に生れた者は、特に救いがたく不遇である。

  蕪村の価値が、初めて正しく評価され、その俳句が再批判されたのは、彼の死後百数十年を経た後世、最近明治になってからのことであった。明治以後、彼の最初の発見者たる正岡子規、及びその門下生たる根岸派の俳人に継ぎ、殆んどすべての文壇者らが、こぞって皆蕪村の研究に関心した。蕪村研究の盛んなことは、芭蕉研究と共に、今日において一種の流行観をさえ呈している。そして世の定評は、芭蕉と共に蕪村を二大俳聖と称するのである。

(『郷愁の詩人 与謝蕪村』「蕪村の俳句について」萩原朔太郎)

 

現代語で書かれているせいもありますが、子規の文章よりもわかりやすく、かつロマンチックです。蕪村を「不遇の詩人」として位置づけ、その死後100年が過ぎてから、正しい評価がなされたというのです。「純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である」という朔太郎の思い込みが、ちょっと微笑ましいです。前回、辿ってみた蕪村の穏やかな人生とはだいぶ様相が異なりますが、そこはあまり気持ちをひっぱられないようにしましょう。私が朔太郎の解釈を読んで面白いと思ったのはこの後です。

子規は、蕪村のどういうところを再評価したのか、そしてその評価は妥当なのか、という点について朔太郎は次のように書いています。

 

しかしながら多くの人は、蕪村について真の研究を忘れている。人々の蕪村について、批判し定評するところのものは、かつて子規一派の俳人らが、その独自の文学観から鑑賞批判したところを、無批判に伝授している以外、さらに一歩も出ていないのである。そしてこれが、今日蕪村について言われる一般の「定評」なのである。試みにその「定評」の内容をあげて見よう。蕪村の俳句の特色として、人々の一様に言うところは、およそ次のような条々である。

 一、写生主義的、印象主義的であること。

 一、芭蕉の本然的なのに対し、技巧主義的であること。

 一、芭蕉は人生派の詩人であり、蕪村は叙景派の詩人である。

 一、芭蕉は主観的の俳人であり、蕪村は客観的の俳人である。

 「印象的」「技巧的」「主知的」「絵画的」ということは、すべて客観主義的芸術の特色である。それ故に以上の定評を概括すれば、要するに蕪村の特色は「客観的」だということになる。そしてこれが、芭蕉の「主観的」に対比して考えられているのである。

  ところで芸術における「主観的」「客観的」もしくは「主情主義的」「主知主義的」ということは、本来何を意味するものだろうか。これについて自分は、旧著『詩の原理』に詳しい解説を述べておいた。約言すれば、すべての客観主義的芸術とは、智慧を止揚したところの主観表現に外ならない。およそ如何なる世界においても、主観のない芸術というものは存在しない。ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式がちがうのである。それ故に本来言えば、単なる「叙景詩」とか「叙景派の詩」なんていうものは実在しない。もしあるとすればナンセンスであり、似而非の駄文学にすぎないのだ。いわんや俳句のような抒情詩――俳句は抒情詩の一種であり、しかもその純粋の形式である。――において、主観は常にポエジイの本質となっているのである。俳句のような文学において、主観が稀薄であるとすれば、そのポエジイは無価値であり、その作家は「精神に詩を持たない」似而非詩人である。

(『郷愁の詩人 与謝蕪村』「蕪村の俳句について」萩原朔太郎)

 

ちょっと長くなりましたが、朔太郎の言葉の意味を正しく理解するためには、その説明が必要でした。朔太郎は、芭蕉を主観の人、蕪村を客観の人というふうに単純に割り切ることに反対します。たしかに蕪村の俳句は芭蕉に比べて客観主義的な傾向があるけれども、彼の俳句に主観がないわけではない、と盛んに言っているのです。なぜ、彼がそう言わなければならないのかといえば、客観=技巧というイメージの連鎖があって、例えばこの後の部分で、朔太郎が芥川龍之介と話した時に、芥川が蕪村は技巧的だから嫌いだ、と言ったのだそうで、その例から蕪村=客観という図式的な理解は危ういのだ、と彼は言いたいのです。

 

さて、私たちは前回の学習で、蕪村の俳句が写生的に見えて、実は人間の心情を深く表現するものであることを見てきました。

「春風や堤長うして家遠し」

それと関連して、この句の「遠し」という単純な言葉には、幾重にも意味が重なっていることも学習しました。このようなさりげない技巧が、蕪村を叙景の人であると同時に叙情の人であることを可能にしているのでしょう。この蕪村の俳句の複雑な見え方が、そのまま彼の再評価の経緯につながっている点が興味深いのです。

はじめに蕪村の俳句を客観的な写生だと思って再評価したのが正岡子規でした。それを技巧的だと思って否定したのが芥川龍之介でした。そして、イヤイヤそうではない、詩とは大いなる主観の芸術であって、その中に主観的と客観的という傾向があるだけだ、と主張し、蕪村を近代詩人の目で評価したのが朔太郎でした。

現代の研究者の藤田真一さんに言わせれば、朔太郎は蕪村の句に「日本近代詩のこころ、それどころか、かれがあこがれた西欧の詩に通じる情操を見つけたのだ」ということになります。そして藤田さん自身は、古典詩歌としての蕪村の核心に迫りたい、と考えているのです。このように、芸術の受容の形とその解釈というのは本当にいろいろとあって、そのことについて考える上でも、ここまでの話はなかなか興味深いものです。

 

そしてここからは前回からの宿題になりますが、例えば藤田さんはあの有名な蕪村の一句について、どのような解釈をするのでしょうか?岩波新書の『蕪村』から引用してみましょう。

 

かつてわたしたちは、この花とごく近しかった。春たけなわのころ、都市の近郊で、また野山のあちこちで、まっ黄色に染まった絨毯の花畑を目にすることができた。唱歌「朧月夜」にうたわれる光景は、目前にひろがる親しい世界であった。けれどもいまや、この光景はほぼ幻影のなかのものとなり、唱歌も往古(いにしえ)をなつかしむよすがでしかない。

蕪村のこの句も、そんななつかしい景色をよみがえらせてくれるものだ。

 

菜の花や月は東に日は西に

 

十七音というコンパクトな箱のなかに、これだけの大景が納めうるものかと、まず驚嘆させられる。ひとを魅了する声調とおおらかさをそなえた句であることはまちがいない。

ただ、この日月の対照的表現が、蕪村の独創ではなかったことに注意する必要がある。背景のひとつには、陶淵明の「白日西阿(せいあ=西の山)にしずみ、素月東嶺より出づ。遥遥たる万里の輝き、蕩蕩たる空中の景」(「雑詩」)という詩がある。日月の対照性だけでなく、景の大きさの点でも、蕪村に比すべき位を持っている。陶淵明の詩集は座右の書としていたくらいだから、これが蕪村に影響をおよぼしたことは、じゅうぶんに考えられる。同時に、李白の「日は西に月は復(また)東」(「古風」)という詩句との共通性を考慮しても良い。

(『蕪村』「翔けめぐる創意」藤田真一)

 

単純な叙景詩のように見えながら、実は中国の古典、陶 淵明(とう えんめい、365 - 427)や李白(りはく、701 - 762)を参照したものではないか、という解釈です。たしかに、この短い言葉の中に広大な世界を収めるには、先達からの知恵の継承がないとできない技なのかもしれません。

しかし、この句のおおらかさを見れば、それが技巧的である、などという指摘はまったくあたりません。むしろ、芸術というものはこのように影響を受け、継承されていくものなのか、と感嘆してしまいます。私たちの現代絵画も、先達の上っ面だけの真似事ではなくて、このように核心をつらぬいた影響関係でありたいものです。

 

ところで、前回の終わりに少し触れたことですが、このように漢詩の古典を日本語の俳諧に生かしてしまうような、そんな時代や様式を超えた大きな視点が蕪村にあったようです。そして絵画においても、蕪村はきわめて自由な発想を持っていて、さまざまな技法を絵の主題に応じて駆使したようです。この蕪村の自由な姿勢は、硬直した現代絵画の世界において、いまこそ参照すべき事例なのかもしれない、と私は考えました。今回、蕪村の文と絵に触れてみて、そんな予感がしているのです。

にわか勉強なので、深く語るにはもう少し時間が必要ですが、それを承知でもう少しお付き合いください。

例えば同時代の伊藤 若冲(1716 - 1800)が奇想の画家というカテゴリーも手伝って、近年注目されていることは、前回もご紹介しました。私も若冲の絵画に魅了された一人ですが、どうして若冲の絵は、若い私の目にすーっと入り込んだのか、そしてどうしてその当時、若冲ほどには蕪村に興味が持てなかったのか、と少し考えてみました。

若冲の絵画は一見、破天荒に見えますが、その描写には統一感があります。細部にこだわりがあり、画面全体を眺めても、近づいて見ても、いずれも魅力的な視野が広がっているのです。それは現代美術の、例えばジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)のダイナミックでかつ繊細な画面とも共通しているのかもしれません。

一方の蕪村の絵画は、若冲ほどにはシステマティックではありません。描き方も絵によって変わりますし、細部表現の魅力的なところと、広い空白の空間との差が大きいように思います。緩急のリズムが単純でないというか、とにかく絵が目の中に染み込んでくるためには、緩やかな時間が必要なのです。

私はいま、現代美術の息苦しさを脱するためには、まさに蕪村のような大らかさ、緩急の複雑さ、それでいて見る者を包み込むような広い空間が必要なのではないか、と考えています。例えば次の『山野行楽図』を見てください。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100316&content_part_id=001&content_pict_id=008&langId=ja&webView=null

柔らかな筆致の中には、もちろん、学習を重ねた上での様式化が見られますが、それがとても柔らかくて、人物や馬の形などかなり自由に描かれているように見えます。様式的というよりは、ヘタウマの絵画に似て見えるかもしれません。また、周囲の草むらのタッチも柔らかくて、このようなモワッとした草むらの表現は、蕪村独特のものではないかと思います。禅宗の流れをくむ水墨画では全体に力強さを強調する傾向があるのですが、蕪村の絵画はそれよりもソフトな広がりを重視しているように見えます。こういうタイプの絵はなかなか見ないのですが、強いて言えばフランスの近代画家、ナヴィ派のボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)の絵が似ているのかもしれません。

https://www.momat.go.jp/am/exhibition/pierrebonnard2022/

 

それに加えて、「菜の花」の句で見たように、蕪村の芸術は伝統との向き合い方についても有効な示唆を与えてくれています。シンプルな言葉の芸術である俳句の世界に、複雑で高度な規則を持つ漢詩を取り入れるとするなら、どのような方法がありえるのでしょうか?どうやら蕪村の俳句は、その方法を示唆しているようなのです。これはまるで、現代絵画のことばかり考えている私たちに、古典絵画に背を向けていてはもったいないぞ、と教えてくれているようではありませんか?

現代と古典を短絡的に結びつけるのではなく、その核心となる部分を自由に応用できたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。蕪村の自由な精神は、そのことを指し示しているのかもしれません。

このように蕪村の芸術には、まだまだ新たな芸術を示唆する可能性があります。それなのに、私はあまりにも無知で、恥ずかしいばかりです。ですから、これからも少しずつ勉強していって、これは!と思うことがあれば、またご報告したいと思います。

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