平らな深み、緩やかな時間

331.『マティス展』について

東京都美術館で『マティス展』が開催されています。

https://matisse2023.exhibit.jp/

 

アンリ・マティス(※「マチス」という表記もあります、 Henri Matisse, 1869 - 1954)さんは、フランスの画家です。スペインのピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)さんと並び称される現代絵画の巨匠です。しかし、美術関係者ならともかく、一般の方々にはマティスという名前はなじみが薄いかもしれません。マティスさんは、ピカソさんのように若い頃から天才と呼ばれて将来を嘱望されたわけではありませんし、青の時代からキュビズムまでのドラマチックな画風の変遷があるわけでもありません。また、反戦のメッセージをこめたピカソさんの『ゲルニカ』のような、社会的に話題になるようなわかりやすい大作があるわけでもありません。マティスさんは「安楽椅子のような」作品を作りたい、と言っていましたが、そういう明るさは日本人には、というか日本の美術ジャーナリズムにはいまひとつ響かなかったのかもしれません。

しかし、マティスさんが追い求めた絵画の平面性は、例えばアメリカのカラー・フィールド・ペインティングに直接的な影響を及ぼすなど、ある意味ではピカソさんよりも現代絵画に与えた影響は大きいとも言えます。ミニマル・アートが求めた平面性も、マティスさんの絵画から学んだことが多かったと思います。

そして私事になりますが、私は美大生の頃にマティスさんの画集を毎日のように見続けました。私はピカソさんよりも、圧倒的にマティスさんとボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)さんの影響を受けました。そのことについて触れる前に、今日再放送される素晴らしいテレビ番組についてお知らせしておきます。次の記載とリンクのページをご覧ください。

 

『果てしなき絶景 マティスの旅』

NHK BSP 初回放送日: 2023年7月29日

再放送日:8月6日(日) 午前10:30 〜 午後0:00

人はなぜ旅に出るのか。20世紀を代表する画家アンリ・マティスは、旅を愛し、絶景と出会うたびに、画風を一変させた。画家が見た絶景の数々を圧倒的な映像美で体感する。

https://www.nhk.jp/p/ts/P1PWGQ624M/

 

私は初回放送を見ました。今回の展覧会の作品と直接の関連はないのですが、マティスさんの作品の変遷が、マティスさんの旅とともに解き明かすという趣旨がわかりやすく、マティスさんのことをあまりご存知ない方も、よく知っている方も必見です。

そのマティスさんの生涯を、今回の『マティス展』のホームページから辿ってみましょう。

 

1章 フォーヴィスムに向かって 1895–1909

法律家になる道を捨て、画家になることを決心し修行をはじめたマティスは、パリ国立美術学校で象徴主義の画家ギュスターヴ・モローのアトリエに入り、伝統的な画法から離れ、新しい絵画の探求を始めます。

 

マティスさんはフランスの北部で生まれ、育ちました。そしてパリに出てギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826 - 1898)さんの指導を受けるのですが、初期のアカデミックな頃の絵の色彩は重厚で暗いものが多いです。先のNHK BSの番組によれば、これは北フランスの暗さによるものだそうです。

しかし、フォーヴィズムと呼ばれた頃の絵を見ると、色彩の明度、色相、彩度を自由自在に操っていて、マティスさんの画家としてのレベルの高さがよくわかります。この展覧会ではじめに飾られていた自画像も素晴らしいです。

 

2章 ラディカルな探求の時代 1914–1918

第一次世界大戦中、息子ふたりを含む周りの人間が徴兵されるなか、ひとり残されたマティスは、この状況に抵抗するかのように、画家の転機となるような革新的な造形上の実験を推し進めます。

 

この時期のマティスさんは、とにかく興味深いです。

この展覧会でも、最も見どころの多いパートだったと思います。しかし、上の「1章」とこの「2章」の間には、1909年から1914年の間にブランクがあります。そのことに注目してみましょう。

私は今回の『マティス展』には少し不満があるのですが、それはこの時期の作品が欠けていることによるものです。この時期に、マティスさんはモロッコを訪れます。そしてその土地の空の鮮やかさや建築の装飾、アラブ人の衣装などから影響を受けて、青を中心とした素晴らしい色彩表現を手にします。それにこの時期のマティスさんの色彩と形体表現の融合には、他の時期にはない魅力的なものがあります。その後のマティスさんは、キュビズムなどの現代美術の影響をより強く受けてしまいますが、マティスさんという画家の持ち味からすると、この時期と最晩年の頃がベストだったんじゃないか、と私は思います。

 

少し今回の『マティス展』から離れた話をします。

私は『テラスのゾラ』、『カスバの門』、『青い窓』などのこの時期のマティスさんの素晴らしい作品を実物で見ていたので、自分自身が現代絵画の表現の入り口に立った時に、真っ先にこの時期のマティスさんの作品を参照にしたのでした。NHK BSの番組の中でも『テラスのゾラ』と『カスバの門』を紹介していたように記憶しています。この旅によって、マティスさんの作品がグッと明るくなったのが実感できるのですが、これがこの番組の一つのハイライトだと思いました。

ですから次のリンクから、ぜひそれらの作品の画像を確認してください。

 

『Zorah on the Terrace』(1912)

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Zorah_on_the_Terrace

『Eentrance to the Kasbah』(1912)

https://www.henrimatisse.org/entrance-to-the-kasbah.jsp

『The Blue Window』(1913)

https://www.moma.org/collection/works/79350

 

画像で見ても美しい作品ですが、実物の作品はマティスさんの伸びやかな筆致と、彼が試行錯誤した結果出来上がった絵の具の重なりとが相まって、どこまでも広がっていきそうな画面になっているのです。特に青い色が魅力的です。こんなふうに、ゆったりと広がっていくような絵が描けたらいいなあ、と思った学生時代の私は、一枚の静物画を試みました。それが次の作品です。

 

『静物』石村実(1983)

https://www.ueno-mori.org/specials/2020/nandemonaihi/

*「作品解説」のページの○型に並んだ作品の上段左から八番目の作品が私の絵です。

この作品は、たまたま出品した展覧会で美術館に買い上げていただいて、今では「上野の森美術館」の所蔵作品となっています。マティスが一度描いたものを消したり、単純化したり、また描き足したり、という過程を経て制作していたことが、いくつかの記録として残っているのですが、私もその過程を参考にして描いてみました。結果的に我ながらよい作品ができたなあ、と思っています。

そして、この作品の画像がネット上で検索できるのは、実はこの作品が2020年の『なんでもない日ばんざい!』という展覧会に展示されたからです。この展覧会は新型コロナウイルスの感染が蔓延した時期に企画されたものです。

参考までに次の展覧会のデータをご覧ください。

 

『上野の森美術館所蔵作品展 なんでもない日ばんざい!』

会場:上野の森美術館

会期:2020年7月23日~ 8月30日

美術館のコメント:

当館では1983年からこれまで38回開催してきた上野の森美術館大賞展の受賞作品を多数所蔵しています。今回、このなかから 「なんでもない、どこにでもある日常」 をテーマに、いま、こういう時期だからこそ見てみたいと思う作品を約80点選びました。

 明るく楽しい気持ちにさせてくれるもの、おだやかな日常の情景、いつも変わらずそこにある街や自然、そして身近な人や風景からユニークな想像や思索を巡らせたものなどをグループにして構成します。

 

いかがでしょうか?上の文章の「こういう時期だからこそ見てみたい」というのは、先ほど書いたように、ウイルス感染の自粛の時期だからこそ、という学芸員の方の気持ちが表れているところです。私の作品が、このような展覧会に展示されたことを、本当に光栄に、そしてうれしく思っています。実は私の作品は、「第1章」の作品群に含まれていて、展覧会場の入り口のところに飾られていました。

その私の作品について、学芸員の方が書かれた解説を読んでみてください。私が送ったコメントをもとに、素敵な文章を書いていただきました。

 

窓のある壁の前に植木鉢やビン、カップなどを並べて描いた絵ですが、できるだけシンプルに描こうとするうちに、ビンは消えてしまったそうです。中央に、かすかにシルエットが残っていますね。マティスを思わせるようなブルーの色面が印象的で、モチーフは室内の静物であるのに、海や空を背景にしているような気持ちのよい空間がひろがります。

(第1章「日常のなかに」〜おだやかな時間〜)

 

『マティス展』の話から、私のことに話が及んでしまって恐縮ですが、私にとってのマティスさんは、このモロッコの影響を受けた青い絵の時期が80%ぐらいの比重を占めているのです。その作品群がすっぽりと抜けてしまった今回の展覧会は、そんなわけでちょっと残念でした。

さて、展覧会の先に進みましょう。

 

3章 並行する探求─彫刻と絵画 1913–1930

彫刻はマティスにとって、その造形活動全体にリズムを与えるものといえます。絵画のアイデアが素材との接触のなかで模索されている転換期に、彫刻があらわれるのです。

 

今回の展覧会では、マティスさんの彫刻作品も数多く展示されていて、女性の背中の大きなレリーフのシリーズは圧巻です。私は彫刻家の作品よりも、マティスさんの彫刻のデフォルメの方がなぜかわかりやすくて、現代彫刻の見方をマティスさんから教わった、と言ってもよいかもしれません。

 

4章 人物画と室内画 1918–1929

1920年代、ニースに居を構えたマティスは、以前よりも小さいカンヴァスを用いて、肖像画や室内画、風景画を描き、伝統的な絵画概念に向き合うようになります。

 

私から見ると、この時期のマティスさんは停滞しています。確かに、うまいと思う絵もありますし、前衛的な試みと伝統的な画面を融合させたい、という気持ちもわからないではないのですが、ちょっと才能を浪費していたかな、という気がします。贋作も多いのではないでしょうか。日本の公募展の絵画を見ると、特にお年寄りの画家にこの時期のマティスさんの真似が多いですね。

 

5章 広がりと実験 1930–1937

1930年代のマティスは、アメリカやオセアニアを旅し、新しい光と空間に触れながら、再び豊かな造形上の探求に戻ることになります。

 

6章 ニースからヴァンスへ 1938–1948

再び戦争がはじまり、高齢と病気のためにフランスを離れることをあきらめたマティスは、療養を続けながらニースからヴァンスへと居を移します。



前の章の時期から、この1930年以降は、少し立ち直りました。マティスさんの傑作と言われる作品も、この時期のものが多いと思います。今回の展覧会の『赤の大きな室内』(1948)も、展示会場の目玉になっている作品ですね。この立ち直りがどのようにして成されたのか、それはNHK BSの番組を見ると、やはり「旅」が原因であったことがわかります。上の文章にも「アメリカやオセアニア」、「ニースからヴァンスへ」という言葉が並んでいます。やっぱり長い人生で外部からの刺激は、大切なものなのですね。私は出不精なので、自分自身でマンネリ化しないように気をつけなくてはなりません。

 

7章 切り紙絵と最晩年の作品 1931-1954

1930年代より習作のための手段として用いてきた切り紙絵が、40年代になると、マティスにとって長年の懸案事項であった色彩とドローイングの対立を解消する手段として、重要なものとなっていきます。

 

この時期のマティスさんは、車椅子で制作していたり、助手らしき若い女性に手伝ってもらっていたりしている写真があるので、正直なところ油絵の制作が困難であった、ということが切り絵に移行した理由なのだと思います。しかし、これがとても良かったと思います。今回の展覧会でも、有名な『ジャズ』のシリーズが展示されていましたが、見ていて楽しくなりますし、素晴らしい作品群だと思います。また2枚組の大作「オセアニア」を見ていると、マティスさんの旅がとても有意義であったことがわかります。

私はこの時期のマティスさんの作品を見ると、日本の琳派の作品を思い出してしまいます。どちらも単純化された形の中に生き生きとした息づかいがあって、それに間の取り方が絶妙な点でも、似ている点があると思います。装飾性と芸術性が高度に融合した例として、両者を比較してみると面白いと思うのですが、どこかにそういう研究があるのでしょうか?

https://bijutsutecho.com/artists/124

https://j-art.hix05.com/17sotatsu/sotatsu16.bugaku.html

とにかく、私は学生時代にこの時期のマティスさんの作品を、先のモロッコ時代と同様によく見ていたので、『ジャズ』シリーズは実物と図版で何百回見たのかわかりません。大学の図書館には、かなり程度のよい画集がありました。ですから、今回の『マティス展』では既視感の方が強かったのですが、もしもあなたが初めてご覧になるなら、きっと素晴らしい体験になるでしょうね。ちょっと、そういう方がうらやましい気がしてきました。

 

8章 ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948–1951

マティスが最晩年に自身の集大成として手がけ、最高傑作のひとつともいわれる南仏・ヴァンスのロザリオ礼拝堂。

 

この礼拝堂の展示に関しては、もちろん本物の礼拝堂を展示するわけにはいかないのですが、その代わりに展覧会の最後に投影されていた大画面の映像がとても良かったです。それほど大きくない礼拝堂ですが、時間ごとの光によって、マティスさんの制作したステンドグラスが効果的に室内を彩っている様子がよくわかります。こんな場所で、一日ゆったりと過ごしてみたいなあ、と誰もが思うのではないでしょうか。

後の壁面には、少々謎めいた聖書の物語の線描が描かれていますが、説明不足の単純な線や形が、かえって見る者のイメージを掻き立てます。人生の最後まで、純粋な抽象表現に至らなかったマティスさんですが、この時期には自分自身の表現の方向性を確信していたのだと思います。

 

ということで、いろいろと書きましたが、マティスさんの作品をこれまで熱心に見てきた方にとっては、あまり新味のない展示に思えるかもしれません。それでも、今『マティス展』を開催するならば・・、という展示する側の意識もところどころに見られる展覧会でした。

そして、マティスさんという芸術家をどう評価するのか、これからも私たちは考え続けなければなりません。誠実な芸術家の取り組んだ課題というのは、簡単に終わってしまうものではありません。私たちの成長にともなって、節目ごとに彼らは再考の対象として現れるものなのです。

そして、マティスさんの作品をまとめて見る機会がなかった若い方は、何をおいても見るべき展覧会です。もう展覧会の終盤になってこんなことを書いてはいけませんが、ぜひ夏休みにご覧ください。

コメント一覧

onscreen
過去すぎて番組視聴も不可能ですが仕方ないですね...(涙)



一方で、こんな体験をしました
のでシリーズで展開しています

Matisse マチス The Red Studio @MoMA (1) MoMAキュレーターによる渾身の企画

https://blog.goo.ne.jp/onscreen/e/78d79cc28f573ecf0328571d83a336f6

この絵に隠されたベネチアン・レッドの「重大秘密」を紐解いている展示(汗)


よろしければドウゾ!
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