少し前のことになりますが、アメリカのシンガー・ソングライターで俳優のクリス・クリストファーソン(Kris Kristofferson、1936 - 2024)さんが亡くなりました。
私は彼のファンというわけではなく、彼について詳しく何かを知っているというわけでもないのですが、いろいろと思い出してみると、ここに書き留めておきたいことがいくつかでてきました。
それに詩人の長田弘さんが『アメリカの心の歌』という本でクリス・クリストファーソンさんの代表的な曲について取り上げていたことを思い出しました。この本については、以前にも書いたような気がしますが、中身の濃い本ですし、私の知らない歌もいくつかありますので、こういう機会をとらえて触れておくのもよいのかなあ、と思いました。
ということで、後半は、長田さんの取り上げたクリストファーソンさんの名曲『Me and Bobby McGee / ミー・アンド・ボビー・マギー 』についてご紹介します。
ちなみに、「クリストファーソン」さんの表記が「クリストファソン」であったり、「マギー」が「マッギー」であったり、ものによって変わるようですが、気にしないで読んでください。
さて、クリス・クリストファーソンさんの死去についてですが、彼の広報担当者が「9月28日土曜日、ハワイのマウイ島にある自宅で、家族に囲まれながら安らかに息を引き取りました」という記事がありました。88歳だったそうです。
ところで、ここまで読んでいただいていても、「え、クリストファーソンって誰?」という方も多いと思います。若い方は、ほぼご存知ないでしょう。日本のメディアでもあまり取り上げられていませんでした。
参考までに次のリンクをご覧ください。
「カントリーミュージックのレジェンド」と見出しがついていますが、このblogを読まれている方で「カントリー・ミュージック」をよく聞く、という方はほとんどいないのではないでしょうか。私自身も、カントリー・ミュージックが好きでよく聞く、というわけではありません。
それでは、「カントリー・ミュージック」とは、どんな音楽でしょうか?まずはそこから話を始めましょう。「ウィキペディア」では、カントリー・ミュージックについて次のように説明しています。
カントリー・ミュージック(英語: country music)は、1920年代にアメリカ合衆国バージニア州ブリストル市で発祥したとされる音楽のジャンル。21世紀に入ってからも、カントリー・ミュージックは、アメリカ南部・中西部を中心に多くのファンを擁する。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
少しクリストファーソンさんの話からそれますが、彼の音楽のバックグラウンドでもあるので、もう少しカントリー・ミュージックについて掘り下げてみましょう。私は専門家ではないので、何か誤りがあったらごめんなさい。
アメリカの音楽はさまざまな要素が融合してできていて、それが魅力でもあるのですが、カントリー・ミュージックもイギリス系移民の民謡・バラッドがベースとなり、そこにアフリカ系アメリカ人のゴスペルやブルースが混ざって生まれた音楽です。私たちの世代が大好きなロックン・ロール・ミュージックも、その重要なルーツの一つとしてカントリー・ミュージックを含んでいるのです。
カントリー・ミュージックは、とくにその初期において、ジャズやフォーク・ソングとジャンルが交錯していて、ギターやバンジョーなどの楽器も共通して使われていたようです。それらは、理屈抜きで広く大衆音楽として親しまれていたのだと思います。
しかし現在では、新しい音楽のジャンルが次々と林立する中で、ウィキペディアに書かれているように、カントリー・ミュージックはアメリカ南部や中西部を中心にコアなファンに愛される音楽になったようです。そしてカントリー・ミュージックはカウボーイ・スタイルの白人ミュージシャンによって演奏されるイメージが強く、その音楽にはアメリカ特有の保守的な傾向がついてまわります。
しかしその一方で、フォーク歌手からロックンローラーへと展開した先進的なミュージシャンであったボブ・ディランさんも、1960年代の末にカントリー・ミュージックに接近しています。探求心旺盛なディランさんは、おそらくルーツ・ミュージックとしてのブルースやカントリーを見直していたのでしょう。
その後1970年代に入ったころに、イーグルスやグレイトフル・デッドなどの人気のロックバンドがカントリー・ミュージックの要素を前面に押し出すようになり、私のような者でもカントリー・ミュージックに親しむようになりました。それと同じ時期に、ジョン・デンバー(John Denver、1943 - 1997)さんや、グレン・キャンベル(Glen Campbell、1936 - 2017)さんなどのカントリー系の歌手が、日本でも一般的な人気を博するようになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=KPctA0hT9c8&t=17s
https://www.youtube.com/watch?v=48eW3VL-95g
https://www.youtube.com/watch?v=1vrEljMfXYo
https://www.youtube.com/watch?v=MkDKT0ngkFs
そしてカントリー・ミュージック界の中でも、もっと自由に音楽を作っていこう、歌っていこう、という機運が高まって、その中心にいたのがウィリー・ネルソン(Willie Hugh Nelson、1933 - )さんでした。私は若い頃に、ウィリー・ネルソンさんの曲をよくラジオで聴いていましたが、そのときは彼の素晴らしさがよくわかりませんでした。彼は現在も現役ですが、私は今になって彼の良さがわかるようになりました。ウィリー・ネルソンさんはジャズのスタンダード曲も歌っていますが、それがジャズ・ミュージシャンとは違ったアプローチになっていて惹かれます。
私が初めて聞いたウィリー・ネルソンさんの曲はこの曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=JA644rSZX1A
次はウィリー・ネルソンさんが歌う、ジャズのスタンダード曲「スターダスト」です。以前にもご紹介したような気がしますが、良い歌は何回聞いてもいいです。
https://www.youtube.com/watch?v=Vc6NKCrje04
そして、ウィリー・ネルソンさんと、ときにともに活動したのがクリストファーソンさんだったのです。1980年代半ばには、カントリー・ミュージックの大物であるジョニー・キャッシュさん、ウェイロン・ジェニングスさん、ウィリー・ネルソンさんとともにスーパーバンド「ハイウェイマン (The Highwaymen)」を結成して、アルバム、シングルともにチャート1位を独占するなどの人気を博したとのことです。
『The Highwayman』は私の大好きなジミー・ウェッブさんの曲ですね。
https://www.youtube.com/watch?v=bMdeg-WKt1U
クリストファーソンさんとカントリー・ミュージックとのかかわりについては、とりあえずこれくらいにしておきましょう。
そしてクリストファーソンさんのもう一つの顔である、俳優としてのクリストファーソンさんについて、私の見た映画からその思い出を書いておきましょう。
俳優としてのクリストファーソンさんをはじめて見たのは、たぶん『午後の曳航』(1976)という三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925 - 1970)さん原作の映画でした。この映画でのクリストファーソンさんは、かっこいい船乗りの役でした。しかし、彼をヒーローとして慕う少年からのちに幻滅され、最後には眠り薬を飲まされて少年の属するグループに処刑されてしまう、というちょっとかわいそうな役でした。三島文学らしい耽美さと、残酷さを忠実に映画化した作品だったと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=gI2yoi4V5MM
それから、ボブ・ディランさんも顔をのぞかせた『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973)という映画では、クリストファーソンさんはビリーの役を演じていました。ビリーザ・キッドのアウトローとしての存在感がぴったりでしたし、ディランさんのカントリー調の主題歌も映画に合っていました。映画の製作年は『午後の曳航』よりも前ですが、私はディランさんとクリストファーソンさんを見たくて、だいぶ後になってからこの映画を見たのだと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=j_yUhmWIfps
そしてたぶん、クリストファーソンさんの出演映画で最もヒットしたのが『スター誕生/ A Star Is Born』(1976)だと思います。共演はバーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand、 1942 - )さんでしたが、この映画でクリストファーソンさんはその相手役を務めて、みごとゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞しました。
https://www.youtube.com/watch?v=uK1FS7a9f44
そしてたぶん、クリストファーソンさんの出演映画の中で最も失敗したと言われているのが『天国の門/Heaven's Gate)』(1980)でしょう。監督は『ディア・ハンター /The Deer Hunter』(1978)で大ブレークしたマイケル・チミノ(Michael Cimino、1939 - 2016)さんでした。『ディア・ハンター』でベトナム戦争をテーマにしたチミノ監督は、さらに『天国の門』でアメリカの東欧移民の悲劇を描こうとしたのですが、アメリカ人にとってはテーマが辛口すぎたのでしょう。まったくヒットしませんでした。確かに、『ディア・ハンター』と比べると出来はいま一つだったのかもしれませんが、それよりもアメリカという国を被害者として描くのか、加害者として描くのか、という違いの方が大きかったのではないか、と私は思っています。クリストファーソンさんにとっても、映画俳優としてのピークとなるべき大作だったのですが、評価が割れてしまって、ちょっとお気の毒でした。私は作品も、彼の演技も悪くなかったと思っています。
https://www.youtube.com/watch?v=K-NKf62E02A
以上、私の乏しい映画鑑賞歴でクリストファーソンさんの出演映画に関する思い出はこの程度です。しかし、クリストファーソンさんの演技からは、たんに歌手が副業で映画に出演するとか、映画と音楽の相乗効果で人気をねらうとか、そういう魂胆とは違った俳優としての真剣さを感じました。『天国の門』が代表作とならなかったのは、返す返すも残念でした。
さて、ここからは長田弘さんの著書『アメリカの心の歌』から「Ⅱ-1 ミー・アンド・ボビー・マッギー」の章を読んでいきます。
ここまではカントリー・ミュージックとクリストファーソンさんとの関係や俳優としての経歴などを見てきましたが、そもそもクリストファーソンさんはどのような生い立ちの人なのでしょうか?
長田さんはそれを簡潔に、かつ丁寧に書いていますので、要約してみましょう。
クリストファーソンさんは軍人の息子で、テキサス南端の国境の町で生まれ、カリフォルニアで育ち、ローズ奨学生として英国オックスフォード大学で学んでいるそうです。この「ローズ奨学生」というのは、北米全体で32人しか選ばれない超エリートが受ける制度で、のちに大統領になったジョン・F・ケネディさんやビル・クリントンさんも奨学生になったのだそうです。留学後、クリストファーソンさんは結婚し、4年間軍役につき、ヘリコプターの操縦士を務め、退役後は陸軍士官学校の英語の教授になりました。超エリートでヘリコプターも乗りこなす、という何でもできそうなスーパーマンのような人ですね。
先日のラジオ番組で、ピーター・バラカンさんがクリストファーソンさんをしのんで語っていたことによると、この間にもクリストファーソンさんは文学による創作活動を試み、音楽にも手を染めていたようです。1965年、29歳のときにクリストファーソンさんはソングライターになる夢を抱きます。その結果、離婚して、妻と娘が去った後で、クリストファーソンさんは「本当の自由とは失うものが何もない」ことだとわかったのだそうです。
これが名曲、『Me and Bobby McGee』のモチーフとなったのです。
Freedom's just another word for nothing left to lose,
Nothin' don't mean nothin', honey, if it ain't free.
Yeah, feeling good was easy, Lord, when he sang the blues,
You know feeling good was good enough for me,
Good enough for me and my Bobby McGee.
(『Me and Bobby McGee』歌詞より)
自由とは、べつの言葉でいえば、失うものが何もないということだった。何もないということは、何もないということじゃない。それが、自由なんだ。まったくいい気分だった。ボビーはブルースをうたった。それでよかった。それだけでよかったんだ。ぼくも、ボビー・マッギーも。クリストファソンのその歌の、これ以上はない単純な言葉に、人生のすべてはつきるのだ。
(『アメリカの心の歌』「Ⅱ-1 ミー・アンド・ボビー・マッギー」長田弘)
しかし、クリストファーソンさんは、すぐに歌が売れるようになったわけではありません。カントリー・ミュージックの中心地、ナッシュビルの音楽スタジオで清掃夫として働きながら音楽活動を始めましたが、なかなか芽が出ませんでした。そのスタジオでは、ボブ・ディランさんが名作『ブロンド・オン・ブロンド/ Blonde on Blonde』(1966)を録音していたそうです。
そんな中で、クリストファーソンさんの作品は徐々に評価されるようになり、『Me and Bobby McGee』は1969年にカントリー歌手のロジャー・ミラーさんに取り上げられ、カントリー・チャートでそこそこのヒットを記録したようです。その後、この曲はロック歌手、ジャニス・ジョプリン(Janis Lyn Joplin、1943 - 1970)さんと運命的な出会いを果たします。この歌をジョプリンさんに教えたのは、ボブ・ディランさんの親しい仲間だそうです。ジョプリンさんは「この歌に深く魅せられたのだ」と長田さんは書いています。そして、クリストファーソンさんは、ジョプリンさんのもとを訪れます。
ジャニスがもとめつづけたのも、失うものが何もない自由だ。1960年代の終わり、ジャニスは時代の歌の船首像だった。だが、魔女のような茶色の髪をした、笑顔のとてもきれいだったジャニスを追いたてていたのは、アルコールとドラッグに蝕まれた日々だ。ソングライターの夢を手にしたクリストファソンが、誘われて、ボブ・ディランの親しい仲間と一緒にカリフォルニアのジャニスを訪ねるのは、ジャニスが死ぬ半年まえだ。
クリストファソンが見たのは、酒とバラの日々のなかに立ちすくむジャニスだ。酒。ジャニスが片時も手放さなかった酒は、ミシシッピの河岸でつくられたとラベルに記されている甘い味のするサザン・カンフォートだ。そして、とんでもない空騒ぎ。そして、とんでもない孤独。夢中になったのは、ジャニスだ。クリストファソンは帰ることができなかった。そのまま一カ月ちかく、ジャニスとクリストファソンは日々を共にしている。
(『アメリカの心の歌』「Ⅱ-1 ミー・アンド・ボビー・マッギー」長田弘)
孤独のなかでジョプリンさんはクリストファーソンさんに惹かれました。しかし、クリストファーソンさんが興味を持ったのは、歌手としてのジョプリンさんでした。そのことをジョプリンさんもわかっていたのだと長田さんは書いています。
そして、その後ジョプリンさんは、遺作となったアルバム『パール/ Pearl 』(1971)のなかで『Me and Bobby McGee』を歌っています。彼女は1970年にホテルで亡くなったのですが、その後『パール/ Pearl 』が発売され、『Me and Bobby McGee』がシングルカットされて、彼女の唯一のナンバー1ヒットとなったのです。
https://www.youtube.com/watch?v=5Cg-j0X09Ag
そしてクリストファーソンさん自身も、『クリストファーソン/Kristofferson 』(1970)というファーストアルバムで『Me and Bobby McGee』を歌っています。
https://www.youtube.com/watch?v=G-J7mLyD3yc
この歌の持つ力について、長田さんは次のように書いています。
じぶんにとってぬきさしならない歌というのがあるのだ。その歌を聴いたことがじぶんのなかの何かを変えたという記憶が、歌のむこうにのこっているような歌だ。聴いてすぐには気づかない。けれども、ずっと後になってから、その歌だったのだと気づく。その歌が最初の歌だったと。その歌を聴くことがなかったら、それからずっとアメリカの同時代の歌に耳を澄ましつづけることは、あるいはなかったかもしれない。
はじまりは、死だった。1970年秋、ジャニス・ジョプリンが死んだ。「ミー・アンド・ボビー・マッギー」(Me and Bobby McGee)という歌をはじめて聴いたのは、ジャニスがドラッグによる孤独な死後に遺した歌によってだ。死の翌春、アメリカのヒット・チャートを走り抜けて、ジャニスの歌でただ一つ、トップ1になった歌だ。早すぎる死を死んでいった死者のうたう歌が、ある日、ラジオから飛びだしてきた。その悲痛な嗄れ声の歌に、胸を掴まれた。
(『アメリカの心の歌』「Ⅱ-1 ミー・アンド・ボビー・マッギー」長田弘)
うーん、すごいですね。このように人の記憶に残るような作品を作ることができたら、もう何もいらないと思うくらいです。
そして、ここまでの記述は主にジョプリンさんの歌唱の力についてでしたが、このあとで長田さんはクリストファーソンさんの歌の力、言葉の力について書いています。
クリストファーソンさんの登場によって、カントリー・ミュージックは変わったのだと長田さんは書いています。クリストファーソンさん以前のカントリー・ミュージックは「カントリー&ウェスタン」と呼ばれていた、けれどもクリストファーソンさん以後のカントリー・ミュージックは、ただ「カントリーとだけ呼ばれる歌になった」と長田さんは書いています。さすがに、本当かなあ、と疑ってしまいますが、そうなのでしょう。
長田さんはクリストファーソンさんの『ヴェトナム・ブルース』という歌を取り上げて、「そのときヴェトナム戦争の下にあったアメリカの同時代の切実な感情を、クリストファソンは歌の中にぶっきらぼうに刻み付ける」と分析し、「クリストファソンの歌がもたらしたのは、同時代の地平だ」、「人生が絵空事でないように、歌もまた絵空事でない」と彼の歌を、そしてその言葉を評価したのです。
長田さんは続けて次のように書いています。
クリストファソンがしたことは、歌の言葉に意味を回復したことだ。歌をいま、ここを生きる一つの生き方として、クリストファソンがもちこんだのは、ライフスタイルとしての歌という新しい歌のかたちだ。
<中略>
大声で叫ばない。嘆くことをしない。クリストファソンのつくる歌に滲んでいるのは、労(いたわ)りの感情だ。あるいは、労りのような優しさだ。ひとの人生の日常の奥にある優しさとしかいえない感情について、若いクリストファソンがおおくを学んだのはフェデリコ・フェリーニの映画だ。『道』だ。ひとが素手で掴まなければならない、両刃の剣としての優しさ。「ミー・アンド・ボビー・マッギー」は、クリストファソンのつくった『道』だった。
(『アメリカの心の歌』「Ⅱ-1 ミー・アンド・ボビー・マッギー」長田弘)
フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini, 1920 - 1993)監督について、ここで語る余裕はありませんが、『道/ La Strada』(1954)は永遠のロード・ムービーですね。
そしてアメリカの歌にはロード・ムービー的なものが多いのですが、そのどこかに共通点のようなものがあるのかな、と思っていたら、直接のえいきょうがあったのですね。そして「労りのような優しさ」が「ひとが素手で掴まなければならない、両刃の剣」だという長田さんの指摘は、フェリーニさんの映画のように切ない言葉です。
長田さんは、クリストファーソンさんの『Me and Bobby McGee』は歌の言葉の力を「どんな歌よりもずっともちつづけてきた歌だ」と書いています。
そしてジョプリンさんは、そんな歌の言葉を誰も聴いていない、と言っていたのだそうです。けれどもジョプリンさん自身は歌の言葉を聴いているし、歌の言葉を信じていたのだ、とも書いています。
長田さんは、この章の最後を次のように結んでいます。
誰も大切にしない歌の言葉を、ジャニスは大切にした。ジャニスのうたうクリストファソンの歌からは、言葉が聴こえる。
歌の言葉が、こころに根を下ろしてしまう。そして時代とともに、木のように、こころのなかにいっそうそだってゆくような歌がある。
(『アメリカの心の歌』「Ⅱ-1 ミー・アンド・ボビー・マッギー」長田弘)
ここまで読んでいくと、この結びの言葉がただのきれいごとではない、痛みをともなう真実の言葉であることがおわかりいただけると思います。
そして私としては、この「歌」という言葉を「絵」という言葉に置き換えても、同じようなことが言えるはずだ、と思っています。
「そして時代とともに、木のように、こころのなかにいっそうそだってゆくような絵がある」
私は、そんな絵を描きたいと思います。
そして同時に、そんな絵との出会いを長田さんのように「ひとが素手で掴まなければならない、両刃の剣」のような「労り」と「優しさ」に満ちた言葉で批評出来たら素晴らしいと思っています。
そう考えると、残りの人生の時間があまり長くないような気がしますが、それは気にせずに、とにかく進めるところまで進みましょう。