平らな深み、緩やかな時間

237.与謝蕪村について①

何度目かの新型コロナウイルス感染の猛威にさらされている今日このごろですが、皆様はお元気でしょうか。

このような自然の災害や疫病ならば、私たちは力を合わせて乗り越えていきましょう、と思うほかありません。日々記録された感染者の数と、重症化された方の数を見比べながら、とにかく冷静に判断して行動するしかないのです。

しかし、真実や約束を反故にして、何も反省しない為政者の営みに対してならば、私たちはどのように対処すればよいのでしょうか?

例えば私は、残虐な銃撃によって亡くなった方を悼む一方で、その方が国会で100回を越す虚偽答弁をしたということを忘れることができません。その方を国葬にするのならば、その妥当性について現在の為政者からの十分な説明が必要だと感じています。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/75781

https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/189998

あるいは、ウクライナの穀物輸出の合意をした翌日に、その拠点となる港湾を攻撃した国があります。そのことに対して、当事国の為政者はごまかしのない説明と謝罪をする必要があると思います。

https://mainichi.jp/articles/20220724/k00/00m/030/015000c

彼らは言葉を曖昧なうちに操って、真実の重みを無化していると思います。そしてそのことに対して、私たちは「あー、やっぱりね」という感想しか持ち得ません。いつから、真実の言葉の重みはこれほど軽くなってしまったのでしょうか?

例えば2017年に、アメリカの為政者が自分の就任式に集まった聴衆の人数を偽った時のことを思い出してみましょう。その虚偽を報道官が「もう一つの真実」だと告げたときに、私たちはそれを失笑するだけのバランス感覚がありました。

https://dot.asahi.com/aera/2017020700048.html?page=1

しかしあれから5年が経ち、今や全世界的に真実の言葉の重みが薄れ、私たちは失笑すらできずに、何もかも無表情で受け入れるようになってしまいました。こんなことを続けていると、私たちは言葉に対して、そして何かを表現することに対して無関心になってしまうのではないでしょうか?

私たちは真実であれ、フィクションであれ、言葉というものをもっと信頼しなければなりません。そしてその言葉が、いったい何を伝えようとしているのか、より正確に把握したいものです。



さて今回は、上のようなことから・・、というわけではないのですが、言葉と絵画と双方の表現に関して重要な仕事を果たした人について考えてみたいと思います。

皆さんは与謝 蕪村(與謝 蕪村、よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))について、どれほどの知識をお持ちですか?蕪村は、江戸時代中期の俳人であり、文人画(南画)を描いた人です。蕪村は画家としては独学であったようですが、彼の代表作は次のサイトから確認することができます。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/search/artist:%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91

https://wanderkokuho.com/201-02458/

この偉大で複雑な人物について、私には簡略に紹介することができません。蕪村について何冊もの著作がある文学博士、藤田真一さんの『日本人のこころの言葉 蕪村』の冒頭の紹介文から少し引用してみます。

 

蕪村は、ふたつの顔をもっていました。画家の顔と俳人の顔です。時代のなかで、おそらくかなり売れっ子の画家であり、同時に全国的に注目される俳人であったようです。その当時だけでなく、二十一世紀の現代でも、絵画・俳句とも人気をほこり、愛されつづけています。一流のワザをふたつながらに備えているというのは、稀代のことといえるでしょう。まさに蕪村こそそうした人物にほかなりません。  

蕪村の生きた十八世紀は、絵画の分野も俳諧の世界もひとつの頂点をなした時代です。京都画壇では、池大雅・伊藤若冲・円山応挙などが斬新な画風を生み出し、俳壇では、各地で蕉風俳諧の風潮が盛り上がっていました。そんななかで蕪村は、画壇において南画(文人画)の一方の名手となり、俳壇においては想像力あふれる句をよむ達人となりました。時代の申し子でもあり、京文化の担い手でもあったのです。多方面にまたがって活動するというのもまた、この時代ならではの特徴といえます。  

ところで、「画家」「俳人」を当時の用語でいうと、「絵師」「俳諧師」ということになります。ことばの言い換えだけのようにみえますが、画家や俳人は明治以後の肩書で、蕪村の生きた江戸時代にはなかったものです。一見瑣末な事象のようですが、活動する当人の意識には容易ならざる相異が生じてきます。  

画家・俳人というと、描こう描きたい、吟じよう吟じたいという、作者本人の意欲というものが先行する気配があります。もちろん蕪村とて、みずからの意思や願望を抱いて制作に向かう気持ちはあり余るほどに有していたことでしょうが、それと併せて、依頼主や仲間の意向にも精いっぱいの心を用いたはずです。自己実現と周囲との協調とがあいまってこそ、蕪村の創作舞台は整えることができたのです。  

絵画についてみると、蕪村は幕府や朝廷につかえる御用絵師ではなく、一介の町絵師にすぎませんでした。ごくふつうの町人や地方の素封家、あるいは寺社などの注文をうけたうえで、絵筆をふるうことになります。むろんときには自発的に描きたいとおもうこともあるでしょうが、それとて顧客の嗜好を無視することはできません。蕪村の絵筆は、贔屓し、支援してくれる人びととともにあったのです。

(『日本人のこころの言葉 蕪村』「はじめに」藤田真一)

 

蕪村は偉大な表現者ではありましたが、現代でいうところの「芸術家」というイメージとは、ちょっと違ったようです。それはどういうことかと言えば、俳句にしろ、絵画にしろ、その当時は人との関わりから生まれてきた、つまり注文されたり、頼まれたりして表現されたものであったということです。それだけに、蕪村がどういう社会で生きていたのか、ということがとても重要になります。藤田真一さんは、上記の本のほかに岩波新書から『蕪村』という入門書を書いていますが、その限られたページ数の中で蕪村の人間関係について、かなりのページを割いて紹介しています。蕪村は師に恵まれ、その後は師と関わりのある人間関係に恵まれ、きわめてよい芸術的な環境の中で人生を送ったようです。それも蕪村の人徳であり、芸術家としての人間力であったのかもしれません。

それでは、蕪村の生涯を簡単に見ていきましょう。

彼は大阪の郊外で生まれたそうですが、詳しいことはわかっていません。二十歳になる頃に江戸に出て、巴人(はじん)という俳諧師の弟子になります。巴人は「夜半亭」という庵を構えていたのですが、これが蕪村の俳号の一つにもなります。蕪村は36歳で京に向かいます。それから丹後で3〜4年ほど過ごし、再び京に戻ると妻帯します。その頃から与謝(よざ=丹後地方の地名)蕪村と名乗ったのだそうです。そして今度は四国へ旅に出ますが、その後は京に落ち着き、師の「夜半亭」の号を引き継ぎ、俳諧の師匠となるのです。この頃には、すでに蕪村は55歳となり、絵師としての評判も上がって、池大雅との競作『十便十宜図』(国宝)を制作しています。これは年齢的には7歳ほど年下でしたが、南画の大家として認識されていた大雅と肩を並べる存在だと当時からみられていた証拠になるものでしょう。

また、彼のもっとも有名な作品『夜色楼台図』を描いたのは、彼が還暦を過ぎた頃ですが、この頃には俳諧師であり、画人でもあるという二刀流の特技を蕪村自身も認識していたようです。彼は自分の俳句ばかりでなく、師の師でもあった芭蕉の文を絵画化するということも試みています。また、藤田真一さんが蕪村の句集の傑作として評価している『春風馬堤曲』を書いたのも、やはり還暦を過ぎた頃です。私とおなじ年頃が、彼の最も充実した時期だったのですね。そして蕪村は70歳を過ぎた頃に亡くなっています。

蕪村はこのように俳句一筋、あるいは絵画一筋であった名人たちとは異なり、文も画もきわめて高いレベルで創作した人でした。また趣味人でもあり、芝居が好きで、京が芝居の盛んなところであったのをいいことに、観劇三昧の生活を送り、それが高じて時に芝居批評に興じ、時に一人芝居を演じて楽しんでいたそうです。こういう余裕のあるところがいいですね。

絵画について言えば、近年になって再評価が著しい伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、1716 - 1800)の鬼気迫る描写に比べると、蕪村の絵画はいかにも大らかで、作風や様式もさまざまです。これは俳句にも同じような特徴があるようで、例えば先ほど例にあげた『春風馬堤曲』の特徴を藤田真一さんは次のように書いています。

 

「春風馬堤曲」は全32行、18首からなっている。発句体あり、漢詩の絶句体あり、漢文訓読体あり、自由な和詩体ありと、各首各様、変幻自在に多種の形式を混在させている。ただし、全体として、むすめさんが奉公先から休暇をもらって里に帰省するみちのりのさまを描いたものとなっている。雑多な詩形式とはうらはらに、「道行(みちゆき)」の歌曲として、まとまりと自然な流れをもつ、統一感にみちた作品にしあがっている。

(『蕪村』「第6章 春風のこころ」藤田真一)

 

『春風馬堤曲』は、若い娘が家に帰る道ゆきを歌ったものなのですが、その形式は限定されておらず、自由な形で書かれているのです。その評価を藤田さんはこのように書いています。

 

だが、たいせつなのは、このような作者の深意(「郷愁」の詩情を表現すること)があったとして、それをあらわにひけらかすのではなく、構想や趣向や巧みの衣装で、まわりを厚くまとうという精神である。すがたとして、薬効部分をなかに隠して、外側を糖衣でくるんだ錠剤をおもえばよいかもしれない。外側に回らされた趣向という甘い衣をせいぜい味わっているうちに、いつか核にある実情がじわっとこころに効きめをあらわす、そういうものとして理解しておく必要がある。

幾重にも重ねられた、趣向という味付けをたのしむところにこそ、この特異な文芸を読む愉悦があるといってもよい。作者のこころのうめきを知りえたからといって、それが詩を読む悦びに直結するものではない。「うめき」というには、あまりにも不似合いなほど、堤上、春の空はあかるく晴れ上がっていた。作者の胸のうちも、また明朗そのものだったにちがいない。

文学は文(あや)の芸である。蕪村のばあい、ことばの文に加えて、趣向という江戸特有の文があった。そのなかに、浪花に奉公に出ていた田舎むすめが藪入りするすがたもみえる。それは、流行のファッションを身につけ、妓女の髪型をまねるまでになり、都会ぐらしにうつつをぬかして、田舎くさい兄弟のことを恥ずかしがってはいたものの、さすがに故郷の恋しさに堪えきれずに、帰省しようという、そういう娘だ、という。

(『蕪村』「第6章 春風のこころ」藤田真一)

 

この解説を読むと、なんだか蕪村が技巧に走った人のように思われるかもしれません。しかし、本当に技巧に長けた人は、それが技巧であることを匂わせないものなのです。だから蕪村の句を読むと、素朴で実直な感じすらするのです。具体的な『春風馬堤曲』の句を、一つだけ取り上げてみましょう。

 

春風や堤長うして家遠し

 

いかがですか?川沿いの堤の道を歩いている情景です。春風が吹いていて、気持ちが良いのですが、いかんせん、堤は長く続いていて、家まではまだまだ遠い、という気持ちを歌った句です。そのことに間違いはないのですが、藤田真一さんは次のように解釈しています。

 

どこまでものびる土手を目にすると、家までの道のりははるばると遠い。この「遠し」の語が、これから展開されるお話のお膳立てをしているかにみえる。

蕪村はある種の感慨(おもい)をこめて、「遠」の文字をしばしばもちいた。たとえば、

もの焚いて花火に遠きかかり舟

係留されている小舟から、夕餉(ゆうげ)のしたくか、なにやらものを焚く煙がたち昇っている。いっぽう、たち昇る煙のかなたを見上げると、空には、花火が華麗にさいている。このふたつの景色の隔たりを、「遠い」と形容したわけである。

この形容詞の意味は、少々検討を要する。炊飯のことと、花火が、別個のものとして「遠い」のだ。繰り返しの日常俗事(炊事)と、たまさかの雅事快楽(花火)は、同一地平になく、異層の階に存している。両事は空間的距離としてのみ遠いのではない。「遠」は疎遠の遠であり、無縁の意味でもある。夕餉と花火を限りなく隔てる、そういう遠さの感覚を詠んだ句であった。

「春の暮(くれ)家路に遠き人斗(ひとばかり)」

「花に暮て我家遠き野道哉(かな)」

右の二句にみえる遠さも、似た感覚をもっている。尽きせぬ春の雅味、春日の花の興趣、そんな雅懐(おもい)をかかえてたどる家路はとてつもなく「遠い」。ここでは、「家」が俗事の象徴となっている。わが家までの道のりは、物理的に遠いのではなく、心理的に悠邈(ゆうばく)としている。とすると、この遠さの感覚の克服は、こころの跳躍なしにはなされえない。蕪村が「遠」の文字にこめた深意である。

「春風や堤長うして家遠し」の句にいう家路の遠さも、毛馬堤、つまり淀川の堤上に立って見はるかした道中の距離の長さではなく、心情としてのはるけさを言っているのだ。奉公づとめの生活から、なつかしい親里へたどり着くためには、この遠さが必要であった。現実の感覚を解き放って、過去のこころを取り戻すには、いわばこころの距離をあゆまねばならなかった。毛馬という地名も、現実の毛馬そのものと考えないほうがよい。あくまでも作品世界のなかの毛馬であり、幼児期の思い出に繋がる想念としての毛馬堤と心得ておいたほうがよい。

この道中は、たしかに遠くはあるが、また悦びに満ちた、たのしいものでもあるはずだ。そういう歩みのさまをうたいあげた道行が、この物語である。

(『蕪村』「第6章 春風のこころ」藤田真一)

 

うーん、本当の技巧というのは、こういうことを言うのでしょうか?

見た目はなんの変哲もない「遠し」という言葉が、物理的な距離を表すと同時に、心理的な異層の階に存在するもの同士の距離、さらにはなつかしいようで近づきがたい故郷との心情的な距離をもあらわすというのですから、蕪村の「深意」はたしかに深いと言わなければなりません。

このように、一見単純に見えながら、実は深い表現を秘めているという事例として、同じように蕪村の成熟の頃に描かれた『夜色楼台図』を見てみましょう。こちらは新潮美術文庫『与謝蕪村』の解説から引用してみます。

 

雪は冷たい。しかし私たちは、その雪にどこかで温かく懐かしい感情を持っているのではないだろうか。この絵の素晴らしさは、それを完全に視覚化しているところにある。それは黒と白のみごとなヴァルール、静謐(せいひつ)でありながた蠢(うごめ)くようなモチーフ、的確に点ぜられたかすかな灯りにより、達成されている。

(『新潮美術文庫 与謝蕪村』「22 夜色楼台図」河野元昭)

 

西洋絵画と比較すれば、ほぼモノクロームに近いこの作品が、どうしてこのように美しく見えるのか、まさにそこに蕪村の力量があります。蕪村のこの作品は、江戸時代の奇想の画家たちのにわかブームとは対極にあります。

https://www.tobikan.jp/media/pdf/2018/kisounokeifu_flier2.pdf

奇想の画家を面白がる視点も悪くないかもしれませんが、それがあまりにビジュアルな効果に偏りすぎると、江戸絵画の大きな魅力を取りこぼしてしまうのかもしれません。ビジュアルな作品はわかりやすく、一時的に人目を引くことは、今も昔も変わらないのですが、それは感覚的に見ても「浅い」悦びであると言わざるを得ません。どうせ絵を見るのなら、私たちは「深い」悦びを分かち合いましょう。

 

さて、ここまで書いてきましたが、そういえば蕪村のもっとも有名な句について、まだ触れていませんでした。

 

菜の花や月は東に日は西に

 

一面の菜の花畑の上に、太陽と月が同時に見えているという壮大にして、なぜか親しみやすい句ですが、その話は次回にすることにしましょう。

 

それから、蕪村は明治以降になって再発見されたのですが、そこには蕪村を再発見する人たちの思惑も絡んでいたようで、物事はなかなか単純にはいかないようです。その内実は、蕪村の一見、単純な情景を描いたように見える作品が、写生を重んじる人たちを釣り上げてしまった、ということなのでしょう。私は文学史のことはわかりませんが、そんなエピソードならば面白く感じられます。

そして次回は、できれば蕪村の形式を軽々と乗り越えて目的を達してしまう作品アプローチについて、現代美術の立場から若干の考察ができれば、と思っています。



さて、この文章を書いている間に、桜島の噴火のニュースが飛び込んできました。

その被害が最小限で済むように、心から願うばかりですが、このような自然災害への畏怖の念と、冒頭の人為的な悲喜劇とでは、接するこちらの気持ちがどれほど違っていることでしょうか。

畏怖の念と嫌悪の気持ちとでは、その後に残る心の傷跡も、随分と異なるものだろう、とつい考え込んでしまいます。世界の各地で起きている出来事を、痛ましいものは痛ましいままに、けれども冷静に受け止めたいものです。



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