平らな深み、緩やかな時間

304.『ロシアの破局的な時間』、ウェイン・ショーター死去

はじめに私のことで連絡します。

3月13日から、東京・京橋のギャラリー檜で個展を開催します。

展覧会の案内状を次のサイトからご覧になれます。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

同様に、個展で配布する予定のパンフレットのpdfファイルもご覧になれます。

今回の展覧会は仕事上、あるいは個人の事情からちょっと忙しくて、週末すら画廊に滞在できない見通しです。来てくださったのにお会いできない方々へ、あらかじめお詫び申し上げておきます。でも、少しでも多くの方に作品を見ていただけるとうれしいです。

 

さて、アメリカのジャズ・サック奏者/作曲家のウェイン・ショーター(Wayne Shorter、1933 - 2023)さんが3月2日、ロサンゼルスの病院にて89歳で死去しました。

次の「ミュージック・ライフ・クラブ」のホームページをみると、ていねいな記事と、ショーターさんの長い経歴を網羅した音源もあるようです。

https://www.musiclifeclub.com/news/20230303_10.html

熱心なジャズ・ファンとは言えない私が付け加えることは何もありませんが、個人的な思い出だけを書いておきます。

私がウェイン・ショーターさんのことを初めて知ったのは、1977年7月23日、真夏の田園コロシアムで行われた”ライブ アンダー ザ スカイ ’77  VSOP” のライブ盤でした。私は高校生で、少しジャズに興味を持ち始めた頃だったと思います。このライブに出演した「VSOP」はウェイン・ショーター(ts,ss)、フレディ・ハバード(tp)、ハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(dms)という豪華メンバーで、激しい雨にもかかわらず聴衆が席を立たず、バンドもそれに応える熱演を繰り広げた、ということで評判だったのです。

https://jazztokyo.org/column/koinuma/post-66673/

レコード店のジャズのコーナーには、宣伝用のポスターが大きく貼り出されていて、ジャズ・ファンではなくても、「VSOP」という名前を知っていた時期でした。

この時代は、ジャズがフュージョンとか、クロスオーバーといった電子楽器を駆使した軽めの音楽に席巻されていたのですが、そんな中で生楽器によるジャズをこのメンバーで演奏する、ということが、ジャズ・ファンにとってはたまらなかったのだと思います。私は、このレコードを聴いたと思うのですが、その良さがよくわからなかったことだけを憶えています。

1970年代の後半は、ウェイン・ショーターさんのレギュラー・バンドであった「ウェザー・レポート」が人気絶頂期で、私も後追いで『ヘビー・ウェザー』を聴きました。さすがにこのレコードのカッコ良さはすぐにわかって、LPを買いました。そして「VSOP」や「ウェザー・レポート」の主要メンバーがマイルス・デイヴィス(Miles Davis、1926 - 1991)さんのバンドから育っていったことを知り、マイルスさんの偉大さをあらためて思い知ったのでした。

そして、ちょっとはジャズを勉強したいなあ、と思っていろいろとガイドブックを漁ってみたのですが、一番しっくりときたのがジャズ評論家の岩浪 洋三(いわなみ ようぞう、1933 - 2012)さんの本でした。その岩浪さんは、ショーターさんのソロ名義のレコード『スピーク・ノー・イーヴル』を評して次のように書いています。

 

最近、ブルーノートでいちばん心をひかれるアルバムは何だろうと考えてみると、‘60年代の中期に録音された、モード手法を用いて演奏した俗にいう新主流派のジャズ・アルバムが次々に頭に浮かんできた。中でもこのウェイン・ショーターのアルバムは、今聴いても斬新である。モード手法に加えて、ショーターの独自の黒魔術的ムードが加わり、神秘的な雰囲気まで生まれている。

‘64年12月の録音で、ハービー・ハンコック、ロン・カーターが加わっており、ショーターを加えた3人は当時のマイルス五重奏のメンバーでもあった。これにフレディ・ハバード(tr)とエルヴィン・ジョーンズ(ds)が加わっているわけで、当時のもっとも生きのいいジャズ・メンの演奏といえる。<ウィッチ・ハント><スピーク・ノー・イーヴル><インファント・アイズ>などショーターの曲が神秘的である。なにか魔術にかけられたように酔わされてしまう。

(『こだわりJAZZノート』岩浪洋三)

 

ここで岩浪さんが書いている「黒魔術的ムード」は、ショーターさんのソロ名義の作品でないと存分には味わえないものなので、聴いたことがない方はお聞きになるとよろしいかと思います。などと偉そうなことを書いても、繰り返しになりますが私はガッツリとしたジャズ・ファンではないので、ショーターさんの作品ではちょっと異色な、ブラジルのミルトン・ナシメント(Milton Nascimento、1942 - )さんが加わった『ネイティヴ・ダンサー』を友人からもらって愛聴しています。ジャズとブラジル音楽が融合し、ショーターさんの魔術的な雰囲気とミルトンさんの野生味が相乗効果をあげていて、何とも言いようのない不思議な音楽を奏でています。私のように、特定のジャンルの音楽にこだわって深く聴くタイプではない方には、とってもオススメです。ちなみに、岩浪さんも『JAZZ CDで聴く名盤・名演658』で『ネイティヴ・ダンサー』を推薦しています。

そういえばショーターさんと仲の良い、同じサックス奏者の渡辺貞夫さんもショーターさんと同い年ですが、ご健在で何よりです。貞夫さんは数年前までレギュラーのラジオ番組を持っていたので、毎週のように貴重なお話を聞くことができました。その番組の中で、ショーターさんが貞夫さんに「今日はマイルスが来ているよ、紹介するよ」などといった話もあったように記憶しています。人間的にも、あたたかい人だったようですね。ご冥福をお祈りします。



さて、今回は3月3日の朝日新聞に寄稿された『ロシアの破局的な時間』という記事について、考えたことを書いてみたいと思います。寄稿されたのは、ロシア史研究者の池田嘉郎さんという方です。池田さんは東京大学でロシア史を教えていらっしゃる先生で、『ロシア革命―破局の8か月』という本を岩波新書から出されています。私は不勉強でまったく知らない方でしたが、これからは心にとめておきましょう。

その寄稿論文ですが、池田さんは当然のことながら、現在のロシアのウクライナ侵攻という時事的な問題から書き始めています。

 

ロシアのウクライナ侵攻から1年が過ぎたが、今でもプーチン大統領がなぜあのタイミングで侵攻に踏み切ったかはわからない。

ただ、当時69歳のプーチンが、老いを気にしていたことはありうるだろう。ロシア取材の長い記者によれば、少なくとも腹心には、今を逃せば決断のチャンスは失われてしまうという懸念があったようだ。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

私もロシアのウクライナ侵攻について、なぜ、こんなことが起こってしまったのか、いたたまれない気持ちでニュースを注視している一人ですが、現実主義者であったプーチンがどう考えても得なことのないこのような蛮行をなぜしでかしたのか、専門家の人たちも首を傾げています。池田さんは「権力政治の次元で論じられることではない」と書いた上で、次のように寄稿論文を続けています。

 

いまやらねば全てが失われ、破局が到来するという切迫感が、ロシアの歴史にはしばしば影を落としてきた。それは「破局的な時間」とも呼ぶべき時間観念である。「時間」のような普遍的に見える概念さえもが、ロシアでは権力者の存在や、権力の行使の在り方と緊密に結びついている。その不可解さは長い固有な歴史で培われたもので、文化史的な観点で見ないとわからない。

本稿は「ロシアの時間」というやや抽象的な問題をたてることで、軍事的、政治経済的な視点とは別な角度から、この国を分析してみようという試みである。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

この論文を読んでみると、この「ロシアの時間」がロシアに固有の時間であるというだけではなく、さらにもっと普遍的な問題を孕んでいるような気がして、ここに取り上げてみることにしました。とくに芸術に関心のある方ならば、私が関心を持った意味をわかっていただけるような気がしています。しかし、そのような抽象的な話に入る前に、ロシアの政治体制の特徴について知っておかなければなりません。そしてそれは、私たちの近代社会の常識とどのように違っているのか、ということも知っておく必要があります。私は池田さんの文章をできるだけ手短に要約してみますので、しばらくお付き合いください。

池田さんは、ロシアの政治体制は次のようにして生まれたのだと書いています。

 

ロシアにおける権力者の地位について、米国の歴史家R・ウォートマンは著書(2013年、Russian Monarchy:Representaition and Rule)で、西欧諸国では18世紀初頭から王位継承法が成立して、君主の地位や継承順を規定したのに対して、ロシアでは皇帝はそうした法には縛られなかった、と論じている。

権力者の無制限な力はその後、政治体制の変化にもかかわらず、ソ連時代から現代ロシアに至るまで引き継がれる。その地位は法や規約で定められてはいない。いや、ルールを自分でつくり、かつ一方的に変えられる点にこそ、権力者の権力者たるゆえんがある。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

この論文を読んですぐに思いつくのは、プーチン大統領がの2036年までの続投に道を開く大統領選挙法の改正案に署名し、改正法が成立した、という2021年のニュースです。

https://www.yomiuri.co.jp/world/20210406-OYT1T50113/

中国でも同じようなことがありました。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27980930R10C18A3MM8000/

それではロシアのこのような権力構造に対して、西欧社会ではどうなっているのでしょうか。

 

近代以降の西欧では、非人格的な法による支配が確立していったため、法が権力者の上位にある。別の言い方をすれば、権力者は個人としてではなく法人として存在している。この「法人概念」が西欧を特徴づけることは大澤真幸と橋爪大三郎の『おどろきのウクライナ』(集英社新書、22年)でも強調されていたが、ロシアでは事情は異なる。皇帝も書記長も大統領も、権力者は個人として力を振るっているのだ。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

西欧では「法が権力者の上位」にあって、権力者の横暴な政治に対して歯止めになる、という構造があります。日本でも一応、そうなっているはずですが、日本の権力者はたびたび自分の都合で法律を読みかえてしまいます。私たちは、そのことの危険性を学ばなければいけないのですが・・・。

このようなロシアの権力構造は、権力者にとって都合が良いように見えますが、そこには権力者本人にとっても大きな落とし穴があるようです。

 

だが、これは彼らに重い孤独を強いる。ロシアの権力者は、非人格的に続いてゆく法や制度に未来を託すことができない。個人の有限の人生において何事かを成し遂げねばならないからだ。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

次の権力者が法に縛られないとすれば、自分が成し遂げたいことは、自分自身がやらなければならない、ということになります。自分の人生に時間的な限りがあるのだとすれば、それは大きなプレッシャーになります。頼れるものは自分だけ、という思いが権力者に「重い孤独」を強いるのだ、と池田さんは分析しています。そのようなロシアの政治構造が、先代の政治方針を次の代の為政者が否定する、そのことによって権力者が「超越的な力」を示し、地位を維持しようとする、という方向性を生むのだ、と池田さんは解説しています。このように先代の政治を否定し、その次の代が先代を否定し、さらにその次の代が先代を否定し、ということが繰り返され、結果的にロシアの歴史は循環することになります。否定の否定は肯定、というように、世代が何回か変わることで先祖返りをする、というわけです。政治と文化は社会の、あるいは人間の深層で結びつき、ロシアの歴史では文化の循環が起こります。そのことについて、池田さんは次のように書いています。

 

制度が継承される西欧では歴史が直線的に伸びてゆくのに対して、ロシアではこのジグザグが起きることで、歴史は循環する。

ロシア史では「循環」はキーワードの一つだが、それを政治と文化の深層の結びつきという観点で、循環する「文化1」と「文化2」に区分したのは、ロシアの建築史家のV・パペルヌイだ。

85年に亡命先で発表した著書「文化2」の中で、レーニン時代とスターリン時代の違いを、文化様式の循環で解いた。

「水平」と「垂直」である。

「文化1」は平等・水平、さらに死や破壊を志向する。「文化2」はヒエラルキー・垂直、さらに誕生や豊穣を志向する。

レーニンが率いたロシア革命後、最初の10年は「文化1」で、流線型のモダニズム建築により代表される。30年以降のスターリン時代は「文化2」で、高層建築や地下鉄駅のエスカレーターにより代表される。「文化1」は全てを滅ぼす火の文化であり、宗教的な土葬にかえて広められた火葬が代表例である。「文化2」は生命をもたらす水の文化であり、スターリン時代には大運河が次々つくられた。スターリン時代は確かに大量粛清、弾圧が起きた時代だったが、芸術作品は破壊ではなく誕生をモチーフとし、生命の繁栄を過剰なまでに描いた。

この循環の区分法でゆくと、地方権力が水平的に分散したゴルバチョフとエリツィンの時代は「文化1」で、「権力の垂直統合」を成し遂げたプーチン時代は「文化2」であろう。そういえば、プーチンは川泳ぎも好きである。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

このような循環的な歴史の流れが、ロシアに独特の時間を生みます。法の支配のもとに、一定の方向に均質に流れるのが西欧の時間だとするなら、ロシアでは「文化1」と「文化2」が循環するわけですから、その時々によって時間の流れが変わるのです。それは人間の意志によって変わる時間なのです。次の部分は、池田さんのこの寄稿論文で最も興味深いところです。

 

ロシアの時間についてもうひとつ興味深いのは、社会主義体制で続いていた独特の時間である。

米国の歴史家S・ハンソンは、著書(1997年、Time and Revolution:Marxism and the Design of Soviet Institutions)で、マルクス主義と時間の関係を考察している。

それによれば、資本主義の市場経済のもとでは全てが商品となるが、その価値の尺度となるのは、万物に等しく作用する均質な時間である。だから「時は金なり」なのだ。ところが社会主義では話は異なる。そこでは時間が人間の価値を計るのではなく、人間の意思が時間の流れを統御する。

その時間観念を象徴する言葉になったのが、ソ連の詩人マヤコフスキーの戯曲「風呂」でうたわれ詩の一節「時間よ、前進!」だ(「時」という日本語訳も多いが、ここでは「時間」という社会科学的用語で訳したい)。

これは社会主義イデオロギーに関する問題だが、権力の在り方にもかかわる。時間を統御するのは権力者をはじめとする個々人の意思であり、その生は有限だから焦燥感に駆り立てられる。だから、彼らは時間に「より早く流れよ」と働きかけるのである。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

このロシア人の時間感覚が、計画経済による急速な工業化など、ロシア社会と「時間」とが連動していくような、独特の社会構造を生みます。そのような時間感覚の中では、「権力者の有限の身体が政治の基礎となっていることから、いまを逃せば全てが失われるという破局的な時間の感覚が歴史に介入してくるのだ」ということになってしまいます。そして、このようなロシア独特の時間の感覚が、冒頭のプーチンの「破局的な」不安と判断へとつながっていくのです。

このように整理すると、西欧の資本主義の「全てが商品となる価値観」に基づいた「万物に等しく作用する均質な時間」こそが時間のあり方として正しいように思えてきます。しかし、本当にそうでしょうか?

ここで語られている「万物に等しく作用する均質な時間」というのは、このblogで繰り返し話題にしてきた、モダニズム美術の「均質な空間」と連動しています。空間と時間は、人間の意識の中で深いつながりを持っているからです。そしてこの「均質」性を極限にまでおし進めた芸術作品が、ミニマル・アートの作品群だと言えます。均質である、ということは、作品のどこをとっても均質(同じ)である、ということですから、絵画であれば平滑な色面の絵画となり、立体作品であればどの部分もピカピカの工業製品のような立体になるわけです。そういうミニマル・アートの作品の良し悪しは別として、それは表現上の危機であることは間違いありません。私たちは、その均質性の袋小路から脱しなければなりません。

しかし、その一方で西欧の均質な時間とは対極にある、ロシアの独特な時間の流れが、権力者の破局的な不安を生むのだとしたら、そういう時間を受け入れることもできません。私たちは、どうしたら良いのでしょうか?

 

私は、今こそ人間が人間としての知恵と五感を働かせる時だ、と思います。

権力者の恣意的な時間感覚が、破局的な結果を生むことを、私たちはロシアの事例からわかりました。その一方で全てのものを平等に商品として見做すような均質的な時間感覚が、やがて人間の表現の自由を奪い取って、袋小路に陥ったような息苦しさを生むことを、私たちはミニマル・アートの芸術作品から学びました。いずれにしても、私たちは自分で判断もせずに、極端な論理へと走ることは許されないのです。

こういう時に、頭でっかちの論理と、感覚を無視した勤勉性や正義感に偏ることは禁物です。もちろん、自分の判断や感性を放棄して、それらを権力者に委ねることは論外です。そのことを念頭において、今回の時間に関することを考えてみましょう。

私たちはたとえ為政者であっても、法のもとで平等に生きていくことが求められていて、おそらくそのことに間違いはありません。しかし「平等」であることは「均質」であることとは違っています。その違いを論理だけで考察していくことは、なかなか難しいでしょう。そこで私たちは感覚を連動していくことにします。例えばミニマル・アートの作品は魅力的ではあるけれど、そこにはある種の息苦しさがあります。その息苦しさは感覚的なものですから、そのような感性に対して心を開くようにしなければなりません。

もちろん、為政者が独りよがりの時間感覚に陥って、破局的な結果を生んでしまいそうであれば、そのような危機に対して恐怖感や違和感を抱くような感性が必要です。これがもしも芸術表現であったならば、そこには何かに偏った醜さを感じることができるのかもしれません。例えば、次のような「ナチス絵画」と呼ばれる作品はどうでしょうか?そこには何か不健康なものを感じませんか?

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20220201002251.html

これは前にも書いたことですが、芸術は「炭鉱のカナリア」のように、この世界の危機を察知する役割があると思います。論理だけでゴリゴリと進んでしまっては何かが抜け落ちてしまいます。その時に、芸術作品は人々の感性に直接訴えて、その危機的な状態を知らせるのです。先鋭的な芸術がスリルに満ちたものだとするなら、それは見る人の感覚に何ごとかを増幅して訴えかけるからでしょう。

 

私たちがどのような時間を生きるべきなのか、それは私たちの知性と感性による判断に委ねられています。これからの世界では、私たちは危ういバランスの中で生きていくことを余儀なくされているからです。それは難しいことですが、ある意味では私たち一人ひとりが知性と感性を磨く芸術家のようなものなのかもしれません。どうせ生きていくのならば、そのことに興味を抱きながら生きていきませんか?

「ロシアの破局的な時間」は、それでは私たちはどのような時間を生きていくべきなのか、と私たちに問いかけています。池田さんはこの寄稿論文を次のような言葉で結んでいます。

 

ウクライナ侵攻からの1年間も、世界が破局の不安を感じ始めるなかで、プーチンの周辺には「時間よ、前進!」という、勇ましいかけ声が鳴り響いているのではないだろうか。

(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)

 

この声に抗するだけの自分たちの「時間」を、私たちは生きていかなければなりません。

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