平らな深み、緩やかな時間

91.「『抽象の力 近代芸術の解析』岡崎乾二郎 著」

造形作家であり、またこのblogでも以前に取り上げた『ルネサンス 経験の条件』の著者でもある岡崎乾二郎が『抽象の力 近代芸術の解析』という本を出しました。たいへん分厚い本ですが、読み応えのある力作です。言うまでもなく、岡崎乾二郎は日本の現代美術において、たいへん重要な仕事をしている人です。
私の記憶では、1981年の原美術館で開催された『ハラアニュアル』で、その作品を見たのが最初の出会いでした。そのころは、画家の辰野登恵子が「キャンバスに筆で描くことが完全に古いと思われていた」と述懐していたような時代の延長にありましたから、絵画とか彫刻とかいう既成のジャンルに当てはまるような作品は作りにくく、勢い作品を作ることよりもまずはコンセプトを鍛えることが求められていたような時代でした。そんななかで、たしか駅の名前をタイトルにした軽やかな立体作品が壁に飾られていたのだと思いますが、その曲線的な形のどこかユーモラスな感じが、小難しい作品が多かった当時にあっては新鮮でした。絵画でもなければ、彫刻でもない、もっと言えばミニマル・アートとか、プライマリー・ストラクチャーとか、当時の美術の分類さえも超えた作品形式だったので、何ともセンスが良くて頭のよい人がいるものだな、と感心しました。さらにその人が、私と5歳しか年の違わない若い方だと知って、感嘆したものでした。
岡崎はその後も順調に作品を発表してきましたし、理論面では『ルネサンス 経験の条件』のような興味深い本を出版するなど、つねに先鋭的な仕事をしてきました。そんな彼の仕事の印象をあえて言えば、私のような凡人が拘泥している地平とはかけ離れた、意外なところから問題提起をする人、という感じでしょうか。ところが今回の著作を読むとその印象とも少し違っていて、うまく言えないのですが、何かもっと正当な理論に基づいて理詰めで語る人、妥協することなく分析する人、といった感じなのです。
それではこの本はどういう内容なのでしょうか。あまりにも壮大な内容なので、要約するのも困難です。そこで、本の帯にもなっている「緒言」の言葉を引用してみましょう。

キュビスム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である。
すなわち物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった。
だが、第二次世界大戦後、こうした抽象芸術の核心は歪曲され忘却される。その原因の一つは(アメリカ抽象表現主義が示したような)抽象を単なる視覚的追究とみなす誤読。もう一つは(岡本太郎が唱えたような)抽象をデザイン的な意匠とみなす偏見。三つ目は(具体グループが代表するような)具体という用語の誤用である。これらの謬見が戦前の抽象芸術の展開への正当な理解を阻害してきた。ゆえにまた、この世界動向と正確に連動していた戦前の日本の芸術家たちの活動も無理解に晒されてきたのである。
本稿は、いまなお美術界を覆うこうした蒙昧を打ち破り、抽象芸術が本来、持っていたアヴァンギャルドとしての可能性を検証しなおす。坂田一男、岸田劉生、恩地孝四郎、村山知義、吉原治良、長谷川三郎、瑛九などの仕事は、ピカビア、デュシャン、ドゥースブルフ、モランディ、ゾフィー・トイベル=アルプ、ハンス・アルプ、エドワード・ワズワースなどの同時代の世界の美術の中ではじめて正確に理解されるはずである。戦後美術の不分明を晴らし、現在こそ、その力を発揮するはずの抽象芸術の可能性を明らかにする。
(『抽象の力 近代芸術の解析』「緒言」/豊田美術館「抽象の力」展 図録より)

聡明な人の文章は、ついていくのが大変です。それに、ここでさらりと言われていることに、ふんふんと頷きながらも、どこかで違和を感じている自分がいることも確かです。その違和感は、私が岡崎の言うところの、「謬見」にとらわれているからなのでしょうか?それとも、ここに書かれている内容を、私がよく理解できていないからなのでしょうか?
気になるところですので、そこを少しずつひも解いていきましょう。

さて、そもそも「抽象」と言えば、私たちはどんな芸術をイメージするのでしょうか。
例えば私は、カンディンスキー(Vassily Kandinsky、1866 - 1944)が『抽象芸術論―芸術における精神的なもの』で示したような、明快な抽象の理論があることを知っています。私はほんのさわりの部分を読みかじっただけですし、そもそもこのように体系的な理論が妥当なのかどうかもわかりませんが、カンディンスキーの絵画がこのような理論化によって、硬質な抒情性のようなものを獲得していることに、ある種の魅力を感じています。
それから、やはり「抽象」と言えばモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)の厳しく造形要素を純化された絵画を思い浮かべます。アメリカに渡った晩年には、新興国アメリカの躍動感に触発された作品を描いていますが、それすらもモンドリアンの造形言語の中で表現されたものです。やはり、いまの私たちから見れば、それまでの彼の作品と同様の純化された世界観を感じます。
そして、何よりも現代絵画の評論を代表するグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)と、その同時代の抽象表現主義の画家たちの絵画が想起されます。グリーンバーグの評論によって、ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)の絵画がより純粋な平面性を高めていったことは周知の事実ですが、もう少し視野を広げてアメリカの現代美術そのものについて、美術評論家の宮川淳(1933 – 1977)は次のように言っています。

アメリカ美術の《プロテスタンティズム》を語るとすれば、われわれはなによりもまず描く行為の現在進行形―イリュジョニスムを否定する禁欲性に支えられたこの現在への意志をこそ挙げなければならない。
(『引用の織物』「記憶の現在」宮川淳著より)

ここで宮川のいう「プロテスタンティズム」とは、現実の宗教としての「プロテスタンティズム」ではなくて、メタファーとしての「プロテスタンティズム」であり、禁欲的な倫理を象徴する言葉です。宮川はアメリカ美術のアクション・ペインティングからポップ・アート、ミニマル・アートまでを視野に入れて、このように言っているのです。
このような現代美術の考え方のいずれもが、何か純粋なものに還元していく方向性をもったものです。そのなかでも、とりわけ抽象芸術がこのような視覚的な純化によって、袋小路に入っていってしまったような状況にあることを、このblogでも繰り返し話題にしてきたところです。それが岡崎の言うところの、「その原因の一つは(アメリカ抽象表現主義が示したような)抽象を単なる視覚的追究とみなす誤読」と言っている部分に当てはまるのだと思います。このように読み込んでいくと、いまの状況が「抽象を単なる視覚的追究とみなす誤読」によるものであるとするならば、その「誤読」によらない「抽象芸術」の理論が私たちを新たな道へと連れ出してくれるような期待が持てます。まさに「戦後美術の不分明を晴らし、現在こそ、その力を発揮するはずの抽象芸術の可能性を明らかにする」ということへの期待感です。
そう思いながらも、ここで岡崎が語っている「抽象芸術」というものに何か釈然としない思いを感じてしまうのですが、それはなぜでしょうか。それは彼の言う「抽象芸術」が、抽象というよりもダダイズムのイメージに近いからではないか、ということに思い当たります。ここで列挙されている芸術家たちの名前は、ピカビア(Francis-Marie Martinez Picabia, 1879 - 1953)、ゾフィー・アルプ (Sophie Henriette Gertrude Taeuber-Arp, 1889 -1943)、ハンス・アルプ(Hans Arp, 1886 - 1966)など、私の中ではダダイズム、もしくはそれに近い作家として認識されている人たちなのです。日本の芸術家の村山知義(1901 – 1977)も、同様の印象があります。さらに言えば、なぜ私が違和感を抱いているのかと言えば、ダダイズムという芸術運動が、「抽象芸術」というよりも、シュルレアリスムの芸術の方に親和関係がある、という思いこみがあるからでしょう。ここでダダイズムからシュルレアリスムへの流れについて書くとなると、かなり勉強しなければなりません。ただ、おおざっぱに言ってダダイズムがシュルレアリスムへと変わっていったところで、より先鋭化したものと、失われてしまったものがあるような気がします。そのなかの失われたもののひとつが、ここで岡崎が書いている「具体性、直接性」をはらんだ「抽象芸術」の可能性であったのかもしれない、とこの本を読んでいて、ふと思い当たりました。
私のそのような思いにもっとも合致する芸術家は、ここでは名前が出てきませんがクルト・シュヴィッタース(Kurt Schwitters, 1887 - 1948)という人です。彼はダダイズムの運動には参加していないようですが、まさにダダ的な活動を展開した芸術家でした。シュヴィッターズは、自分の作品を「メルツ」という独自の概念で呼びましたが、彼のメルツ絵画は紙の印刷物や、金属や木片など廃品の一部と思われるようなオブジェをコラージュした、きわめて物質感の強いものです。その廃物のかたまりのような画面が、不思議なことにとても美しく見えることがあります。コラージュと言えば、シュルレアリスムの作家たちのデペイズマンとよばれる技法が想起されますが、シュヴィッターズの場合はシュルレアリスムの作家たちのようなイメージの倒置や混在、という手法ではなく、もっと物質の直接性を感じさせる作風となっています。
このような無意味なものの寄せ集めであるコラージュを、「抽象」絵画として発展させる方向性は、今までになかったような気がします。それはシュヴィッターズ自身が、自分の作品を「メルツ」というナンセンスな言葉で呼び、その不条理性を強調したからかもしれません。アメリカの芸術家、ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925 - 2008)はシュヴィッターズの芸術を発展させたような作品を制作しましたが、ラウシェンバーグの場合は自らの作品をコンバイン(結合)という概念で語り、その物質性をより際立たせたので、「抽象」という概念からは、さらに離れたものになっているような印象を受けます。
そこで当の岡崎乾二郎の平面作品を思い出してみると、まさに彼が自らの論理を表現として実践していることに気が付きます。彼の平面作品に見られる厚塗りのメディウムの物質感と、絵画性を際立たせる鮮やかな色彩と、そのバランスがみごとに当てはまるのです。絵画の平面性を追究することに慣れた目で見ると、岡崎の作品をどう受け止めてよいのか、少々戸惑ってしまいます。しかし、このような理論に沿って考えるなら、彼の作品はみごとな解答、もしくは少なくとも誠実な答えのひとつであるように思います。
先に私は、この本の印象を「理詰めで語る」と書きましたが、私はこの本のモチーフが、「抽象」について語るということだけではなく、もうひとつ大きな動機があるように思います。それは、彼が言う「戦後美術の不分明を晴らす」、つまり不当に評価されてきた人たちを、理論的に正当に評価する、ということです。緒言で書かれた芸術家たち、あるいはそれ以外にも熊谷守一とか白井晟一とか、一般的に評価はされているけれども、どちらかと言えばその道の中心から外れていると見なされてきた人たちに、しかるべき位置を与えること、これがこの本の大きなモチーフであると思うのです。そのために彼は広範な知識を生かして、曇りのない理論で読者である私たちを説得します。私のように、知識も理論もない者には、まったく太刀打ちできません。ただ、ただ感心してページを繰るばかりです。
そのなかでも、比較的、私にとってなじみの深い画家についてだけ、すこし言及しておきたいと思います。それはこの本の「補論」のなかでも一章が割かれている熊谷守一(1880 – 1977)についてです。熊谷守一は、大学の同期に青木繁(1882 – 1911)、同年配に坂本繁二郎(1882 – 1969)らがいて、比較されることがあります。歴史的な評価から言えば青木繁、坂本繁二郎、熊谷守一という順番なのだろう、とおもいますが、私の評価はこの逆で、画家としての技量は熊谷守一が飛びぬけているように思います。熊谷守一は最近でこそ、『モリのいる場所』という映画(残念ながら、私は未見です)で取り上げられて話題になったりしていますが、その仙人のような人柄や生活感に比べると、肝心の作品の評価はいまひとつかな、とも思います。ですから、岡崎がこの本のように論じたくなった理由もわかる気がします。その補論の中の文章のあたまで、岡崎はその決意のほどを示しています。

 熊谷守一の仕事を世界的な文脈の中に位置づけ評価しようとすること。それは極東にいた一人の画家の仕事、その絵画的探求と展開を同時代に世界的に共有されていた(だろう)問題群、その世界性の中で行われた仕事として考えてみることを意味します。いまだに使われる「東洋の辺境にありながら」といういやな言葉に逆らって、熊谷守一という画家が同時代の(西洋中心とした)世界の美術界の先端的課題(それをさしあたりモダニズム=近代絵画と同義と考えてもいいでしょう)を確かに共有していたかどうかは、しかしながら必ずしも見えるかたちでの画面の類似性によって判断されうるものではありません。
(『抽象の力 近代芸術の解析』「守一について、いま語れることのすべて」より)

このような決意のもとで、熊谷守一はマチス(Henri Matisse, 1869 – 1954)やミルトン・エイヴリー(Milton Clark Avery, 1885 - 1965 )、さらに少し年少になりますが、ド・スタール(Nicolas de Staël、1914 - 1955)やポリアコフ(Serge Poliakoff, 1906 – 1969)などと比較して語られます。また同時代的な芸術の動向としてイギリスのブルームズベリー・グループについても言及されています。私はこのグループの一員であったフライ(Roger Eliot Fry, 1866 - 1934)の『セザンヌ論 その発展の研究』をセザンヌ論の古典として知っていますし、またヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882 - 1941)の小説も何冊かも読んでいます。当然、ブルームズベリー・グループの存在も知っていましたが、これらの人たちを世界的な視野で、熊谷らと同時代の動向として考えたことはありません。ブルームズベリー・グループについて、にわか勉強をしようと思って調べてみたら、結構、廃刊になっている本が多いのですね・・・、困ったものです。古本の新書を取り寄せて、これから勉強しようと思っていますが、ちょっと楽しみです。このように離れた場所にいる人たちやその動向を、広い視野で同時代的に捉えるという試みはスリリングであり、また、たいへんに興味深いものです。その検証を可能にする岡崎の広大な教養と論理の推進力に舌を巻くばかりですが、その内容の妥当性について客観的に判断するには、しばらく時間がかかりそうです。例えば私は熊谷守一の作品が好きですが、とくに晩年の作品にはムラがあるような気がして、それらが世界的な視野の中でどのような位置を持つのか、もう少し検討してみたい気がします。彼の晩年は力の抜けたような、飄々とした作風が魅力ではありますが、それにしてもこれはちょっと力が抜けすぎ・・・と思われる作品がないわけではないのです。同様に、私はミルトン・エイヴリーの作品をそれほど多く見たわけではありませんが、熊谷の作品よりもさらに形体の甘さのようなものを感じることがあります。その一方で、熊谷守一の中期の『陽の死んだ日』という作品は、フォーヴィズムの作品として世界でも屈指の作品なのではないか、と思います。
岡崎が指摘しているように、「東洋の辺境にありながら」という思い込みもまずいと思いますが、ある作家の方法論が世界的に見て先進的であるからと言って、その作品が必ずしも素晴らしいとは限らない、というふうにも思います。ですから、ここで岡崎が試みている「世界の美術界の先端的課題」の共有という観点からの考察と同時に、やはり自分の眼で作品を見て、確認することが大事なのだと思います。

さて、このように驚愕と共感と違和感と、さまざまな気持ちが入り乱れる本ですが、とにかくこれだけの著作を書ける人は現在の日本にはいないのかもしれないので、ぜひ多くの人にご一読いただいて、わたしの感想とはちがった意見を聞かせていただきたいものだと思います。
最後になりますが、この本の帯に浅田彰が「読み終えたとき、あなたと世界は完全に更新されているだろう」と書いていますが、はたして私の場合はどうだったでしょうか。確かに「更新」された部分が多々ありますし、共感できる部分-例えば日本で私たちが考え、悩んでいる問題を「東洋の辺境にありながら」と考えずに、世界的な問題として考えるべきではないか、という点などは、もっと徹底してやらなければならない、と叱咤激励されたような気がします。何しろ、これだけ世界が狭くなり、グローバル化されている時代ですから、「日本は辺境だから・・・」などと言っていては、明治時代の夏目漱石に叱られてしまいます。(漱石も、この本に登場します。)しかし、岡崎が「抽象」についてその芸術の可能性を再検証したからといって、私たちも同じ立ち位置で考え、表現する必要はないだろうと思います。自分なりの考えや興味に応じて、それまでの世界観をそれぞれの場所で更新していけばよいのだろう、と思います。私は私なりの観点から、近代絵画を遡行し、再検証したいと考えています。

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