平らな深み、緩やかな時間

120.『知られざる傑作』から19世紀フランス絵画の美術批評について考える

7月28日の朝日新聞に日本私立大学協会新会長のインタヴュー記事が載っていました。少しだけ、そのことについて書かせてください。その記事は次のようなものです。

―コロナ禍でキャンパスへの立ち入り制限し、対面授業のできない大学が相次ぎました。
「オンライン授業に取り組むなどしたため、教育が滞ってしまった加盟校はありません。資格系や芸術系などの授業に苦労しているケースがありますが、ある程度は対面授業の置き換えができていたと思います。
ただ、ITを使いこなせず、十分な授業ができない教員がいるのも事実です。今後はオンラインでコミュニケーションを取ることができる能力も、教員の基礎的な要件になってくるかもしれません。」

いろいろと言いたいことはありますが、大きく言って二つのことが気になります。
ひとつめは「教育が滞ってしまった加盟校はありません」という発言です。私はオンライン授業のすべてを否定しませんし、オンラインならではのメリットもあったと思います。それを認識したうえでですが、この言葉を読んで深い違和感を覚えました。大学側は、オンライン授業の限界を感じ、それをもどかしく思う学生の悩みにどれほど寄り添っているのでしょうか。
ふたつめは「ITを使いこなせず、十分な授業ができない教員がいるのも事実です」というのどかな感想です。それでいながら、「教育に滞りがない」と言ってしまうことが悲しいです。私は大学の教員がただの教育巧者ではなくて、優れた学者や研究者、表現者であってほしいと思います。それでこそ、学生たちはその背中を見て学ぶのです。でも、その背中を見て学ぶだけなら、大学の先生でなくても、例えば民間の優れた研究者であってもよいでしょう。やはり大学の教員には学生への教育的な示唆、指導が求められ、そのために学生の授業料から、あるいは税金から高い給料が支払われているのです。ですから大学の教員には、その責務が果たせるような環境づくりを求められるのは当然です。「ITを使いこなせない」教員ならもちろんのこと、現場での指導が必要な授業持っている教員のすべてが、その実現をはかる義務があるはずです。
いまの2次感染が襲来しそうな現状で、キャンパスを開くことが正しいのかどうか、私にもわかりません。ただ、いまの教育界はコロナ禍で教育が停滞すること、あるいはそれを指摘されることを恐れるあまり、現場に必要以上のストレスをもたらしているように思います。このだれの責任でもない災いを、どこかに押し付けるのではなく、みんなで少しずつ背負いませんか?大学教育においては、学生が背負っているものがあまりにも大きいと私は感じています。その原因の一端が、このような大学側の認識なのだと思います。現実を客観的に見て、オンライン授業を過大評価せず、コロナ禍で停滞しているものを恐れずに認識して、その対応に知恵を出し合いませんか?
この話題の最後に、今朝の毎日新聞の記事の一部を書き写しておきましょう。

7月下旬の4連休、年末まで閉鎖された某大学のキャンパス近く。客の姿のない飲食店内に、頭を抱えて座る店主を見た。
 片やスポーツ大会に学園祭に修学旅行、果ては大学の講義までをも中止する教育界。片や感染再拡大の最中に旅行需要喚起策「Go Toトラベル」キャンペーンを行う政府。まさに「ゼロか100か」だが、間のどこかに最適解はないのか。東京都民は政府補助の対象外となったとはいえ、閉鎖中の大学の教員や職員が、この際だからと地方旅行にでも出かけていたら、これほどの皮肉はない。
(毎日新聞2020年8月2日 東京朝刊 日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介さん)

新型コロナウイルス感染は天災ですが、このちぐはぐさは、明らかに人災です。不特定多数の人が旅行に出ることが可能で、大学に所属する学生が自分のキャンパスに入れない、という奇妙さに、学生たちはいつまで耐えなくてはならないのでしょうか?


さて、今回は19世紀絵画における批評意識が、小説という創作に表れている例を取り上げてみます。批評の言葉とは違った感触で、それらは私たちのイメージを刺激します。
まずは、当時のフランス美術の中心であった展覧会がどんな様子だったのか、それを「群衆」がどのようにながめたのか、その様子を描いた小説を見てみましょう。前回取り上げたボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)の美術批評は、「サロン」評が大きな舞台となっていましたが、ここでは「サロン」展そのものではなくて、「サロン」から落選した作品を集めた落選展の会場の描写になります。ボードレールが「サロン」評を書いてもっとも活躍したのが1845年頃だったので、ここに書かれた落選展は20年ぐらいあとに開催されたものです。それでも、十分に19世紀のフランスの美術界の雰囲気やその「群衆」の様子が感じ取れると思います。

クロードは頭を上げ、なにやら聞き耳を立てていた。これまで気づかなかったのだが、なにか大きなどよめきのような音が、上の方から、間断なく聞こえていた。海岸に打ちつける嵐の咆哮、無限のかなたから押し寄せる怒涛のとどろきに似ていた。
「いったいなんだ、あれは?」彼はつぶやいた。
「群衆だよ。上の展示室だ」立ち去ろうとしているボングランが言った。
二人は中庭を突っ切り、落選展の会場に入っていった。
会場の演出はみごとだった。サロンに入選した作品の展示よりはるかに豪華である。入り口には古いゴブラン織りの壁布(タピスリー)がつるされ、絵をかけるパネルは緑色のサージの布張り、ところどころに置かれた赤いビロード張りの腰掛け、天井のガラス窓には白い日除けの幕がかかっている。連なる展示室に足をふみ入れて、最初に目にとびこんできたのは、サロンと同じ金の額縁、同じさまざまな生の色彩群だった。だが、はじめははっきりと気づかないものの、そこには、サロンとちがった一種独特の陽気さ、青春の爆発といえるものが満ちていた。
会場はすでに人の群れであふれており、なおも刻々とその数を増していた。というのは、だれもが正規のサロンはそこそこにして、好奇心にかられ、審査員を審査してやろうといった気がまえで、落選展のほうに押し寄せてくるのだった。とにかく、入り口から、なにかとてつもなくおもしろいものが見られそうだという期待が、人々を駆り立てていた。ものすごい熱気で、ほこりが床から舞い上がっている。四時ごろには、さぞや息もできなくなるのでは。
「たまらんな!」サンドーズは、ひじで人波をかきわけながら言った。「これじゃ、きみの絵をみつけるのがたいへんだ」
彼は友情に燃え、気が気じゃなかった。きょう一日を古くからの友人の作品とその栄光のために捧げようと、意気込んでいる彼だった。

<中略>

一行はつごう五人となった。上の方を見上げ、雑踏にもまれて離ればなれになったり、いっしょになったりしながら、進んで行った。
シェーヌの作品が一行の足を止めた。『姦淫の女を許すキリスト』と題し、木彫りの像みたいに潤いがなく、ごつごつした骨格で、肌は紫色、まるで泥を塗ったような絵だった。その隣に、うしろ向きの姿でこちらを振り向いている腰の豊満な美しい女性像がかかっており、一行をおおいに楽しませた。
どの壁面にも、秀れたもの劣悪なもの、まさに玉石混淆、かつあらゆる流派がひしめいていた。もうろくした歴史派の作品が、若い熱狂的なレアリスム絵画と肘つき合わせている。独創性をやけにひけらかしたもの、愚劣きわまるもの、とにかくうんざりするほどであった。美術学校の穴倉で腐ったかのような『死せるゼザベル王妃』が、大家の目によるものと思える珍しいヴィジョンの『白衣の聖母』と並んでいる。かと思えば、とてつもなく大きな『海を眺める牧人』というお笑い草な絵と向き合って、太陽の閃光といった小品『球戯に興じるスペイン人』がかかっていたりする。また、鉛の人形みたいな兵隊がいっぱいの戦争画から、古色蒼然としたもの、タールで塗りつぶしたような中世風の絵など、じつにさまざま、なにひとつ不足するものがないすさまじさである。
しかし、このおぞましい種々雑多のなかで、風景画には、真摯に描かれているものが多く、また、肖像画となると、大部分、描き方が斬新で、青春の香気や勇気、情熱にあふれており、一行の関心をおおいにひきつけた。おそらく官展のサロンのほうでは、劣悪な作品の数は少ないだろうが、その大半は、こちらとくらべれば、はるかにありふれた凡庸なものにちがいないだろう。とにかく参観者たちは、こちら落選展会場では、戦場にいる思いだった。しかも、思い切りしゃべりまくれる陽気きわまりない戦場なのだ。夜明けにラッパが鳴りひびき、日没までに敵を爆破する確信に燃えて進撃する活気にみちた戦場に臨んでいるかのようだった。
(『制作』エミール・ゾラ著 清水正和訳)

エミール・ゾラ(Émile Zola、1840 - 1902)による展覧会の記述は、まだまだ続きます。実は主人公のクロードの作品が、この落選展の最大の話題、笑いの種になっていたのですが、その作品は実際にスキャンダルとなったマネÉdouard Manet, 1832 - 1883)の『草上の昼食』(1863サロン落選、落選展展示)のようでもあります。しかし、それにプラスされた描写もあり、訳者の清水正和(1927 – 2002)はクロードのモデルとなったセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 – 1906)の『モデルヌ・オランピア』(1872-73)に近いとも感じられる、と書いています。
https://www.musey.net/5460
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/cezanne_olympia.html
このエピソードだけでも興味深いものですが、この小説の結末が主人公クロードの首つり自殺であったことから、ゾラと仲の良かった印象派の画家たちから困惑の声が寄せられました。とりわけゾラと幼少時からの親友であったセザンヌとは絶交状態になってしまいました。『制作』はその事件の原因として語られることが多い小説です。

今回は19世紀のフランス美術の熱気、それも「群衆」による熱気を感じていただきたくて、『制作』の描写を引用しましたが、本当に考察したいことはこの小説についてではなく、この落選展から少し前の時代、ボードレールの美術批評の時代に、具体的にどのように絵画が語られていたのか、ということです。例えば『1845年のサロン』というボードレールの批評を見てみましょう。この批評はドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 - 1863)の『マルクス・アウレリウスの最後の言葉』という作品に関する批評の一部です。
https://www.musey.net/4410

この色彩は類まれな造詣のたまものであって、ただ一つの欠点もない、―それでいてしかも、ことごとく離れ業ばかりだ―不注意な目には見えない離れ業、というのも諧和(アルモニー)は渋くて深いものだからだ。色彩は、この新しい、より完全な造詣の中にその仮借ない独創性を失うどころか、相もかわらず血みどろな、怖るべきものである。―緑と赤とのこの均衡はわれわれの魂に快い。ドラクロワ氏はこのタブローの中に、すくなくともわれわれの信ずるところ、彼がまだ常用としていなかった色調のいくつかを導入しさえしている。―それらの色調は互いどうしみごとに引き立て合う。―背景は、このような主題の要求するところに従ってまさに厳粛である。
最後に、言うことにしよう、誰も言わないことだから、この絵は完璧にうまくデッサンされ、完璧にうまく肉付け(モドレ)されている、と。―色彩をもって肉付けすることの難しさが、公衆にはちゃんとつかめているだろうか?難しさは二重である、―ただ一つの色調でもって肉付けすること、それは擦筆(エストンプ)でもって肉付けすることであって、難しさは単純だ。―色彩でもって肉付けすること、それは、早急で、自発的で、複雑な仕事のうちに、まず陰影と光との論理を見出し、次に色調の正しさと諧和とを見出すことだ。言いかえれば、それは、たとえば陰が緑で、赤い光がひとつさしているとするなら、一挙にして、回転する単色の物質のような効果をもたらす、一方は暗くて他方は光りかがやく緑と赤との諧和を見出すことなのだ。
このタブローは完璧にうまくデッサンされている。この法外な逆説に関して、この臆面もない暴言に関して、ゴーティエ氏が昨年ものにした学芸欄記事の一つで、ク―テュール氏に関してわざわざ説明の労をとったところのことを―というのもTh.ゴーティエ氏は、作品が彼の文学的な気質、教養とうまく合う場合には、正しく感ずるところのことをうまく評釈するからであるが―すなわちデッサンには二種類、色彩家のデッサンと素描家のデッサンがあるということを繰り返し、説明し直すべきであろうか?手法はたがいに逆である。しかし、奔放な色彩でもってうまくデッサンすることもできるのだ、ちょうど、専ら素描家であり続けながら、諧和のある色の塊(マッス)を作り出すこともできるのと同じように。
(『ボードレール批評1』「1845年のサロン」ボードレール著 阿部良雄訳)

この最後の段落の中の「この法外な逆説に関して」という部分に、阿部良雄は次のような注釈をつけています。

アングルはデッサンの大家、ドラクロワは色彩の名手だがデッサンは下手、という通説に対しての『逆説』。
(『ボードレール批評1』「1845年のサロン」の注釈)

ここにひとつの通説があることが分かりました。
デッサンと色彩が別な技法として存在するということ、そしてデッサンの名手がアングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres、 1780 - 1867)で、色彩の名手がドラクロワであり、それらは両立しない、という通説です。それに対して、ボードレールはドラクロワを賞賛しつつ、ドラクロワがアングルとは別な方法で高度なデッサンを実現している、ということを言っているのです。「誰も言わない」と書いているぐらいですから、このデッサンと色彩との融合、ということはボードレールにおいてオリジナルな、そして重要な考察なのでしょう。彼は『1846年のサロン』という評論の中で、「3 色彩について」という項目を立て、次のように書いています。

和声(アルモニー)は色彩理論の基礎である。
旋律(メロディー)は色彩における統一、あるいは全般の色彩である。
旋律は一個の結論を要求する。それは一個の総体(アンサンブル)、その中ですべての効果が一個の全体的効果に協力する総体である。
かくして旋律は精神の中に深い思い出を残す。
わが国の若い色彩家たちの大部分は旋律を欠いている。
一枚のタブローが旋律的であるかどうかを知る良いやり方は、その主題も線も分からないほど遠くからそれを眺めることだ。それが旋律的である場合には、すでに一つの意味をもち、すでに思い出の目録(レパートリー)の中に座を占めてしまっている。

<中略>

同じ人間が同時に色彩家かつ偉大な素描家たり得るかというのは、しばしば問われるところだ。
然り、そして否である。というのは、デッサンにもさまざまな種類があるからだ。
純然たる素描家というものの特性はなかんずく精緻さに存するが、この精緻さというものは筆触(タッチ)を排除する。ところがよい効果の筆触というものもあるのであって、色彩によって自然を表現する役を負わされた色彩家は、デッサンに一層大きな厳格さを求めることによってよりもさらに、よい効果の筆触を抹殺することによって失うところの方が、しばしば大きいであろう。

<中略>

というわけで、同時に色彩家かつ素描家であることはできるが、それはある意味においてである。素描家が大きな量塊(マッス)によって色彩家たり得るのと同じように、色彩家は、線の総体の完全な一論理をつかむことによって素描家たり得る。だがこれら二つの特質の一方は、それぞれ他方の細部を吸収してしまうのである。
色彩家たちは自然と同じようにデッサンする。彼らの形象は、彩色された量塊の間の調和ある闘争によって、自然に区画されているのだ。
純粋な素描家たちは、哲学者であり、精髄の抽出者である。
色彩家たちは叙事詩人である。
(『ボードレール批評1』「1846年のサロン」ボードレール著 阿部良雄訳)

この評論が書かれたのが、マネの『草上の昼食』がスキャンダルとなる20年近く前です。さらにモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)が『印象・日の出』(1874)を発表し、印象派という名称が流布されるのは30年近くあとのことです。それにもかかわらず、「その主題も線も分からないほど遠くからそれを眺めること」とボードレールが書いている絵画の鑑賞法は、まさに印象派の絵画にこそふさわしいものです。そう考えると、ボードレールが批評した色彩家であるドラクロワの絵画は、美術史で語られる以上に印象派の絵画と繋がっているのであり、さらにそこから色彩の理論を読みとったボードレールの批評は、ボードレールの死後の絵画にこそふさわしく、その射程は20世紀絵画にまで届いていたのです。

優れた美術作品というものは、しばしば時代を越えて評価され、影響するものですが、優れた理論や言葉も同様に時代をはるかに超えることがあります。次にそのユニークな例を見てみたいと思います。
それは文豪、バルザック(Honoré de Balzac, 1799 - 1850)がボードレールの批評よりもさらに10年以上まえに書いた『知られざる傑作』(1832)という小説です。この小説にはバロック時代のフランスの画家、ニコラ・プーサン(Nicolas Poussin, 1594 - 1665)が登場しますので、バルザックから見ても200年ぐらい前の時代を想定していますが、そこに登場するのは早すぎた色彩画家であり、それゆえの悲劇なのです。そのあらすじは次のようなものです。

若い画家、プーサンは、高名な画家ポルビュス訪ねます。そこにフレンホーフェルという老画家が来て、ポルビュスの絵に手を入れて見違えるような作品にします。フレンホーフェルは自分が描いている『美しき諍(いさか)い女(め)』という作品について語り、プーサンはどうしてもその絵が見たくなります。プーサンは自分の恋人をモデルに差し出すことで、その絵を見ることになります。しかし実際の絵を見てみると、そこには混沌とした色彩の中から浮き出てくる女の足があるだけでした。プーサンに指摘されてそのことに気づいたフレンホーフェルは、その夜のうちに絵をすべて焼き捨てて死んでしまいました。

なんとも奇妙な話です。中島敦(1909 - 1942)の『名人伝』を彷彿とさせるところもあります。そこから人生哲学を読みとりたい人は、併せて読んでみることをおすすめします。しかし、ここはもっと具体的な美術論の話です。悲劇の老画家、フレンホーフェルが小説の中で持論を語る場面があるので、その部分を引用してみましょう。これはフレンホーフェルが『美しき諍い女』を見せてほしい、とせがまれた場面です。

「わしの作品を見せろって?」と、ひどく興奮して、老人は叫んだ。「いけない、いけない!あれはもっと仕上げなくちゃならないのだ。きのうの夕方ごろ、わしは描き上げたと思った。目はなんとなくうるんでいるようだったし、肉は動いていた。編んだ髪の毛もゆれ動いていた。彼女は息をついていたのだ。わしは平べったいカンヴァスに、自然の浮彫りとまるみを現わす方法を見つけたには見つけたが、けさ、明るいところで、わしは自分のあやまちをみとめたのだ。ああ、わしはそうしたかがやかしい結果に到達するために、彩色法の巨匠を徹底的に研究したものだよ。光の王たるチチアノの絵の塗り上げを、一つ一つハギとってしらべてみた。あの至上の画家と同じように、わしの人物を、絵具をなめらかにたっぷり盛り上げて、明るい色調で下塗りした。―なぜっていえば、陰なんて偶然にすぎないのだからね。君、よく覚えておきたまえ。―それからまた仕事にもどって、半濃淡(ドゥミ・タント)と上塗りを重ねることによって、しかもだんだんに透明の度合いを減らしていって、陰を思いきり濃く、ぐっと突っこんだ墨色にまでしたのだ。当たり前の画家が描いた陰影は、彼らの絵の明るい色調とはまるで別の性質のものだ。それは板切れだ。青銅だ。そのほかなんといってもいい、とにかく陰になってる人肌だとはいえないのだ。人物が位置をかえても、もとの場所は影も消えず、明るくもなるまい。わしはこの、もっとも名高い画家でさえもが多く落ちこんだ欠陥を避けた。そして、わしの絵では、もっとも深められた陰の不透明の下でも、肌の白さがくっきりと見えるのだ。なにも知らないやつらは、念を入れて細くきれいに線を引くからといって、正確にデッサンをしていると思い込むようだが、わしは彼らのようにわしの人物の外縁をニベもなくきちんときめて、ほんのちょっとした解剖学的な細部まで目立たせるようなことはしなかった。なぜなら、人体は線で終るものではないからね。この点、彫刻家はわれわれ画家よりよけいに真に近づきうるのだ。自然のなかでは、いろんなまるみがそれからそれとつながって、おたがいにすきまなく包み合っている。厳密にいえば、デッサンなんてものは存在しないのさ。―笑ってはいけないよ、お若い方!このことばがどんなにへんてこに見えても、いつかはその理由がわかるだろう。―線というものは、人間がそれによって物体に落ちる光の効果を説明する手段なんだ。しかし、一切が充実しきってる自然には、線なんぞありはしない。デッサンをするのは、すなわち物をその環境からひきはなすのは、正しい肉づけをすることによってだ。光線の配分によってはじめて人体にそれらしい形が与えられるのだ。だからわしは、輪郭の線をきちんときめることはしなかった。輪郭の上にブロンド色の暖かい半濃淡を雲のように流して、輪郭と背景が落ちあってる場所に、正確に指をつけることもできないくらいにした。そばへよってみると、この仕事はもやもやしていて、正確を欠いているように見える。だが、二歩も離れると、すべてが引きしまって、きまってきて、浮きあがる。からだは回転する。いろいろの形が隆起する。ぐるりに空気が流通するのがわかる。―ところがね、わしはまだまだ満足しないのだよ。いろいろ疑いがあるのだ。ひょうっとすると、線なんぞ一本だって引いてはいけないのかもしれない。それからまた、人物は中央をまっ先に攻撃したほうがいいのかもしれない。最初、いちばん光にあたっている出っぱったところにとりついて、それからもっとも暗い部分に移るのだ。宇宙の聖なる画家、太陽はそういうふうにやりはしないだろうか。おお、自然よ、自然よ、おん身が逃げて走ってゆくところを、不意につかまえたものが一人であったろうか。まずまず、あまりに深い知識は、無知と同様、一つの否定に到達するものさ。わしは自分ながら自分の作品が信じかねるて。」
(『知られざる傑作』バルザック著 水野亮訳)

長い引用ですみません。ちなみに、たぶん「光の王たるチチアノ」は、イタリア・ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠、ティツィアーノ( Tiziano Vecellio、1490年頃 - 1576)のことでしょう。
この架空の画家の長広舌ですが、聴きどころは満載です。
お気づきだとは思いますが、この老画家の形や色調表現へのこだわりは、そのままボードレールの「色彩家」の批評につながります。そして筆触を積み重ねて形体を表現する、という考え方は、実はティツィアーノにまで遡ることができるのだと教えられます。
さらに「人物は中央をまっ先に攻撃したほうがいいのかもしれない」という部分は、ジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 – 1966)がモデルを見て制作するときに、モデルと自分との距離感、それも顔の中心である鼻を描くのに苦心したエピソードを思い出させます。また、「いちばん光にあたっている出っぱったところにとりついて、それからもっとも暗い部分に移るのだ」という部分はセザンヌが、ものには頂点がある、といった認識を持っていたことと共通しているように思います。
つまりバルザックはティツィアーノからの絵画の流れを見ることによって、ボードレールよりも10年以上早くから、輪郭線にこだわる形体の表現ではなく、筆触や色彩の積み重ねによって生き生きとした肉付けができることを把握していたのです。それもフランスのバロック期の大画家、プーサンに教示するという設定でこの部分を書いているのですから、架空の話とはいえ大胆です。私たちはバルザックというと、その小説作品よりもロダン(François-Auguste-René Rodin、1840 - 1917)によって作られた肖像彫刻の方に親しみがありますが、やはりさすがの大文豪ですね。
そして、そのフレンホーフェルが生涯をかけて追究している『美しき諍い女』という作品が気になりますが、それは実際にはこのように描写されています。

近々とそばへよった二人が認めたものは、カンヴァスの隅に端を見せている一本のムキだしの足であった。それは、形のない霧のような、混沌とした色と調子とおぼろなニュアンスの中から、それだけ浮き出していたが、かぐわしい足、生きている足であった。信じられないような、漸次に手をくだされた破壊からまぬがれたその断片を前にして、二人は驚愕のあまり化石したようになってしまった。その足は鳥有に帰した都市の廃墟のあいだから出現した、パロス島産の大理石で刻んだヴィナスのトルソのように、そこに現れていた。
(『知られざる傑作』バルザック著 水野亮訳)

ここで書かれている「二人」というのは、プーサンとポルビュスの二人の画家です。
私はこの小説を読んだ時から、何となくこの『美しい諍い女』のことを、アメリカの抽象表現主義の画家、デ・クーニング(Willem de Kooning, 1904 – 1997)が描いた「女」シリーズのようだな、と思っていました。
https://blog.goo.ne.jp/shohokimura/e/605414fc0b52e3316cde5f96f0fe0cd7
クーニングの作品では、足だけが浮き出てくるということはありませんが、形のない「混沌とした色と調子」のなかで人体を感じさせる、という点では似ているのかな、と思います。バルザックの時代に、実際にこういう作品が存在したわけではないのでしょうが、色彩に関する理論を先へ先へと観念的に進めた結果が20世紀後半の前衛絵画の予言であった、ということになるようで興味深いです。
それにしても、一人の小説家がどのようにすると、このような予言的な小説を書くことができるのでしょうか。「訳者あとがき」には、こう書かれています。

バルザックが誰に、また何に触発されてこの作を書くにいたったかについては、いろいろの説があるけれども、いずれも確証なく、推論の域を出ない。ただ、ディドロ、ホフマン、ドラクロワ、テオフィール・ゴーティエの名前を、われわれにも親しみのある名前としてあげておこう。ディドロの絵画批評を読み、ホフマンの二、三の小説を先行作として仰ぎ、ドラクロワとの会談に刺激され、その作品に敬服したことが、『知られざる傑作』の生まれる契機だったのではあるまいかという説に、これという確かな裏づけもないながらに、なんとなく心がひかれるのである。
(『知られざる傑作』「訳者あとがき」水野亮)

フランス文学者で翻訳家の水野亮(みずの あきら、1902 - 1979)にとっては「親しみのある名前」であっても、一般的にはそうでもないと思うので、一応解説めいたことを書いておきます。
ディドロ(Denis Diderot、1713 - 1784)は、フランスの哲学者、美術批評家、作家ですが、『百科全書』の編集者として有名です。ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776 - 1822)はドイツの作家ですが、フランス語に翻訳されて人気があったようです。『くるみ割り人形とねずみの王様』などの幻想的な物語作家として知られています。水野が指摘する「先行作」というのは、何なのでしょう?テオフィール・ゴーティエ (Pierre Jules Théophile Gautier,1811 - 1872)は、ボードレールとも仲の良かったフランスの詩人、作家であり、絵画にもくわしく、評論も書いていたそうです。年齢的にはバルザックとボードレールの中間ぐらいの感じですね。双方ともに親しかった、ということになるのでしょうか。こんなことを調べてみても、バルザックの創作の秘密はわかりませんが、美術に関する批評の知識や幻想的な物語の先行例など、執筆環境が整っていたことは理解できます。

やはり芸術作品というのは、まったくの無から生まれるのではなく、時代を越えた影響関係や同じ時代の人、作品からの刺激があって生まれるのですね。
それに、『制作』で描写された物見高い群衆など、良くも悪くも当時の人たちは美術に興味があったことが分かります。いまほど娯楽が蔓延していない時代、しかも風刺画をはじめとした絵画による画像が貴重であった頃のことですから、美術展が今以上に注目を集めたことでしょう。セザンヌの生涯は不遇だと言われますが、その一方でうらやましい時代でもあったと思います。
しかし、過去をうらやんでも仕方ありません。新型コロナウイルス感染が収束したら、オンラインによる情報交換の方法も生かしつつ、画廊や美術館でさまざまな実作品、作家と出会いたいものです。
美術大学は若い作家の方たちにとって、そのための準備期間でもあると思います。少なくとも、私にとってはそれだけが大学院まで通った意義だったのです。ですから、時期が来たらキャンパスを開いて、学生の皆さんが刺激し合いながら、元気を取り戻したという知らせを聞きたいですね。

 



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