平らな深み、緩やかな時間

119.『群衆の中の芸術家 ボードレールと19世紀フランス絵画』について

新型コロナウイルスの感染が、また広がってきました。
政治のドタバタにはうんざりしていますから、ここでこの件について何か書きたいわけではありません。しかし、学校教育において高校以下の学校と大学との間で、どうしてこんなに対応に差があるのか、マスコミもあまり取り上げないなかで、美大生の作った漫画が話題になっているようなので紹介します。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2007/19/news032.html
そして、大学の教育はこれからどうなってしまうのでしょうか。もしもオンライン授業がスタンダードになってしまうとしたら、実技制作の中で学生同士が切磋琢磨する美術大学にとって、それは自殺行為に等しいことです。大学の現場の先生方は、そのことをわかっているのでしょうか。いまこそ、美術大学の存在意義をかけて、キャンパスが学生たちの集う場所となるように努力していただきたいと思います。
その一方で、私の勤めている高校の教育委員会は、この状況に至っても通常通りの学校教育にこだわり、感染症+熱中症のリスクが高まっているにもかかわらず、夏休みを短縮して通常授業を続ける方針です。あれほど数を増やすと言っていたPCR検査は一向に進まず、発熱のため登校できず、かといってPCR検査もなかなか受けさせてもらえない、という気の毒な生徒もいます。
また、通常登校とはいっても、教育委員会は今後のことも考えてオンライン授業は続けたいようで、おかげで現場の教員は二重の負担を強いられ、さらには生徒に任せられない掃除や消毒に追われる毎日です。私はこの四連休の三日間を、たまっていたオンライン授業の採点とこれからの配信準備に費やしました。
何が正解なのか、わかりません。ただ、大学生が漫画で指摘しているように、政府が「Go To トラベルキャンペーン」を実施しているのに、大学がどうしてここまで自粛しなくてはならないのか、ちぐはぐな印象は否めません。そのしわ寄せを学生だけに背負わせてよいのでしょうか。
最後に、学生の方々、とくに今年入学された大学生、大学院生の方々は孤独な中でストレスばかりがたまる毎日だと思います。しかし、必ずや終生の友人とめぐりあい、貴重な学びを分かち合う時間が訪れますから、どうか大学入学を後悔しないでください。大学教育、専門教育はみなさんにとっても、社会にとっても必要なものです。そこに足を踏み入れたみなさんは、私たちにとって必要な人たちなのです。私のような何の力もない、社会的に不必要な人間からこんなことを言われても、何のことやら、とお思いでしょうが、私には言葉を尽くすことしかできません。だから、また書きます。

さて、今回は阿部良雄(1932 – 2007)が1975年に著した『群衆の中の芸術家 ボードレールと19世紀フランス絵画』を取り上げます。三回前のblogの中で、美術史家の三浦篤(1957- )が「阿部良雄先生の『群衆の中の芸術家』を読まなかったら、19世紀後半のフランス絵画を専門としていたかどうか分からない」と新聞に書いているのを読んで、この本のことを思い出しました。
『群衆の中の芸術家』は、その副題が示す通り、詩人で評論家のボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)と「19世紀フランス絵画」について書かれた本です。
このボードレールという人が私のような浅学の者には把握しづらく、さらに「19世紀フランス絵画」という美術史上でも複雑な時代が、私の頭を悩ませます。「19世紀フランス絵画」というと、私はすぐに「印象派」を思い出してしまうのですが、ボードレールに焦点を当てて考えるなら、彼は写実主義の画家、クールベ( Gustave Courbet , 1819 - 1877)とほぼ同年代で、実は印象派の先駆者と言われるマネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)は、ボードレールよりも一まわり年下になります。そしてボードレールの若い頃に美術界の中心にいたのは、ロマン派のドラクロワ (Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 – 1863)であり、それに対抗する古典派のドミニク・アングル( Jean-Auguste-Dominique Ingres、1780 - 1867)でした。
そして彼が美術批評の対象としたのは「サロン」という公的な展覧会(官展)だったのですが、私はといえば「サロン」というと印象派の画家たちが締め出しを食った展覧会、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 – 1906)が落選し続けた展覧会、という程度の認識しかありません。そんな展覧会が批評の対象となるのか、いまの日本で言えば「日展」や「院展」の作品講評(批評?)を書くようなものなのではないか、と貧しい想像力を働かせてしまいますが、これはたぶん、一部では当たっていて、一部でははずれています。「サロン」にも「日展」「院展」にも失礼な物言いだったら謝りますが、確かにそれらの展覧会には後世には顧みられないような作品が注目作品として展示されていたのですが、同時にドラクロワやアングルの名作、新作が見られる場所でもあったのです。ちなみに私は「日展」の作家であった東山魁夷(1908 - 1999)や「院展」の奥村土牛(1889 - 1990)の一部の作品について悪くないと思っています、念のため。
このように、ボードレールという詩人であり評論家であった人について書こうとするときに、「サロン」がどうであったとか、同時代人は誰であったのか、そのときの美術界の状況はどうであったのか、などということは、面倒で、どうでもいいことだと思われるかもしれません。もっと純粋に、時代を越えた彼の言葉、彼の批評と向き合えばいい、という考え方もありますが、この『群衆の中の芸術家』という本は、あえてその面倒な問題を取り上げた本なのです。ですからこの本の美術史的な、あるいは社会史的な奥深さが、歴史に関してまったく無知な私を戸惑わせ、困らせるのです。しかし、ここを乗り越えないとボードレールを理解できないばかりか、19世紀フランス美術のこともさっぱりわからないままになってしまいます。阿部良雄は、この本のあとがきでこう書いています。

しかし、19世紀中葉に西欧とくにフランスの絵画の世界に起こった大きな革新を正しく評価するためには、この革新を、社会的・歴史的な文脈の中に置いて捉えることが必要である。それは、文学や芸術に、社会や歴史が反映しているとかどうとかいうこととはまったく異なる、むしろ文学者や芸術家が、自ら否応なしに置かれた社会的・歴史的情況の中で、自らの制作活動とそれに付随するもろもろの活動を通じて、状況にどのように反応しどのように働きかけて行ったか、それを明らかにすることなのだ。
19世紀中葉からそうした状況の中に騒々しく登場してきた多数者の「公衆」le public そしてまた「公衆」の出自である都市風景を構成するものである「群衆」la foule ―この現実に投げこまれた芸術家が、どのように、「公衆」あるいは「群衆」との関係を処理あるいは表現してゆこうとしたのか。そこにおそらく19世紀の芸術を解く一つの鍵がある。そしてボードレールこそは(その後にくるマラルメもそうだが)、この状況に関しての貴重な証人である。出口裕弘氏がその『ボードレール』(紀伊国屋新書、および小沢書店)で、巷の現実の中に生きる行動的(男性的)詩人としてボードレール像を提示したひそみにならって、私もまた、広くは社会、狭くは芸術界の現実をひしひしと受け止めながら、その中で考え決断し創造してゆく芸術家・批評家としてのボードレール像を提示してみたかった。そして、そのような現実と芸術家との最も有力な接点が、「公衆」であり、「群衆」であると思われた。
(『群衆の中の芸術家』「1975年版あとがき」阿部良雄著)

ちなみにマラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 - 1898)はボードレールより二まわり以上、マネとはちょうど一まわり年下なのですね。言うまでもなくマラルメは、アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud、1854 - 1891)と並ぶ19世紀フランス象徴派の代表的詩人で、このblogでも『骰子一擲(とうしいってき)』を紹介したことがありました。マネは、ボードレールもマラルメも、その肖像を描いています。
また、出口裕弘(でぐち ゆうこう、1928 - 2015)はフランス文学者で、私も名前ぐらいは知っていましたが、残念ながら彼の『ボードレール』は入手困難なようです。阿部良雄自身も『シャルル・ボードレール』(1995河出書房新社)というボードレール研究の決定版と言われている本を著しています。こちらは入手可能ですが、私はその本を本屋で手に取って、とても読めそうもなく、そのまま棚に戻した記憶があります・・・。
それはともかく、この19世紀のボートレールの生きた時代は、ブルジョワが勃興した時代でした。ブルジョワジー(Bourgeoisie)とは有産階級のことであり、それまでの王侯貴族に代わって社会の中枢となった人たちでした。「サロン」においても、お金を持つ圧倒的な多数であった彼らは、旧時代の趣味人から見れば、芸術の趣味が分からない困った「群衆」だったのだろうと思います。高尚な芸術について語ろうとするなら、そういう人たちを避けて、もしくは軽蔑して、美術批評を始めればよいのでしょうが、ボードレールの取った態度はそれとは逆でした。阿部良雄は『群衆の中の芸術家』という本を、次のような文章で始めています。

ボードレールをその時代の中に、その時代の群衆の中に置きなおしてみよう。それもまず、展覧会の群衆の中に。
「何年か前のことだが、とある絵画の展覧会で、馬鹿者たちの群衆が、まるで工業製品のように磨かれ、蝋引きされ、ニスを塗られた一枚のタブローの前で、大騒ぎをしていた。これは芸術とは絶対に正反対のものだった。ドロリングの『台所』を愚劣とすればこれは狂気の沙汰、あちらが模倣者ならこちらは盲信者というべきだった。この顕微鏡的絵画の中では、蠅の飛ぶのまでが見えた。私はみんなと同じように、この怪物的なしろものに惹き寄せられた。だがわれながらそうした奇妙な弱みが恥ずかしかった、というのもそれは、おぞましいもののもつ抗い難い牽引力に他ならなかったからだ。」(「葡萄酒とはシュッシュについて」1851年)
物見高い観衆が大騒ぎしているというただそれだけの理由でそんな絵は避けて通る、という態度もあり得たはずである。だが、その6年前、24歳のボードレールは美術批評家としての首途に、と言うよりは、初めてものにした展覧会案内の小冊子の前書きの中で、正反対の態度を宣言していたのだ。
「われわれは群衆と芸術家たちの目を惹きつけるものすべてについて語るであろう。―われわれの職業意識がわれわれにそう命ずるのだ。―人の気に入るものはすべて気に入るだけの理由があるのだし、道に迷った者たちの群がり集まっているのを軽蔑したところで、彼らをその在るべき場につれもどす手だてとなりはしない。」(『1845年のサロン』)
(『群衆の中の芸術家』「1群衆の中の批評家」阿部良雄著)

表面がニスでつやつやしていて、蠅の飛ぶのが見えるほど細かく描かれた絵を、群衆がその物珍しさに集まって感嘆している、という情景が眼に浮かびますが、それを軽蔑したり、無視したりしても何も生まれてはきません。彼らが何を気に入っているのか、その理由を明らかにし、彼らを在るべきところへ連れ戻すのだ、と若きボードレールは宣言しているのです。群衆を無視しないで、群衆と共にあり、彼らを在るべきところへ導きたい、というボードレールの姿勢が確認できます。
そして時代は古典派からロマン派へ、あるいは古典派の巻き返しもあり、さらにその中で写実主義や自然主義が台頭し、印象派までもうすぐ、という時代にボードレールは活動しました。そんな複雑な時代に、ボードレールは批評というものをどう考えたのでしょうか。阿部良雄はボードレールが、さまざまなレヴェルの人が批評を読むことを承知しつつ、その第一要件を一般読者、すなわち「ブルジョワ」にとって面白いものでなければならない、と考えていたと指摘しています。そしてボードレールの次の言葉を引いています。

「私の心底から信ずるところ、最上の批評とは、面白くて詩的な批評のことである。ああいった、冷静で代数学めいて、すべてを説明し尽くすという口実の下に、憎しみをも愛をも持たず、いかなる種類の気質をも意志的に脱ぎ棄ててしまうていの批評ではない。そうではなくて、-一枚の美しいタブローとは一人の芸術家によって反射された自然なのであるから―このタブローがさらにまた一個の聡明で感受性ある精神によって反射されたものであるような批評をいうのだ。従って一枚のタブローの最上の解説は、一篇の14行詩(ソネット)あるいは悲歌(エレジー)であり得るだろう。」
(『群衆の中の芸術家』「1群衆の中の批評家」阿部良雄著)

よけいな解説ですが、ソネット(十四行詩、Sonnet)は、14行から成る定型詩、エレジー(悲歌、elegy)は、悲しみを歌った詩のことです。つまり、批評は詩句のように人を楽しませるものでなければならない、ということを言いたいのでしょう。しかしこの最後の一文が批評を純粋詩のようなもの、日常生活とは切り離されたもの、という曲解を生んでしまった、ということも阿部良雄は指摘しています。そしてボードレールはこの後に次のようなことを言ったのだ、と強調してその考えを訂正しています。

「だが、この種の批評は、詩集向き、詩的な読者向きのものだ。本来の意味での批評はといえば、これから私の言おうとするところを哲学者たちは理解してくれるだろうと私は期待する。正当であるためには、つまり存在理由をもつためには、批評というものは、偏向的で、情熱的で、政治的でなければならない、つまり、排他的な観点、だが最も多くの地平を開く観点に立ってなされなければならない。」
(『群衆の中の芸術家』「1群衆の中の批評家」阿部良雄著)

素晴らしい文章ですね。批評というものが「正当」であり「存在理由」をもつためには、「偏向的で、情熱的で、政治的でなければならない」とボードレールは言うのです。だからそれは「排他的な観点」から書かれなければならないけれども、それは同時に「最も多くの地平を開く観点に立ってなされなければならない」と彼は書いているのです。ただたんに「偏向的」である批評は巷にあふれていますし、それとは正反対に公平で中立的に見えるけれども毒にも薬にもならない批評、つまり「存在理由」のない批評もあらゆるところで眼にします。また、私も含めて自分が歴史的に、社会的に、あるいは政治的にどういう立場に立っているのか、自分の存在している場所を正しく把握できていないがゆえに実は「偏向的」な妄言を吐いている、ということもあり得るでしょう。
ちょっと脱線しますが、美術批評家の松浦寿夫(1954 - )が1983年に『絵画のポリティーク』という論文で美術手帖の「芸術評論」に入賞した時、松浦が論文の冒頭で引いていた言葉がまさにこのボードレールの「批評は偏向的で、情熱的で、政治的でなければならない」という一節です。すぐれた絵画実践は、それまでの美術の記憶に逆らう政治的なもの、つまりポリティーク(フランス語: Politique、英語: Politique)である、と松浦はその初期の頃から書いていたわけですが、そこで引用されたのがブルジョワを無視せずに、まさに近代と向き合った最初の美術評論家であったボードレールの言葉なのです。20代の松浦が書いた言葉の真意を、還暦を迎える私がやっとおぼろげに理解できた、という情けない話なのですがあえて書いておきます。

さて、最初の章の紹介だけで、ずいぶんと字数がかかってしまいました。
時代の中で懸命に生きたボードレールの姿を理解していただくためにも、わずかですが具体的な芸術家とのかかわり、時代との向き合い方にも触れておきましょう。例えばドラクロワとボードレールとの関係について、阿部良雄はこう書いています。

無論のことボードレールにとってはドラクロワその人こそ現代のフェイディアースであり現代のラファエルロであって、ドラクロワがそのような存在であることを理解させようとして大いに力を尽くしたのだ、ということは間違いない。ただここで、世に容れられぬドラクロワをまるでボードレールが発見したのででもあるかのように、二人の天才のそれこそ運命的な出会いの意義を誇張する伝説化作業(あるいは遠近法の誤り)とは、きっぱりと縁を切っておきたい。1822年の官展(サロン)に『ダンテとウェルギリウス』(ルーブル美術館)をもって初登場したドラクロワは、45年にボードレールが美術批評家として出現するのを待つ必要はなかった。悪罵を浴びせかける批評家たちは数多かったが、これに対し、のちの政治家ティエールを初め、テオフィール・トレ、テオフィール・ゴーティエ、ギュスターブ・ブランシュなど有力な論客がドラクロワ擁護の筆陣を張ってきたのだし、美術予算を左右する要路との折り合いも常に悪かったわけではなくて、官展出品の大作はしばしば政府の買い上げ品となったし、ブールボン宮(現国民議会議事堂)やリュクサンブール宮(現上院)の壁画・天井画など、公共建築物装飾の注文を受けもしている。
ただ、ドラクロワがどれだけ理解されてきたかということになると別問題であり、これまではドラクロワ支持者の賛辞さえも偏見にみちみちていた、それを是正してこの巨匠の芸術の正しい理解へと人々を導くことこそわが使命、と若き批評家ボードレールは気負い込んだ。そのような熱意がおそるべき頭の良さに裏打ちされている文章は、今日のわれわれをなお感動させるに足るものをもっているのだが、何といっても百年有余を経てそれを読みわれわれが、ただその感動に身をまかせ、ボードレールはドラクロワ芸術の本質を解明しわれわれに理解させる美しい文章を書いた、というようなお座なりを言ってすませるとすれば、知的怠慢というものだろう。ある具体的な歴史的境位の下に一個の選択として書かれた文章の意義を理解するために、われわれもまた、分析的、そして歴史的な知性を働かせる義務をもつ。
(『群衆の中の芸術家』「2 ダンディ、それとも芸術家?」阿部良雄著)

このように、阿部良雄の分析はボードレールの美しい文章を評価しつつ、歴史的な事実を踏まえてボートレールとドラクロワの関係の通説をきっぱりと断ち切ります。すでに巨匠であり、ダンディと呼ぶのにふさわしいドラクロワに対し、若くてドラクロワのアトリエに出入りしていても、ドラクロワの方はあまりボードレールのことを意識していない様子であり、その関係は非対称のものでした。
それから、この章のタイトルである「ダンディ」という言葉ですが、なぜ「ダンディ」であることが問題なのでしょうか。ダンディな男はあくせくと生活のために働くものではなく、「ダンディズム=非職業意識」という概念があったようですが、近代という時代の中で王侯・貴族が退いていく一方、働かなくて済む人間はそうはいません。つまり「ダンディ」という概念も、時代の潮流の中ではかなくも揺れ動く存在だったのです。そうすると、かろうじて好きな絵を描き、詩を書く芸術家がその「ダンディ」の定義に引っかかってくるのですが、それもあくせくと絵を描く「つまらない専門家」である絵描きは「ダンディ」とはいえません。その点、ドラクロワは広い教養と社交性を身につけた「ダンディ」であったことは間違いないようですが、ドラクロワの出入りする社交界(モンド)は古い体質の名残でもあり、ドラクロワの存在は芸術的にも社会的にも古い伝統と新しい世界が交錯したものだったようです。それでは、ボードレール自身はどうだったのでしょうか。

詩人ボードレールにとって「伝統」とのかかわりがきわめて複雑に屈折したものであることは言うまでもなく、定型詩という伝統的なジャンルで書かれた『悪の華』に見られる強烈な皮肉とパロディー化作業は、反語的にしか伝統を所有し得ないと見ぬいた明晰な精神の仕業として把握され得る。そしてここではダンディズムが伝統への幸福な帰属意識とは縁遠く、衰頽を意識する時代にあって身をもちこたえる「悪魔的な」精神の在りようとして働いている。他方、「現代生活の画家」に対応する詩作が散文詩集『パリの憂鬱』であるとするなら、そこには、「伝統」との苦闘から解放されてのびのびと現代の都市の空気を呼吸する「世界の精神的市民」の姿が見られはしないだろうか。
(『群衆の中の芸術家』「2 ダンディ、それとも芸術家?」阿部良雄著)

私は詩のことはさっぱりわかりませんが、『悪の華』の「灯台」という詩に偉大な美術家の名前が出てきますので、取り上げてみましょう。ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ヴァトーと次々と出てきますが、ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes, 1746 – 1828)とドラクロワの出てくるところから後ろを書き写しておきます。

ゴヤ、未知の物の数々でいっぱいの悪夢、
魔宴(サバト)のさなかに煮られる胎児だとか、
鏡に向かう老女の姿、そして真裸の少女らが
魔物どもを誘惑するために、靴下をはき直すところ。

ドラクロワ、悪しき天使らの出没する血の湖、
常緑の樅の林はその上に影を落とし、
陰鬱な空の下、異様な吹奏楽隊(ファンファーレ)は、
ヴェーバーのおし殺された溜息のように、過ぎていく。

これらの呪詛(のろい)、これらの冒涜(ののしり)、これらの嘆き
これらの法悦、叫び、涙、これらの讃歌は、
無数の迷宮を通って次々にひびく一つの木霊、
死すべき定めの人間に与えられた、神の阿片!

それは無数の歩哨の繰り返し伝える一つの叫び、
無数のメガフォンで送りつがれる一つの命令。
それは無数の城砦(とりで)の上に点された一つの灯台、
大きな森に踏み迷った狩人たちの呼び声!

なぜならば、主よ、それこそはまさに、自らの尊厳を
私たちが示すための、こよなき証左(あかし)なのですから、
世から世へと流れては、御身の永遠の岸辺に
だとりついて息絶える、この熱烈な咽(むせ)び泣きこそは!
(『悪の華』「灯台」ボードレール著、阿部良雄訳)

ちょっと言葉遣いが厳めしい感じがしますが、日本語訳ですから何とも言えません。しかし、たぶん阿部良雄はフランス語の雰囲気をそのまま訳しているのでしょうから、原語で読んでもこんな感じがするのでしょう。ゴヤに関する部分は、ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』から想を得て書いているようです。
『ロス・カプリチョス』(https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/2725
ヴェーバー(Carl Maria Friedrich Ernst von Weber、 1786 - 1826)は、『魔弾の射手』で有名なドイツのロマン派の作曲家、指揮者、ピアニストです。
日ごろ、詩を読むことなどほとんどありませんし、ましてや19世紀のフランスの詩について何か言える立場ではまったくありませんが、先ほどの阿部良雄の解説を読んでしまうと、何となく定型の中で言葉のイメージを解き放そうとしているようにも感じられます。
なお、余計なことですが『悪の華』は堀口大学(1892 - 1981)の翻訳が有名ですが、旧仮名遣いで私には一部読めません。かなり自由に意訳しているという評判も聞きます。例えば阿部良雄訳の「死すべき定めの人間に与えられた、神の阿片!」という部分は、堀口訳だと「泡沫(あわ)より淡(あわ)い人の身に天が授ける阿片だ!」というふうになります。「死すべき定めの人間」が「あわよりあわい人の身」という日本語の韻を踏んだ言葉遣いになっています。どちらも「限られた人生を生きる人間のはかなさ」が感じられれば良いのでしょうが、翻訳として、あるいは原語と比較して、どちらが文学的に好ましいのでしょうか、どなたか教えてください。なお、言葉の読みやすさという点から単純に考えると、若い方には阿部良雄訳をお薦めします。
さて、ボードレールがクールベと同年代だということは先に書きましたが、ボードレールが放浪芸術家生活に身を投じていたときに、クールベのアトリエに居候したことがあるらしく、クールベの描いた『ボードレールの肖像』はその頃に描いたのではないか、というのです。しかし、都会的なボードレールと地方出身のクールベとの関係は、距離を置いた微妙なものだったようです。
それに比べるとマネとボードレールは都会者同士、年齢も適度に離れていて気安い関係だったのではないか、と阿部良雄は分析します。

マネとの関係においては、クールベとの関係の場合と同じように、芸術上の問題の共通性という絆も確かに存在したけれども、今度は詩人が十一歳年長という年齢の差もあって、同年輩の「同志」間のような緊迫した交友ではなかったはずだ。それに、貴族的なドラクロワ、田紳的なクールベとのつきあいにくさとは違って、同じパリの中流ブルジョワの子弟同士という間柄で、生活上でも芸術上でも趣味の一致に達し易かったことは想像にかたくない。
(『群衆の中の芸術家』「4 現在>の発見」阿部良雄著)

これは阿部良雄の本領を発揮した卓見であったようで、例えば美学・美術史学に関する名著と言われるリオネロ・ヴェントゥーリ(Lionello Venturi、1885 – 1961)の『美術批評史』では、ボードレールについて「啓蒙的観念と詩人としてのすばらしい感受性のみごとな一致、彼が当時の芸術に対して涵養した情熱、絶えず印象から原理へと向上せんとする熱望、そういったものが、ボードレールを、全批評史の中で特別な位置に据えている」と褒めつつも、「もしボードレールの批評に限界があるとすれば、それは、彼の友人マネーの新しい芸術を彼が理解するにいたらなかったことであるが」というふうに解説しています。おそらく、この評価が一般的であるのでしょうが、阿部良雄は次のように書いています。

ボードレールのマネに対する無理解ないしは無関心を非難する現代の批評家たちがきまってもち出す論拠は、詩人の沈黙である。マネの仕事を世人に理解させるためのまとまった文章をなぜ書かなかったのか、―わけても、63年あるいは65年、悪罵嘲笑の的になっているマネを擁護する筆陣を張ることをなぜしなかったか、という非難だ。批評家としてのボードレールにとっては商業ジャーナリズムの枠内で注文原稿を書くほかに発表の機会はなかったという現実、新聞なり雑誌なりに定期的に執筆する時評家であったゴーティエなどと違って偶発的にしか注文を受けることがなかった上、先ほど挙げた55年の連載中断の例が示すように、編集者たちとの折り合いは決してよいものではなかったという事実を無視した、ないものねだり的な非難である。まして64年春ベルギーへ都落ちしてからは、パリのジャーナリズムとの縁は事実上断たれたといってよい。さらに、ボードレールと画家たちとの関係をうんぬんするとき、ドラクロワのように名声の確立した大家との関係を論ずる場合と、クールベやマネのように同世代あるいは後輩の画家との関係を論ずる場合とでは、観点がおのずと違ってしかるべきではないだろうか。
(『群衆の中の芸術家』「4 現在>の発見」阿部良雄著)

こういう文章を読むと、一つの時代、一人の芸術家や批評家を追い続けた美術史家の説得力を感じます。私たちはのちの時代から彼らのことをながめるしかないのですが、それでもこういう記述を読むと、素人ながら美術史の醍醐味に接したような気がします。
そしてボードレールはマネの才能を認め、マネの作品が世評でたたかれたとき、「きみは自分が、そういう羽目に立たされた最初の人間だとでも思うのですか」と年少の芸術家に対して父親のように叱り、励ましたのだそうです。ただ、ボードレールは46歳で亡くなるまで、「現代生活の英雄性」を表現する記念碑的な絵画は、ドラクロワ亡き後ではもう現れないだろう、と絶望していたのだそうです。「偉大な伝統は失われてしまい、新しい伝統はまだ出来ていない」というボードレールの認識が、彼がマネを評価できなかった、という理由にもなっています。しかし、「それを責めるのは無意味である」と阿部良雄は書いています。そして次のように書いています。

いちはやくマネの才能をみとめ、ブーダンやヨンキントなど印象派の先駆者ともいうべき風景画家たちに激励を惜しまなかったボードレールだが、他方には、社会そのものの秩序=様式性に呼応する様式性をもった大芸術は19世紀にはもはや不可能だという、明晰な終末観的認識があった。
(『群衆の中の芸術家』「4 現在>の発見」阿部良雄著)

いつの時代にも、われわれは「偉大な伝統は失われてしまい、新しい伝統はまだ出来ていない」と感じるものなのではないでしょうか。そういう意味では、ボードレールはとても人間的な絶望感をもって、亡くなったのだと思います。しかし、マネの才能を見ぬいていたボードレールでさえ、マネがその後『フォリー・ベルジェールのバー』(1882)などの「現代生活の英雄性」を実現したような名作を描くとは、予想していなかったのです。それはボートレールの死後、15年が経った後のことです。
さてさて、こんなふうに密度の濃い本をざっと粗読みとも言えないやり方でつまみ食いをしてしまったわけですが、美術史に関する本を読むと、現在とは違う時代に連れていかれるような興味深さあります。とくにこの『群衆の中の芸術家』は学術書ではなくて、読み物として書かれたものですから、なおさらそう感じるのかもしれません。しかしながら、ただ興味深いというだけではなく、私たちはこのような本から何を学んだらよいのでしょうか。人それぞれ、いろいろな考え方があると思いますが、著者の阿部良雄は1991年の文庫版のあとがきとして、次のように書いています。

たしかに、物語性からの脱却、そして純粋絵画への(ほとんど予定調和的な)進化として19世紀西欧絵画史を捉えることによって、切り捨てられるものはあまりにも多かった。そうした狭隘な進化史観からの脱却が、美術史のポストモダン的位相であったと言えるのかも知れない。ただし、われわれの対象とする絵画の世界が拡大されたのは喜ぶべきこととして、それでもって価値判断が一切排除されてしまって事が片付くというものでないことは、言うまでもない。価値基準再構築の作業にすでに手が付けられつつあると思うし、ここで簡単に論じ尽くせることでもない。
(『群衆の中の芸術家』「文庫版あとがき」阿部良雄著)

阿部良雄が書いているように、「純粋絵画への(ほとんど予定調和的な)進化」論によって、「切り捨てられるものはあまりにも多かった」とは、真剣に美術の現在を考えている人ならば、だれでも考えていることだろうと思います。そして「そうした狭隘な進化史観からの脱却」は、さまざまなところで試みられています。このblogでもたびたび取り上げているロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )の著作などは、まさにそうしたものでしょう。しかし、そうした試みがある一方で「価値基準再構築の作業」は、まだまだ物足りないように感じます。あんまり、そのことを書くと愚痴にしかならないのでやめておきますが、自分のやるべきことを黙ってやるしかないのが現状だと思います。
ところで今回はボートレールのことを取り上げましたが、その時代の美術批評では具体的にどんなことが語られていたのか、ということについて書くことができませんでした。そこで次回は、その批評の内容に絡めて奇妙な傑作小説が書かれたので、その本について触れたいと思います。
ということで、予定では次回も19世紀美術の話です。
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