この放送を視聴したときにも、ローティさんの思想について部分的なコメントを書いたような気がします。
しかし、今回あらためて取り上げてみようと思ったのは、このところ読み込んでいた『世界哲学のすすめ』の中で、ローティさんの名前が出てきたからです。この本は大きな視野で、哲学者や哲学書、思想書を取り上げているので、私のような素人には、これまで曖昧だったそれぞれの哲学、思想の位置関係がわかってありがたいです。
そのローティ(Richard McKay Rorty、1931 - 2007)さんですが、アメリカ合衆国の哲学者で、『世界哲学のすすめ』の中では「現代分析哲学」の章に登場します。その部分を抜粋でご紹介します。
20世紀後半の哲学は、19世紀から隆盛が続いたドイツ哲学、つまりドイツ観念論、マルクス主義、新カント派、現象学などに代わって、英語圏を中心とする分析哲学(Analytic Philosophy)が世界をリードしました。
分析哲学については、その起源をめぐって議論があります。
<中略>
・・・アメリカではプラグマティズムとの重なりが問題となり、論者によって理解に幅があります。
<中略>
あるいは、リチャード・ローティが1979年に出版した『哲学と自然の鏡』が分析哲学を否定してそこから抜け出す記念碑に見えるかもしれませんが、分析哲学はその後の変遷をへて、現在でも広い地域で中心的な哲学であり続けているのです。
(『世界哲学のすすめ』「第6章 世界哲学としての現代分析哲学」納富信留)
いかがですか。あれ、これだけ?という感じがしますか。
以前にも書きましたが、私は「分析哲学」についての知識がありませんでした。これは私自身の不勉強のせいでもあるのですが、実は一般的な哲学の概説書を見ると、「分析哲学」について詳しく言及した本が、以前はあまりありませんでした。(最近では、哲学者の仲正昌樹さんの書かれた本などで、「分析哲学」やローティさんについて、かなり詳しく書かれたものもあるようです。私は現在、それらの本も勉強中です。)これは哲学の概説書が、ヨーロッパの哲学に偏っていたことに要因があると思います。納富さんが書いているように、「英語圏を中心とする分析哲学が世界をリード」していたにもかかわらず、私のような素人にはそういう認識がなかったのです。
付け加えて書いておくと、私が現代芸術を知る上で哲学や思想も勉強しなきゃ、と思ったのが1980年代のことですから、時間的に仕方ない面もあります。ローティさんに関して言えば、その最初の主著『哲学と自然の鏡』の出版が1979年、今回取り上げられている『偶然性・アイロニー・連帯』の出版が1989年ですので、学生時代(1985年くらいまで)に彼の思想に触れることは不可能でした。
ましてやローティさんは、「分析哲学を否定してそこから抜け出す」ことを考えた人ですから、哲学の概説からはみ出てしまうのも当然です。実際にローティさんは、『哲学と自然の鏡』を出版してからは、哲学アカデミア(狭い意味での哲学の世界)から離れてしまい、以後20年強にわたって独自の文筆生活を送ることになったのだそうです。
そのローティさんが、なぜ今、注目されているのか、なぜ「100分de名著」で取り上げられたのか、その理由を見てみましょう。
次の「100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』」の書籍の紹介を読んでください。
民主主義の危機は、「哲学」が守る
「トランプ現象」を20年近くも前に予言したとして、一躍注目された哲学者リチャード・ローティ。彼は、現代アメリカを代表する哲学者でありながら、真理の探究を目指し「理性」を重視する従来の哲学(近代哲学)を、社会の分断や差別をもたらすものとして根本から否定する。そして、『偶然性・アイロニー・連帯』などの著作を通して、「人と人との対話を止めない」ことを軸とする新たな哲学の役割を提示し、あるべき社会の在り方を論じた。
社会の分断やポピュリズムが広がり民主主義が脅かされている現在、私たちはどのような社会を構想すればよいのか。ローティのダイナミックな思想を手がかりに、そのヒントを探っていく。
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231602024.html
上に書かれている通り、ローティさんは「トランプ現象」を予言した人として、一躍有名になったのです。その予言は20年近く前、ということですから、具体的にトランプさんという人が登場する前に、アメリカの社会が現在のように分断されてしまうことを予想していたのです。
朱さんは、そのことについて「100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』」の「はじめに」でくわしく書いています。実はその「はじめに」を、次のリンクから丸ごと読むことができます。
https://mag.nhk-book.co.jp/article/44250
今また、アメリカ大統領選を間近に控え、なんとトランプさんが再選されるかもしれないという状況で、ローティさんの思想云々よりも、そちらの方に興味のある方もいらっしゃるかもしれません。ぜひ、「100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』」をお読みになるか、上記のリンクを開いてお読みください。
とりあえず、以下に要約しておきます。
2016年のアメリカ大統領選でトランプさんの当選が決まった三日後に、ツイッター(現在のX)に投稿されたある本の引用画像が注目を集めました。18年前の1998年に刊行されたその本には、次のようなことが書かれていたそうです。
「労働組合員および組合が組織されていない非熟練労働者は、自分たちの政府が低賃金化を防ごうとも雇用の国外流出を止めようともしていないことに遅かれ早かれ気づくだろう。時同じくして、彼らは郊外に住むホワイトカラー層──この人たちもみずからの層が削減されることを心底恐れている──が、他の層に社会保障を提供するために課税されるなど御免だと思っていることにも気づくだろう。」
「その時点において何かが決壊する。郊外に住めない有権者たちは、一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき『強い男』を探しはじめることを決断するだろう。その男は、自分が当選した暁(あかつき)には、せこい官僚、ずるい弁護士、高給取りの証券マン、そしてポストモダンかぶれの大学教授といった連中にもはや二度と思い通りにさせない、と労働者たちに約束するのだ。」
法学者リサ・カーさんによるそのツイートは大量に拡散され、引用元の“Achieving Our Country ”(邦題『アメリカ 未完のプロジェクト』)は、その日のうちに入手困難になったそうです。「まさにトランプ新大統領の誕生を予言したかのような内容です」と朱さんは書いています。しかし、ローティさんがトランプさんのような人物を「強い男」として予想していたのかどうか、私には疑問です。アメリカ社会の分断を予想していたのはすごいと思いますが、現実はローティさんの予想を超えて悲惨な状況に陥っていると思います。
さて、それはともかくとして、ローティさんとは、どのような哲学者だったのでしょうか。
ここで、先ほどの書籍紹介の一部を再度引用しておきましょう。
彼(ローティさん)は、現代アメリカを代表する哲学者でありながら、真理の探究を目指し「理性」を重視する従来の哲学(近代哲学)を、社会の分断や差別をもたらすものとして根本から否定する。そして、『偶然性・アイロニー・連帯』などの著作を通して、「人と人との対話を止めない」ことを軸とする新たな哲学の役割を提示し、あるべき社会の在り方を論じた。
これは興味深いですね。
「真理の探究」を目指す哲学を「社会の分断や差別をもたらすもの」として「根本から否定する」というのは、どういう事でしょうか?
それに「人と人との対話を止めない」新しい哲学とは、どのようなものなのでしょうか?
ここから先は長くなるので、おそらくは難解なローティさんの著作(私は読んでいないので予想ですが・・・)を噛んで含めるように説明する朱さんの言葉を、さらに私が端折って解説してみます。繰り返しになりますが皆さんは、ローティさんの原著はともかく、朱さんの書かれた著作をお読みになることをお勧めします。
私の目論見は、このローティさんの思想をどのようにして芸術の創造活動に活かすのか、ということです。できれば、そこまで考えてみたいです。
それでは解説してみましょう。
ローティさんの「従来の哲学(近代哲学)」の否定を考える時に、その前に「近代哲学」とはどのようなものなのか、を知っておく必要があります。このblogでも何回も取り上げていますが、それはフランス生まれの哲学者、数学者のデカルト(René Descartes、1596 - 1650)さんの「我思う、ゆえに我あり;コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)」から始まっています。
すべての存在を疑ったデカルトさんですが、疑っている「我」という存在は否定できない、だから「我」は存在する、という理屈です。この疑い得ない「我」とは私の「心」のことですが、このときに「心」という存在と、心とは別に存在する身体を含めた「物体」という存在と、いわゆる心身二元論が生まれたのです。
しかしローティさんは、このデカルトさんの二元論に異を唱えました。
デカルトさんの「心」の存在証明は誰にとっても自明なものではなく、デカルトさんが天才だからこそ見出せたもので、いわば「心」の存在はデカルトさんの「発明」なのだ、というのです。
これがローティさんの最初の主著『哲学と自然の鏡』の中で主張されていることで、デカルトさんは「自然」としての「心」を、「我」が「鏡のように」映しとることができると考えましたが、実はそれは絶対的な真理などではなく、デカルトさんが哲学の歴史の中で形成した一つの見方なのだ、と言ったのです。
これには哲学者たちが困りました。こんなことを言われてしまったら、近代哲学はその基礎から崩れてしまいます。その後のさまざまな哲学的な探究の全てが疑問に付されてしまうのです。ローティさんのこんな考えは受け入れられない、ローティさんを哲学界から追い出した方がいい、ということになってしまい、事実その通りになったのです。
それにしても、ローティさんはなぜこのようなことを言ったのでしょうか?
このローティさんの『哲学と自然の鏡』が暴いたものは、哲学だけが真理につながる唯一のものだ、という哲学者たちの思い込みです。そして彼らは、その思い込みによって、学問の世界で特権的な地位を得ているのです。
例えば、もしも私のような素人が「心の存在についてよくわからない」と疑問に思ったとします。そのことを偉い哲学者に問いかけたとしたら、彼は「それはすでにデカルトが存在証明をしたものだよ!」と言うでしょう。つまり哲学を一から勉強しろ、というわけです。そんなことを言われてしまったら、気の弱い私は黙るしかありません。
このように、人に沈黙を強いるような「真理」の探究ならば、それはしない方がいい、というのがローティさんの考えです。
彼は『哲学と自然の鏡』の最後に、次のように書いているそうです。
私が強調しておきたい唯一の点は、次のことだ。すなわち、(西洋)哲学者の道徳的な関心は、西洋(という私たち)の会話を継続させることに向けられるべきであって、この会話のなかで近代哲学の伝統的な諸問題が占めている地位にしがみつくことに向けられるべきではないのだ。
(『哲学と自然の鏡』ローティ、引用訳は朱喜哲)
なるほど、もっともなことだ、と思います。
しかし、ローティさんがいうように、哲学が「真理」の探究をやめるとしましょう。そのときに、哲学は何をすべきなのでしょうか。
それに「会話」の「継続」をしなければならない、ということは分かりました。それでは、何をどのように語ったら良いのでしょうか。
それを明らかにしたのが、今回取り上げられた『偶然性・アイロニー・連帯』という著作です。この本のタイトル、「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」という言葉には、それぞれローティさんの託した思いが詰まっているようです。それを確認していきましょう。
まず「偶然性」という言葉です。
この「偶然性」という言葉には、確かさを欠くというネガティブな響きがあります。とくに哲学的に何かを考えるときには、つねに確かな「真理」を求めようとするあまり、「偶然性」という概念は排除されがちです。例えば「自己」について考えるときにも、ブレない「自己」、確かな「自己」を前提にしがちです。
しかしローティさんは、そのようには考えません。ローティさんによれば、「自己」もまた偶然性のもとで形成されるものなのです。ローティさんは、精神分析のフロイト(Sigmund Freud、1856 - 1939)さんの考え方に注目します。フロイトさんの精神分析が明らかにしたのは、「偶然のかたまりとしての『自己』」だというのです。
このように考えると、例えば自分と違った考え方を持っている人、自分と違った道徳観を持っている人とも話し合う余地が生まれてきます。目的がバラバラな人たちが集まっても、同調することもなく、お互いを保護するという意味で協力することができるのだ、とローティさんは考えます。それをローティさんは「リベラルなユートピア」というふうに言っているようです。
朱さんの説明を読みましょう。
そんなリベラルなユートピアの市民に必要なのが、「自己の偶然性」の認識です。一緒にやっていく人同士のあいだでは、自分が相手に影響されたり、相手が自分に影響されたりする可能性があると認識する。つまり、それぞれが変わりうる存在であり、必然に固執するのではなく偶然に開かれていることを確認する。そうやってお互いを改訂されることに対して開きながら、どうにかしてときには手を携える。そこに、連帯の可能性や必要性が出てくるのだとローティは言います。つまり、「必然的な本質を共有しているわれわれだから、わかるはずだ」ではなく、むしろ本質など持たない、互いに偶然的な存在であるからこそ、何かしら一緒にやっていくことができるという可能性が出てくる。ここが偶然性から連帯の契機が出てくるという、この後の議論につながる部分です。
(「100分de名著 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』」朱喜哲)
これは素晴らしい考え方ですね。現代社会に最も必要とされている認識であるように思います。最近の大統領選の討論会での候補者のハイチ移民に対する発言が問題となっていますが、彼に必要なのはまさに「偶然性から連帯の契機が出てくる」という認識ではないでしょうか。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240913/k10014580651000.html
次に「アイロニー」という言葉です。
「アイロニー」という言葉は、「皮肉」「冷笑的」といった意味ですが、ローティさんはそういう意味では使っていません。ローティさんによれば、「アイロニー」とは自分の言葉に対してつねに懐疑的であるような態度のことを言っているのだそうです。そのことによって、話者はつねにより良い言い方を探すようになります。また、自分の言葉に懐疑的である人は、自分と異なる語彙を持つ他者に対して、そのことを理解して、近づくことができるのだ、と言うのです。
このように、言葉を疑い、新たな言い方を探す人は、「自己創造」ができる人です。しかし、それは時に、その人が信じる社会正義とそぐわないことがあります。そのことを認めた上で、懐疑的な言葉のあり方を探す人のことを「リベラル・アイロニスト」というふうに、ローティさんは言っているようです。
そしてローティさんは、人は立場によって言葉を使い分けるものだ、と言っています。公的な場面で使う言葉、私的な場面で使う言葉は統一される必要もなく、矛盾していて良いのだというのです。ローティは、それを「バザールとクラブ」という比喩で言い表していて、公共の市場であるバザールでの発言と、夜の飲み屋で発する愚痴とは違っていていい、むしろ公私の統一を要求したり、そこに本質を求めたりすると無理が生じる、と言っています。
このローティさんの認識は、インターネットで公的な空間が広がる今日では、ますます重要性を増しているように思います。
最後に「連帯」という言葉です。
この本の中では、言葉を媒介とした二つの事件について語られています。
一つはルワンダ内戦、もう一つはボスニア紛争です。両方とも『偶然性・アイロニー・連帯』の出版後に起きた事件ですが、これらの事件が示しているのは他者の痛みを想像することを欠いた「残酷さ」でした。そして、その「残酷さ」を発揮させたものは「私たちは同じ本質を共有する人間だ」という幻想でした。この「本質」を追求する幻想は、「同じ本質を共有することができない人間」を人として認めない、という残酷な幻想でもありました。
この「残酷さ」を乗り越えるために必要なのは、「同じ本質を共有する人間だ」という幻想を抜きにした、人間同士の「連帯」です。
ローティさんのユニークなところは、この「連帯」を実現するためには、フィクションやエスノグラフィ、ジャーナリズムなどの力に可能性を見出したところです。つまり物語の想像力、文化や行動様式の詳細な調査、マスメディアによる報道や解説、論評などによって、遠い関係にある人間同士をイマジネーションによって「連帯」させる、ということなのです。この際に、犠牲者の痛みの言葉、あるいは理論家による論理的な言葉は意味を持たない、つまり存在しない、とローティさんは言います。苦痛そのものは非言語的なものであり、言葉で痛みを語ろうとしても、その痛みの大きさは到底語りきれない、というのです。
ローティさんは『偶然性・アイロニー・連帯』のなかで、二つの小説を取り上げているそうです。一つはウラジーミル・ナボコフ(Vladimir Vladimirovich Nabokov, 1899 - 1977)さんの『ロリータ』(1955)、もう一つはジョージ・オーウェル(George Orwell、1903 - 1950)さんの『1984』(1949)です。
朱さんは、ここでは『ロリータ』の記述について注目しています。皆さんはご存知だと思いますが、書店による『ロリータ』の紹介文を見ておきましょう。
「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」の、ときに爆笑を、ときに涙を誘う決定版新訳。
https://www.shinchosha.co.jp/book/210502/
この小説の主人公ハンバート・ハンバートはヨーロッパからアメリカに亡命してきた中年の大学教授です。幼い女子に性的興奮を覚えるという人物で、「ロリータ・コンプレックス」という言葉はこの小説から生まれたものです。この男は自分の倒錯した愛情にしか興味がなく、少女を連れ出して旅をする道すがらでさまざまな体験をしますが、自分の興味のないことには全く感情が動きません。
ここで注目されているのは「カスビームの床屋」というエピソードです。ハンバートは立ち寄った床屋の男性が語る話に全く心を動かしませんが、実はその話は野球選手の息子を第一次世界大戦で若死させてしまった、という悲しい思い出なのです。しかし私たちはその話に一顧だにせず、年配の床屋の仕草の一つ一つ、仕事の仕上がりなどに苛立ちを覚えるハンバートに同調してしまうのです。こんなことは、フィクションでなくてはあり得ません。この時に私たちは自分の内にある「残酷さ」に気がつきます。これをローティさんは「感情教育」というのです。
ここで朱さんの解説を読んでみましょう。
さらに踏み込むなら、ハンバートの残酷さとは私たちの残酷さであると気づくことによって、「われわれ」が拡張されたとも言えます。ここはローティらしいひねりが利いているところです。「われわれ」を拡張するとは、第一には、残酷さのさなかにある被害者に共感することによって実践されるものでした。しかし同時に、加害者もまたわれわれと同類だと気づくことによっても、「われわれ」は拡張されるのです。『偶然性・アイロニー・連帯』は、公私の区別を提案したり、アイロニーに積極的な意味を見出したりするなど、私たちが一般的に「よい」あるいは「そうすべきだ」と考えることと逆のことを、説得するというよりは魅力的に語ってくれる本だと言えます。その本の終盤で、ローティは被害者への共感を語るのではなく、加害者の話を通していかにわれわれ自身に目を向けさせるかを考えている。ここもやはりローティらしいおもしろさではないかと思います。
(「100分de名著 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』」朱喜哲)
さて、ここまで読んでいただくと、哲学を否定するというローティーさんの一見ネガティブな主張が、実は既成の哲学によって抑圧された正常さを取り戻す試みであったことに気がつきます。
最後に、このローティさんの主張を、私たちは芸術の世界でどのように活かすのかを考えてみましょう。
ローティさんは、言葉の使い方、言葉の限界についてたびたび言及していました。言葉は会話を止め、思考を停止するために用いてはならず、あくまでそれは会話を継続するために使われなくてはなりません。どんなに理知的な言葉であっても、それが物事を断定し、その次の発言を抑圧するものであってはいけません。
このことを考えると、まさにこれは芸術批評の言葉のあり方について言及したものだと気がつきます。「あの画家は・・・主義に属する画家だ」とか、「あの絵の手法はもう古い」とか、えらい評論家に断定されてしまうと、私たちはついそれを鵜呑みにしてそのように思い込んでしまいます。しかし、そもそも一人の画家を「・・・主義」だと説明するのは、その画家の持つ属性を的確に言い表そうとしただけのことで、それ以上のものではありません。また、手法やテクニックから絵を語ることは、その絵について深く知る手立ての一つに過ぎません。だからそのようなことを言ってはダメだ、ということではなく、その批評が「・・・主義」という用語を使ったことで、より言葉が広がっていくものなのかどうかを見極めましょう。どんなに偉い批評家であっても、他者に有無を言わせないぞ!という言い方は建設的ではありません。批評は万人に開かれたものであるはずです。
そして創作者である美術家は、つねに自分の作品に対して懐疑的で、批判的であるように努めましょう。これはなかなか難しいですね。斯く言う私だって、実は自分の作品が最高に面白いと思って絵を描いています。しかしそのこととは別に、自分に対する批判的な目を失ってしまっては成長がありません。だから「自分の作品は最高だ!でも、もっと良くなるぞ、それにはどうしたらいいんだ?」というふうに考えるのが良いのではないでしょうか。そして他者の声に耳を傾ける開かれた感性も必要です。
さらにその開かれた感性を磨くために、多くの芸術作品に触れ、そのイマジネーションに身を委ね、そこから改めて自分の世界を広げていく、という往復運動が必要です。そして日々の些細な出来事、報道される大きな事件に注目し、自分とかけ離れた世界の人たちの痛みや喜びに目を向けましょう。そうすると、今まで縁がないと思っていた芸術作品が、ふと身近なものに思えるかもしれません。
しかし、これには注意事項が必要です。今、世界の報道に触れるとあまりに悲惨な出来事が多くて、ついこちらも生きる希望を失ってしまいます。ローティさんは、公私の使い分けがあっていい、生真面目に自己を統一することには無理がある、と言っていました。悲惨な事件に胸を打たれ、その後で大好きな絵や音楽を鑑賞して心を和ませる、ということがあって良いのです。
このようにローティさんの主張をまとめてみると、どれも当たり前のことばかりです。しかし、その当たり前のことの価値が高いほどに、世界は悲惨な状況に陥っています。その病根の一つが既成の哲学の「真理」主義だとしたら・・・、と考えると恐ろしくなります。これでは勉強すればするほど、事態が悪くなってしまいます。
私はたまたま「世界哲学」という概念に触れ、既成の価値観を相対化する術を得ました。ローティさんとの出会いも、その術によって気づいたことです。
もしもあなたが、この世界で生きにくさを感じているとしたら、それはあなた自身の責任ではなく、この世界の方が異常なのかもしれません。そのことに気づく術は「世界哲学」だけではないはずです。私は「世界哲学」に触れる前から、自分自身の芸術活動によって、そのことを知っていました。きっとあなたには、あなたの知る術があるはずです。絶望する前に希望を持って、その術を探してください。必ずそれは見つかるはずです。
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