平らな深み、緩やかな時間

420.斎藤幸平『脱成長への葛藤』、舟越保武『ゴルゴダ』など

皆さまへお願いがあります。

私の旧ホームページが7月でサーバー停止となります。つきましては新しいサーバーに移行しました。もしも私のホームページのアドレスを登録されている方がいらしたら、次のアドレスへの変更をお願いします。お手数をおかけしてすみません。

https://ishimuraminoru.web.fc2.com/

さて、本題に入ります。

 

NHKの「日曜美術館」で、彫刻家の舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912 - 2002)さんの特集番組を放送していました。これは再放送もありますので、取り急ぎご紹介しておきます。

 

「人生で美しいとは何か 彫刻家・舟越保武と子どもたち」

初回放送日:2025年1月12日 再放送:1月19日(日) 午後8:00〜午後8:45

https://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/3L64LJL9XZ/

 

若い方には、昨年亡くなった舟越 桂(ふなこし かつら、1951 - 2024)さんの父親だと言った方がわかりやすいかもしれません。

実は私は舟越保武さんの端正な彫刻作品が少し苦手です。理想化された人物の顔が類型化されたもののように見えてしまうのです。保武さんは、彫刻制作のためにデッサンをたくさん描かれたと聞きますが、それならば、どうして似たような人物像になってしまうのだろう、と思っているのです。

https://www.museum.or.jp/report/696

 

この私の思いは息子の桂さんにも共通することで、桂さんは空想上の動物を彫像に取り入れるなどの大胆な工夫をされていましたが、やはり人物の顔の部分は類型化されている、と私は感じてしまうのです。

少し話がそれますが、桂さんの作品は、私の好きな作家、須賀 敦子(すが あつこ、1929 - 1998)さんの本の装丁にも使われています。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167577018

 

その独特の内省的な感じが、須賀さんの本の内容とぴったりです。桂さんの作品は、彫刻作品が本来持っているモニュメンタルな重圧感から解放されているようで、そこが大きな魅力です。しかし、どの作品も端正な顔だちをしているところが、やっぱり私には気になるのです。

このようなことを書くと、お二人の多くのファンの方や、理想化された彫刻作品を好む方には叱られてしまうかもしれません。

念のために書いておくと、私は舟越さん親子の作品をたんに嫌っているわけではなくて、同じような理由でボッティチェッリ(Sandro Botticelli, 1445 - 1510)さんやラファエロ( Raffaello Santi、 1483 - 1520)さんの理想化された女性像も、やや苦手です。もちろん、それらは美しいとは思うのですが、その反面、どこかに物足りなさを感じてしまうのです。

 

そんな思いでテレビを見ていたら、晩年の保武さんが大病から右手が使えなくなってしまって、車いすに乗りながら左手で塑像を作られた、ということに話が及びました。実際に創作する様子も映像で流され、そうして出来上がったのが『ゴルゴダ』というキリスト像でした。この像は、左手で創作をはじめられて間もない時と、その4年後と(『ゴルゴダⅡ』)、すくなくとも二体が作られたようでした。

これらの作品が素晴らしくて、とくに映像で見る限りでは『ゴルゴダⅡ』が魅力的だと感じました。この作品は、もはや人の顔であることは言い訳に過ぎなくて、作者にとっては彫刻という表現の核心に迫ることの方が重要だった、と思わせるくらいの凄みを感じました。桂さんも番組の中で、この作品を作るために父は病で右手を使えなくなったのではないか、という趣旨のことを言っていました。

その『ゴルゴダⅡ』は岩手県立美術館にあるようです。

https://www.ima.or.jp/collection/search-shiryo?app=shiryo&mode=detail&list_id=5145&lang=ja&list_type=image&data_id=10431



そして幸いなことに、最初の『ゴルゴダ』像について長崎県美術館が動画を作成しているようです。学芸員の方がていねいな解説をしていますので、よかったらご覧ください。

「長崎県美術館コレクション紹介 舟越保武《ゴルゴタ》」

https://www.youtube.com/watch?v=Ez4lM9HeFes

 

これまで私が熱心に作品を見てこなかった舟越保武さんについて、このような発見があるとは思ってもいませんでした。

やはり、先入観をもって作品を見てはいけませんね。

それから、このことで考えさせられたのは、作家にとっての身体性とは何か、ということでした。作家にとって作品を作るとき、当然のことながら作家の感性や知性以外に、作家自身の身体性が影響してきます。私のような三流の作家だと、感性も知性もまるっきり役に立ちませんが、それにも増して自分の不器用さに参ってしまいます。どうして自分の思い通りに絵が描けないのかと、もどかしい思いをしてしまうのです。そのときに私の手は、私の表現を妨げる悪しき身体性として立ちはだかります。もしも私が器用だったら、私は自分の身体性を意識することすらなかったのかもしれません。

舟越保武さんの彫刻やデッサンを見ると、その端正でなめらかな形から推察して、この人は自らの身体性を思い通りに使いこなしていた人だ、という気がしていました。ところが、彼は右手を失ったときに、あらためて自らの身体性と向き合うことになったのです。そのときに保武さんは、粘土と格闘しなければならないという、彫刻のプリミティブな表現に立ち還ったのだと思います。

先ほど私は不器用だと言いましたが、そんな私でさえ、考えるより先に手が動いてしまうことがあります。つまり、単なる「慣れ」で作品を作ってしまう時があるのです。これもまた、悪しき身体性だと言えるでしょう。優れた職人が頭よりも身体で技術を覚える、というふうなら良いのですが、三流の表現者の場合、それが悪い形で出てしまうのです。

ですから、作家は時には「慣れ」から離れて、自分の身体性を見つめた方がよいのです。保武さんの場合は、もしも優秀な彫刻家がその知性と感性はそのままの状態で、大切な利き腕だけを失ってしまったら・・・、という稀有な事態が生じてしまいました。その不幸な状況の中で、結果的に彼は素晴らしい作品を残しました。このように考えると、病の後の保武さんの作品は貴重なものです。

残念ながら、私はそんな事情を知らなかったので、保武さんのその時期の作品を意識して見たことがありません。テレビやパソコンの画像だけを見て、こんなことを書いていてはいけませんね。いずれ機会があれば、保武さんの『ゴルゴダ』、『ゴルゴダⅡ』などの作品を生で見てみたいものです。長崎県も岩手県も、私は行ったことがありません。いずれ行く機会があるでしょうか・・・。



さて、次の話題です。

このところ朝日新聞で、アメリカの大統領選挙の結果を受けて書かれた記事が、続けて掲載されました。このblogは社会情勢を分析するものではありませんし、そういうことに関して私はまったくの素人です。ここで私が生半可な知識で老人の居酒屋談義みたいなことを書いてみても仕方ないのですが、それぞれの記事の内容が興味深いので、その概要をここでお伝えしたいと思います。そのうえで、今回の最後のところで、私たちはどのような認識をもってこの世界の中で表現活動を続けていったら良いのか、ということについて考えてみたいと思います。

 

①「(インタビュー)米リベラル、失速のわけ 政治学者・渡辺将人さん」

2025年1月8日

https://www.asahi.com/articles/DA3S16121539.html

 

渡辺将人さんは、1975年生まれの政治学者です。

渡辺さんによれば、今回の選挙で民主党が敗れたのは、民主党のリベラルな考え方が多くの白人労働者層に響かなかったからだということです。そもそも労働者層には保守的な人が多いため、銃規制や黒人、女性、性的少数者の権利などを主張すれば、一部のリベラルな地域でしか選挙に勝てないのだそうです。また、アメリカの人たちの中には、大統領に対して尊敬できる対象であるよりは実行力のある人を選ぶという、プラグマティズムが広がっているとのことです。どんなに大統領が下品であっても経済が良くなればいい、というわけです。民主党では、サンダース候補以降、リベラルな考え方が先鋭的になる傾向がありますが、選挙で勝つためにはそのような価値観を語らずに、経済格差の是正や福祉政策に特化するという戦略が考えられている、ということでした。

渡辺さんは次のような言葉でインタビューを結んでいます。

 

地域、世代による格差や、子育てと介護の負担といった分断は日本にもあり、自分が抱える問題が一番大事だと誰もが感じています。そこで、他の問題をないがしろにしているわけではないという姿勢を示すことが、小さくても大切な連帯への一歩であり、米国から反面教師的に学ぶ点だと思います。



②「(インタビュー)米国の二つの「カースト」 米コロンビア大教授、マーク・リラさん」

2025年1月9日 

https://www.asahi.com/articles/DA3S16122241.html

 

マーク・リラさんは1956年生まれの政治学者です。

リラさんは、アメリカには二つのカースト(階級)があると言います。一つは、太り気味で肥満傾向の労働者階級、もう一つは健康や食にこだわり、医者通いを欠かさないエリート階級です。彼らの間には、大学教育を受けられるか受けられないか、という格差があり、そこには埋められない溝があるのだそうです。エリート階級には傲慢さがあり、それが「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」として重苦しい空気を作ってしまう・・・。いま問われているのは、リベラルな考え方がどれだけ人々の結びつきを強められるか、ということだそうです。

リラさんのインタビューの最後の言葉を聞いてみましょう。

 

とにもかくにも『市民』がいなければ始まりません。自分の頭の中だけの狭い世界から出て、自分とは似ても似つかぬ人々への関心を向ける、そんなリベラルな市民をつくること。トランプと、彼が象徴するすべてのものに対抗したいのなら、そこから始める必要があります。



③「(津山恵子のメディア私評)トランプ氏再び 権力監視の役割、これまで以上に」

2025年1月10日 

https://www.asahi.com/articles/DA3S16123011.html

 

津山恵子さんは1964年生まれのニューヨーク在住のジャーナリストです。

ここではアメリカのマス・メディアの役割や問題点について書かれています。はじめに津山さんが取り上げたのは、1月1日の元陸軍兵によるニューオーリンズのトラックによる殺傷事件です。トランプ次期大統領は、すかさず不法入国者による犯罪だと決めつけ、国境の警備を強化して安全な国にする、とSNSに投稿しました。この偽情報は、トランプ次期大統領がそのようにコメントした、ということを報じることで、さらに広がっていくのです。これらの動きに対し、米紙USAトゥデーは「米国人は愚かさに対する戦いを宣言するべきだ」というコラムを掲載しました。さらに「トランプ氏が愚かさを容認できるようにしてしまった。しかし、そうであってはならない。」として、繰り返し偽情報を否定していかなければならない、と記事を結んだのだそうです。この決意は重要ですが、一方でニュース離れの現象もみられる中で、津山さんはどう考えたのでしょうか。

津山さんの結びの文章を読んでみましょう。

 

1月20日、トランプ氏の大統領就任式が首都ワシントンで行われる。いかにメディアが批判精神を維持して「権力監視」を続け、信頼できるニュースに触れる人を増やすことができるのか、正念場に差し掛かっている。まさに「再出発」の時期だ。



④「(寄稿)断絶のS字社会、蛇は何思う リベラルへ優しく誘う、私達の脱皮は 中村文則」

2025年1月10日

https://www.asahi.com/articles/DA3S16122973.html

 

最後に、1977年生まれの作家、中村文則さんの寄稿記事です。

中村さんは、はじめにドイツの映画監督のコメントから記事を始めています。「私達欧州のリベラルは急ぎ過ぎた。私達の主張に反感を持つ人が増え、逆に社会が保守化し、極右勢力が台頭した。アメリカもオバマ大統領の次は、反動でトランプ氏になった」というコメントです。なるほど、と納得した中村さんは、それまで自分は保守的な男尊女卑社会を変えるには、厳しいリベラリズムが必要で、その力で保守側に偏った線を押し戻せる、と考えていたのだそうです。しかし、それはそうではなかった、と中村さんは反省します。保守とリベラルが押し合った社会では、折れ曲がったS字のような線が引かれ、そういう社会では保守が優勢になる、と中村さんは書いています。中村さんは『列』という小説を執筆する中で、人間は社会的な動物であることを学び、そのために人間は現状社会へ共感するようにできていることを知りました。ですから、そもそも人間は現状に共感する保守的な動物であり、それが本能なのだと気が付いたのです。それに対して変革を求めるということは、人間としての理性的な働きによるものなのですが、それには困難が伴うのです。それではどうしたらよいのでしょうか?

中村さんは次のように書いています。

 

重要なのは伝え方だと思う。リベラルは丁寧に親切に、優しくなるのはどうだろう。ユーモアもあるといい。リベラルを嫌う人の内面構造を理解し、拒絶や押し付けではなく包括し、リベラル側へと少しずつ誘うイメージはどうだろう。

 

最後に中村さんは(S字のような姿の)干支の蛇は脱皮して再生するけれど、私達には無理だろうか、と結んでいます。

 

さて、ある新聞の似たような話題の記事を三日ほど追いかけただけですが、この面倒な社会状況には困ってしまいます。世の中が不平等で、差別があるようではだめだ、ということは、おそらく誰にでもわかるはずです。しかし、そう主張をするリベラルな人たちは、保守的な労働者階級(だとされる人たち)から支持されません。そこには動かしがたい経済的な格差があり、リベラルな人たちが政治を動かすと自分たちは不幸になると、多くの人が思っているのです。そうだとしたら、いつまでたっても社会は良くなりませんし、それどころか格差が広がり、それが定着してしまいます。立場の異なる人々は、永遠にお互いを分かり合えなくなってしまうのです。

これはたいへんな問題ですが、一方でこんな話が、私たちの興味の対象である芸術表現と、どのように関わるのか、と疑問に感じる方もいるでしょう。

私は、大いに関係すると思っています。

現代における芸術表現は、しばしば時代の先鋭的な考えを反映し、それを表現の中で実現し、言わば「炭鉱のカナリア」のような役目を果たすのです。表現者がそのことをはっきりと理解しているとは限りませんが、少なくともその時代の機運を共有しておくことは必要だと思います。

そして、まあ、そう固いことを言わなくても、芸術表現者といえども一人の人間として、その時代に何をすればいいのか、人としてどういう気持ちで生きていけばよいのか、自分なりの判断をすることが大切でしょう。それが、その人の表現に表れると私は思います。



そこで最後に、NHKBSで放送された、一本の特集番組を取り上げておきます。

このblogでも何回か取り上げた、経済思想家の斎藤幸平さんの活動をレポートした番組です。これも再放送がありますので、見逃した方は、ぜひそちらをご覧ください。

以下に番組のデータと概要を、公式サイトから書き写しておきます。

 

「人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜」

初回放送日:2025年1月9日  再放送:1月16日(木) 午前9:25〜午前10:25

https://www.nhk.jp/p/bssp/ts/6NMMPMNK5K/episode/te/NGKYZGN9XQ/

 

人類の経済活動が地球環境に深刻な影響を与える「人新世」の時代、 経済思想家、斎藤幸平が、ドイツや北米を訪ねながら、新たな生き方を探す思索の旅を追った。

人類の経済活動が地球環境に深刻な影響を与えていると警鐘される「人新世」の時代、私たちはどう生きていくのか‥マルクスの「資本論」に新たな光を与えて、“脱成長”を提言し、注目される気鋭の経済思想家、斎藤幸平(37歳)。今、彼は、自らの思想をどう実践に結びつけていくか、悩んでいる。若き思想家が、ドイツの環境運動の最前線や北米の先住民族を訪ね、対話を重ねながら、新たな生き方を探す思索の旅を追った。

 

上に書かれている通りですが、「脱成長」を唱える斎藤さんは、いま、なかなかつらい状況で活動を続けています。それは「脱成長」の機運が、世界的な経済格差の中で徐々に薄れているからです。

番組では、いくつか印象的な場面があります。

番組の始まりでは、東京大学の大学院で研究室を持ち、学生たちを指導したり、カール・マルクス(Karl Marx、1818 - 1883)さんの研究者として世界的に活動したり、という華々しい斎藤さんの姿が紹介されています。

しかしその一方で、ドイツのハンブルクで5年前の環境デモの活況を映像として虚しく眺めている斎藤さんがいるのです。世界的な環境保護の機運が、いまではそれぞれの経済的な事情のためにしぼんでしまったのです。

次に紹介されるのは、ニューヨーク大学で講演をする斎藤さんの姿です。斎藤さんの「脱成長」の考え方の中には、人々が互いに助け合う社会主義的な仕組みが含まれています。資本主義の中心地で社会主義を警戒する人たちを相手に自説を講演する、というのは普通に考えると気の重いことでしょう。しかし、そんなことを言っていては自分の理想を実現できません。斎藤さんは厳しい質問にも果敢に答えますが、その様子を見ているとハラハラします。

その次に斎藤さんは、カナダの大学で環境問題を研究する人たちに出会います。彼らは北米の深い湖の底の地層から、「人新世」以降の地球が、いかに痛んでいるのかを科学的に解明します。そこで地球環境を守りながら人はどのように生きていくべきなのか、ということを考えます。

そのヒントを与えてくれるのが、アメリカの先住民族のイロコイ族です。アメリカとカナダをまたいで生活する彼らのことを、実はマルクスさんも注目していたのです。イロコイ族は、マルクスさんのメモによれば、生活に節度を持ち、持続可能で民主的な生活をしていたのだそうです。マルクスさんの時代に、このような世界的な視野を持って彼が活動していたことに、少し驚きました。

そして番組のクライマックスは、その生活を再現した大きなログハウスを斎藤さんが訪ね、その末裔の長老、オーレン・ライオンズさんと対談するところです。かつて国連の先住民族会議で演説したことのあるライオンズさんは、しっかりとした思想を持った人です。彼は地球の資源が限られていることを知っており、それを守るためにはもう時間がないことも意識しています。人間は自然に生かされる存在であり、そのことは常識(コモンセンス)であったはずだ、とライオンズさんは言います。その常識はどこに行ったんだ?と彼は問いかけるのです。私は負け続けているが、それでも闘い続けるから、お前もあきらめるな、とライオンズさんは斎藤さんを励まします。

そんな世界情勢ですが、ドイツでは環境保護の先進的な試みが続けられています。自動車の通行スペースを制限し、かわりに人々が憩える場所を作ったり、誰もが利用できる果樹園があったり、という試みです。ささやかな試みですが、住民からは好評のようです。持続可能なことで、そこで暮らしている人たちにとってメリットがないと、こういうことは続かないでしょう。

番組の最後に、これらの困難な状況の中で、またどこかへ移動していこうとする斎藤さんの姿を映してレポートが終了します。次に何をしたらよいのか、何をすべきなのか、斎藤さんの闘いは続きます。

 

考えてみると、斎藤さんが注目された最初のころは、新型コロナウイルス感染で、世界が変わらないとまずいぞ、という機運がどこかにありました。経済優先でグローバルになっていった世界が反省する時期でもあったのです。しかし、せっかく感染がおさまったというのに、世界は良い方向へは進んでいないようです。いくつかの新聞記事が示していたように、むしろ悪くなっているように感じます。これは何とかしなくてはなりません。

このことはもちろん、斎藤さんが一人で背負っていくべき問題ではありません。また、一部の研究者や活動家だけが知っているべきことでもありません。

いったい、私たちにできることがあるのでしょうか?

 

先ほどの話に戻りますが、芸術には新たな世界観を示す力があると私は思います。それも理屈ではなくて、人々の感性に訴える力があるのです。

その力を発揮するためには、表現者自身が、新たな世界観を共有していることが望ましい、と私は考えます。たとえそれを明確に言葉に出来なくても、気持ちとしてそれを共有することができれば、表現として形にすることも可能だと思うのです。

少なくとも、私はそう信じています。

ライオンズさんが言っていたように、私たちはここであきらめるわけにはいきません。

ささやかですけど、私も闘い続けたいと思っています。

 

さて、今回の話に関連するかどうかわかりませんが、次回はマルクス・ガブリエルさんが最近出版した本を取り上げる予定です。本そのものはだいぶ前に書かれたのでしょうが、日本語訳はでたばかりです。

まだ読み始めたばかりですが、新しい発見がたくさんあって、ワクワクしながら読んでいます。

それを言葉にできるかどうかわかりませんが、読み終えたらblogに書きますので、よかったらまたお読みください。

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