平らな深み、緩やかな時間

421.『考えるという感覚/思考の意味』マルクス・ガブリエルについて

今回は『考えるという感覚/思考の意味』という日本語版が出版されたばかりの本を取り上げます。

日本では昨年の12月に出版されましたが、原著は2018年に出ていたようです。第一次トランプ政権のさなかに書かれたので、トランプさんについて言及したところも散見されます。まさか日本語訳が第二次政権の誕生中に読まれるとは、さすがの著者も予想しなかったでしょうね。

その著者、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )さんはドイツの哲学者で、史上最年少でボン大学で教鞭をとり、現在も同大学の教授を務めておられるようです。

このblogでも、彼の一般哲学書の三部作と言われる『なぜ世界は存在しないのか』と『「私」は脳ではない』を以前に取り上げました。

 

108.『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエルについて

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f2a61fa9d7a2aba8c48afecce3fa03a7

 

111.『私は脳ではない』マルクス・ガブリエル

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/28606636b896541442b3705c47a7f645

 

そして、いよいよその三作目が翻訳されましたので、さっそく読んでみました。

私にとって新しい概念も含まれていて、頭の中でこなれるには時間がかかりそうですが、とりあえず第一印象の段階で読み取った内容に触れてみたいと思います。

もちろん、私には哲学的な深い読みや、その的確な評価はできませんが、美術に興味がある者として、どんなところが面白いのか、という程度のことは指摘できそうです。実際に面白いところ、私にとっての読みどころがたくさんありましたので、とりあえず目についたところをご紹介します。

 

その前に、まずはこの『考えるという感覚/思考の意味』がどのような本なのか、出版社の紹介文を書き写してみます。

 

「考える」というのは人間だけに可能な営みなのか? そもそも「考える」とは、いったい何をすることなのか?―本書は、そんな根本的な問いに正面から取り組みます。

『考えるという感覚/思考の意味』というタイトルを見て、おや? と思うかたもいらっしゃることでしょう。本書の原題Der Sinn des Denkensには二つの意味がかけられている、と著者マルクス・ガブリエルは明言しています。一つは、「考えること(Denken)」とは、見ること、聞くこと、触ること、味わうことなどとまったく同じように「感覚(Sinn)」である、という意味。例えば、私たちは見ることでしか色には到達できませんし、聞くことでしか音には到達できません。それとまったく同じように、考えることでしか到達できないものがある―それが本書のタイトルに込められたもう一つの意味である「意味(Sinn)」にほかなりません。

 「考える」とは「自然的現実と心理的現実のあいだのインターフェース」だと著者は言います。もっとくだいて言えば、私たちが現実と触れ合う、その接点に生まれるもの、と言い換えてもよいでしょう。その意味で、ガブリエルが「三部作」として構想した三冊のうちの第一作『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)で扱われた「世界」と、第二作『「私」は脳ではない』(同)で扱われた「私」との接点に生まれるのが、「考えること」そのものなのです。私たちは、考えることで「かけ離れたいくつもの現実を結びつけ、それによって新たな現実を作り上げる」と著者は言います。つまり、考えるとは「結びつき」を作り、その「結びつき」を認識することです。

「ポストトゥルース」と呼ばれる現実が席捲する一方で、AIによって人間の知的な営みが奪われ、いつかは「考えること」そのものさえ人間には必要なくなるのではないかと考えさせられる今日、もう一度、原点に立ち返って考えること。本書をもって完結する三部作で、著者マルクス・ガブリエルは、人間にしか可能でない未来への希望を語っています。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000387629

 

この本の中には、私の知らない思想家、私の見ていない映画、私の読んでいない小説や本がたくさん出てきます。おそらく、この後もたびたび参照して、少しずつ理解を深めることになるのでしょうが、今回はこの本のタイトルにもなっている「考えるという感覚」について考察してみましょう。

この「考えるという感覚」という言葉に、普通ならば違和感を感じることでしょう。

「考える」ということは、文字通り「考える」ということ、私たちの頭の中で何かを思考することです。一方で「感覚」は視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚というふうに、私たちの身体に備わっている感覚器官によって感受されるものです。ですから「考える」ということと、「感覚」とは別なもの、一体にはなれないものという常識が私たちの中にあります。そこには、私たちの中に近代以降の思想が基本とする「心身二元論」が、そう意識することなく根付いているからだと思います。

ガブリエルさんは、それを承知であえて「考えるという感覚」=「考覚」という概念を打ち出します。ガブリエルさんは次のように書いています。

 

考えるということは、一つの感覚(Sinn)です。私たちの考覚は、さまざまな可能なものと現実に付随する無限性に、つまり<意味(Sinn)の場>に私たちを接触させます。私たちの考覚の特別な点は、私たちが宇宙の深い構造ばかりでなく、精神の深淵、つまり芸術の歴史、クロスワードパズルなど多くのことについても、感動的なほど高い解析度で測定するところにあります。そんなことがうまくいくのは、考覚の対象が総じて論理的に構成されているからです。

どの感覚にも、その感覚が直接受け取る特有の感覚質ークオリアーがあります。例えば、私たちは音を聞き、色を見、あたたかさを感じ、思想/思考されたものを考えたりします。私たちは、考覚のパースペクティヴから、他の感覚の構造のみならず、原理的に言って無限に多くある意味の場の構造を把握しています。意味の場は、他の感覚で把握できるあらゆるものを超えています。考覚にとってのクオリアとは、思考体験を形成する元となるような、さまざまな概念です。

(『考えるという感覚/思考の意味』「第4章 なぜ生き物だけが考えるのか」マルクス・ガブリエル著 姫田 多佳子, 飯泉 佑介訳)

 

上の文章が掲載されているのは、この本の半分以上を読んだところです。

なぜ、それほどにページを費やすのかと言えば、「考える」ということが「感覚」である、ということに言及するためには、先ほども書いた「心身二元論」から私たちの現実の認識や感受の仕方、私たちをとりまく世界をどう考えるのか、というところまで、つまり私たちの考え方を根本から見直して、ガブリエルさんの新たな認識を解き明かさなければならないからです。そのためにガブリエルさんはとても丁寧に、わかりやすい比喩を用い、先ほども書いたように映画や物語を引用して説明していきます。

それを逐一書き写していくと、この本をまるごと引用してしまうことになるので、私の拙い言葉で手短に私なりの説明を試みたいと思います。過ちや勘違い、誤謬などは避けられないと思いますが、この後も気づいたところで修正していきますので、とりあえず読んでみてください。

 

さて、この「考覚」という考え方ですが、実は私たちにとって、意外とわかりやすい概念です。というのは、このblogで私たちは、美術の歴史がいかに視覚偏重の状態で発展してしまったのか、そのためにモダニズム絵画がいかに追い詰められているのか、ということについて書いてきました。その現状を打破するために、私は「触覚性絵画」という概念を打ち出しました。

よかったら、次のblogを参照してください。

 

99.絵画の触覚性と中村雄二郎『共通感覚論』

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/1d64f4dd81e67ce0bd85f13e033e0eee

 

私の「触覚性絵画」の考え方の土台になっているのが、哲学者の中村雄二郎(1925 - 2017)さんの『共通感覚論』(1979)です。

その中心となる文章を読んでみましょう。

 

 われわれ人間は、同じ種類の感覚、たとえば視覚相互や味覚相互の間だけではなく、異なった種類の感覚、たとえば視覚と味覚の間でも、互いにそれらを比較したり識別したりすることができる。いずれも色としての視覚上の対象となる白と黒や赤と緑といったものの間だけではなく、視覚上の白さと味覚上の甘さとを感じ分けることができる。なにによってこのような識別はなされるのだろうか。感じ分けることは判断以前のことだから、識別は一種の感覚能力によると考えられるべきだろう。けれどもそれは、感覚能力として個別的なもの、視覚や味覚と同じレヴェルのものではなくて、異なった種類の諸感覚に相渉る同一の能力でなければならない。感覚のすべての領野を統一的に捉える根源的な感覚能力、つまり〈共通感覚〉でなければならない、と。

 この共通感覚のあらわれをいちばんわかりやすいかたちで示しているのは、たとえばその白いとか甘いとかいう形容詞が、視覚上の色や味覚上の味の範囲をはるかにこえていわれていることである。すなわち、甘いについていえば、においに関して〈ばらの甘い香〉だとか、刃物の刃先の鈍いのを〈刃先が甘い〉とか、マンドリンの音に関して〈甘い音色〉だとか、さらに世の中のきびしさを知らない考えのことを〈甘い考え〉だとか、など。またアリストテレスでは、共通感覚は、異なった個別感覚の間の識別や比較のほかに、感覚作用そのものを感じうるだけでなく、いかなる個別感覚によっても捉ええない運動、静止、形、大きさ、数、一(統一)などを知覚することができるとされている。その上、想像力とは共通感覚のパトス(受動)を再現する働きであるともされている。さらにすすんで、共通感覚は感性と理性とを結びつけるものとして捉えられている。

(『共通感覚論』「Ⅰ 共通感覚の再発見」中村雄二郎著)

 

この中村雄二郎さんの「共通感覚」という概念は、古くは古代の哲学者、アリストテレス(Aristotelēs、前384 - 前322)さんの「センススコムニス(コモン・センス/Common Sense)」から由来するものです。現在では「コモン・センス」と言えば「常識」という意味になるのですが、アリストテレスさんは個別に認識されている感覚の境界を超えるようなもの、という意味でとらえていたようです。中村雄二郎さんは、そのアリストテレスさんの「センススコムニス」に注目して、「共通感覚」を論じたのでした。そして中村さんは、視覚を優先するあまりにいびつに発展してしまった現代社会を問題視して、触覚の復権を唱えたのです。私はそれに共感して「触覚性絵画」という概念を提案してみたのでした。

実はガブリエルさんも、アリストテレスさんに由来する「コモン・センス」について言及しています。ガブリエルさんによれば、アリストテレスさんは人間の感覚について詳細に論じ、今日の常識である五つの感覚についてまとめあげました。そしてアリストテレスさんは、五感だけでは説明ができない感覚の相互の連携について、気づいていたのだそうです。しかし、アリストテレスさんはその考えを深めることがなかった、ということです。

そのことを説明したガブリエルさんの文章を読んでみましょう。ガブリエルさんは、例えば自分の水筒を見たとたんに、その水筒の蓋の形状まで触覚的に想起してしまうような事象について、この感覚は視覚だけでは説明ができない、という趣旨の文章の後で、次のように書いています。

 

そこでアリストテレスが提案する解決策は、私たちは共通感覚をもっている、というものです。そして、彼はその共通感覚を、思考(noein)や想像力(phantasia)と結びつけます。ここで決定的に重要な考えは、知覚は自分自身を意識できる、つまり、みずからを知覚できるが、それは知覚に客観的な構造ーギリシア語で言うロゴス(logos)ーがそなわっているためである、というものです。「なぜなら、知覚はロゴスの一種だから」です。考えるということを共通感覚と結びつけたアリストテレスは、ここで、考えるとは先の知覚の客観的な構造を、すなわちロゴスを洞察する能力である、と解釈します。けれども、彼は思考そのものを感覚モダリティの一つとして理解することには尻込みしています。

(『考えるという感覚/思考の意味』「第1章 考えるということの真実」マルクス・ガブリエル著 姫田 多佳子, 飯泉 佑介訳)

 

ちなみに文中の「モダリティ/modality」という用語についてですが、この本の「序論」のところでは「様相」という訳語があてられています。また「方法」や「様式」といった意味合いもあるようです。ですから「思考そのものを感覚モダリティの一つ」とする、ということは、「思考」を「視覚」や「聴覚」のように何事かを感受する方法、あるいは様相と同様のものとして捉える、ということです。そして、アリストテレスさんが尻込みしたという「思考そのものを感覚モダリティの一つとして理解すること」を、ガブリエルさんは「考覚」という概念として、私たちに提示していることは、先に引用した通りです。

このように見ていくと、中村雄二郎さんが提示した「共通感覚」という概念と、ガブリエルさんの「考覚」という概念は近いもののように思われますが、ガブリエルさんはアリストテレスさんが、そして中村雄二郎さんがためらった一線を大きく超えているように思います。

それはどういうことかと言えば、「共通感覚」は感覚相互が連携した感覚ではあるけれども、それは飽くまで五感が基本になっているからです。しかし「考覚」は「考えるということ」を「一つの感覚」として捉えるということですから、そこが大きく違っているのです。

 

これだけだとよく分からないかもしれませんね。

例えば、私たちが何かの刺激を感受する場面を考えてみましょう。

私たちは五感のどこかで外界(客体)からの刺激を感受し、それが神経を通って私たちの内面である脳(主体)に届き、脳の中ではその情報をもとに何かを考え、そして私たちは行動を起こすのです。

「共通感覚」という概念の場合は、ほぼこの構図を基本として、複数の感覚で感受した情報を神経か脳のどこかで束ねて、一つの感覚であるかのように受け入れる、ということだと思います。このような構図はわかりやすいと思うのですが、私たちは気づかないうちに「心身二元論」、あるいは「主体」と「客体」、「主観」と「客観」という西欧哲学の基本を前提としているのです。

しかし、ガブリエルさんは、このような構図を否定します。彼の考えでは外界(客体)と内面(主体)は厳然と分かれるものではなく、私たちはすでにこの現実の中にともに存在するのです。そう考えると、私たちを突き動かす「正義」、「愛」といった感情的な思考も、「数」や「真理」、「事実」といった理知的な思考も、「芸術美」に感動する思考も、私たちの感覚が感受する刺激と同様のもの、現実とつながった「感覚モダリティの一つ」になるのです。

ガブリエルさんは、この『考えるという感覚/思考の意味』の「序論」のところで、この本の概要を次のように紹介しています。

いまの話と文脈がつながるように、ところどころつまみながら引用してみましょう。

 

第一の主テーゼは、すでに述べたように、私たちの思考は感覚である、というものです。今日知られている感覚モダリティ(様相)ー聴覚、視覚、味覚、嗅覚、さらに平衡感覚などの感覚ーと並んで、私たちには思考の感覚(Sinn des Denkens)があります。

<中略>

この主テーゼは、一般に通用している(心の)イメージに逆らっています。つまり、私たちの心に関わる器官は、知覚と認知のみから成り立っている、言い換えれば、外界が私たちの中で引き起こす状態とそのさまざまな知覚が内部で結びついて生まれる状態のみから成り立っている、とは考えないのです。私たちの意識とは無関係な外界が私たちの神経の先をくすぐることで内部プロセスが始まり、そして神経のもう一方の先で外界とは何ら関係がない像が生まれる、という捉え方は、結局のところ正しくありません。私たちの心的生活は、頭蓋冠の下で生まれる幻覚ではありません。それどころか、私たちは思考という感覚のおかげで、思ってもみないほどはるかに多くの現実と接触しているのです。

本書では、近代の認識論の根本的な間違いである主観と客観の分裂を退けます。この間違いの本質は、考える主体たる私たちが、自分に適合しない現実と向き合っているという誤った考え方をしていることにあります。この考え方のために、近代において、私たちには現実がそれ自体どのような姿をしているのか、まったく認識できない、あるいは、おおよそですら認識することは決してない、という印象が広まったのです。でも、私たちは知覚して思考する生き物として、自分たちとは切り離された現実に向き合っているのではありません。主観と客観は、上位の全体の中の対立する二つの部分ではないのです。むしろ、私たちは現実の中にある部分であり、私たちの感覚とは、私たち自身である現実のものと、私たち自身ではない現実のもののあいだを取り持つ媒体なのです。これらの媒体は、みずからと別個のものである現実を歪めたりしません。むしろ媒体それ自体が現実のものであり、まさにインターフェースです。ですから、他の感覚と同様に、考えるということで問題になっているのはインターフェースです。

<中略>

思考は現実に存在するインターフェースであり、このインターフェースは私たちを物質的でない現実ー数、正義、愛、連邦議会選挙、芸術美、真理、事実、その他諸々ーと結びつけます。けれども、一方で思考は物質やエネルギーに関わるいくつものシステムと直に接触しています。ですから、私たちはこうしたシステムについても考えることができるのです。

(『考えるという感覚/思考の意味』「序論」マルクス・ガブリエル著 姫田 多佳子, 飯泉 佑介訳)

 

言うまでもありませんが、「インターフェース/interface」とは直訳すると「接点」、「境界面」、そこから派生して「異なる2つのものを仲介する」という意味があります。

先ほども書いたように、ガブリエルさんは「主観」と「客観」を分けて、私の外側に私と対立する現実が存在する、とは考えません。私はすでに現実のただなかにいて、私自身が現実の中の部分である、と考えます。ですから、感覚とは外界の刺激を感受する装置のようなものではなく、私と現実をつなぐ媒体なのです。その媒体も現実のなかに存在するものですから、結局のところ、「感覚」とは、私と現実とのインターフェース(接点)である、ということになります。

そして現実というのは「客体」、つまり物質的な外部世界ではないので、物質的ではない現実ー数、正義、愛、連邦議会選挙、芸術美、真理、事実、その他諸々ーが存在しています。その物質的ではない現実と私とのインターフェース(接点)が「考覚」である、ということなのです。

 

この短い引用と、私の拙い解釈では、まだよくわからないという方も多いと思います。

それだけ「近代の認識論」は根強く私たちの頭に刷り込まれていますし、それを克服するのは容易ではありません。ガブリエルさんも、この『考えるという感覚/思考の意味』という本の大半を「近代の認識論」の克服に費やしています。冒頭に書いたように、彼は映画や小説など、学問の領域外にいる私のような者にも分かるように、あらゆる手だてを使って解説をしています。それを理解するには、実際に本を手に取って読んでいただくのが一番ですが、このblogでもこの後も引き続きこの本について考えていくことにしましょう。

 

さて、このガブリエルさんの考え方に立つと、私たちの興味の対象である美術の分野では、何が変わっていくのでしょうか?

私はあらゆるものが変わっていくと思います。

このblogのテーマの一つである、モダニズム美術の再検討も、モダニズム絵画の行き詰まりも、すべてが変わって見えてくると予感しています。まだ頭がそこまで回っていませんが、いずれじっくりと考えて、その成果をここに書くことにします。

それでも、ちらっと考えたことを少し書いておきましょう。

例えば「コンセプチュアル・アート」と呼ばれる分野の芸術は、その存在意義を問い直されるのではないでしょうか。

私たちは、そもそも絵を見るときに、視覚だけを働かせているのではありません。また、人間の描いた絵画は、たんなる客観的な「モノ」ではありません。絵を見るという行為は、同時に「考覚」も働かせているわけで、視覚だけの行為ではないのです。「コンセプチュアル・アート」の一部の作品は「それまでの絵画は、ただの視覚的なイリュージョンではないか」という批判から生まれたものだと思います。

しかし、その批判はどこまで的を得たものだったのでしょうか?

私はかねてから、作品の見方を図式のように表現した「コンセプチュアル・アート」の作品について、その存在意義に疑問を感じてきました。今回の話からすると、それは「考覚」の働きを図として表しただけで、言ってみれば「屋上屋」を重ねたようなもの、ということにならないでしょうか。それらは「考覚」的に見て、かえってつまらない、ということにならないでしょうか。まだ突き詰めて考えていませんが、そんな解釈ができるような予感がします。

 

そして、私がモダニズム絵画の再検討として掲げた「触覚性絵画」も、ここで再考の余地が出てきました。

なぜなら、私が依拠した「視覚重視から触覚性へ」という中村雄二郎さんの掛け声も、ガブリエルさんから見れば、まだ「近代の認識論」に囚われている、ということになるからです。視覚、触覚、共通感覚・・・、それらの意味を、もう一度考え直さなくてはなりません。

それでは、私はどうしたらよいのか・・・?

私は、おそらくモダニズム絵画よりも、もっと遡って絵画の見方を再検討しなければならないでしょう。

それはあまりにも問題が大きいので、ちょっとずつ考えることにしますが、とりあえず抽象絵画とか具象絵画とか、新しいとか古いとか、そういう既成概念に囚われないように心がけるようにしましょう。

絵を見ること、モノに触ること、そのときに訪れる感情や思考の動き、それらが同時に湧き起こることに注目したいと思います。変に分析的にならずに、自然に見えるがままに、感じられるままに見ること、それが大事だと思います。

 

そしてガブリエルさんの本に私が魅かれるのは、その内容の難解さとは裏腹に、読めば読むほど、私が日ごろから美術作品に触れるときの実感に近づく感覚があるところです。彼が乗り越えてきた「近代の認識論」、そして彼の到達した「新しい実在論」の詳細も知りたいところですが、哲学の素人の私にはなかなか歯が立ちません。

しかし、彼の思想の魅力をたよりにしながら、少しずつ勉強していきたいと思います。

次回以降も、もう少し考察を深めていきます。

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