おそらく髙橋さんは今年の1月で、95歳になられていたはずです。一般的に言えば、天寿をまっとうされた大往生だと思いますが、その一方で、髙橋さんは70歳を過ぎてからも年々成長していくような創作ぶりだったので、それが途切れてしまうことが残念でなりません。
私の手元には、一冊の画集が残されました。
2004年から2021年までの髙橋さんの作品を収録した、『偶景 画集 2004−2021』という画集です。昨年末に、髙橋さんが自ら発行された画集ですが、とても美しい本です。昨夜もそれを開いて、髙橋さんの晩年の絵の充実ぶりと、その若々しい躍動感を眺めて複雑な気持ちになりました。
そしてもう一冊、展覧会の記録冊子が残されています。
こちらは、美術家の稲憲一郎さんが企画した『dialogue 絵画について』という展覧会の記録冊子です。この冊子には、髙橋さんが2013年に稲さんと一対一で展覧会を開催したときの資料写真と、二人が語り合った言葉が残されています。
今となっては、とても貴重な資料です。
さて、これから私は髙橋さんを追悼して短い文章を書こうと思うのですが、厳密に言えば、私はそれにふさわしい人間ではありません。
私は髙橋さんの作品に対して特別な興味を持って見ていましたが、髙橋さんとお話する機会は限られていたので、なにか深く情報をつかんでいるわけではないのです。
ですから、私は私の知りうる範囲で髙橋さんの足跡を辿り、私の見た範囲で髙橋さんの芸術について書く以外にありません。
もしも事実誤認や不適切な内容がありましたら、お知らせいただけると幸いです。
なお、髙橋さんの履歴については、髙橋さんが2023年末に展覧会を開催したギャラリー「nohako」のホームページに記載されています。
https://nohako.com/exhibition/22-gukei-kunio-takahashi.html
また、ギャラリー「檜」の次のページから、2016年の髙橋さんの作品写真を見ることができます。
https://hinoki.main.jp/img2016-7/f-2.html
この頃の髙橋さんは、独自の「重ね描き」という手法によって、素晴らしい作品を立て続けに発表していました。この写真からも、その充実ぶりがわかると思います。
それでは、まず髙橋さんの足取りをざっと辿ってみましょう。
髙橋さんは、1929(昭和4)年に生まれました。私の父より少し年少で、母よりも少し年長です。この世代は、十代の多感な時期に戦争を経験し、成人する頃に終戦を迎えています。戦争によって死傷することを免れたとしても、戦前から戦後にかけての社会の変化が、当時の若者の心に確実な傷跡を残しました。多感で感性が鋭い若者ほど深く傷ついたことでしょう。髙橋さんは、まさにそういう若者だったのです。
本人の言葉を聞いてみましょう。
ちょっとね、振り返って言うと、僕は何度も思うのですけれど、やっぱり戦争を体験したという、これがどうしてもね、どこか後をひいています。
山岸さん(真木・田村画廊主)は、僕と1、2歳位しか違わない。よく画廊で話し込んだことがあり、やっぱり僕たちは懐疑的なのだよな。それは時代の変遷があの敗戦まで、その間でも尋常小学校に入学し、途中から国民学校になって、5年制の中学を4年でいいから出ろということになり、それで敗戦になったのです。
今まで軍国主義だったものが民主主義になった。民主主義になってからも、今まで専門学校だったものが4年制大学になった。戦後、民主主義って何だろうと、みんな何も分からなかった。民主主義、こんな基本的なことが分からなかった。そうした移り変わりのめまぐるしい時代でした。
ではいったい何を信用したらいいのか、それで懐疑的なのでしょうね。常にあらゆる事に対する疑問ですね。
物事に対して信用しない、信頼しない、常に確信あるものを求めながら、未来について語れば終末論になってしまう。
我々はいったい何をビジョンとして持ちうるか。何もビジョンがないところに何かを作り出していくことは非常に困難ではないか。そうした経験をしてきたから我々は懐疑的にならざるを得ない、そうしたところを僕はずっと通って来ているような気がする。
(『dialogue 絵画について』p12〜13 髙橋圀夫)
髙橋さんの、この懐疑的な考え方はその創作活動にも深く影響していたと思います。
髙橋さんは、作品の外見的な見栄えよりも、つねにその創作活動の見通しや意味合い、髙橋さんの言葉で言えば「ビジョン」を大切にしていました。「ビジョン」のない作品は、どんなに美しく見えても行き当たりばったりのものに過ぎない、と髙橋さんは考えていたと思います。
その一方で、髙橋さんは創作活動における「偶然性」を否定しませんでした。髙橋さんにとっては、その「偶然性」すら、ちゃんと「ビジョン」に入っていたのです。そのことについては、後で触れることにします。
その髙橋さんの「ビジョン」を探究する姿勢ですが、髙橋さんは戦争を体験したことによってのみ、その厳格な姿勢を身につけたわけではありません。もともと髙橋さんには、そういう資質があったのです。その資質というのは、いわゆる「理系」的な思考による科学的な探究心です。
髙橋さんの画集『偶景 画集 2004−2021』には、「髙橋圀夫 作家年譜」という資料が巻末についています。そこには、若い頃の記録について、興味深い記載が差し挟まれています。
髙橋さんの十代の記録の中から、それにあたるところを抜粋してみましょう。
(昭和)16年 1941年 13才 戦時の為、工業高校に入学、学徒動員で工員と同じ行動となる
(昭和)20年 1945年 17才 中島飛行機工場に入社、アメリカ軍戦車への効果的な突込み方のみ考える 8月、敗戦を味わう、虚脱状態となる。
(昭和)22年 1947年 19才 学費無料の群馬師範学校に入学 プランクトンの研究をしつつ、自然科学の要諦<あらゆるものを意のままに處理可能な対象と化した精神>を知る 県展に風景画が入選
(『偶景 画集 2004−2021』「髙橋圀夫 作家年譜」)
戦争中の若者の悲壮な内面を窺い知ることのできる記載もありますが、それはひとまずおいておきましょう。
髙橋さんは13才から工業高校で学び、17才で飛行機工場で働き、そして戦後になって19才の時にプランクトンの研究をしていた、というのです。これはまさに、バリバリの「理系」の研究者と言って良いと思います。
その一方で、同じく19才で展覧会に風景画が入選したという記載があります。同時期に美術の創作活動も始めていたのでしょう。この風景画を見てみたいですね。
その後、髙橋さんは21才で師範学校を卒業し、24才で小学校の教員となり、26才で結婚、そして28才の時に文化学院美術科夜間部に入学しています。
髙橋さんは、このユニークな経歴について次のように語っています。
ちょっと話が違いますが、僕は美術分野では傍系なのです。
学生の頃は別な分野、毎日顕微鏡を見て微生物ばかり見ていたので、実はそこで行ければ行きたかったのだけれど。卒業すると今のような研究体制では組織の中にいないと個人ではなかなかできない。それで無理だということで、前々から絵の方も興味があったものですから、で何となく絵の方を描いてきたのですけれど。
そうしますと、今になって方向として間違っていたのではないかと。美術とか絵描きさんとかそういうものにあこがれがあって、実際の能力は別だったのではないか。そうした自分をもう一遍というか作品を作ることによって、確かめてみようという欲望があるのです。あのあこがれ、希望は偽りではなかったか、勘違いしていたのではないか。自分に対する一つの疑問みたいな。
今さらですが、美術の問題ではない自分自身の存在理由というか、そんな大袈裟ではないけれど、確かめてみるようなことがあります。だから、ちゃんと一つの作品になっていなくて拙くないかな、良いのかな、そうしたものがちょっと懐疑的なわけですね。
何時だったか池澤夏樹が同じようなことを言っていました。偽りの希望であったかなと自分で思っていると。
(『dialogue 絵画について』p22 髙橋圀夫)
最後に髙橋さんが触れている作家の池澤夏樹さんですが、彼も大学の理工学部の出身でした。と言っても、池澤さんは途中で退学されたようですが・・・。
大学で物理を学んでいた池澤さんですが、彼は結局、文学者になりました。彼の父親も福永 武彦(ふくなが たけひこ、1918 - 1979)さんという著名な作家でしたから、血筋といえばそれまでですが、池澤さんの文章には理系的な筋の立て方が垣間見えて、その方面での資質を感じさせます。池澤さんの文学は、どこかに透徹した理論があるのです。それが彼の文章の透明度を高め、さらに作品全体のスケールを大きなものにしているのです。
池澤さんの初期のエッセイ、『母なる自然のおっぱい』とか、『楽しい終末』などは科学と文学が結びついた傑作です。そして少し後の『ハワイイ紀行』になると、文系、理系の両方の資質を兼ね備えた上に、冒険者としての池澤さんの魅力が詰まっていて、まさに多方面の才能が華開いた作品でした。この池澤さんの歩みは、どこかで髙橋さんと似ているような気がします。
ちょっと話がそれました。髙橋さんの話にもどします。
池澤さんにしろ、髙橋さんにしろ、科学的な素養が十分にあったからこそ、自分の進路についてふと立ち止まって考えてしまうことがあったのでしょう。私のように、絵の能力も疑わしいけれど、他の能力はさらに乏しくて、進路に迷う余地のなかった人間には髙橋さんたちの悩みが理解できません。しかし、ともかく髙橋さんが美術の道を選んでくれて、よかったです。
そして髙橋さんは、独自の理系的な思考と粘り強い探究心から、晩年に「重ね描き」という手法を手にしました。
このことについて、少し考えてみましょう。
髙橋さんは、晩年の「重ね描き」という手法を確立する前に、いくつかの作品を並置して展示する方法を試みていました。並べる作品に共通しているのは、絵の構成が「オール・オーバー」であることです。「オール・オーバー」という言葉についてご存知ない方は、次のリンクを参照してください。
オール・オーバー(All-over)
オール・オーヴァーは英語で「全面を覆う」という意味があり、絵画においてはキャンバスの表面全体を絵の具で均一に塗り込む手法を指して言います。
はじめはジャクソン・ポロックの「ドリッピング」に対してこの呼び名が用いられていたため、オール・オーヴァーといえばポロックの作品というイメージが定着していましたが、その後はサイ・トゥオンブリーなどほかの抽象表現主義の画家の作品に対してもオール・オーヴァーの呼び名が使われるようになりました。
https://media.thisisgallery.com/art_term/all-over
「オール・オーバー」であるということは、構図に中心も周縁もないので、それらの作品を並置してしまえば、何となく繋がって見えるのです。髙橋さんは、はじめのうちは似たような図柄の作品を並べていましたが、だんだん大胆になって大きさも色合いも描き方も異なる作品を部分的に重ねて展示するようになりました。
『偶景 画集 2004−2021』では、そのような作品の写真の横に次のような言葉が添えられています。
ーうら庭にてー
ものの意味は集まった混沌を表している ー老子ー
ものの在り様は異別と羅列と重なりと(K)
2006年 ギャラリー檜での個展によせて
(『偶景 画集 2004−2021』p09)
この時期の髙橋さんの作品は、並置された作品の関係が見づらくて、ちょっと観念的で、考えすぎかな・・・、と思わざるを得ないところがありました。それは意図された「混沌」であることが明白で、つまりわざと見づらい作品にしていることが明らかだったのです。鑑賞者としては、正直な感想を言いにくい作品でした。
それからしばらくすると、髙橋さんは一つの画面の中で複数の絵が割拠するような作品を描き始めました。これらの作品も、正直に言えばまとまりがなく、やはり見づらいものでした。おそらく髙橋さんとしては、見栄えが良いように画面をまとめてしまえば旧套的な抽象画になってしまう、という思いがあったのでしょう。彼にとっては、画面の部分と部分がバラバラでまとまりのないことが重要だったのです。
『偶景 画集 2004−2021』の中で、その時の作品に添えられた言葉は次のようなものでした。
少し離れた在り方は、何となく見すぼらしく又、怠惰のようにも見える
ーそこに言い難い忍耐(他力による)があるとしても。
この事態を留保のままに進める、希薄な制作過程で繰り返すきりもない反芻は、見すごされかねない、もどかしい「半成品」(のような)を生み出すことになる。
そんな滅裂な文法のもとでも通じるものは、通じ方はないものかとー。
2009年 ゆーじん画廊での連続個展形式の二人展によせて
(『偶景 画集 2004−2021』p19)
今、当時の作品写真とこの言葉を読み返すと、自分の作品に対する冷徹な反省に舌を巻いてしまいます。自分の作品に対して「何となく見すぼらしく又、怠惰のようにも見える」と書く作家が他にいるでしょうか。「半成品」という言葉も、髙橋さんの造語だと思うのですが、作品を見る時の冷めた目を感じさせます。髙橋さんは、自分の作品を謙遜してこう書いているのではなく、本当にそう思っていたのだと思います。
しかし、この言葉の中で注目すべきなのは「言い難い忍耐」の後に括弧書きで「他力による」と書かれていることです。髙橋さんは、明らかに何かが訪れるのを感じていたのです。この試みの果てに、それまでの自力を超えた何かがやってくる、という、それは科学者が何かを発見するときの勘のようなものだったのかもしれません。その訪れを達成するまで「言い難い忍耐」をしのび、「この事態を留保のままに進める」と決意しているのです。
その後の髙橋さんに訪れた方法論が「重ね描き」です。
この独自の手法について、髙橋さん自身の説明を読んでみましょう。
2014年の言葉と、2015年の言葉を続けてお読みください。
重ね描きひと言
以前に描いた絵の上に、別の描きたい絵を後から描き重ね
そうして、その時その場での欲求を負う部分々が全体の相となり、
交配するようになるが、それは新たな意味を持つ、自立した作品とは言えない。
なぜなら、前の絵と後からの重ね描きが、互いに従わない、従えないという関係であり、
否定(=否定は、新たな意味体系を作り出す装置・・)ではないから。
ここでは、作品制作という意味づけや、イメージに収斂することがないので、新絵画にはならない。
では、そこにあるもの(作品)は、絵画への問いを、自己の生に据える、いわば自立性の低い跡形と捉えたい。 ー髙橋
2014年ギャラリー檜での個展によせて
(『偶景 画集 2004−2021』p29)
私の重ねという手法は、作品制作の全てに通貫し、時には作者を自縛し、
自閉的にしかねない意図という要素を、制作のうえでいかにときほぐし、解体し、
或は作品の自立性を相対化していくための過程であると考えてのことです。
そこに生じる偶然により、意図されたものではないだけに、純度の高いー意図性とは別のー達成があるのではないか・・・そこにひとつの地平を求めようとする試みです。(2015)
おぼえがき
(『偶景 画集 2004−2021』p31)
この頃の髙橋さんの作品と言葉は、何度見直しても感動的です。
髙橋さんが現代美術の文脈で作品を発表し始めたのは、おそらく1960年代、つまり私が生まれた頃です。それから50年ほどの探究の末に、現代絵画における重要な問題を解決する方法論を、髙橋さんは手に入れたのです。
これは本当に奇跡的なことです。
このように書くと、何と大袈裟な!と言う人がいるかもしれません。
例えば、髙橋さんよりも著名な画家はたくさんいますし、髙橋さんよりも社会的な地位の高い芸術家、作品の値段の高い美術家ならば、そこら中にゴロゴロいます。しかしその中で、髙橋さんほどの芸術的な達成を成し遂げた人がどれほどいるのでしょうか?芸術作品というのは、何とも正直で、そして恐ろしいものです。髙橋さんの一枚の絵の前では、有名な画家たちの嘘も虚飾も通用しないのです。
ちょっと気持ちが昂ってしまいました。
髙橋さん本人は、もっと冷静、冷徹な考えを持った人です。彼は、この「重ね描き」の方法論は偶然に訪れたのだ、と言っています。稲さんとの対談の中で、稲さんが髙橋さんに「一枚の絵の中に、下に以前の絵があって、その上にもう一枚の絵を重ねて描くというのは、どの辺りから出てきたのですか」と聞くと、髙橋さんは次のように答えています。
それはアトリエで見ていただいたような素描を描いています。
あれを描いている時にスケッチブックに前に描いた素描を見ると、あれっという感じで、重ねていく手もあるのかなという。そうしたことから重ね描きという、偶然なのですよね。これを重ねたいということではないのです。まさに偶然なのです。
ジョン・ケージが言った偶然というものを大事な契機として捉えて、そして彼は中国の八卦(はっけ)を、その手段とか方法をどのように利用したかは分かりませんが、偶然性によって生まれる、偶然のいい加減さではなく、偶然の偶然をいかに捉えるのかという、僕に与えられた1つのチャンスだったかな、そんな感じがしました。
(『dialogue 絵画について』p19 髙橋圀夫)
ここで突然、アメリカの現代音楽家のジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.、1912 - 1992)さんの名前が出てきましたが、実はこの発言の前に髙橋さんは次のように語っています。
僕はこのころ出会った言葉があるのですけれど、ジョン・ケージという現代音楽の作曲家が、「音楽は何故こんなにつまらないか、つまらないものになるのか。人間が自分の意志によって音を選んでいるからなのだと、その意志を解体しなくては、音楽は面白くならないのだ」と。
(『dialogue 絵画について』p19 髙橋圀夫)
さて、ここである程度の基礎知識が必要になります。
私たちの世代では、ジョン・ケージさんの動向などが芸術の世界に激震を起こし、「偶然性」と創作との関係を誰もが無視できなくなったのですが、若い方たちからすると、「偶然性」を作品の制作に取り入れることなど当たり前のことでしょう。ですから、髙橋さんが何にこだわっていたのか、よくわからないかもしれません。少しだけ学習しましょう。
それではまず、「八卦」という言葉を見ておきましょう。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という時の、あの「八卦」です。「八卦」を辞書で引いてみましょう。
八卦(はっけ)
1 易で、陰()と陽()の爻こうの組み合わせで得られる8種の形。この中の2種を組み合わせてできたものが六十四卦で、自然界・人間界のあらゆる事物・性情が象徴される。はっか。
2 占い。易。「当たるも八卦当たらぬも八卦」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%8D%A6-114901
八卦は占いの一種ですが、「自然界・人間界のあらゆる事物・性情が象徴される」というところが重要です。世界のあらゆる事象が八卦の中に書き表されているということなのでしょう。それは「易」という、一種の思想だと言っても良いと思います。
それから、偶然性を音楽の作曲に活かすためにケージさんが唱えた概念に「チャンス・オペレーション」という言葉があります。その言葉も見ておきましょう。
チャンス・オペレーション(Chance Operation)
アメリカの音楽家、J・ケージが1950年代初頭に考案し、実験音楽家らによって活用された、偶然を利用してスコアを作成する手法。「偶然性の音楽」のひとつのヴァリエーションである。
https://artscape.jp/artword/6308/
「偶然性」という言葉は、日常生活ではそれほど重たい意味を持つ言葉ではないでしょう。自分の意志ではどうしようもないものを「偶然」と言うのですから、それについて論じても仕方ないのです。強い意志を持って人生を切り開く、ということも時には必要ですが、私たちはある意味では偶然による物事の流れの中で生きている、とも言えるのです。
しかし近代以降の芸術は人間の意志にこだわりました。科学の発達によって、人間の営みに「万能感」のようなものを抱いたのかもしれません。しかし、人間の意志が万能であるような世界観では、いずれ行き詰まってしまいます。その行き詰まりは、まず芸術の世界に訪れました。それが、髙橋さんが引用したケージさんの「意志を解体しなくては、音楽は面白くならないのだ」という言葉に表れているのです。
このことについて語りだすと長くなるので、ここではこのくらいにしておきます。
髙橋さんが「言い難い忍耐(他力による)」と書いていたのは、この偶然の訪れを耐えながら待っていた、ということだと思います。そして「偶然の偶然をいかに捉えるのかという、僕に与えられた1つのチャンスだったかな」という機会を、髙橋さんは逃さなかったのです。もう一度、その時のことを語った髙橋さんの言葉を読んでみましょう。
「あれを描いている時にスケッチブックに前に描いた素描を見ると、あれっという感じで、重ねていく手もあるのかなという。そうしたことから重ね描きという、偶然なのですよね。これを重ねたいということではないのです。まさに偶然なのです。」
うーん、これを「偶然」と言うのか、それとも自分自身の「発見」と言うのか、微妙なところです。しかし、これを「発見」と言ってしまうと、人間の意志が強調され過ぎてしまいます。それでは「偶然の偶然をいかに捉えるのか」という髙橋さんの意図が台無しになってしまうのです。
このことを考える時に、私には印象的な思い出があります。
この「重ね描き」の手法で素晴らしい作品を制作していた頃、私は画廊で髙橋さんとお話をする機会がありました。髙橋さんは「重ね描き」の手法について私に説明した後、ある不安を漏らしました。その不安というのは、この「以前に描いた絵」の上に新しい絵を重ねて描くという手法を続けていると、いずれ「以前に描いた絵」が足りなくなってしまう、というものです。浅はかな私は、「それならば今のうちに、未完成の絵を描き溜めておけば良いのではないですか」と答えると、髙橋さんはそれでは意味がないのだ、と言いました。すでに「重ね描き」の手法を意識してしまった上で「以前に描いた絵」を制作するのでは、ただの一枚の絵の制作過程になってしまうので、「重ね描き」とは言えないというのです。「以前に描いた絵」をどんなに無心に描いたとしても、それではダメなのだ、と髙橋さんは頑固に言い切りました。私は髙橋さんの作品制作の「ビジョン」の厳格さに脱帽するしかありませんでした。
そのような強い「ビジョン」を持ち、年々若返るような作品を描き続けた髙橋さんでしたが、この数年は作品を発表する機会が減りました。画廊でお見かけすることもなかったと思います。年譜を見ると、最後の二行は次のように書かれています。
平成30年 2018年 89才 妻が死去する
令和1年 2019年 90才 長男が死去する
(『偶景 画集 2004−2021』「髙橋圀夫 作家年譜」)
ご家族の死去と、ご自身の体力の衰えと、おそらくそれらが同時に髙橋さんを襲ったのだと思います。さらに新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が 2019年12月に中国で最初の感染者が報告され、それからわずか数カ月でパンデミックと言われる世界的な流行となりました。時の為政者は、真っ先に図書館や美術館といった文化施設を閉鎖してしまいました。私はそのはじめの時期にギャラリー檜で個展を開催していて、まったく人が来なかったことを憶えています。健常者ですらそのありさまでしたから、ご年配の方は容易に動けなかったと思います。髙橋さんの個展は2019年のギャラリー檜での開催の後、2023年のノハコでの開催を待たなければなりませんでした。
そのノハコでの展示は、作品の色彩がそれまでよりも淡く、全体が茫洋としている一方で、画面の広がっていく感じがそれまでよりも増しているように思いました。髙橋さんは90歳を超えても、さらに自分の芸術に新しい展開を求めているのだ、といううれしい驚きがありました。『偶景 画集 2004−2021』の最後のコメントは次のような言葉でした。
私の絵画作品ー
色あいの明暗と切れ端のような形などの、変化や類縁性の乏しさが、画面の完成への予感をはばむ
それ等の理由とは別に、作品制作も生産あるいはワーク(work)と同じシステムなのかという自問がある一方、その出所は矛盾・対立・葛藤といったリアリティに根ざしたものであり、やはり関心は「絵画表現をどのようなものにしようとするか」にあると考える。
(『偶景 画集 2004−2021』p45)
髙橋さんは、最後まで「絵画表現とは何か」ということを考えていたのだと思います。
作品制作には、髙橋さんが書いている通り、確かに「生産あるいはワーク(work)と同じシステム」なのだという側面があります。生産物であればこそ、作品は社会に流通し、展示されて鑑賞され、売買されて消費されていくという側面があります。
しかしその一方で、「矛盾・対立・葛藤といったリアリティに根ざしたもの」であるはずだ、と髙橋さんは考えていたのだと思います。だからこそ「色あいの明暗と切れ端のような形などの、変化や類縁性の乏しさが、画面の完成への予感をはばむ」という事態も、大切にしなければならなかったのです。
私は最後の髙橋さんの展示を見て、もしかしたら髙橋さんは「重ね描き」によって見えてきた新しい絵画の「ビジョン」を、もう一度自分の意志によって俯瞰し、認識しようとしていたのではないか、と思いました。「偶然性」によって見えてきた世界を、もう一度意識化するということ自体が「矛盾・対立・葛藤」を孕んだ探究です。いよいよそこに立ち入った時に、髙橋さんに見えた絵画の「ビジョン」は、茫洋とした広がりが果てしなく続いていくものだった、と私は推察します。
絵画は、基本的には限定された矩形の枠の中で表現されるものです。その枠の存在は意外と厄介で、例えば髙橋さんがいくら複数の絵画を並置しても、それらの絵画の一つ一つの枠を揺るがすことはできませんでした。それが人生の最後に至って、ありきたりの矩形の枠の中に絵を描きながら、その枠をまったく感じさせない広がりのある世界を、髙橋さんは表現し得たのではないか、と私は思います。
しかしその一方で、それらの作品が最後の完成品だ、などという感じはまったくしませんでした。髙橋さん自身が「画面の完成の予感をはばむ」と書いていた通り、それらの作品はさらなる展開を求めて動いているように見えたのです。
その探究が、ここで閉じられてしまった、ということが、冒頭にも書いたように残念でなりません。
さて、だいぶ長くなりましたが、ここまでは髙橋さんの晩年の時期の制作について書いてきました。しかし、実は私が髙橋さんをお見かけしたのは、もっとずっと前のことになります。
私が画廊で作品を発表し始めたのは20代の前半のことで、1980年が過ぎた頃のことになります。
そのころは、髙橋さんの言葉に出てきた山岸信郎(やまぎしのぶお、1929 - 2008)さんの神田に程近い画廊で発表し、よく出入りしていました。その時期に、やはり画廊に出入りしていた髙橋さんをちょくちょくお見かけしたのです。若かった私には、髙橋さんや山岸さんはとても遠い存在に思え、ろくにお話もできませんでした。
その山岸さんの文章をまとめた『田村画廊ノート』という本があります。その中に「交友録から 髙橋圀夫展によせて」という文章があります。とても面白いので、ぜひ皆さんも入手して読んでみてください。
例えば、髙橋さんが山岸さんに作品を見てほしいと言って、夜の画廊に山のようなドローイングを持ち込んだ話、そして次に山岸さんが髙橋さんのアトリエを訪れると、それらのドローイングは影も形もなく、8万枚もの作品をくず屋に売ってしまったという話など、今の若い方には想像もできないことでしょう。
その山岸さんの髙橋さんへの評価を、最後に書き留めておきたいと思います。
髙橋氏の作品は、それぞれの時代の風潮にかかわりながらもなお、やや慎ましやかな地道な思考を続けていたようにみえる。植物生物学的なイメージを透明化し、なお、その生命を損なうことを拒否するように形体の無機性と有機性を用心深く探索する作品、それから自己の存在を問い直すような空間のインスタレーション、事物の存在を意識の流れに於いて空無化をはかる暴力的暗喩、表現は様々な形式をとりながら、髙橋氏の制作は一貫して生命のある者の存在にむけられているといっていい。はじめに自然科学の徒であったことにふさわしく、喝采よりは事実を、爆発よりも抑制を、緻密に、注意深く試みてきたようだ。底に、この世代が宿命的に抱く虚無の、深淵を凝視しながら。
2000年4月
(『田村画廊ノート』「交友録から 髙橋圀夫展によせて」山岸信郎)
最後の一文の「この世代が宿命的に抱く虚無の、深淵を凝視しながら」というのは、同世代の山岸さんであればこそ、の洞察だと思います。考えてみると、山岸さんは髙橋さんの「重ね描き」が、はっきりとした表現の形になる前に亡くなっているのです。
それも残念なことです。
さて、私がこのblogで髙橋さんに触れた文章のリンクを記載しておきます。単なる案内文も含まれますが、「86.髙橋圀夫の作品と宇佐美圭司の『絵画論』について」は、けっこう力を入れて書いたものです。
よかったら読んでみてください。
64.「髙橋圀夫展」、「五島三子男展」
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/81c9edc23cf1201d5a2530658fd2b5b3
69.「絵について語ること①」高島芳幸、髙橋圀夫、さとう陽子
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/bc45b86d7e209dcca7ccfd30e171057c
86.髙橋圀夫の作品と宇佐美圭司の『絵画論』について
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/015dbd364244af37a43540be5cc95012
352.レヴィ=ストロース「ブリコラージュ」、髙橋圀夫展、海原純子のジャズ
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/424cc860291f615490f9b6935f47b5e7
353.髙橋圀夫展とレヴィ=ストロースと小野小町
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/de377369fec1b992972509113a8254c6
最後になりますが、髙橋さんは亡くなっても、作品と文章は残されています。
ですから、折を見て思い出したことや、新たにわかったことがあれば、また書いてみたいと思います。実際のところ、髙橋さんの示した絵画の可能性を、まだ誰もちゃんと研究していないのです。私よりも優秀で若い方々が、その研究に挑んでくれることを願っています。
それでは、今はただ、髙橋さんのご冥福をお祈りするばかりです。
思いあまって、少し長めの文章になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。
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