平らな深み、緩やかな時間

423.フォンタナを「考覚」から考える

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さて、本題に入ります。

 

前回は、ルーチョ・フォンタナ(ルチオ・フォンターナ,Lucio Fontana, 1899 - 1968)というイタリアの美術家、彫刻家、画家について学習しました。

 

422.フォンタナの研究 谷藤史彦、巖谷睦月について

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/2586bf68ce9530afa31bc3fdbf703b4d

 

私が現代美術を勉強し始めた1980年代頃は、日本の美術ジャーナリズムはアメリカ一辺倒でしたから、フォンタナさんのことや、未来派やアルテ・ポーヴェラなどのイタリアの美術の動向について、私は通り一遍のことしか知りませんでした。今では『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』(池野絢子著)や、前回取り上げたフォンタナさんに関する研究書や論文などによって、それらについて知ることができます。それでも、まだ情報として手薄な感じは否めません。

 

103.『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』池野絢子

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/fa0543c71e36e8d0c9dc57144dc5fa41

 

ついでに書いておくと、その後の美術の動向についても、日本の美術ジャーナリズムと美術市場は、アメリカのモダニズム美術から世界的なポスト・モダニズムの流行へと雪崩をうって動きました。だから一時期のイタリア美術に限らず、市場に上がってこないさまざまな美術の動向や作品は、いまでも私たちの知らないところでひっそりと息づいているのかもしれません。私たちは少しでも多く、そんな作品に目を向けたいものです。

 

さて、そうは言っても、人目につかない美術作品なら何でもいいというわけではありません。また、美術史上の定まった評価を鵜呑みにして、それをなぞってみても意味がありません。

そこで今回は、フォンタナさんについて新しい見方を試してみたいと思います。新しい見方というのは、前回も予告したように、その前に取り上げたマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )さんの『考えるという感覚/思考の意味』で提示された「考覚」という概念のことです。

 

421.『考えるという感覚/思考の意味』マルクス・ガブリエルについて

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/7555488cb9342f0b16b12897a19b3f79

 

ここで少し復習をしておきましょう。ガブリエルさんの提示した「考覚」とは、どんな概念だったのでしょうか。

 

考えるということは、一つの感覚(Sinn)です。私たちの考覚は、さまざまな可能なものと現実に付随する無限性に、つまり<意味(Sinn)の場>に私たちを接触させます。私たちの考覚の特別な点は、私たちが宇宙の深い構造ばかりでなく、精神の深淵、つまり芸術の歴史、クロスワードパズルなど多くのことについても、感動的なほど高い解析度で測定するところにあります。そんなことがうまくいくのは、考覚の対象が総じて論理的に構成されているからです。

どの感覚にも、その感覚が直接受け取る特有の感覚質ークオリアーがあります。例えば、私たちは音を聞き、色を見、あたたかさを感じ、思想/思考されたものを考えたりします。私たちは、考覚のパースペクティヴから、他の感覚の構造のみならず、原理的に言って無限に多くある意味の場の構造を把握しています。意味の場は、他の感覚で把握できるあらゆるものを超えています。考覚にとってのクオリアとは、思考体験を形成する元となるような、さまざまな概念です。

(『考えるという感覚/思考の意味』「第4章 なぜ生き物だけが考えるのか」マルクス・ガブリエル著 姫田 多佳子, 飯泉 佑介訳)

 

ガブリエルさんによれば、考えるということは一つの感覚です。

例えば私たちは、交差点の赤信号を見れば、赤い色が点灯していることを視覚によって知りますが、それと同時に「赤=危険」という「意味」もインプットされます。その「意味」の把握をガブリエルさんは「考覚」として捉えたのです。

そんな話を大学で哲学を勉強した若い同僚にしてみたら、「やっぱり感覚と思考は別のものじゃないですか・・」と言われました。常識的に考えるとそうですよね。しかし、「感覚」と「思考」をまったく別のものだとする考え方の土台には、西欧の哲学を支配してきた「心身二元論」があります。ガブリエルさんの哲学は、その土台を転換するところから始まっています。「感覚」という身体的な機能が、脳の中の心に働きかけて「思考」が動き出す、という西欧的な構図を彼は否定するのです。

そのあたりの細かいところは、ガブリエルさんの『考えるという感覚/思考の意味』を読んでいただくしかありません。そして、その概念の妥当性はともかくとして、私はこの「考覚」という考え方をとても面白いものだと思っています。

このblogを読んでくださっている方ならご存じのように、私は絵画を見るときに「視覚」だけでなく、「触覚」の働きも重視したいと考えて「触覚性絵画」という概念を作り出しました。これは各感覚を横断するような「共通感覚」という概念が土台になっているのですが、ガブリエルさんはさらに大胆に、「他の感覚の構造のみならず、原理的に言って無限に多くある意味の場の構造を把握」する概念として「考覚」ということを言っているのです。

もしかしたら、私が「触覚性絵画」として提唱した概念よりも、私が絵を見たときに感受していることを「考覚」の概念を使った方が、うまく説明できるのかもしれません。

 

そこで今回は、せっかく前回フォンタナさんの芸術について学習したので、彼の作品から「考覚」について考えてみたいのです。参考までに、フォンタナさんのもっとも有名なキャンバスを切り裂く作品とは少し違った、それぞれ晩年の作品を共有しておきたいので、次のリンクをご覧ください。

 

まずは立体作品です。テラコッタで作られた、大きな球体の作品です。

Lucio Fontana's Travels in Space

https://www.sothebys.com/en/articles/lucio-fontanas-travels-in-space

 

フォンタナさんは1959年から60年にかけて、この「空間概念」の「自然」シリーズを集中的に制作します。この時のことを友人に次のように手紙で書き送っているそうです。谷藤史彦さんの『ルチオ・フォンタナとイタリア20世紀美術』から、その部分を引用してみましょう。

 

この夏、アルビゾーラで私は懸命に仕事をした。穴や大きな切り抜きのあるとても大きなテラコッタの球体を30個くらい作った。無を表現することができて、とても喜んでいる。これは物質の死であり、純粋な生命科学である。

(『ルチオ・フォンタナとイタリア20世紀美術』「第2章 革新性の問題」谷藤史彦)

 

そして、もう一つの作品を見てください。最晩年の「空間概念」の「神の終末」シリーズですが、これは楕円形の大きなキャンバスにいくつもの穴を穿ったシリーズです。

Lucio Fontana spaziale vola a 20,6 milioni di dollari. La sua fine di Dio illumina New York

https://artslife.com/2023/11/16/lucio-fontana-spaziale-vola-a-206-milioni-di-dollari-la-sua-fine-di-dio-illumina-new-york/

 

このシリーズについて、前回も一部を引用しましたが、フォンタナさん自身は次のようにインタビューで答えています。同じく、谷藤史彦さんの『ルチオ・フォンタナとイタリア20世紀美術』から引用してみましょう。

 

私が「神の終末」を展示したと展示した時、「あなたは神の終末を目論んでいる」と皆がいってきた。「いや、神はひとつであり、これは地上の神の終末である。これによって、そのような神の終末を意味し、一者の神は継続する(・・・)それは何を意味するのだろうか?無である」と述べた。誰か、どのようにして神が現れたのか知っているのだろうか?だから私はこうした穴を穿つのである。(・・・)私が他の絵画で穴を穿ち、それをカトリック美術の展覧会で展示したことがある。そこに二つの切り裂きがあり、絵画全体は青であった。そして私は「神を信じる」と言った。そして皆は来て「これはどういう意味だ」と言った。(・・・)「信仰の行為、私ができる唯一の身振りがこれである。神を信じることである」と私は言った。(・・・)したがって、神は無であるが、彼はすべてである。違いますか?

(『ルチオ・フォンタナとイタリア20世紀美術』「第2章 革新性の問題」谷藤史彦)

 

前回も書きましたが、フォンタナさんの思考には、やや今の私たちから見ると納得しがたい飛躍が見られます。

フォンタナさんによれば、球体やキャンバスの穴やキズは「無」を表現していて、その「無」は「無限」につながるもので、「無限」の存在と言えば「神」のことで、だから作品を制作することは「信仰の行為」である、というのです。私は作品を制作することが自分の思想や思考、信仰を表現することにつながるということには賛同します。そして世界には、信仰を表現するために優れた芸術作品が数限りなく存在することも知っています。

しかし、作品に穿たれた穴が「無」を表現し、「無」を表現することが「無限」へとつながる、というあたりまでは許容しますが、それ以上の意味を込められても、私には受容する素養がない・・・、というのが正直なところです。

 

そして私たちがもっとも注目する作品の物質性については、意外とフォンタナさんはそっけないようです。

例えば「自然」シリーズの球体は、一部を傷つけられることでかえって球体という形象を意識させますし、切り付けられた傷跡からは作者が手を加えたであろう素材の感触を露わにしています。あるいは、「神の終末」シリーズのキャンバスは、穴を穿たれることでかえってその平面性を意識させますし、穴が表出する素材感は先ほどの「自然」シリーズと同様です。

フォンタナさんはそれを「物質の死」という言葉で語っていますが、微妙な発言ですね。もしかしたら、フォンタナさんの意識は無限の宇宙や神の信仰にまで飛んで行ってしまっていて、目の前の作品の物質性についてはあまり意識していなかったのかもしれません。

さて、それでは「考覚」という概念からフォンタナさんの作品を見ると、どうなるのでしょうか?

私が今書いたように、例えば「自然」シリーズの球体は、一部を傷つけられることでかえって球体という形象を意識させているし、切り付けられた傷跡からは作者が手を加えたであろう素材の感触を露わにしていると私は思うのですが、この私の思いは「考覚」そのものではないでしょうか?

どういうことなのか、説明してみましょう。

私は作品を見て、視覚的にそれが何やら人の手が加わった土の塊のようなものだと了解するのですが、この私のインプットのどこまでが感覚的なもので、どこからが思考的なものなのでしょうか?そもそも、この「土の塊のようなもの」だという了解事項について、どこまでが純粋に視覚的なもので、どこからが私の思考が加わったものなのか、その線引きはとても難しいと思います。さらに私は、即座にその塊がおおむね球体であることを察知し、その一部が損なわれていることを見て取りますが、これは視覚的な了解事項でしょうか、それとも私の思考力がそうさせているのでしょうか。その傷跡が、おそらくは作者の手によって為されたもので、私はすぐにその作者の仕草や手の感触を思い起こしてしまうのですが、ここまでくると、この感触は美術家としての私の性癖によるものなのかもしれない、という疑いが出てきます。

(そこで私は、この作者の手の感触あたりまでを「触覚」として多くの方に共有していただきたいと考え、「触覚性絵画」などといってその感覚の重要性を説いているのです。)

これらの一連の作品からの印象は、ひとつの塊のように私を訪れます。この印象をどこまでが感覚で、どこからが思考なのか、と問うことの方が理屈っぽくて、不自然なことのように私には思えるのです。最後の「触覚」の感受までを、このように理論的に考えなくても、誰にでも訪れる感覚のようなものとして捉えたい、と私は考えてきました。

だから「考覚」という概念について、私は芸術に関わる者として新たな可能性を感じるのです。

例えば、これは前にも書きかけたのですが、この「考覚」という概念から考えると、「コンセプチュアル・アート」と呼ばれる作品への評価や、この動向が主張する内容について、違った角度からの批判ができるのではないかと思うのです。

ちょっとこのことについて考える前に、「コンセプチュアル・アート」について、予習しておきましょう。

 

コンセプチュアル・アート

Conceptual Art

「概念芸術」の意味。従来的なメディウムに代わる多様かつ新しい素材や手法の摂取を伴いつつ、1960年代より顕著となった動向を指す。ニューヨーク・スクール/抽象表現主義のロマン主義的な側面に象徴化されるような、創造的個人としての表現主体やその作品の唯一性といった美学的モデルへの、あるいは「絵画」/「彫刻」というヨーロッパ的伝統に連なるカテゴリーへの反発が、アメリカにおいてコンセプチュアル・アートの出現を準備する一因となった。絵画的な視覚性からの脱却と、それにともなう言語や情報媒体などの「読まれるもの」の対抗的な導入は、この動向の主要な特徴である。既存の芸術への批評的視点ゆえ、こうしたアプローチをはじめとするコンセプチュアル・アートの手法は、たんに様式上の批判・変革であるにとどまらず、美術館や市場、美術雑誌、美術史といったアートワールドの諸体制をめぐる制度批判的・分析的な思考をも前景化させることとなった。

 また、複写技術の使用や、地図、写真、広告、雑誌などの複製印刷物、既製品の導入は、メディウム概念の拡張であるとともに、唯一性の解体という(反)美学的な関心に呼応するものでもあり、テレビやラジオといった情報メディアの通信ネットワークによる脱個人化、相互接続のヴィジョンもまた、こうした脈絡において着目された。ただしそのような水平性の志向は、従来の美的枠組みの解体を果たす一方で、芸術資本や情報のグローバルな流通形式との親和性を備えるものでもあり、コンセプチュアル・アートの抱える両義的かつ今日的な側面を指し示している。

文=勝俣涼

参考文献 Conceptual art and the politics of publicity(アレクサンダー・アルベロ著、The MIT Press、2003)

(『美術手帖 ART WIKI』より)

https://bijutsutecho.com/artwiki/50

 

ここで私が注目したいのは、上の文章の中の「絵画的な視覚性からの脱却と、それにともなう言語や情報媒体などの『読まれるもの』の対抗的な導入」という部分です。「コンセプチュアル・アート」は、「絵画」を単なる視覚的なものとして捉え、それに対抗して知的な「読まれるもの」を作品化したものなのです。

例えばアメリカの美術家、ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth, 1945 -)さんの『1つおよび3つの椅子』(One_and_Three_Chairs)(1965)はその代表的な作品です。

 

『1つおよび3つの椅子』(One_and_Three_Chairs)

https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2686/installation_images/20320

 

この「コンセプチュアル・アート」の動向が、モダニズムの美術が発展していくうえで必然性があって生まれたものだということを、私はまったく否定しません。しかし、この動向が「絵画」を視覚的なものであるがゆえに批判した、という点については、今ならば反省の余地があるのではないかと思います。

例えば、上記のコスースさんの作品は、椅子の三つの様態を比較して見ることで、鑑賞者に知的な興味を促しているのですが、そのことに意味があるとするならば、例えば高階 秀爾(たかしな しゅうじ、1932 - 2024)さんが『名画を見る眼』 (1969)の最初に取り上げたヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck、1395頃 - 1441)さんの『アルノルフィーニ夫妻像』(1434)は、視覚的であるがゆえに意味がないものなのでしょうか?

 

『アルノルフィーニ夫妻像』

http://www.artmuseum.jpn.org/mu_arunolufini.html

 

高階さんの著書を読むと、様々な形でこの絵を鑑賞し、その背景について解説しているのですが、それはある意味ではコスースさんの作品を鑑賞する以上に知的な営みであると思います。さらにこの作品には、視覚的であるがゆえに絵画以外の表現では成し得ない知的な仕掛けがあって、そのこともこの絵を見る楽しみの大きな要素となっています。

繰り返しになりますが、私は「コンセプチュアル・アート」にかぎらず、モダニズムの美術が「絵画」を視覚的であるがゆえに批判することで、新たな芸術を生み出そうとしたことを否定するつもりはありません。それらの作品の中には好きなものもありますし、既成の絵画を批判した意義もあったと思います。しかし、その動向もまた時代とともに批判され、見直されるべきだと思います。

たぶん、ガブリエルさんの「考覚」という概念は、その方法を示すものになりえると、私は考えます。

私たちは絵画を見るときに、ただ単に視覚的に見ているようですが、そこに色や形の構成を見て、絵画的なイリュージョンを感じて、場合によっては描かれたモチーフについて考え、作者の意図を知ろうとします。それは「視覚」と「考覚」を同時に働かせる営みであり、ただたんに「視覚」のみで行っている事ではありません。私は「心身二元論」がモダニズムを生み、そのモダニズムの美術が絵画を見る楽しみを平板なものにしてしまい、その結果、絵画表現を袋小路に追い詰めたのだと考えます。このblogはその反省に立って、文章を紡いでいるのですが、ガブリエルさんの「考覚」はモダニズムの再検討に大きな役割を果たすのではないか、と期待しているのです。

 

そして世界を見れば、モダニズムの矛盾が解消されるあてもなく、あらゆるところで危機的な状況を生んでいます。この状況下で、誰もが強い指導者による救済を求めてしまいますが、そのことがさらなる危機を生んでいます。

いまこそ、私たち一人一人が、自分の立っている場所で、自分ができる努力をするべきです。ガブリエルさんの「考覚」という概念は、芸術に関わる私たちに対して、新たな視点を与えるものだと思います。これは、私たちに新しい見方で美術を見直してみよう、という呼びかけなのかもしれません。

今回は、その新たな視点からフォンタナさんの作品を鑑賞することについて考えてみました。フォンタナさんの作品から、私たちの「考覚」はそこに衝撃的な物質性の露出、あるいは作家の行為性を感受しました。もしも作者がそのことにそれほど自覚的でなかったとしたら、私たちはフォンタナさんの作品を「誤読」したことになります。

しかし私はそれを「誤読」というのではなく、「創造的な解釈」というふうに言いたいと思います。芸術の歴史と言うのは、実はこのような「創造的な解釈」によって発展してきたのではないでしょうか。先人の意図したとおりのことを踏襲していては、そこには新たなものは何も生まれません。

 

もしも私たちが、これから「考覚」という概念によって美術を見直し、そのことで新たな「創造的な解釈」が生まれるとしたら、これは素晴らしいことです。

 

このblogでは、これからも機会を見つけて「考覚」について考え、新たな作品解釈を試みてみたいと思います。

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