前回からのくり返しになりますが、はじめに私のことで連絡します。
3月13日から、東京・京橋のギャラリー檜で個展を開催します。いよいよ会期が近くなりました。
展覧会の案内状を次のサイトからご覧になれます。
http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html
同様に、個展で配布する予定のパンフレットのpdfファイルもご覧になれます。
今回の展覧会は仕事上、あるいは個人の事情からちょっと忙しくて、週末すら画廊に滞在できない見通しです。来てくださったのにお会いできない方々へ、あらかじめお詫び申し上げておきます。でも、少しでも多くの方に作品を見ていただけるとうれしいです。
さて、前回のblogで取り上げた朝日新聞(3月3日)の寄稿記事『ロシアの破局的な時間』(池田嘉郎)の中に、次のような一節がありました。
ロシアの時間についてもうひとつ興味深いのは、社会主義体制で続いていた独特の時間である。
米国の歴史家S・ハンソンは、著書(1997年、Time and Revolution:Marxism and the Design of Soviet Institutions)で、マルクス主義と時間の関係を考察している。
それによれば、資本主義の市場経済のもとでは全てが商品となるが、その価値の尺度となるのは、万物に等しく作用する均質な時間である。だから「時は金なり」なのだ。ところが社会主義では話は異なる。そこでは時間が人間の価値を計るのではなく、人間の意思が時間の流れを統御する。
その時間観念を象徴する言葉になったのが、ソ連の詩人マヤコフスキーの戯曲「風呂」でうたわれ詩の一節「時間よ、前進!」だ(「時」という日本語訳も多いが、ここでは「時間」という社会科学的用語で訳したい)。
これは社会主義イデオロギーに関する問題だが、権力の在り方にもかかわる。時間を統御するのは権力者をはじめとする個々人の意思であり、その生は有限だから焦燥感に駆り立てられる。だから、彼らは時間に「より早く流れよ」と働きかけるのである。
(『ロシアの破局的な時間』池田嘉郎)
この記事では、ロシア人の独特の時間の流れに対する観念とは、為政者の意志によって歴史的に時間が循環するという捉え方だ、と分析されていました。(くわしくは前回のblogをお読みください。)ロシア史研究者の池田嘉郎さんは、そのロシア的な時間の概念の良し悪しはともかくとして、そのような時間概念を理解しないと、プーチンの内面的な切迫感から生じたと思われる今回のウクライナ侵攻は理解できない、と言っていたのでした。
そして私は、いま目の前で起こっている惨状だけを見ると、ロシアの主観的な時間感覚よりも、市場経済社会による均質な時間の捉え方のほうが良さそうに見えるけれども、そう単純なものでもないでしょう、ということを書きました。特に美術の世界においては、モダニズムの世界観が煮詰まってしまっているので、ヨーロッパ近代がもたらしたモダニズム賛美というわけにはいかないのです。
そこで今回は、もう少しこの時間や歴史の概念について考えてみることにしましょう。私は、モダニズムの始祖とも言えるドイツの大哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)に遡って、時間の流れ、すなわち歴史の概念について考えてみたいと思います。ヘーゲルが歴史について語った著作として、『歴史哲学講義』があります。その講義の「序論」で、哲学は歴史をどう捉えるべきなのか、ヘーゲルは次のように書いています。
しかし、一般的にいって、歴史の哲学とは、思考によって歴史をとらえることにほかなりません。わたしたちはいついかなる場合にも思考をやめることができない。人間が動物とちがうのは、思考するからです。感覚のうちにも、知識や認識のうちにも、衝動や意思のうちにも、それらが人間の活動であるかぎり、思考がはたらいています。が、このように思考がもちだされるのに不満をおぼえる人もいるかもしれない。というのも、歴史においては、あたえられた存在に思考が従属し、思考はあたえられた存在にとらわれることなく、自発的に思索をうみだしていくものだとされるからです。哲学が自前の思考をたずさえて歴史におもむくと歴史を一つの材料としてあつかい、それをそのままにしておかないで、思考によって整序し、いわば歴史を先天的に構成することになる。ところが、歴史の課題は、現在と過去の事件や行為をありのままにとらえるところにあって、あたえられた事実に執着すればするほど真理に近づくことになるはずだから、歴史のめざすところと哲学の仕事は矛盾するのではないか、というわけです。この矛盾と、この矛盾ゆえに哲学的思考にあびせかけられる非難については、ここできちんと説明し、誤解を解いておかねばなりません。いまはやりの、そして、これからもつぎつぎとあらわれるはずの、数知れぬ、特殊な、あやしげな見解を一つ一つ訂正していくつもりはありませんが。
哲学が歴史におもむく際にたずさえてくる唯一の思想は、単純な理性の思想、つまり、理性が世界を支配し、したがって世界の歴史も理性的に進行する、という思想です。
(『歴史哲学講義』「序論」ヘーゲル著 長谷川宏訳)
在野の哲学者である長谷川宏さんのわかりやすい翻訳によって、ヘーゲルが一つ一つのものごとをきちんと整理して考える人であることが、よくわかります。この文章の手前には、説話や伝説を歴史的な事実とみなすわけにはいかない、というようなことをヘーゲルはていねいに説明しています。そして歴史を単なる事実の羅列として見るのではなくて、「思考によって歴史をとらえること」が「歴史の哲学」なのだ、とヘーゲルは言っています。私たちが冒頭で確認したような、ロシア人がどのような時間の概念を持っているのか、などと考察することは、まさに歴史を哲学的に考察していることにほかなりません。
しかし、この歴史の哲学について考えるときに、困ったことが起こります。歴史的な事実を一つ一つ取り上げて、それを時間の流れに沿って思考していくということは、私たちが思考すればするほどもとの事実から離れていくことになるのではないか、ということです。無垢な事実に対して人間的な思考が介在すればするほど、それは事実=真理から離れてしまうのではないか、そうだとすれば哲学にとって大きな矛盾となります。
そこでヘーゲルが導き出した解答は、私たちの思考は人間の理性によってなされるものであり、その理性によって世界が支配されているとするなら、世界の歴史もまた理性的に進行するはずである、ということです。すべてについて人間の理性が関わっているのだから、歴史的な事実を理性的に思考することに矛盾はないわけです。ちょっとわかりにくいでしょうか?それでは長谷川宏さんの解説を読んでみましょう。
さて、世界史を哲学的に考察するというのはどういうことか。
私が解説するまでもなく、本書の「序論」でヘーゲルがその問いに真正面から答えている。歴史哲学とは、世界史を理性のあゆみとしてあきらかにするものである、と。あるいは、世界史を自由の発展の過程として描き出すものである、と。
ヘーゲルは自信に満ちた調子でそのように断言している。事実を見たまま、聞いたままに書きしるす歴史とも、一定の距離をとって過去の事実をながめ、これにさまざまな角度から反省をくわえる歴史ともちがって、哲学的な歴史は、歴史のなかに自由を透視し、理性を洞察しなければならぬ。いや、かならずや自由を透視し、理性を洞察できるはずだ、とヘーゲルは自信をもっていいきっている。
その自信はどこから来るのか。
ヘーゲル自身が答えるべくもないその問いに後代の解説者として答えるとすれば、ヨーロッパ近代の過去と現在と未来にたいする確固不抜の信頼が自信のみなもとをなす、ということができる。ヘーゲルの歴史哲学は、ヨーロッパ近代にしっかりと根をおろすことによってはじめて成立するものだったのだ。
(『歴史哲学講義』「解説」長谷川宏)
これを読んで、どう思われますか?「歴史哲学とは、世界史を理性のあゆみとしてあきらかにするものである」というヘーゲルの態度がまぶしいくらいに輝いて見えます。現在の世界は、さまざまな考え方の違いによって分断され、時に人間同士が殺し合っています。「世界史を自由の発展の過程」として見なすには、あまりにも楽天的に過ぎるように思いますが、いかがでしょうか?
しかしそれにもかかわらず、世界はヘーゲル的な考え方に沿って進んでいます。冒頭で池田さんが分析したように、現代の社会は「資本主義の市場経済のもとでは全てが商品となる」という前提のもとにあるのです。その結果、「その価値の尺度となるのは、万物に等しく作用する均質な時間である」という観念が生まれるのです。これは均質な時間の中で、経済が右肩上がりに規則的に上がっていく、正比例のグラフのようなイメージになるのだろう、と思います。
少し前までならば、私たちはグローバルに広がる世界を前にして、それに近いイメージを持っていたのだと思います。しかし、この数年のさまざまなことを経て、経済的に成功している人でさえ、そのような楽観的な考え方をするわけにはいかないのだと思います。長谷川さんが言うように、「ヘーゲルの歴史哲学は、ヨーロッパ近代にしっかりと根をおろすことによってはじめて成立するものだったのだ」とするならば、ヨーロッパ近代、つまりモダニズムはヘーゲルの歴史哲学を礎にすることで発展してきたのだと言えるのですが、現在ではその発展が私のような素人目にも揺らいで見えるのです。
しかし、このヘーゲルの哲学への疑問視は、かなり前から賢明な思想家たちによって提示されてきました。そのことを長谷川さんは、『新しいヘーゲル』という著書の「ヘーゲル以後」という章の中で簡明にまとめています。
(ヘーゲルの)全集の刊行は多くの賛同者、共鳴者をうみだしたが、その一方、明確な対立者、批判者をもうみださずにはおかなかった。ヘーゲル哲学の鋭い批判者としていちはやく登場するのが、ゼーレン・キルケゴールとカール・マルクスであった。
キルケゴールは、人間の生きる世界の全体を普遍的な理性によって完全にとらえきることができるという、ヘーゲルの円満な合理主義とでもいうべきものに、はげしく反発した。キルケゴールのいくつかの代表作の題名を見るだけでも、ヘーゲルへの反発、ないし、ヘーゲルとの思想的資質のちがいは歴然たるものがある。いわく、「あれかこれか」「おそれとおののき」「反復」「不安の概念」「死に至る病」等々。
簡単に注釈を加えておこう。
「あれかこれか」ーヘーゲルなら「あれもこれも」だ。そうやって対立するものが対立しつつ一つの和解へともたらされることに、キルケゴールは我慢ならなかった。対立する一方を否定し、一方のみを選びとるという偏頗な選択こそ、神ならぬ人間の、おのれの分に誠実なふるまいだとキルケゴールは考えた。
(『新しいヘーゲル』「ヘーゲル以後」長谷川宏)
これを読んで思ったことは、こういう例えが相応しいかどうかわかりませんが、ヘーゲルに対するキルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard 、1813 - 1855)の反発は建前できれいごとを言う大人に対して本音で反発する若者のようだなあ、と感じました。このblogで何回か呟きましたが、いずれキルケゴールについて、ちゃんとした考察をしてみたいと思います。
このキルケゴールのヘーゲル批判に対して、マルクス(Karl Marx 、1818 - 1883)の批判は、「ヘーゲルの徒によるヘーゲル批判であった」と書いた後で、長谷川さんは次のように解説しています。
芸術と宗教と学問が、さらには、家族と市民社会と国家が、あるいは個人の内面にある感覚と感情と意識と自己意識と理性と精神が、それぞれにふさわしい位置を与えられ、全体として壮大な体系をなすことをヘーゲルは示したが、若きマルクスにならってそれを「天界」と名づけるとすれば、その天界は地上のありさまにくらべて美しすぎはしないか。そして、その美しさは地上のありさまを直視しないがゆえに得られたものではないか。そういう疑念が若きマルクスを捉えて離さなかった。かくて若きマルクスにとっては、一つ一つの理念や精神の活動が天界においてどう体系的に位置づけられるかということより、地上でどう現実的な力を発揮するのかがはるかに重大な関心事となった。
(『新しいヘーゲル』「ヘーゲル以後」長谷川宏)
マルクスはこのような考え方のもとに、「理念の整合性や体系性に背をむけて、現実の社会の実証的な分析へと歩を進めていく」と長谷川さんは、この後の部分で書いています。マルクスが私たちの現実社会に与えた影響を思うと、キルケゴールよりもかなり現代に近い思想家だという気がしてしまいますが、たった5歳しか違わないのですね。ちょっとびっくりしました。
長谷川さんはこの後も、20世紀の思想家たちとヘーゲルとの関係について簡単にまとめています。フロイト、ハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース、アドルノなど、このblogでもおなじみの思想家たちです。ここで彼らに触れる余裕はありませんが、私はここで、ヘーゲルについて二つの相反する感情を持ってしまいます。
一つは、キルケゴールのようなヘーゲルへの反発です。とくにモダニズムの問題点をこのblogでも取り上げてきましたが、その礎にヘーゲルの思想があるのだと思うと、余計にそう感じてしまいます。その一方で、こういう時代だからこそ、ヘーゲルの思想に立ち返って、その価値を見直してみることも大切ではないか、と思っています。今の時代に人間の理性をあえて信じることで、ヘーゲルが思い描いていたのとは違ったヘーゲル的な世界が新たに開かれていくのではないか、という予感です。あえてまっすぐに、あえて楽天的に、あえて理想的に、言い方はいろいろありますが、そういう考え方も必要なのではないか、ということです。
キルケゴールも、ヘーゲルも、いずれもう少し掘り下げてみます。
最後に、私の展覧会ですが、よかったらお立ち寄りください。