京橋のギャラリー檜Bで、9月28日から10月3日までの間「高橋圀夫展」が開催されました。個人的なことですが、ちょうど引越しの時期にあたったものの、何とか金曜日に見に行くことができました。
高橋圀夫さんは、1960年代から作品を発表されています。現在ではギャラリー檜を中心に個展を開催されているようですが、2013年に同ギャラリーで企画された稲憲一郎さんとの「dialogue-vol.1」展なども印象に残っているところです。また、彼は1970年代後半から2000年頃まで神田の田村画廊、あるいは真木・田村画廊で頻繁に発表されていました。私が意識的に現代美術に接するようになり、画廊をめぐりだしたのが1980年代ですから、かろうじてその頃の高橋さんの作品を見ることができました。まだ学生気分だった当時の私から見ると、神田の画廊で本格的に発表されている作家の方たちは筋金入りの美術好きで、中途半端な気持ちで接するとどやされそうな、そんな迫力を感じました。高橋さんは穏やかな方ですが、その作品からはやはり迫力を感じていましたし、それは当時も今も変わりません。高橋さんの作品は人を圧するような様式ではなく、どちらかといえば地味な絵画作品が多いのですが、なぜそんな作品から迫力を感じるのか・・・、その理由の一端をある本の中から見つけました。それは神田の田村画廊、真木・田村画廊など開き、美術評論を書き、数々の展覧会を企画されて2008年に亡くなった、山岸信郎さんの文章を綴った「田村画廊ノート」という本です。その本の「交遊録から」という文章で(p110~119)、山岸さんは高橋さんとの交流について書いています。
ある日、それはたぶん、1970年頃のことでしょう。山岸さんは高橋さんから作品を見て欲しい、という依頼を受けます。そして、閉廊後の画廊の床に並べられた高橋さんの膨大なドローイング作品を見て、その感想をこう記しています。
高橋さんのこの作品、対象と言っても具体的に何もない。無限定の空間があるだけだ。画面全体を高橋さんの自己だといえばそうもいえないこともないが、そういわれたって、見る方には漠然として、何か狐にだまされているような感じでしょう。つまり、そこには色と、運動しかない。造形への思惟とか、高度な理念とか、そういうのも見出せない。ともかく、何処へ行くかわからない。
(「田村画廊ノート」山岸信郎より)
高橋さんの作品を見た時に感じる戸惑いは、山岸さんにとっても同じだったのだなあ、と私は少し安心しました。ただ、私はそれを言葉にするすべを知らず、山岸さんはそれをちゃんと言葉にしていました。しかし、さらに興味深いのはこのあとに書かれているエピソードです。その後、山岸さんは招かれて、高橋さんのアトリエに行ったようです。夫人の料理で酒を酌み交わし、ふと気がつくと先に見たドローイングがありません。
「所で、あのドローイングの作品はどうしたのですか」
「殆ど整理しました。整理したといっても屑屋に持って行ってもらったけど、八万枚もあったので屑屋は喜んでいました」
「えっ、八万枚? 八万枚ですか」
私は絶句した。
結果はどうあれ、何事かを存分にやりおおせた人の爽やかさを、その瞬間の氏の表情にみたような気がした。
(「田村画廊ノート」山岸信郎より)
現代美術の考え方のひとつに、出来上がった作品は作家の表現の結果に過ぎず、肝心なのは表現に至る過程であり、コンセプトであり、表現行為である、というものがあります。そう考えるならば、高橋さんのドローイングの、その制作行為こそが大切で、その結果出来上がった作品はそれほど重要なものではない、ということになります。高橋さんがそう考えたのかどうかはわかりませんが、それにしてもドローイング作品八万枚を屑屋に売って爽やかでいられる、というのは豪放です。私の場合、そんな理論的な考え方はともかくとして、過去の作品を見たくもない、という心境に頻繁に陥ります。しかし、そんな作品でも保管場所がなくて処分するときには、多少の悔恨が残ります。
さて、これらの話から私なりに納得したことは、高橋さんの作品には膨大な表現行為の裏付けがある、ということです。そこから作家自身が汲み取った一部を、鑑賞者である私たちは享受することができるのです。気まぐれな表現者が思いつきで作ったような作品を見させられることが、画廊を巡っているとよくありますが、そんな作品とは対極のところに高橋さんの作品はあります。先の稲憲一郎さんとの「dialogue-vol.1」展のカタログでは、二人の対談が掲載されています。そこでもアメリカの抽象表現主義の画家、ポロックから発しているとされるオールオーバーペインティングについて、高橋さんは何万枚もの作品を試み、それを屑屋に持って行ってもらうことが語られています。そのあとで高橋さんは次のような感想を抱きます。
とにかく今までのそう言うオールオーバーペインティングの、ああいう制作の方式といいますかね、スッカリ飽きちゃって、それでこういう風に何枚かで構成ではないんだけれど並べた作品みたいな風にして、ある作品が成り立たないかなっていう、そういう事で重ねてみたり、これ重ね塗りに段々繋がっていくのかなという風にも思うんですけれど、この時まだ重ね塗りという感じは僕の中にはなかったですね。
(「dialogue-vol.1」展のカタログより)
これは何枚かのタブローを壁面上で組み合わせた作品について語られたものです。正直に言うと、高橋さんのこの試みは、タブロー一枚一枚の枠組みが強すぎて、総合して見るにはちょっと厳しいなあ、と思います。これを簡単に見やすい作品にするには、はじめから一枚一枚の作品を並べるつもりで作れば良いのでしょうが、それでは一枚の作品を作ることと変わらないことになってしまいます。実はここがポイントで、高橋さんはさらっと「構成ではないんだけれど」と言っていますが、旧套的な絵画の構成とは異なる形でオールオーバーペインティングを超えていく、というモダニズムの絵画にとって困難な課題がここに見られるのです。
この課題を乗り越える方法として、この会話の中でもうひとつ語られているのが「重ね塗りに段々繋がっていく」という方法だと思います。「重ね塗り」というのは文字通り、古い作品の上に新しい絵を重ねて描く方法です。学生の頃に新しいキャンバスを買うお金がなくて、古い絵の上に新しい絵を描いてしまう、ということは私にもありましたが、その時には古い絵をあらかじめ一色の絵の具で塗りつぶしておくとか、意図的に無視して上に絵を描くとか、そんなやり方をしていました。しかし、高橋さんの重ね塗りはそんなことではなくて、下の絵を感受しながらその上に絵を描く、ということなのです。
ひとつの作品というのは必ず何かそういう自立性といいますかね、その作品自体が自立している何か芯になるものといいますかね。そういうものを何故出来て、何故そういうものを作っているのかというと、やっぱり最初に意図ありきなんです。それをひとつ何とか、さっきの言葉で解体していく方法として上に重ねていってしまう、そうすると前のものを否定するという事ね、そういう事によって何か物事が出来ていく過程みたいなものを、今までの方法ですね、それを何か別なものに出来ないかな、そういう意図でやったんです。
この方法にも先程と同じような困難があります。下の絵の上に強引に上から絵を重ねてしまえば、どこかぎこちない、見づらい作品が出来上がってしまいます。それを回避して重ね描きをスムーズに進めようとするならば、あらかじめ上に描くことを意識して下の絵を描けば良いのですが、それでは一枚の絵を普通に描くことと同じになってしまいます。高橋さんの言う、「自立している」作品を「解体していく方法」によって「何か別なもの」が生まれる、という肝心なことが出来なくなってしまうわけです。
この困難さにも関わらず、この方法論は高橋さんの中でかなり成熟しつつあるな、と今回の展覧会を見て思いました。といいますか、実際に高橋さんがどのような方法論で描いたのか、よくわからないのですが、一枚の絵の中で構成的な作為のようなものは感じられないのに、構造的な絵の強さ、面白さが感じられたのです。どちらかといえば鈍い、どんよりとした色彩で、見栄えという点ではあまりぱっとしない(失礼?)作品なのですが、その絵の芯から発するものは少しも鈍くなく、見ごたえのある絵画がそこにありました。ここに見られる高橋さんの前進は、何か気の利いたひらめきや目新しい理論によるものではないでしょう。高橋さんの絵画は、相変わらずぎこちなく見えてしまう危ういバランスのもとで、偶然に、あるいは奇跡的にうまくいっているように見えるのです。いや、このように高橋さんの作品の背後に膨大な積み上げがあることを知ってしまえば、それは奇跡でも何でもなくて、作家のひたすらな継続の意志によるものだと理解できるでしょう。
考えてみれば絵を描く楽しみというのは、偶然や奇跡のように自分を超える表現と出会うことにあったのではないでしょうか。そのためには辛抱強く作品と向き合うことが必要なのですが、いつしかそのことを私たちは忘れてしまう…、そのような自戒をもって高橋さんの展覧会場に佇んでしまいました。
もうひとつ、継続することが作品の強度となっているのが、横浜・元町の「ATELIER K・ART SPACE」で10月20日~11月1日に開催されていた「五島三子男展」です。五島さんは自然物を利用した版画やオブジェ作品を制作している作家ですが、今回は「海浜の感触」というタイトルを付けた、海にまつわる作品展です。会場全体が浜辺で拾った石や漂流物のオブジェ、海藻を転写した版画作品、海景の写真などで埋められていて、いつもの五島さんの作品展に比べるとモチーフによるテーマがはっきりと見える展覧会でした。会場全体が美しく、これはいつもの五島さんの個展会場に共通する風景ですが、今回は「海」というテーマを掲げたことで、鑑賞者の心にスーッと作品が浸みていったのではないか、と思います。美術評論家の藤嶋俊會氏が、五島さんのモチーフと関わる表現から一歩踏み込んで、美術作品と社会とのかかわりについて文章を寄せています。
五島さんが続けていた樹皮にリトグラフの版画表現は、イメージの反復によって風景の消滅を強調しているといってよい。また展示空間から外に出て街中で行うインスタレーションは、美術の垣根を超えて社会に直接関わる試みである。
浜辺に流れ着いた流木が作者の眼に留まり、「展示」されて大勢の眼に晒されていく。これはまさに美術作品がアトリエを出て展覧会に出品される社会化の過程そのものである。ここでも美術的視点、すなわち「鑑賞」に耐えられるとは、必ずしも表現の世界である必要はない。むしろ表現という人間臭から無縁の美術を超越した自然そのものに、今五島さんは惹かれているという。
(「消滅する風景は美しい―「自然」を見つめて考える五島三子男の世界」藤嶋俊會 五島三子男展カタログより)
私も五島さんが自然に惹かれ、自然物とのかかわりの中で制作を続けていることを、興味深く見続けています。それと同時に、五島さんは現代美術の文脈や流れをしっかりと把握し、その中で真摯に自分の表現を探っている作家でもあります。私は五島さんのそういう部分、現代の表現者としての苦悩やジレンマ、それとどう格闘し、どう表現しているのか、ということに興味があります。
例えば、五島さんが自然物を直接のモチーフとして版画作品を制作した場合、そこには自分の加工した痕跡を残さないように、注意深く仕事をしている様子が感じ取れます。どのように版面にモチーフを配置するのか、それは当然、作家の意図に委ねられていますが、五島さんはそれすらもごく自然に、そして美しく配置します。その後もできるだけシステマティックに、つまり作家の作為があからさまに見えないように、注意深く色を重ね、版画を制作します。しかし、そのなかでも色の重ね方や、もとの自然物の形をどのように残すのか、など作家の意志や判断が終始問われます。それらをどこまで、どのように表出するのか、まさにそれは現代美術の表現にとって重要な問題なのです。五島さんの作品は見た目に美しいというだけではなくて、その時々で五島さんが自然物と自己表出との間合いをどのように計り、どのように判断したのか、という足跡でもあるのです。今回の作品では、海藻を使った版画作品が、陸上の植物とは勝手が違って苦心した、とか、版画作品の地の色の処理が普段よりもシンプルな方法であったとか、そういう具体的なことが作品の印象を変えていたと思います。普段の五島さんの作品よりも、シンプル、かつストレートに対象物(海)の印象を伝えていたのは、そのあたりが原因かな、と思います。それからオブジェ作品では自然物だけではなく、人工物(ごみ)もそのままに集積しています。そんなことも作家としてのフィルターをストレートなものにしていたのかもしれません。
ちなみに私は、今回以前の五島さんの展示風景も好きです。ときに制作時期の異なる作品があり、微妙にモチーフや作品とのかかわり方が異なって見えるのです。その一点一点が作家の集中力の賜物ですから、見る方も見ごたえがあります。これは展覧会全体がスーッと腑に落ちる今回のような展示とは、また違った楽しみなのです。このような表現の差異が楽しめるというのも、五島さんがたゆみなく制作し、発表されているからだと思います。表現活動というのは、活動を継続することで見えてくるもの、達成できるものがたくさんあります。
世の中の風潮が何事にも効率化を求めるようになり、芸術活動、表現活動を続けることが、ますます困難になっているように感じます。そんな中で、高橋圀夫さんや、五島三子男さんの活動の尊さや価値は増していると思うのですが、いかがでしょうか。彼らの活動に対する評価は、まったく不相応だと思うのですが、はたして正当な評価というものが成立する日が来るのかどうか、まったく心もとない気持ちになってしまう、今日のこの頃です。
<参 考>
http://hinoki.main.jp/ 「ギャラリー檜」
http://ycag.yafjp.org/gallery/11/ 「Atelier K ART SPACE」 ※ギャラリー紹介
http://galleryf-1.sakura.ne.jp/exhibit/2015/150415goto/0415goto.html
五島三子男さんの作品資料 ※「ギヤラリー1/f」のページより
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28436.html ※山岸信郎資料(東京文化財研究所)
https://kacco.kahoku.co.jp/blog/bookreview/52094 ※「田村画廊ノート」紹介資料
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