平らな深み、緩やかな時間

127. 『100分de名著 エチカ スピノザ』(國分功一郎)を読む

先日もニュースで、新型コロナウイルス感染防止のためにキャンパスを閉じたままの大学のことが話題になっていました。大学生活に絶望し、退学したり、休学したり、心を病んでしまったりしている学生が数多くいると言っていました。このblogでも何回か書いてきましたが、ウイルス感染は災害ですが大学の問題は明らかに人災です。美術系の大学では、対面での授業に取り組んでいくということですから期待が持てますが、一般の大学の関係者の方にも、大学はリモートで知識を注入する場所ではなく、学生たちが学び合い、議論し、切磋琢磨する場所であるということを、まじめに考えていただきたいと思います。
ところで私は以前に、私自身の大学院までの学生生活の中で先生から教わったことは何もない、と書きました。実際にほぼその通りなのですが、一つだけある先生から教わったことを思い出しました。
それは大学院での川上実先生の「美学特講」という授業でした。授業といっても講義ではなく、週に一回、川上先生の研究室に行って雑談をする、という体のものでした。私は口下手なので、足しげく先生のもとに通った学生ではありませんでしたが、大学院も修了間近になって先生が「何かまとまったものが書けたら、読ませてください。卒業論文というほどの堅いものだと考えなくてよいですよ。」という趣旨のことを言われましたので、そのころ読みかじったポスト・モダンの本から得たにわか知識で、『美術における脱中心化について』というようなタイトルのエッセイを書いて提出しました。その内容は、ピラミッド型の高みを目指すモダンの社会は限界に達していて、これからは脱中心化の社会になる、そのときの美術はどうなるのか、というようなものでした。実際にその頃の美術界はニュー・ペインティングとかトランス・アヴァンギャルドなどと呼ばれたわけの分からない流行に渾沌としていて、モダニズムが積み上げた理論がひっくり返されたような状況でした。そんななかで私は、フランスの「シュポール/シュルファス」あたりの動向に希望をよせていたことを書いたのだと思います。
そのような現代思想かぶれの若者だった私は、世界が「脱中心化」の方向に進んでいることを疑いようのない事実だと思っていました。ところが私の下手なエッセイを読んだ先生は、とても面白かったですよ、と一応褒めてくださったうえで「なぜ、いま脱中心化なのか?ということが書いてあるとよかったですね」と言われました。結局、私の書いたことは理解していただけなかったのか・・・、と私はがっかりしましたが、あとで冷静になってみると、先生はたぶん私の浅はかな知識を見通したうえで、人を説得するためにはもっと根本的なことから語らなければだめだよ、ということを教えてくださったのだと思いました。仲間内の言葉ではなく、まったく無関心な人であっても説得できるような言葉で語らなければだめだ、とそのときに私は学習しました。とはいえ、言うは易く行うは難し、です。その後の数十年という年月を、何もできないままに過ごして今に至っています。

これが唯一、私が大学という場所で教わったことです。そして、今回取り上げる『100分de名著 エチカ スピノザ』は、まさにものごとを根本から問い、語ろうとした哲学者、スピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)についての話です。スピノザはデカルト(René Descartes、1596 - 1650)やライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646 - 1716)と並ぶ17世紀の合理主義哲学者で、この『エチカ』は彼の代表的な著書です。
スピノザと言えば、ノーベル文学賞を受賞した作家の大江健三郎(1935 - )が、一時期、自分は小説を書かずにスピノザを読んで過ごそうと思っている、と言っていたことを私は憶えています。大江がそのように言うほどの重要な思想家なのだから、いつかスピノザを読まなくては・・・、と思ってきたのですが、幾度となく挫折してしまいました。なぜなら、『エチカ』はとても難しいのです。そのなかの文章は、まるで数学の問題のようで、どうしても拒否感が先に立ってしまいます。
例えば『エチカ』は、次のように始まります。

定義
1 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
2 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想に限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。
3 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
(『エチカ』「第一部 神について」スピノザ著 畠中尚志訳)

どうでしょうか、わかりますか?とりあえず、わかる範囲で考えてみましょう。
はじめの「自己原因」という言葉ですが、これは「自己」にあたるものが「原因」となるようなもの、つまり他に「原因」を求められないもの、という意味なのだと思います。それはそれでよいとして、なぜこのようなことを定義する必要があるのでしょうか?そして三つめの定義に出てくる「実体」ですが、これは「それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの」と書いてあります。これは何だか、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」を思い出します。いわゆる「コギト」ですが、この「コギト」は、自分という存在を徹底的に疑うところから問いが始まり、その答えが「我思う、ゆえに我あり」という自らの存在を証明するものでした。デカルトには、自己の存在を証明しなくてはならない、哲学的な事情があったのです。そう考えると、スピノザにも「自己原因」を疑い、定義しなくてはならない、あるいは「実体」というものの存在をきっちりと定義しなくてはならない個人的な、あるいは学問的な理由があったのでしょうか?しかし、いきなりこのような定義の文章を読まされても、スピノザとは時代も違えば、地域も環境も異なる私たちには、その理由が分かるはずもありません。
たぶん、この『エチカ』が難解である理由のひとつには、そのあたりの事情が私たちにはよくわからない、ということがあるのでしょう。そこで『100分de名著 エチカ スピノザ』を紐解いてみましょう。この始まりの部分について、國分功一郎は次のように書いています。

最初からこのようなことを言われても、少し困ってしまうかもしれません。これは、神が自己原因であることを説明するために、あらかじめ自己原因という言葉を定義している箇所なのですが、出だしから躓いてしまう読者も少なくないでしょう。序文もなく、思考の構築のプロセスに突如放り込まれるところは『エチカ』を読み始める上での一つの難関かもしれません。
そこでまずお伝えしておきたいのは、別に冒頭から読み始めなくてもいいということです。ぱらぱらと本をめくったり、巻末の索引を見たりしながら、気になる定理を読んでみればいいのです。定理という断章が連なるこの本はむしろそのような読み方に向いています。なぜなら、どこから読み始めてもある程度理解できるからです。もっと知りたいと思ったら、そこから遡ったり、あるいは読み進めたりすればいい。もしかしたらこれはあらゆる哲学書について言えることかもしれません。
岩波文庫だと上下巻で、下巻は第四部から始まっています。私が提案したい読み方は、下巻から読むことです。第四部の序文が、ちょうと『エチカ』全体の序文として読むこともできる内容になっているからです。ここを出発点にすると読みやすいだろうと思います。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第1回 善悪」國分功一郎著)

なるほど、いいですね。難解な出だしであれば、そこを飛ばして途中から読めばよいのです。自分一人での読書なら、そう思ってもどこから読んでよいのやらわかりませんが、このようにガイドしてもらえると助かります。というわけで、さっそく岩波文庫の下巻を開けてみます。「第四部 人間の隷属あるいは感情の力について」という章の「序言」です。そうすると、先ほどの冒頭部分に比べると、スピノザの言っていることが、少しはわかるような気がしました。次に引用してみます。

感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。私はこの部でこの原因を究め、さらに感情がいかなる善あるいは悪を有するかを説明することにした。しかしこれを始める前にあらかじめ完全性と不完全性、および善と悪について少しく語ってみたい。
(『エチカ』「第四部 人間の隷属あるいは感情の力について」スピノザ著 畠中尚志訳)

こんなふうに書かれると、思わず自分の胸に手を当てて考えてしまいます。「感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもと」にある、と言われて、自分のことだと思わない人がいるでしょうか。とくに怒りや悲しみといった強い感情の中にある人間は、自分が自分でないような居心地の悪い思い陥ります。そしてあとで冷静になった時に、後悔することになるのです。スピノザもそんな人だったのでしょうか?スピノザの肖像画を見ると、面長でのっぺりとした顔立ちの貴族然とした人で、感情に流されることなどないように見えますが、國分功一郎はスピノザについて、というか哲学者と呼ばれる人について、次のように説明しています。

皆さんは「哲学者」という人間にどんなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。もしかしたら、机の前で、不必要に難しいことを考えたり、夢物語に耽っている世間知らずの輩というイメージをお持ちかもしれません。断言しますが、そういう人は大哲学者ではありませんし、大哲学者にはなれません。
哲学者とは、真理を探究しつつも命を奪われないためにどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人間です。真理は必ずしも社会には受け入れられないし、それどころか権力からは往々にして敵視されるのだということを十分に理解しつつ、その上で学問を続けるのが哲学者なのです。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第1回 善悪」國分功一郎著)

ここでもう少し、スピノザという人について基礎的なことをおさえておきましょう。
スピノザはユダヤ人で、その祖先はスペイン、ポルトガルなどで迫害を受け、それを避けるためにオランダに移住しました。スピノザは、アムステルダムのユダヤ人居住区で生まれ、ユダヤ人のコミュニティで育ちます。しかし、おそらくはそのリベラルな考え方からか、ユダヤ教の教会から破門されます。そして破門の直後、ユダヤ教信者と思われる暴漢から襲われけがをする、という事件が起きます。彼は身の安全のために地方に行くことになりますが、その出発のとき、普通なら怯えて緊張する場面ですが、スピノザは護衛の真面目な兵士たちを誘って酒を飲み、お互いにすっかり愉快になって旅立った、ということだそうです。その後、スピノザは望遠鏡や顕微鏡のレンズ磨きを生業としながら、隠遁生活を送ったことは有名な話です。
このような逸話から読みとれるスピノザの人柄は、リベラルな信念を持ちつつも、ユーモアがあり、大胆でかつ緻密な人です。そんな彼は『神学・政治論』という本を匿名で発行所を偽って出版しますが、すぐにつきとめられ、本は発禁となります。結局、スピノザは危険人物と見なされ、主著の『エチカ』は彼の生前には出版されなかったのだそうです。
スピノザという人は思ったよりも面白そうで、魅力的な人だと感じます。前半生の襲撃事件などは何だか映画やドラマになりそうです。後半生の「レンズ磨き」というあたりが、ちょっと地味でしょうか。

さて、それではいよいよ彼の思想について書かれていることを、駆け足で紹介していきましょう。この『エチカ』という本ですが、第一部で神が、第二部で人間の精神と身体が、第三部で感情が論じられ、さきほど引用した部分が第四部にあたります。
第四部では善悪の概念が検討され、善と悪が独自の仕方で定義されることになります。
その話は「完全」と「不完全」という概念の分析から始まります。「完全」と「不完全」という概念は、どのような意味を持っているのでしょうか?
例えば完成している家は「完全」であり、建築中の未完成の家は「不完全」である、という具合に、人間から見て完成したもの、形の整ったものを「完全」といい、そうでないものを「不完全」だというのです。この概念は自然物にも向けられ、例えば角が二本ある牛は「完全」、一本しかない牛は「不完全」だと私たちは判定します。しかし、これは私たち人間の一般的観念に照らし合わせた偏見にすぎません。一本しか角がない牛であっても、立派に成長して過不足なく暮らしている、ということだってあるでしょう。自然物の個体はそれぞれに「完全」であって、私たちの「こうあるべきだ」という偏見と比較しているから不完全に見えるだけなのだ、とスピノザは言いっているのだそうです。
そして自然界に完全/不完全の区別が存在しないように、「自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しないとスピノザは言います」と國分功一郎は書いています。
それでは、善悪とはいったい何なのでしょうか?善悪が存在しないというのなら、善悪を論じることは、意味がないのでしょうか?そのことについて、國分功一郎は『エチカ』を引用しつつ、次のように説明しています。

我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるもの(・・・)、言いかえれば(・・・)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。
(第四部定理八照明)

私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。そのことを指してスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」とも述べます。完全性という言葉もこのような意味で使い続けようと提案しているのです。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第1回 善悪」國分功一郎著)

面白いですね。人間の「活動能力を増大」させるものが善であり、阻害するものが悪だというのです。
この人間の「活動能力」によって物事を判定する、という考え方が、『100分de名著 エチカ スピノザ』の次の章にも引き継がれていきます。

スピノザの哲学の重要な概念に「コナトゥス conatus」というラテン語の言葉があるのだそうです。日本語に訳すと「努力」という言葉になるのですが、國分功一郎はこれを「ある傾向を持った力」と考えればいいのだと言います。そして、スピノザ自身の「コナトゥス」の定義を引きながら、次のように解説しています。

おのおのの物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はその物の現実的な本質にほかならない。
(第三部定理七)

文中の「有」という訳語より、「存在」としたほうが分かりやすいでしょう。ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、「自分の存在を維持しようとする力」のことです。大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質 essentia」であるとスピノザが考えていることです。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第2回 本質」國分功一郎著)

國分功一郎がこのあとに解説していることですが、実は古代ギリシアの哲学は「本質」を「形」として捉えた「エイドス eidos」という概念があるのだそうです。これは「見る」という動詞から来ている言葉で「見かけ」、「外見」を意味するそうです。これを哲学用語では「形相」と訳され、英語では「form」と訳されるのだそうです。「フォーム form」と言われれば、私たちにもそのニュアンスがわかりますね。ここで國分功一郎はフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)の考え方を紹介しています。実は國分功一郎はドゥルーズに関する本を書いていますし、またドゥルーズはスピノザに関する本を書いています。彼らはどこかでつながっているのです。それでは國分の文章を読んでみましょう。

前回も紹介した哲学者のジル・ドゥルーズが、このことを大変印象的な仕方で説明してくれています。引用してみましょう。「たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである」(『スピノザ 実践の哲学』)
「情動」とは広い意味での感情のあり方を指していると考えてください。「触発される力」とは、ある刺激を受けて、それに反応し応答する力のことを指しています。同じ馬でも、農耕する馬と競争する馬とでは、この「触発される力」が大きく違うというわけです。つまり、どういう刺激に対して、どう反応するのかが違う。私は農耕馬や競走馬に触れたことはほとんどありませんが、そこに違いがあるのは想像できます。競走馬は周囲の速度に反応し、速さを目指す動きをするでしょう。それに対し、農耕馬の「触発される力」はむしろ、同じようにゆっくり畑を耕す牛に近い。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第2回 本質」國分功一郎著)

この「触発される力」に関わるのが「情動」であり、さらこれが「欲望」という概念につながります。それはこんな具合です。「さらにまた欲望は、各人の本質ないし本性がその与えられたおのおのの状態においてあることをなすように決定されたと考えられる限り、その本質ないし本性そのものである」(第三部定理五六証明)というふうに書いているのです。ものの「本質」を「活動する力」として捉え、それが「情動」とかかわり、それが人間の「欲望」とも関連する・・・、結局のところ「本質」は「欲望」そのものだ、というわけです。何だかドゥルーズの哲学らしい話になってきました。しかし、この概念の綱渡りのような説明に私の古ぼけた頭では、ついていくのが大変です。
さて、このように人間の「本質」がその外見や形ではなくて、人間として「活動する力」であるということ、またその「本質」が「情動」や「欲望」をそのものである、とスピノザやドゥルーズの解釈する通りだとしましょう。そうすると、そのことが私たちの生きていくことに、どのように関わっていくのでしょうか。
言うまでもなく、私たちは日々、いろいろなものに影響され、刺激されて生きています。その活動の中のどこまでが自分自身で、どこまでが他人に影響されてしまったことなのか、とときどきわからなくなることがあります。しかし人間の「本質」がその「活動する力」であるなら、私たちの毎日の営みそのものが、つまり他人から影響されたことも含めて人としての「本質」である、ということになります。
そして前のところで触れた善悪のことも絡めて考えると、「善きもの」とはその「活動する力」を活発にするものですから、全体的に見るとこんな構造になります。私たちは生きていく中で「善きもの」、つまりよい刺激に触れ、その刺激を受けいれて私たちの「情動」や「欲望」が動き出します。その「情動」や「欲望」が動き出すことによって、私たちはより活動的になることができるのです。
人間にとって、活動を活発にするような「情動」や「欲望」を生み出す刺激こそが「善」だということになるのでしょう。國分功一郎はこれらのことを、次のように解説しています。

スピノザが「人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの」と言っているのは、このようにして受け取れる刺激の幅を広げてくれるもののことです。精神的な余裕はこれに当たるでしょう。また学ぶという行為もそれに当たります。それをスピノザは「有益」と言っているのです。考えてみればこれはごく当たり前のことです。そして、当たり前のことですが、大切なことです。こういうとても常識的なことをしっかりと書き記しているのも『エチカ』のおもしろいところです。
次の「賢者」の話も、私の大好きな箇所です。

もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(・・・)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。
(第四部定理四五備考)

これはまさしく「多くの仕方で刺激されうるような状態」にある人のことです。「嘲弄」ではない笑いやユーモアは「純然たる喜び」であり、そうした喜びに満ちた暮らし方こそ「最上の生活法」だとも述べられています。そういう生活法を知っている人こそが賢者なのです。賢者とは難しい顔をして山にこもっている人のことではありません。賢者とは楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人のことです。なんとすばらしい賢者観でしょうか。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第2回 本質」國分功一郎著)

この「賢者」は、どことなく朗らかな仙人のような人をイメージさせると思いませんか。それともまったくそうではなくて、笑いを絶やさない市井の庶民であってもよいと思います。
そして國分功一郎は教育についても「おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押しつけるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います」とも書いています。そうはいっても、なかなか現実にはそうはいかないものですが、『エチカ』を通読した結論がそのようになる、ということは興味深いことです。

ところで、スピノザの思想を現代の私たちにとって分かりにくいものにしている原因の一つに、「神」の概念があると思います。宗教を信じている方には申し訳ないのですが、私は「神」を信じていません。ですから「神」について書かれた本だと言われると、とたんに自分にとって縁のないものだと思ってしまうのです。
このように思い込んでしまう私に対し、國分功一郎は言葉を尽くして説明してくれます。私の能力では、その理屈をうまく解説することができませんが、たぶん、次のようなことです。
スピノザにとっての「神」とは冒頭に書かれていた「実体」であり、その「実体」とは他に原因を持たない唯一無二のもののことです。そして私たちを包むこの世界のすべての「実体」が「神」なのであり、私たちを含めた自然のすべてのものが「神」の一部だというのです。これは、当時の教会が考えていた「神」とは似ても似つかないものだったにちがいありません。私たちからすると、近所の山や池を信仰して氏神様をまつったりする地域信仰と近いような気もしますが、もちろん、厳密にはそうではないでしょうし、スピノザの説明には納得できないところばかりですが、それはともかくとして話を進めましょう。
そしてこのスピノザの「神」の考え方が、実はデカルトの「心身二元論」の批判にもなっている、と國分功一郎は言っています。どういうことでしょうか。
科学的な知見により、心的なものと物体とは完全に独立したものである、という考え方が「心身二元論」です。この考え方では、物体である人間の身体は精神によって操縦されるロボットのようなものになってしまいます。しかしこれまで読んできたように、スピノザの考え方は、人間の本質は「活動する力」にありますから、精神と身体とを二分するという発想がそもそもありません。スピノザにとって世界の中心となるべきものは、「心身二元論」で言われているような「心身」に限らず、この世界の「実体」のすべてに「神」が存在するのですから、そこら中にあるのです。
こういう話になると、まったくの門外漢である私に言えることはありませんが、例えばこのblogでも何回か取り上げた現代の思想家、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )の考え方と、どこかでリンクしているような気がするのですが、どうなのでしょうか?自然科学を絶対視するような行き過ぎた世界観への反省は、スピノザにもマルクス・ガブリエルにも共通するように思えますが、それでは大雑把すぎますか?それとも、スピノザのように「神」という概念を言いだした時点で、現代から見ると論じるに値しない思想だということになるのでしょうか?スピノザについて、はたして「二元論」を乗り越えるという観点から参照すべき点があるのかどうか、マルクス・ガブリエルに聞いてみたいですね。それとも、どこかですでに語っているのでしょうか?分からないことだらけですので、知っている方がいたら教えてください、お願いします。

さて、さらにスピノザは「自由」についても考えています。一般に「自由」というと束縛がないこと、勝手気ままなことを指していることが多いように思いますが、スピノザの「自由」は次のようなものです。

スピノザは『エチカ』の冒頭で自由を次のように定義しています。

自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し、作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
(第一部定義七)

この定義を解くポイントは二つあります。
一つ目は、必然性に従うことが自由だと言っていることです。ふつう、必然と自由は対立します。必然なら自由ではないし、自由なら必然ではない。ところがスピノザはそれらが対立するとは考えません。むしろ自らの必然性によって存在したり、行為したりする時にこそ、その人は自由だと言うのです。
ここで言われている必然性を、その人に与えられた身体や精神の条件であると考えれば、スピノザの言わんとするところが見えてきます。先ほど見たように、腕は可動範囲を持ち、その内部には一定の構造がある。これらの条件によって、腕の動きは必然的な法則を課されています。それを飛び越えることはできません。むしろ、腕を自由に動かしていると言えるのは、その必然的な法則にうまく従い、それを生かすことができている時です。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第3回 自由」國分功一郎著)

これだけ読むと当たり前のことを言っているにすぎないような気がしますが、さらにスピノザは「自由意志」についても言及しています。スピノザは、私たちが考えているような、何事にも束縛されないような「自由意志」というものはないのだ、と言っているのです。ちょっとびっくりしませんか?
それはこういう理由なのです。
人間は自分の「自由な意志」でものごとを決めている、あるいは決められる、と思っていますが、実際には周囲からのさまざまな影響を避けることができません。完全な「自由意志」などというものはないのです。それは先ほど触れた、「善きもの」による刺激が人間の「情動」や「欲望」を動かし、それが人間の活動へとつながる、という考え方と関連しているような気がします。
しかし、このようなスピノザの「自由意志」への考え方は、何となく奇妙なことのように感じます。それはおそらく、私たちがふだんから「自由意志」を尊いものだと信じているからでしょう。実際に私たちは、「自由意志」の大切さについてずいぶんと教えられてきたような気がします。
けれども私たちは「自由意志」を信奉するあまり、かえって不自由な思いに陥ったり、判断を誤ったりすることがあります。以前にこのblogでも読んだことのある國分功一郎の『中動態の世界』という本の中で薬物中毒の人のことについて書かれていました。薬物中毒の人に対し、周囲の人たちが本人の「自由意志」で薬物中毒になったのだ、そうなりたくなければ自分の意志で何とかなったはずだ、と思いこむことで、その人たちを精神的に追い詰めてしまう、ということが書かれていました。國分はここでもその例をあげて説明していますが、彼らには「自分の意志」ではどうにもならなかったのです。「自由意志」とか「自分の意志」では抗えないことがあることを、周囲の人は認識する必要があります。
このことと関連して私が思いつくことは、例えば芸術における「独創性」とか「創造性」といわれる概念です。芸術作品は「独創性」が大事であり、人のまねではない「創造性」が必要なのだ、とよく言います。確かにそうだとも言えますが、どんな作品だって先人たちの影響を受けて制作されています。ですから完全な「独創性」などと言うものはなく、言ってみればものの言い方、考え方に過ぎないのに、「創造性」という言葉が独り歩きしてしまって、現代美術の作品を正確に批評できないという面があるのではないか、と時々感じます。マスコミも新奇なものの方が取り上げやすいので、現代美術はアイデア合戦のような様相を呈している面があります。
それに美術教育においても、現代では昔ほど型にはめた教え方をしませんし、例えば作品の模写という学習方法も、いまではすたれたものになっていると思います。しかしこれではかえって不自由なのではないか、と私は考えます。先人の作品の模写や真似も、その効用が分かっていれば有効な教育方法ですし、私はかなり年を取ってから、そのことを自覚しました。

ちょっと話がそれました。
最後に國分功一郎は「真理」の問題を取り上げています。ここにおいて、スピノザとデカルトは一騎打ちの様相を呈していますが、この哲学的に深みのある問題は、私のような者には手に負えません。國分功一郎の説明を読んでみましょう。要点だけが分かるように、ところどころ中略をいれてあります。

スピノザは真理について非常に有名な言葉を残しています。次のようなものです。

実に、光が光自身と闇とを顕すように、真理は真理自身と虚偽との規範である。
(第二部定理四三備考)

(中略)
ここに言われる「規範」というのは基準のことです。つまり後半部分だけを取り出すと、真理は真理自身の基準であり、そしてまたそれは虚偽の基準であるということになります。さて、真理の基準とは何でしょうか。それはおそらく、その基準を当てはめればどんなものでもそれが真であるか偽であるかが分かる、そういう定規のようなものでしょう。
(中略)
では真理が真理自身の基準であるとはどういうことでしょうか。それは真理が「自分は真理である」と語りかけてくるということです。言い換えれば、真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるものはないということです。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第4回 真理」國分功一郎著)

さらに國分は、スピノザの「真理」の考え方を、デカルト比較して説明しています。

デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に、人を説得するものとして位置づけているところです。真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです。
「私は考えている、だから私は存在している」を口先で疑うことはできます。しかし、「私は考えている。考えているならば、その考えている私は存在しているということではないか」と言われれば反論できない。デカルトの考える真理は、その真理を使って人を説得し、ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能を備えた真理です。
それに対してスピノザの方はどうでしょうか。スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるというわけです。スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみましょう。

真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。
(第二部定理四三)

ここでターゲットになっているのはおそらくデカルトであろうと思います。
(中略)
デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際にはそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対してスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされています。自分がどうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。
(『100分de名著 エチカ スピノザ』「第4回 真理」國分功一郎著)

ここに書かれているスピノザの真理観には、さまざまな疑問が湧いてきます。例えばこれでは、真理がわかる人にはわかるし、わからない人にはわからない、ということになります。これでは議論になりません。さらにそれは「自分と真理の関係だけが問題」だというわけですから、これでは客観的な事実を重んじる自然科学的な真理の考え方からも、かけ離れてしまいます。
しかし、それにもかかわらず、スピノザの真理観には、人間がものごとを本当に理解するときの真実が、あるいは実感が含まれているような気がします。少なくとも、私がものごとを理解するときの実感からは、とても近いものだと感じるのです。とくに芸術作品と向かい合う時の感覚が、このようなものです。芸術作品の場合、その作品の良し悪しがわかるのかどうか、それは自分とその作品との関係でしかありません。確かに、他者の意見によって理解が進む、ということはありますが、それはもともと自分自身の中にあったものに気づかされたからであって、何もなければ理解もできない、と思うことがよくあります。
私は、長い間このような自分の感じ方に気づいていましたが、なかなか大っぴらには言いにくいことです。何人かで議論していて、この作品はわかる人にしかわからないよ、と言ってしまえば話が終わってしまいます。話から疎外された人からは、怒られてしまうかもしれません。それなのに、まさか偉い哲学者がそれをこのように具体的に語っていたとは驚きです。私自身が考えても、これは作品の感受の仕方として不十分で、いびつな方法だと思っていたのですが、スピノザが言うように、本当に理解できる真理というものは、理解できる備えが自分自身にないとわからないものなのかもしれません。これは批評の問題として、そうとう興味深いものだと思います。
しかし、とにかく驚きました。

さて、これで一通り『100分de名著 エチカ スピノザ』に目を通しました。
ものごとをつきつめて考えると、頭がオーバーヒートしてしまいますが、そのかわりに、知らないうちに自分が囚われた考え方をしていることが分かりました。私たちは知らないうちに、デカルト的な世界観に、つまり近代的なものの考え方に拘泥しているのだと思います。
実はこの本の最初に國分功一郎が、スピノザを読むことは自分の頭の中のOSを入れ替えることだ、と書いているのですが、その意味がようやく分かりました。デカルトやスピノザが活躍した17世紀は、モダニズムの礎ができた時代でした。ですから、デカルト中心の考え方から外れることは、モダニズムの礎を入れ替えること、つまりコンピュータのソフトをまるごと入れ替えるようなものなのだ、ということなのです。國分功一郎は、スピノザについて考えることは「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を考察することなのだ、とまで言っています。これはとてもスリリングで、興味深いことです。私たちの生きてきた近代は一筋の道に過ぎず、スピノザの時代から現代まで、そうではない様々な道が分かれていたのかもしれません。そしていまも、例えば文中で取り上げたマルクス・ガブリエルの思想は、もしかしたら現代における新たな分かれ道を示しているのかもしれません。
テレビで見るマルクスは快活で前向きで、意欲的な人物です。スピノザも、もしかしたらそういう人だったのかもしれません。語られている内容はわからなくても、思わず話に聞き入ってしまうような、そんな思想家であったのかもしれません。『エチカ』は難解ですが、これからはときどき読んでみることにしましょう。いま理解できない部分も、ふとしたことで腑に落ちることがあるのだろうと思います。いつか『エチカ』の本全体が、そんなふうに理解できると楽しいのだろう、と想像します。

 
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