平らな深み、緩やかな時間

399.『世界哲学のすすめ』②、『アフリカ哲学全史』について

はじめに、気になる記事がありましたので、ご紹介します。
8月31日の「東京新聞」の記事です。

『モネ「睡蓮」やピカソ作品はどうなる? DIC川村記念美術館が休館…背後に「物言う株主」がいた』
https://www.tokyo-np.co.jp/article/351230

印象派を代表する仏画家クロード・モネの「睡蓮(すいれん)」など数々の名画を所蔵するDIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)が2025年1月に休館する。同館は赤字続きで、運営企業は完全撤退も視野に入れる。背後には、「無駄」を許さず、厳しく経営の効率化を求める「物言う株主」の影もちらつく。美術館を持つ企業は少なくない。「アートと企業」の関係をいま一度考えた。(太田理英子、森本智之)

この後の記事にも出てきますが、クロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんの作品も大切ですが、何と言っても現代絵画の大家、マーク・ロスコ(Mark Rothko, 1903 - 1970)さんの作品を集めた「ロスコ・ルーム」が心配です。
https://kawamura-museum.dic.co.jp/architecture/rothko-room/

これらのロスコさんの作品は、散逸したら、もう収集することは不可能でしょう。そう考えると、とても悲しいニュースです。私もそんなに何回も見に行ったわけではありませんが、日本に居ながらにして「ロスコ・ルーム」を見られる、ということが、とても贅沢なことだと思うのです。
そして今回のことに限らず、公営の博物館、美術館においても運営上の問題が生じていました。昨年の夏に話題になっていましたね。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/269443

日本の社会、そして政治は、文化、芸術に対して、あまりにも無理解です。
なんとかならないものでしょうか・・・。


さて、前回取り上げた『世界哲学のすすめ』で、とりわけ興味深い章がありました。
「第5章 哲学を揺るがすアフリカ哲学」という章です。その章のはじめに「排除されたアフリカからの視点」という小見出しで、次のようなことが書かれていました。

哲学に関心のある人でも、フランス哲学やアメリカ哲学、あるいは中国哲学などの本は読んでいても、アフリカ哲学というものは聞いたことがないのではないでしょうか。そもそもアフリカに哲学があったの、といった反応も聞こえてきそうです。
「哲学があったのか?」という疑問を聞くと、日本や中国も直面した「哲学即西洋哲学」との衝突がここにもあることに気づきますが、実は問題はそれに留まりません。欧米から遠く離れて独自の哲学伝統を培ってきた東アジアの中国やその周縁にあった日本とは異なり、アフリカは、地中海をはさんでヨーロッパと向き合う近隣の位置にあり、さらに言うと、エジプトでアジアと繋がる古代文明発祥の地として、西洋とははるかに長く深い関係を持ってきたからです。
忘れてならないのは、ヨーロッパが「文明国」になったとされる近代に、ヨーロッパ人はアフリカ大陸では組織的な人間狩りを行い、奴隷という商品をアメリカ大陸に輸出して繁栄していたことです。アメリカ合衆国ではそうして買われたアフリカ出身の奴隷が、プランテーションなどで労働力として酷使されていました。
「世界哲学」という場合に、とりわけ問題となるのが、このアフリカ哲学です。それが提起するのは、アフリカが辿ってきた歴史、いやそれ以上に「アフリカ」という概念に由来する問題です。
(『世界哲学のすすめ』「第5章 哲学を揺るがすアフリカ哲学」納富信留)

さらっと書かれた文章ですが、いろんな問題をはらんでいます。少し読み解いてみましょう。
まずは、「哲学即西洋哲学」という言葉について考えてみましょう。これは「哲学=西洋哲学」という、私たちの意識の中にある思い込みについて指摘した言葉です。私たちは「哲学」と言ったときに、西洋で発展した「哲学」をイメージしているのであり、それ以外の「哲学」を想定していないのです。そこで納富さんたちは、あえて「世界」という言葉を頭に置いて、「世界哲学」という概念を打ち出しているのです。この「哲学=西洋哲学」という視点から見ると、「アフリカ哲学」はほとんど視野に入らない、と言って良い状況なのだと思います。
それに、ここでは日本や中国のことも引き合いに出されていますので、そのことについて考えてみましょう。
例えば、私たちは空海(くうかい、774 - 835)さんや親鸞(しんらん、1173 - 1262)さんのことを偉大な宗教家、思想家であると認めています。しかし、彼らのことを果たして「哲学者」と呼ぶでしょうか?そう問われると、おそらく私たちは、それは「哲学」をどのように定義するのかによるのだ、と答えるでしょう。仮に彼らが哲学者であろうがなかろうが、それで彼らに対する評価が変わるわけではありませんし、その当時の日本文化の水準が上下するわけでもありません。だからどうでもいいような話ですが、「日本に哲学があったのか」と問われるとなると、彼らの思想を「哲学」として認めるのかどうか、が問題になるのです。「アフリカの哲学」についても、日本と同様の問題があるようです。そして、それに加えてアフリカには、もっと複雑な問題があるのです。
例えば、そのような西洋哲学一辺倒のような状況下で、エジプトなどのアフリカ大陸の北部の地域は、古代からヨーロッパと縁が深く、互いに交流してきた、という事実があります。その文化的な交流の結果、生まれてきた哲学について、私たちは「アフリカ哲学」というふうには認識しません。どうやら「西洋哲学」は、それらを都合よく自分たち(古代ギリシア、ローマの哲学)の内側に取り込んできたらしいのです。
さらに「奴隷」、「植民地」というアフリカ大陸が強いられてきた苦難の歴史が、一層「アフリカ哲学」の問題を複雑にしています。
アフリカの人たちにとって、国として、あるいは個人として独立した自由を勝ち取ることは最重要の問題でした。そのことが、彼らの思想を政治的なものにしてきました。優れた思想を持つ人たちが、政治家や活動家になっていったのです。そのような政治性を帯びた思想を、あるいは思想家を、私たちは「哲学」、「哲学者」と見なすことに違和感を抱いてしまうのです。例えば南アフリカの有名な政治家、ネルソン・マンデラ( Nelson Rolihlahla Mandela、1918 - 2013)さんは、優れた思想を持っていたと思いますが、私たちは彼のことを「哲学者」とは呼ばないでしょう。

このように、「アフリカ哲学」を考えるにあたって、さまざまな問題が横たわっているのですが、その哲学の内容に触れる前に、ヨーロッパの哲学者がアフリカのことをどのように見ていたのか、ということに少しだけ触れておきます。
納富さんは『世界哲学のすすめ』の中で、ドイツ哲学の巨人、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)さんが有名な『歴史哲学講義』の中で、アフリカについてどのように語っていたのかを例にとって説明していますので、それに倣って『歴史哲学講義』の中でアフリカについて言及しているところを読んでみましょう。

本来のアフリカは、歴史的にさかのぼれるかぎりでは、ほかの世界との交渉をもたない閉鎖地域です。内部にひきこもった黄金の地、子どもの国であって、歴史にめざめる以前の暗黒の夜におおわれています。
<中略>
すでにのべたように、黒人は自然のままの、まったく野蛮で奔放な人間です。かれらを正確にとらえようと思えば、あらゆる畏敬の念や共同精神や心情的なものをすてさらねばならない。かれらの性格のうちには、人間の心にひびくものがないのです。
<中略>
黒人はヨーロッパ人の奴隷にされ、アメリカに売られますが、アフリカ原地での運命のほうがもっと悲惨だといえる。原地には絶対の奴隷制度があって、というのも、奴隷制度の根底は、人間がいまだ自分の自由を意識せず、したがって、価値のない物体におとしめられるところにあるからです。黒人は道徳感情がまったく希薄で、むしろ全然ないといってよく、両親が子どもを売ったり、反対に子どもが両親を売ったりする。
(『歴史哲学講義』「序論」ヘーゲル著、長谷川宏訳)

今から読むと、これは何か悪い冗談ではないか、と思うほどに酷い内容です。
これはヘーゲルさんに限らず、当時の哲学の主流と言える人たち、例えばヘーゲルさんより少し前の哲学者、イマヌエル・カント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)さんなども、アフリカ人に対する人種的な強い偏見を持っていたようです。これは昔のことだから、つまり当時の社会的な認識の問題だから仕方ない、とは言えないようです。この後で読む『アフリカ哲学全史』によれば、その当時であっても、はるかに偏見の少ない、現代に通じるような公平な考え方で奴隷制度や植民地主義を批判した人たちも、少なからずいたようです。
しかし、それにもかかわらず、カントさんやヘーゲルさんが西洋哲学の主流となっています。そのことを考えると「西洋哲学」が秘めている根深い問題があるのだと思います。
思い起こしてみると、これと似たようなことをこのblogで過去にも取り上げたことがありました。それは女性に対する差別を問題にした時のことでした。美術とジェンダーの問題について、美学者の持田季未子(1947 – 2018)さんが大変重要な文章を書いています。ご存知ない方は、私の次のblogを参考にしていただいて、ぜひ持田さんの『美的判断力考』をお読みください。

129.『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子について
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/3abefc9e00e070a4a8f5c41b585c5cfc


さて、「アフリカ哲学」に関してはこのような偏見があるのですが、実際の「アフリカ哲学」には、どのようなことが書かれているのでしょうか。
それを探るために、哲学者の河野哲也さんの『アフリカ哲学全史』を読んでみましょう。この本の書店による紹介は次のとおりです。

アフリカ哲学は、北アフリカのイスラム文化に基づく哲学、サハラ以南地域の哲学、アフリカ大陸の外で発展したアフリカーナ哲学に分けられ、アフリカーナ哲学はカリブ海の島々で発展した哲学も含む。本書は日本初のアフリカ哲学の入門書として、サハラ以南のアフリカ、カリブ海諸国で展開された哲学、アフリカ大陸における哲学に影響を及ぼしたアメリカやヨーロッパでのアフリカ人の哲学を解説。これまでの哲学を相対化し、複数の世界に共通する人間の思考のあり方を解明する試み。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076366/

このような本なのですが、おそらく一般的な入門書として「アフリカ哲学」を紹介する本は、この『アフリカ哲学全史』だけだと思います。それに「・・哲学全史」というだけあって、先ほどの納富さんの『世界哲学のすすめ』にあったようなアフリカ哲学にまつわる問題点を含め、古代から現代までのアフリカ哲学を網羅した内容の濃い本です。私の薄い理解では、到底、本全体を紹介しきれませんので、とくに興味を持った点だけ書くことにします。

アフリカの哲学が、哲学として成立するにはさまざまな問題があり、例えば先ほども例にとったネルソン・マンデラさんという政治家、思想家一人をとっても、大変に興味深い問題を孕んでいます。
しかし、そのことはこの原著を読んでいただくとして、私は「アフリカ哲学」が「西洋哲学」とどのような点が異なり、それが私たちが陥っているモダニズム芸術の行き詰まりの打破につながるのかどうか、その点に絞って見ていきましょう。
私がここで、ぜひご紹介したいのは「ウブントゥ」というアフリカ哲学に特有の概念です。そのことについて河野さんは「第10章 赦しとウブントゥ」で説明しているのですが、そのはじめの文章が大変に感動的です。

人種差別の根底にある構造的暴力を改変し、そこから生じた人々の分断と亀裂を修復することは、哲学の重要な責務である。というのは、エメ・セゼールが『植民地主義論』(1955)で指摘したように、人種主義とは、キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越種、有色人種=劣等種という図式を立て、植民地支配を正当化しようとする、何よりも思想的な営みだからである。思想は哲学によってのみ改変されるはずである。
人種主義は、支配と搾取という暴力的欲望を発揮する対象を割り出すために、人類に対してなされる人工的な線引きであり、西洋近代哲学の根本に組み込まれた「倫理的二面性」の発露である。セゼールが述べるように、植民地化は、植民地支配者を非文明化し、非知性化し、野獣化し、その品性を堕落させる。この西洋の堕落を治癒できるのは、抑圧者である白人の反省と改心ではなく、被抑圧者からの「赦(ゆる)し」のみである。
(『アフリカ哲学全史』「第10章 赦しとウブントゥ」河野哲也)

エメ・セゼール (Aimé Fernand David Césaire, 1913 - 2008) さんは、フランス/マルティニークの詩人、評論家、劇作家、政治家です。『植民地主義論』を書き、ネグリチュード運動を牽引し、植民地主義を批判した人として知られています。
ちなみに「ネグリチュード」を辞書でひくと次のように記載されています。『アフリカ哲学全史』を読むのなら、知っておきましょう。

ネグリチュード(〈フランス〉négritude)
アフリカ黒人の文化の独創性を主張し、それを誇りとする立場。サンゴールやセゼールらが主張して運動を展開した。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8D%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%89-111190

さて、それはともかく、「思想は哲学によってのみ改変されるはずである」というのは、素晴らしい言葉ではないでしょうか。それに「植民地化は、植民地支配者を非文明化し、非知性化し、野獣化し、その品性を堕落させる」というところも的を得ていますし、そこから「この西洋の堕落を治癒できるのは、抑圧者である白人の反省と改心ではなく、被抑圧者からの『赦し』のみである」という結論を導き出しているところもすごいです。普通なら、悪いのは抑圧者である白人なのだから、白人が自分で反省すべきで、非抑圧者である我々にできることなど何もない!と啖呵の一つもきりたくなりますが、「赦し」によって彼らを治癒できるのは我々だけだ、というのはなんとも決意に満ちた言葉です。
このような高い意識を持ったセゼールさんの言葉は、やがて南アフリカのアパルトヘイトをめぐる反植民地運動に影響します。アパルトヘイト終了後に組織された「真実和解委員会」において、ネルソン・マンデラさんと委員会の議長になったデズモンド・ムピロ・ツツさんは人種間の「和解」と「赦し」を提案したそうです。
このような動向について、私が不正確なことを書いてはまずいので、河野さんの本からその経緯を引用してみます。

「黒人意識運動」は、通常、黒人の尊厳の回復と自立を促すために、1970年代にスティーヴン・ビコが中心となって展開した南アフリカの思想運動と言われている。ビコはその思想形成において、ファノンの革命思想へと至るネグリチュード運動から強く影響を受けた。
<中略>
南アフリカでは、アパルトヘイトが1991年に終結すると、1993年に暫定憲法を採択し、1994年に全人種による選挙が実施され、ネルソン・マンデラが大統領に就任した。マンデラに率いられたアフリカ民族会議(the African National Congress:ANC)は、アパルトヘイト廃止に先立ち、犯罪行為、拷問、人権侵害の事実を公式に調査するために「真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission: TRC)」の設置を求めていた。それ以前に、ANCではすでに自分たちのメンバーが行った人権侵害、とりわけアンゴラでの訓練キャンプでの加害行為に対して独自の調査を開始していた。  
南アフリカ議会は、一九九五年に、さまざまなグループと調整したのちに、「統合と、道徳的に受容可能な和解を達成するには、人権侵害全体の真相が、公正な手続きを用いた公的調査機関によって解明され、完全かつ覆し得ないほどに加害者によって自白され、策謀者、加害者、被害者とともに公衆へ知らされることが必要不可欠である」と結論し、人権侵害(human rights violation)小委員会、恩赦(amnesty)小委員会、賠償・回復(reparation and rehabilitation)小委員会からなる真実和解委員会を設立した。  
これにより、反アパルトヘイト運動が非合法化された1960年3月から暫定執行評議会が成立した93年12月までの人権侵害の調査が公的になされることになった。この委員会は人権蹂躙を行った人物と団体を訴追する一方で、人種間の「対話」、「赦し」を原則として唱え、1995年から2000年まで活動を続けた。
(『アフリカ哲学全史』「第10章 赦しとウブントゥ」河野哲也)

この真実和解委員会によって、人権蹂躙の実態が暴かれていったのですが、その先にあるのが「対話」と「赦し」だというところが驚きです。実際に、先に触れたビコさんは、1977年に当局による「尋問」で亡くなったのだそうですが、彼や彼と同様に亡くなった活動家の家族からは、真実和解委員会の存在が司法的な糾弾を妨げているとして、訴訟を起こしているそうです。
難しい問題ですね。自分の家族が不当に殺されたら、当然、相手にもそれなりの報いを受けてほしいと願ってしまいます。また、和解や赦しを優先することは、現状を肯定することにもなって、アフリカ人の解放を遅らせてしまう、という批判もあったそうです。
しかし、ここではこの「和解」や「赦し」がどういう思想的な根拠から生まれてきたのか、ということに注目してみましょう。1990年にアフリカ民族会議が提案した暫定憲法には次のように記されているそうです。
「過去の違法行為については、いまや、復讐ではなく理解の必要性、報復ではなく補償の必要性、不当な犠牲ではなくウブントゥ(Ubuntu)の必要性に基づいて、処理することができる。」
この「ウブントゥ」という用語は、アフリカ中南部で話されるバントゥ諸語に共通して見られる言葉で、その語源は「人々」を意味する「バントゥ」という言葉だそうです。「ウブントゥ」とは、翻訳すれば「人間性」、「人格性」を意味するそうです。ただし、この言葉にはサハラ以南の人々の独特の人間観が背景にあって、彼らにとって「ウブントゥ」とは「他の人間を気遣い、配慮に満ちた、寛容でホスピタリティのある優しい気持ちを持ち、社会における義務に忠実な人であること」を意味しているのだそうです。
この「ウブントゥ」の概念は素晴らしいものですが、どうしてアフリカの人たちの人間理解はこのように寛容なのでしょうか?
「ウブントゥ」の概念には、「人は、他の人たちを通して人になる」という諺が影響しているのだそうです。これは西洋哲学のデカルト( René Descartes、1596 - 1650)さんのコギトに当てはめてみると、「我思う、故に我あり」ではなくて、「我々ある、故に我あり」ということになります。つまり、人間一人の存在を考えた時に、西洋哲学がまず一人ぼっちの個人が根底にあるのに対し、アフリカ哲学では「我々」という他者との関係が根底になっているのです。
私の説明では、ちょっとわかりにくいと思います。河野さんは、この「ウブントゥ」の説明のためにかなりのページ数を割いていますので、興味のある方はぜひ『アフリカ哲学全史』を手に取って見てください。
ここまでの私の説明で「ウブントゥ」とは共同体を重視する思想で、個人を蔑ろにしているのではないか、とお感じになった方がいたら、次の解説を読んでみてください。

しかし誤解してはならないのは、ウブントゥの人間観は、共同体を重視するとは言え、個人よりも共同体を優先させる全体主義的な発想には立たないことである。クワメ・ジェチェによれば、アフリカの宗教では、あらゆる人間が神の子であるとされる。それゆえに、個人・人格は本質的な価値をもち、完全な存在である。
(『アフリカ哲学全史』「第10章 赦しとウブントゥ」河野哲也)

このように「個人」という存在に対する考え方が、西洋哲学とアフリカ哲学では根本的に違うのです。
ここまで読んでくると、前々回に取り上げた『荘子』の思想において、「天道は運(めぐ)りて積む所なし、故に万物成る」という独特の考え方を思い出します。

397.『グランパの戦争』、世界哲学の視点で『荘子』を考える
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/92f3019a1f8aa76e2b4df3617e4c4dc7

アフリカ哲学も、中国の哲学も、究極のところでは「個人」というものを孤独な状態で屹立させず、周囲との関係性において緩やかに考えていく、という点で共通しているような気がします。
そうすると、デカルトさんの「我思う、故に我あり」は西洋哲学においては否定しようのない哲学原理となっていますが、むしろこの考え方の方が特殊なものなのではないでしょうか?
そして、このデカルトさんの考え方は、人間を孤独な状態に追い詰める要因を宿しているのではないでしょうか?

このように解釈すると、モダニズムの絵画が、あるいは美術が、制作者を孤独な状態に悉く追い込んでいく性質のものであることがよくわかります。個人をギリギリまで追い詰めて、その果てにモダニズムの絵画そのものが痩せ細ってしまう・・、私たちは薄々そう感じながらも、それ以外の哲学原理を持たないので、そこから脱することができないでいました。
しかし、このように「世界哲学」という広い視野で西洋以外の世界を見ていくと、根本から異なる哲学原理を見出すことが可能です。
これって、すごいことなのではないでしょうか!?
ちょっと、最後のところは論理を急ぎすぎましたね。いずれ、じっくりと「世界哲学」の勉強の成果を絵画に、そして美術に応用してみなくてはなりませんね。

さて、文中に出てきたビコさんですが、彼のことを歌った素晴らしい動画があります。最後にそれをご紹介して終わります。
https://youtu.be/luVpsM3YAgw?si=AJtcwin9k_GBKnCU
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