平らな深み、緩やかな時間

398.アラン・ドロン逝去、『世界哲学のすすめ』について①

フランスの俳優、アラン・ドロン( Alain Delon, 1935 - 2024)さんが逝去されました。
ドロンさんと言えば、私たちの世代からすればベタな存在ですが、若い方には意外とそうでもないようです。ということで、私はたいして詳しいわけでもないのですが、ここで少しだけドロンさんの逝去について書いてみたいと思います。
ネット上のニュースを見ると、あまりに有名な俳優であるために、あっさりと逝去だけを報じたものと、家庭のゴタゴタまで言及したものと、両極端に分かれるようです。私には、次の記事のバランスが良いように思いました。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE181CL0Y4A810C2000000/

またドロンさんについて、とても良い記事を見つけましたが、残念ながら有料の記事なので、さわりのところしか読めません。興味のある方は料金を支払って読みましょう。
https://www.asahi.com/articles/ASS8P26J9S8PUCVL034M.html

そこに書かれているように、フランスではゴダール(Jean-Luc Godard, 1930 - 2022)監督の『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、1960)に主演したジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933 - 2021)さんの方が人気が高かったようです。しかし日本では圧倒的にドロンさんの人気が高くて、ベルモンドさん主演の映画を日本で紹介するときに、「フランスではアラン・ドロンよりも人気がある俳優で・・・」などと書かれることが多かったように記憶しています。

さて、ドロンさんの出世作である『太陽がいっぱい(Plein Soleil)』が公開されたのが1960年で、ちょうど私の生まれた年です。
https://eiga.com/movie/46470/

ですから、私の子供の時にはドロンさんはすでに二枚目スターの代名詞のような存在で、子供たちにも知られていました。彼の出演する映画には「アラン・ドロンの」という枕詞が付されていたことが多く、さらにその多くは娯楽作品だったと思います。
私がドロンさんを素晴らしい俳優だと実感したのは、学生時代にヴィスコンティ(Luchino Visconti, conte di Modorone, 1906 - 1976)監督の『若者のすべて』( Rocco e i suoi fratelli 、1960)と『山猫』(やまねこ、 Il gattopardo 、1963)を見た時でした。
https://youtu.be/hbdHCQNbHwM?si=b89sAjInmYL9ToI7

https://youtu.be/VkUYu6XSVgc?si=LU2497G99LVja6Cn

そこでドロンさんは、貧困から懸命に立ち上がる無垢な青年や、新しい時代に生きるしたたかな若者を演じていたと思います。(40年以上前の記憶なので、曖昧ですみません。)ドロンさん自身も成り上がりの人生を生きた人でしたので、ヴィスコンティ監督は俳優の実人生とリンクさせた見事な演出をしたのだと思います。
そう思って『太陽がいっぱい』を見ると、これも主人公のリプリーとドロンさんが重なって見えてきます。どんな手段を使っても成功を勝ち取ろうとするドロンさんの演技に、悪者らしからぬひたむきさを感じてしまうのです。だから最後のシーンで、観客は悲鳴を上げることになるのだと思います。気づかないうちに、観客はリプリーの完全犯罪を応援してしまっているのです。
また哀愁のあるニーノ・ロータ(Nino Rota, 1911 - 1979)さんの音楽も、ルネ・クレマン(René Clement、1913 - 1996)監督の正統派の演出も、わかりやすくて素晴らしいと思います。この映画が『勝手にしやがれ』と同時期の作品だというのも、面白いですね。フランス映画が熱い時代だったのです。
それからドロンさんの作品で好きなのが『冒険者たち』(Les Aventuriers 、1967)です。
https://youtu.be/6Ls9YPBb-YM?si=8Lyfs8Ygozu91ce7
(予告編にドロンさんは出てきません・・)

新聞記事を読むと、フランスで成功したドロンさんは、ハリウッドに進出しようとしたがうまくいかず、フランスに戻って作った作品がこの映画のようです。その実話も映画のストーリーとどこかでリンクするようで、端正な二枚目のドロンさんですが、実はハングリーな役が似合う、というところが面白いです。
そしてドロンさんの熱心なファンではない私が、彼の出演作で最後に見たのはマルセル・プルースト(Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust, 1871 - 1922)原作の『失われた時を求めて』の一部を映画化した『スワンの恋』(Un Amour de Swan、1984)だったと思います。
https://eiga.com/movie/46058/
この時、すでに50歳に近かったドロンさんは、主演のスワン役ではなく、年長の友人のシャルリュス男爵の役でした。当時の映画評で、ドロンさんがもう少し若ければスワン役をやりたかったのではないか、と書かれていたのを覚えています。しかし私からすると、このような文芸作品にドロンさんが渋い役で出演していたことを、何だかうれしく感じました。

アラン・ドロンさんの人生は、若い頃に夢見た通りの大成功だったと思いますが、それでも何もかもが思い通り、というわけではなかったようです。役者としての彼を外側から眺めると、成功を欲して、もがいていた時が最も輝いていたように見えます。本人は、どのように感じていたのでしょうか?
愛犬の安楽死のこととか、色々に報じられているようですが、いずれにしても、ドロンさんのご冥福をお祈りします。


さて、今回は哲学者の納富信留(のうとみのぶる)さんの『世界哲学のすすめ』という著書を取り上げます。
前回も取り上げた「世界哲学」という言葉ですが、「世界哲学」と呼べるような単一の概念があるわけではありません。
それでは、この本はどういう本なのでしょうか、書店の紹介を読んでみましょう。

世界哲学とは、西洋中心の「哲学」を根本から組み替え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動である。それは、私たちの生活世界を対象とし、多様な文化や伝統や言語の基盤に立ちつつ、自然環境や生命や宇宙から人類を反省する哲学であり、世界に生きる私たちすべてに共有されるべき普遍性をもった、本来の哲学を再生させる試みでもある。『世界哲学史』(全九巻)の成果を踏まえつつ、より広い視野で世界哲学を本格的に論じ、開かれた知の世界へと読者をいざなう。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076045/

このように幅広い内容なので、目次がどのようなものなのか、気になりますね。
この本の目次は次のとおりです。

<目次>
Ⅰ 世界哲学に向けて
第1章 生きた世界哲学
第2章 世界を生きる哲学
第3章 世界哲学を語る言語
第4章 哲学の普遍性
Ⅱ 世界哲学の諸相
第5章 哲学を揺るがすアフリカ哲学
第6章 世界哲学としての現代分析哲学
第7章 東アジア哲学への視座
第8章 世界哲学をつくる邂逅と対決
Ⅲ 世界哲学の構想
第9章 ギリシア哲学という基盤
終章 対話と挑戦としての世界哲学

ところで、なぜ、このような本に私が興味を持っているのか、前回と重なりますが、ここでも書いておきます。
私が関わっているモダニズムの絵画が、行き詰まりを見せていることは確かだと思います。このことについては、このblogでことあるごとに触れてきました。
現代美術を真面目に勉強して、モダニズム絵画の理論に則って今も作品を制作している人たちはたくさんいますが、その人たちが生き生きと創作できているのか、と言えばそうではないと私は考えます。これは私の個人的な感想なので、そうではない、と感じている方もたくさんいるでしょう。しかし、そういう方であっても、参考までにこれからの話を読んでいただけるとありがたいです。
モダニズムが行き詰まっているなら、ポスト・モダニズムと呼ばれる流行に乗れば良いじゃないか、という方もいらっしゃると思いますが、私はそれでは前向きに創作できないと考えています。ポスト・モダニズムと呼ばれる思想上の動向は定まっていないようですし、それを美術制作にどう取り込んでいくのか、ということを考えると、どうにも心許ないのです。もちろん、そういう中でも興味深い制作をしている人たちもたくさんいますが、それを大きな流れとして捉えることは難しいでしょう。

それでは、なぜこういう現状になってしまったのでしょうか?

そもそも私たちは、ある狭い領域で物事を考えていて、時代を経るに従って、ますます袋小路のようなところへと自分たちを追い込んでしまったのではないか、とそんなイメージを私は持っています。
だから例えば、マルクス・ガブリエルさんのような現代の哲学者が『世界は存在しない』という著書で書いたように、「世界」というすべてをまとめ上げるような存在は想定できない、だからさまざまな考え方が共存していていいんだよ、というふうな考え方を示してくれると、私はそれに惹かれてしまうのです。
この「世界哲学」という言葉にも、「世界」という言葉が使われていますが、この「世界」はガブリエルさんがイメージしたような、何か全体的なまとまりを指すものではありません。そうではなくて、私たちが「哲学」と言ってしまった時に、西欧の「哲学」を想定してしまい、それが世界で唯一無二のようなものだと思ってしまう・・・、その呪縛から解かれるために、あえて「哲学」という言葉の前に「世界」という言葉を付しているのです。
この「世界哲学」について、納富さんは次のように書いています。

私は、世界哲学の試みとは、まずこの西洋哲学中心主義、あるいは西洋哲学独占主義をきちんと批判し、その外の豊かで多様な可能性に目を向け、多元的な心理探求の現実化に賭けることだと考えています。西洋哲学自体もその外部も理解せずに「哲学」という名の幻想に閉じこもる排他的な態度も、反対に「哲学」を拒絶してあえてそこから距離をとって「思想」を名乗る態度も、ともに不十分です。世界哲学の視野は、まさにそういった態度に風穴をあけるものです。
(『世界哲学のすすめ』「Ⅰ 世界哲学に向けて 第1章 生きた世界哲学」納富信留)

この「哲学」の閉塞した状況を打破しようとする「世界哲学」の態度が、私がモダニズム絵画に対して抱く思いと共通する、と私は考えているのです。

さて、このように「西洋哲学中心主義」を批判する、と宣言することは誰でもできますが、いざ実践するとなると大変です。そもそも私のような「哲学」の素養のない人間は、「西洋哲学」をちゃんと学んでいないのですから、その批判のしようもないのです。
しかしこの問題は、どうやら私のような無知な者だけの問題ではないようです。逆に、西洋哲学を深く学んだ人の方が、その基盤となるものを批判するのが難しい、ということがありそうです。それに西洋哲学を深く学んだ人であっても、それ以外の哲学について詳しいわけではないので、「西洋哲学」の「外部」を理解するのは容易ではないと思うのです。
ここでどうやら、「世界哲学」について学ぶことの難しさが見えてきたようです。
実は納富さんは、仲間たちと一緒に『世界哲学史』という九冊に及ぶシリーズをすでに刊行しているのですが、それすらも「世界哲学」の決定的なテキストとは呼べないようなのです。納富さんの説明によれば、哲学の研究者は西洋哲学に偏っていて、その「外部」を論じることはなかなか困難なことなのです。
例えば『世界哲学史』の地域を扱った82章のうち、西ヨーロッパが37章、北アメリカが3章で、西洋哲学だけで合計40章になるそうです。次に中国関係が10章、朝鮮が1章、日本が10章と東アジアが多く、残りの21章で他のすべての地域が語られていることになります。
納富さん自身も、このような困難を認めていて、例えばこの『世界哲学のすすめ』を書くにあたっても、次のような断り書きをはじめの章に書いています。

第一に、ここでプランを示す「世界哲学」は、一人の人間が取り組むには大き過ぎる、あまりに野心的なものです。「世界哲学」は多くの人が参加して協力して一緒に描く地図であり、その地図をつかって生活したり旅したりする共同の探求に他なりません。私はこれからさまざまなアイデアを提示し、今後世界哲学をどう展開していくかを探っていくつもりです。その限りで、本書は着想に留まる、ささやかな「世界哲学のすすめ」に過ぎません。
第二に、私は長年、古代ギリシア哲学を研究のフィールドにしてきましたが、それには利点と欠点があります。世界哲学の「哲学」としての可能性を探るには、第9章で論じるように、まさに古代ギリシアで「哲学(フィロソフィアー)」がどう始まったのか、あるいはそこで成立した「哲学」とは何だったのか、を再検討する必要があります。その意味でこの仕事は、西洋古代哲学を専門とし、哲学の始まりを研究テーマとしてきた私にふさわしいと感じます。他方で、他の哲学伝統について私の知見はきわめて限定的です。議論には不十分な面や偏りが多々あるでしょうが、その点がご理解いただければ幸いです。
(『世界哲学のすすめ』「Ⅰ 世界哲学に向けて 第1章 生きた世界哲学」納富信留)

なるほど、納富さんは古代ギリシア哲学を研究してきた方だということがわかりました。幸いなことに、哲学のことはじめを考察するには好都合なのでしょうが、そうすると、目次にあった「第5章 哲学を揺るがすアフリカ哲学」とか、「第7章 東アジア哲学への視座」などの項目が気になります。そもそも「アフリカ哲学」という言葉を、私は聞いたことがありません。それに「東アジア哲学」といえば、前回、中国の思想「荘子」について触れましたが、それだけでも奥深いものだということがわかりました。それらについて研究するとなると、並大抵のことではないでしょう。
この著書の中では、納富さんが仲間の研究者の成果を紹介しつつ、それらの哲学について語っています。こんなふうに視野を広げるだけでも大変なことなのだということがよくわかります。
これらについて、例えば「アフリカ哲学」についても、個別の入門書が出ていますので、私も時間をかけて勉強することにします。

さて、前回からあまりにも大きな問題に立ち向かっているため、どこから取り掛かっていいのか迷ってしまいます。こういう時は例によって、とりあえず気になったことを考えてみましょう。
私はこの『世界哲学のすすめ』の中でも、とりわけ「言葉」に関する問題が気になりました。私は外国語が読めないので、海外の哲学者の本をすべて翻訳で読むしかありません。そうすると、翻訳だからわかりにくいこと、翻訳だから不正確であることがあるのだろう、とつねに気になってしまいます。しかし、それを解消するには、フランスの哲学者の本ならフランス語、ドイツの哲学者の本ならドイツ語で読まなくてはなりません。英語の美術評論でさえ読めない私に、そんなことは不可能です。
それが「世界哲学」ということになれば、すべての言語に通じている人はいないでしょうから、優秀な学者であってもどこかで私と似たようなディレンマに陥るのではないでしょうか?(ちょっとディレンマのレベルが違うかもしれませんが・・)
そう思っていたら、私の素朴な疑問よりも、さらに複雑な状況が見えてきました。
納富さんは、かなりのページを割いてこの問題を扱っているのですが、その一部を読んでみましょう

「理性、知性、悟性、知覚、感覚、感情」といった諸概念は、互いの区別において意味が決まります。それは時代によって、哲学者によって異なる意味規定が与えられるものです。さらに、異なる言語や文化が交流すると、異言語の哲学概念を取り入れて翻訳したり造語したりするケースが増え、状況はより複雑化します。  
多くの思想の間で伝達や議論のために翻訳が行われると、その間では必ず相違やズレが生じます。異言語の間だけでなく、同じ言語でも時代や地域によって使い方が異なることがあります。さらには、個々の哲学者によっても独自の言語使用があり、それをパラフレイズしたり説明したりする作業が一種の翻訳のように必要となるのです。  
できるだけ同一性を維持したうえで異なる媒体に移すことが目指されているとしたら、ズレは極力避けられるべきです。しかし、哲学においてはズレを積極的に活かすことがあります。それは、そもそも哲学が、言語において遂行されることの限界、その突破に関わるからです。一つの言語表現が哲学的な事柄を完全に言い表すことはありません。哲学の言語はむしろその状況を揺るがし、言語によって固定することを避けつつ、言いたいこと、言うべきことに可能な限り迫るために、あえて翻訳におけるズレを活用するのです。そのようにして、翻訳を通じて思索は新たな生命を宿し、別の言語と文化に根付いていきます。
そういった世界哲学における翻訳の問題は、真理・普遍性という視点から考察されます。世界哲学とは単に多様な哲学伝統を並べて見ることではなく、それらの間のダイナミックな交流や対決、統合や分裂のなかに哲学の活力を確認する作業だからです。翻訳の重要性が再認識されるべきです。
(『世界哲学のすすめ』「Ⅰ 世界哲学に向けて 第3章 世界哲学を語る言語」納富信留)

ここで語られている「異言語の哲学概念を取り入れて翻訳したり造語したりするケースが増え、状況はより複雑化します」とは、具体的にはどういうことでしょうか?
これを日本語の例で説明しているところがありますので、そこを読んでみましょう。

私はかつて「理想」という日本語が西周(にしあまね、1829 - 1897)による純粋な造語であり、明治以前には日本にも中国にもなかった単語であること、さらに「理」と「想」を合成した熟語がプラトンの「イデア」を説明する翻訳語として登場したことを論じました。その後この「理想」という言葉は日本の社会で爆発的に流通し、中国など漢字文化圏で共有されています。これは西洋哲学に由来する翻訳が日本や東アジアの文化を変えてしまった、一つの例です。
(『世界哲学のすすめ』「Ⅰ 世界哲学に向けて 第3章 世界哲学を語る言語」納富信留)

これは驚きですね。プラトン(Plátōn、紀元前427 - 紀元前347)さんの「イデア」という概念がなければ、日本語、あるいは漢字文化圏の「理想」という言葉、概念もなかったということです。こういうふうに文化は影響し合い、それぞれの地域の人々の心に深く響いていくものなのでしょう。
そして考えてみれば、「芸術」も「美術」も翻訳から発生した概念です。だからどうだ、というわけではないのですが、こういうふうに自分が前提にしている概念の根本を知り、それを相対化できる視点を持つことは大切だと思います。
もしかしたら、「世界哲学」を学ぶことで、今描いている「絵画」の概念も変わってくるのかもしれません。そんなこともこれから考えていきましょう。

アラン・ドロンさんの話から始めたら、だいぶ長くなってしまいました。考察の途中ですが、今回はこの辺で・・・。
これからも、継続して勉強していきます。
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