そういえば、以前にこのblogで取り上げた吉原真里さんも、このドラマを絶賛していましたね。
https://mainichi.jp/articles/20240624/k00/00m/040/024000c
吉原さんが書いている通り、こういう題材が人気ドラマになること自体が驚きであり、喜ばしいことだと思います。少しずつですが、風通しの良い社会になると良いなあ、と願わずにはいられません。日本社会は、そもそも政治家が「LGBTは生産性がない」(2018年)とか、「女性はいくらでもウソをつける」(20年)などと発言するのですから、差別をなくすのは容易ではありません。斎藤美奈子さんの次の記事を読むと、問題の深刻さがわかります。
https://www.webchikuma.jp/articles/-/3507
さて、芸術を通して、こういう社会のあり方に疑問を投げかけ、革新的な表現活動をした詩人、白石 かずこ(しらいし かずこ、1931 - 2024)さんが逝去されました。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/334738
前回、小池昌代さんの追悼記事を読みながら、白石さんの業績について少しだけ触れました。そこで私は、白石さんがモダニズムの詩から脱却して、自分の新しい詩の方向性を追求したことに興味があると書きました。
今回は、白石さんがモダニズムの詩をどのようにして乗り越えたのか、ということに注目したいと思います。それはきっと、他の芸術の分野においても参考になるはずで、美術や絵画の置き換えるとどういうことになるのか、ということもいずれ探究してみましょう。
それでは、まず白石さんの最初の詩集『卵のふる街』から「卵のふる街」という作品を読んでみましょう。
青いレタスの淵で休んでいると
卵がふってくる
安いの 高いの 固い玉子から ゆで玉子まで
赤ん坊もふってくる
少年もふってくる
鼠も英雄も猿も キリギリスまで
街の教会の上や遊園地にふってきた
わたしは両手で受けていたのに
悲しみみたいにさらさらと抜けてゆき
こっけいなシルクハットが
高層建築の頭を劇的にした
植物の冷たい血管に卵はふってくる
何のために?
<わたしは知らない 知らない 知らない>
これはこの街の新聞の社説です
(『卵のふる街』「卵のふる街」白石かずこ)
レタスや卵、赤ん坊、キリギリスなど親しみやすいイメージの言葉が並びますが、読んでみると難解な詩です。それらが(空から?)降ってくるという点が、そもそもシュール(超現実的)です。これはどう読んだものやら・・・、と詩に疎い私は悩んでしまいましたが、この詩の解説をたまたま見つけました。
『展望 現代の詩歌 詩Ⅲ』という本です。この本は詩人ごとに章が分かれていて、白石かずこさんの章は、渥美孝子さんという文学研究者が担当しています。
渥美さんはこの「卵のふる街」について、次のように解説しています。
卵がふるーそのイメージのひらめきがまずあって、これらの詩行が生みだされている。「ふってくる」のは卵や玉子だけではない。人間も動物も虫も「ふってくる」。ちがう重みを持つそれら「ふる」ものたちは、「わたし」の両手が受ける時には、無機物の粒子のようになって「さらさらと抜けてゆき」、それぞれの存在感も質量も温感も解体する。
(『展望 現代の詩歌 詩Ⅲ』「白石かずこ」渥美孝子)
このように、モダニズムの詩では、ひとつのひらめきが手がかりになり、そこからどんどんイメージが付け足されていきます。重いものも軽いものも、具体的な姿が思い浮かぶものも、そうでないもの(英雄)も空から降ってきます。そのことによって、「ぞれぞれの存在感も質量も温感も解体する」のです。そのイメージの連鎖に意味はなく、むしろどのように言葉の意味を超えてイメージが飛躍できるのか、が詩人の腕の見せ所なのだと思います。
さらにそこに、唐突に「悲しみ」とか「こっけいな」という心理的な状態を表す言葉が出てきます。「悲しみ」は「さらさらと抜けていく」ものだろうか、と細かいことを考えて引っかかっていると、「こっけいなシルクハット」という思いがけないものが出てきます。後の解説に出てきますが、どうやら「悲しみ」と「こっけいな」は「対比語」のようです。
そして「卵がふる」ような不思議な光景の背景として、「教会」や「遊園地」が現れてきて、のどかな町の風景なのかな、と思っていると、そこに「高層建築」という現代的な、そして現実的な都市風景が突然現れます。ここで頭の中の「街」のイメージが一変します。
「悲しみ」や「こっけい」などの言葉がどうして選ばれたのか、渥美さんは次のように解説しています。
「悲しみ」は、「こっけい」という対比語を呼び、「高層建築」の形状が「シルクハット」という場違いの礼装として揶揄される。「何のために?」という問いは、その幻想空間から不意に現実へと引きもどす。それは、フト我に返った「わたし」が発したもののようでもあり、誰かが「わたし」に向けたもののようにも思えるが、詩の中で卵をふらせている詩人への問いでもあるかも知れない。その問いを拒絶するかのように、または問うことが追いつめられることであるかのように、「知らない」が3度繰り返される。そして、「新聞の社説」とする唐突な結末が、詩全体をナンセンスへとはぐらかしてしまう。
この詩は、詩人が語るように、ひとつの絵ないしは映像詩として受け止めればよいのであろう。実体性を剥奪されたモノたちによるシュールな都市空間、その「悲し」くて「こっけいな」イメージと手応えのない頼りなさの感触、宙づりにされた意味ーそれらが不協和音的な抒情をつくり出すのである。
(『展望 現代の詩歌 詩Ⅲ』「白石かずこ」渥美孝子)
この解説の最後の「不協和音的な抒情」という言葉が、この詩の印象を伝えていてみごとです。この詩のなかでは、言葉同士がお互いに意味のつながりがわからない不協和音を発しています。でも全体としてみれば、現代的な都市空間の中に淡い悲しみが漂っている、そんな印象を受ける詩です。
ただし、「卵のふる街」は、そんな抒情一辺倒の詩ではなくて、最後の二行で現実の詩人が顔を出すような演出になっています。この詩の作者である「わたし」は「何のために?」と問われたのに、「知らない」を連呼した上で、「新聞の社説です」と、とぼけたようなことを言って逃げてしまいます。渥美さんはこれを「ナンセンス」への「はぐらかし」だと分析していますが、私にはモダニズムの抒情性を少し引いた位置から見ている・・・、そんな白石さんの立ち位置を表しているように思えます。
ここでもうひとつ、この詩の解説を紹介しておきましょう。『現代詩文庫 白石かずこ詩集』の中に書かれた、詩人の高橋睦郎さんによる解説です。
(「卵のふる街」は)一読して、北園克衛ないしV0Uグループの影響が濃厚である。しかし、同時にここにはすでに、かずこの特質であるみごとな影や罪の匂いから遠い、あまりに光に充ちた無垢なイメージがあふれている。私をして言わしめるなら、これは生まれながらの無垢な魂が、その無垢さによって見た天界を、その無垢さのままに囚え、私たちに示した天界通信なのだ。
しかし、この天界通信はその後、バッタリと途絶えることとなる。かずこが「結婚ー出産ー育児」という地上の生活を余儀なくされ、詩を書くことを中断したからである。
(『現代詩文庫 白石かずこ』「かずこ詩試論」高橋睦郎)
この解説に登場する北園 克衛(きたぞの かつえ、1902 - 1978)さんは、モダニズムの詩人で写真家、デザイナーでした。1935年にサロン的な同人「VOU(ヴァウ)」を主宰し、同名の機関誌『VOU』を発行、主にその誌上で活躍した人です。白石さんはすでに高校時代に「VOU」に参加し、北園さんの指導を受けていたようです。さらに早稲田大学文学部に入学後、北園さんのすすめで在学中に第一詩集『卵のふる街』を出版しています。
しかし、その後まもなく、白石さんは創作活動をやめて、沈黙してしまいます。その沈黙について、渥美さんは次のように書いています。
しかし、こうしたモダニズム詩の方向性を、白石はすぐに手放してしまう。この後の9年間にわたる沈黙について、白石は「コトバの遊戯、才気のキラキラゴッコに耐えられなくなった」(『わたしの中のカルメン』昭46文化出版局)のであり、モダニズムに欠落している「表現のリアリティ」にとらわれたからだ(『ロバにのり、杜甫の村へゆく』平6芸立出版)と言うが、一方ではまた自分の詩が「どんどんやせ細り、貧弱」になるのを「恥じて」の沈黙だとも語っている(『黒い羊の物語』平8人文書院)。
(『展望 現代の詩歌 詩Ⅲ』「白石かずこ」渥美孝子)
白石さん自身の言葉(エッセイ)を引用しての解説ですが、とても興味深いです。
「コトバの遊戯、才気のキラキラゴッコ」と言うのは、先ほど見てきたような、モダニズム詩のイメージ連鎖的な手法を指しているのでしょう。高橋さんは白石さんの詩を「あまりに光に充ちた無垢なイメージがあふれている」と書いていましたが、白石さんの「才気」の輝きは、まさに「キラキラ」したものだったのです。
しかし白石さん自身は、その「天界」を行くような「才気」のひらめきを追求していたのでは、いずれ自分が痩せ細ってしまう、と考えたのかもしれません。「コトバの遊戯、才気のキラキラゴッコ」という言い方には自嘲するような響きがあります。
さて、ここで白石さんの詩から少し離れて、日本のモダニズム詩そのものについて考えてみましょう。モダニズム詩に表現の限界を感じたのは、白石さんだけの問題ではなくて、日本のモダニズム詩のあり方に問題があったと思われるからです。
詩人で評論家、思想家であった吉本 隆明(よしもと たかあき、1924 - 2012)さんが、『戦後詩史論』という本の中で、白石さんの師であった北園さんのモダニズムの詩について書いた文章があります。そこで吉本さんは、モダニズム詩を痛烈に批判しているのです。
これらモダニズム派の詩人たちの特長は、じつは恒定生活者として自己の都市インテリゲンチャ的な世界を、詩のなかに露骨に提出しようとしない主知意識のなかにあったのではなく、いかに逆説的にきこえようとも、想像力の世界を自己の恒定生活者的な世界に限定し、そこから踏み出そうとしないところに表れたのである。詩的想像の世界を、自己の生活意識圏からはみ出させようとしなかったことは、日本のモダニズムの著しい特色であった。この点に関してはモダニストの想像力は、やむをえずもがきながら自己の生活圏から脱出しようとして翼をもたねばならなかった不定職インテリゲンチャの詩人たちよりも貧弱であった。
(『戦後詩史論』「戦後詩史論 1」吉本隆明)
この『戦後詩史論』が出版されたのは1978年ですが、定職を持った詩人(恒定生活者)と、定職を持たない詩人(不定職)とを分けて論じているところなどは、1960年代より以前の論文のように見えます。労働運動、学生運動に関わるような吉本さんの社会的な問題意識が垣間見えるのです。
しかし、それはともかくとして、日本のモダニズム詩の特徴が「詩的想像の世界を、自己の生活意識圏からはみ出させようとしなかった」という指摘は、一つの手がかりになりそうです。
さらにモダニズム詩について、吉本さんは次のように書いています。
詩的な想像の世界が、無抵抗のまま自分の出身圏に固定されていることは、ほんとうは意味をなさないだろう。もちろんこういう解釈は、現在から昭和初年の詩作品をみてはじめて言いうるので、モダニストたちはいずれもその当時自分たちがもたらした詩的様式の革命を信じていた。ただその様式的な変革が、自己の土壌をつきくずしてひろがるものではなく、自己の土壌をそのまま安置して表現様式を模索したにすぎなかったため、現在からみれば、様式の新奇性はのこらずに、都市生活者の恒定化された情緒しか感受されないのである。
(『戦後詩史論』「戦後詩史論 1」吉本隆明)
吉本さんは、モダニストたちの詩の改革は限定的なものであり、今からみれば都市生活における「情緒しか感受されない」と厳しく批判しています。モダニズムの詩について、ろくに読んでいない私は、この批判について何も言えません。しかし日本のモダニズムの限界についてならば、例えばモダニズムの絵画についてならば、少しは意見が言えそうです。
日本におけるモダニズムの限界ということで私が想起するのは、北園さんとほぼ同世代の画家、難波田 龍起(なんばた たつおき、1905 - 1997)さんです。難波田さんは真摯に新しい絵画に取り組んだ画家で、そのために何回も自分の絵の様式を変えました。その変化は常に最先端の表現を目指したものです。そして、そのいずれの様式の時期を見ても、作品が粒揃いで駄作がないのです。このことは、難波田さんの誠実な人柄からくるものだろう、と私は思います。
https://www.momat.go.jp/artists/ana035
しかしその一方で、難波田さんの絵画の様式には、つねに西欧の前衛絵画のイメージが潜んでいました。難波田さんの時代に生きた画家ならば、真面目に先鋭的な表現を志す者は、おおむね西欧絵画の影響を避けることができなかったのです。この頃、新しい時代の幕開けは、常に海外からもたらされたのです。それを正面から受け止めて、自分なりに消化するということが、日本の画家にできる精一杯のことでした。これはもしかしたら、今もあまり変わらないのかも知れません。難波田さんは、誠実にその課題に取り組み、時代の変化に合わせて自分の作品の様式を変えていったのです。
しかしその結果、難波田さん独自の、あるいは日本特有のユニークな表現が生まれたのかというと、そこまでは言えないと思います。残念なことですが、難波田さんの作品には見る者を驚嘆させるようなオリジナリティがなかった、と私は思います。難波田さんは、そのかわりに、真面目で端正な、そして粒揃いの作品を数多く残したのです。
難波田さんの作品を見ると、私は尊敬の念を抱くと同時に、どこか物足りないものを感じてしまいます。この物足りなさの要因を考えたときに、吉本さんが日本のモダニズムの詩人に対して評価した言葉が、うまく当てはまるような気がするのです。
再び、その文章を書き出してみましょう。
ただその様式的な変革が、自己の土壌をつきくずしてひろがるものではなく、自己の土壌をそのまま安置して表現様式を模索したにすぎなかったため、現在からみれば、様式の新奇性はのこらずに、都市生活者の恒定化された情緒しか感受されないのである。
現代詩と現代絵画は、この時期に同じ問題を共有していたのではないかと、私は思います。「自己の土壌をそのまま安置して表現様式を模索したにすぎなかった」というのは辛辣な批評ですが、この批評が難波田さんの作品にも当てはまると思うのです。
この点について、もう少し説明してみましょう。
真面目な表現者であれば、現在の自分の表現レベルを保ちつつ、さらに表現を向上させようと思うのは、当たり前です。難波田さんも、「自分の土壌」を「安置」した上で、さらに新しい表現を目指そうとしたのです。
論理的にはこの考え方で間違っていないはずなのですが、その通りにはいかないところが芸術表現の難しいところです。吉本さんが書いている通り、表現者は常に「自己の土壌をつきくずしてひろがる」という危険性をおかさない限り、本当の意味での新たな表現には到達できないのです。秀作揃いの難波田さんの作品群は、残念ながらそのことを示していると私は思います。彼は大きな失敗はしなかったけれども、自己を危うくするほどの飛躍も成し得なかったのです。
ここでお断りしておきますが、私は難波田さんの業績を貶めようとして、このようなことを書いているのではありません。完璧な表現者などあり得ないのですから、どんな表現者であっても、良いところとまずいところがあるはずです。難波田さんにおいては、真摯な表現活動を続けた結果、このように非常に高度なレベルでの作品の問題点が浮かび上がってきたのです。もちろん、このようなレベルに達しなかった画家ならば、星の数ほどいるはずです。難波田さんは、日本のモダニズムを論じる際に引き合いに出したくなるような、そんな真摯な足跡を残した稀有な画家だと言えるのです。
さて、話を白石さんに戻しましょう。
渥美さんの解説によれば、白石さんはある出版記念会で、歌人、劇作家、そして前衛演劇グループ「天井桟敷」の主催者であった寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935 - 1983)さんと出会い、「もったいない、なぜ書かないのか?」と繰り返し聞かれたのだそうです。そんな言葉に押されて詩作を再開してみると、あふれるように言葉が出てきて、それが日常生活にも影響して、ついに離婚することになったのだそうです。この辺りのプライヴェートな事情は、あまり追求しないことにしましょう。
それはともかくとして、モダニズムの詩に限界を感じていたはずの白石さんは、どのようにしてその後の詩作へと復帰したのでしょうか?
渥美さんは、白石さんの詩集『もうそれ以上おそくやってきてはいけない』を題材にして、次のような解説を書いています。
白石かずこの詩の再生を促したのは、ジャズであり、ビート詩であった。
私はビリー・ホリディをきいたのをきっかけに、ほとんどの時間、ジャズの驟雨に、うたれないではいられなくなった。それが私の生きてることの、豊穣でさんたんたるアリバイだった。(『わたしの中のカルメン』)
第3詩集『もうそれ以上おそくやってきてはいけない』(昭38思潮社)に収められた『ハドソン川のそば』は、白石自身が「ビリー・ホリディのようなブルースを書きたいと思ってはじめて書いた」詩(『黒い羊の物語』)であり、「ブルースを日本語で初めて書いた」と自負するのみならず、この詩を書いた頃こそ「わたし自身の人生の真の夜明けであった」(『JAZZに生きる』昭57旺文社)という、記念碑的な作品である。
(『展望 現代の詩歌 詩Ⅲ』「白石かずこ」渥美孝子)
前回のblogで、私は詩人の小池昌代さんが、白石さんの追悼記事の中で「モダニズムの影響下にあったデビュー詩集『卵のふる街』(1951年)以後、第三詩集のあたりから、一人称の『おれ』が本格的に登場、いよいよかずこ詩に、両性具有の、広大無辺な風が吹き渡るようになる」と書いていたことをお伝えしました。
おそらくは、小池さんが書いていたような「性」に関する因われないイメージと、渥美さんが書いたような「ジャズ」の影響が、同時にこの時期の白石さんを突き動かしたのだと思います。
それでは、「ハドソン川のそば」という詩を少しだけ読んでみましょう。
誰から生まれたって?
ベッドからさ 固い木のベッドから
犬の口から骨つき肉が落ちたように
落ちたようにね
わたしの親は まあるいのさ
月のようにのっぺり
やはり人間の顔してたのさ
人間の匂いがしてたのさ
くらやみの匂いがね
だまってる森の匂いがね
それっきりだよ ニューヨーク
ハドソン川のそば
わたしはたっている
この川と わたしは同じ
流れてる
この川と わたしは同じ
たっている
(『もうそれ以上おそくやってきてはいけない』「ハドソン川のそば」白石かずこ)
この詩に関する渥美さんの解説を抜き書きしてみましょう。
ビリー・ホリディ(1915〜1959)は、フィラデルフィアに生まれ、貧困と暴行との過酷な環境の中で育つ。ニューヨーク、ハーレムのジャズ・クラブで歌っていたのを見出されて成功への階段をのぼり、人種差別・性差別とも戦うが、その名声のかげで私生活は荒れ、麻薬と酒から離れられずに生涯を閉じる。そうしたビリーの少女時代を、詩人は歌う。冒頭の2行、「固い木のベッド」から生まれた、と質問をいなす少女の、大人びたような、はすっぱな口調は、その問い自体が酷なものになってしまう少女の状況を端的に語っている。
<中略>
ハーレム(黒人居住区)がひろがるニューヨークのハドソン川は、ビリーにとって「グランマー」であり、「グランパー」であり、また「いとしい恋人」でもある。父親も母親も養育というにはほど遠く、十分な愛情に包まれることのなかった少女は、だからといって絶望に打ちひしがれているのではない。自分を愛おしんでくれる存在をハドソン川に重ね、ただハドソン川とともに、自分の運命を「流れていく」のだ。
<中略>
「ハドソン川のそば」に、難しいことばは全くない。詩人や一部の文学好みだけ通用する特権的なことばでなく、日常の使い古されたことばに新たな息吹を与えること、それが白石の新たな模索となった。モダニズムの観念的な操作から離れてブルースの歌詞を目指した時、詩はじかに声となり、音楽となったのである。
(『展望 現代の詩歌 詩Ⅲ』「白石かずこ」渥美孝子)
この「ハドソン川のそば」と最初の「卵のふる街」を読み比べてみると、いかがでしょうか?
「卵のふる街」のほうが、たぶん技法的には高度であり、コトバやイメージの難易度も高いような気がします。「ハドソン川のそば」が易しい詩だとは思いませんが、言葉遣いの技巧は影を潜め、なにかもっと大切なものを私たちに伝えようとしていると思います。技巧に戯れている暇もないような、もっと切実ななにかです。それは人間が生きていくことの根源に迫るようななにかだと思います。
この白石さんの姿勢は、前回のblogで紹介した詩の朗読の動画のイメージと重なると思います。白石さんの詩作の拠点は、もう日本の都市空間にはありません。国籍も人種も性別も限定しない、もっと人間として根源的なものに白石さんは関わろうとしているのです。
前回、紹介した動画の中で朗読されていた「中国のユリシーズ」について、渥美さんが解説を書いています。最後にそれを確認しておきましょう。
まずは詩を読んでください。
ふりかえると顔がなかった
おのれの
生まれたての顔が
顔は国であり
国は赤い思想に寝とられて
もはや顔のない
くちづけする唇のない おのれの顔
あとにして
彼は往く
<中略>
子の形相 万の形相 鏡の形相で
夜の海 星たちは波におち交合する中
彼も これらの音楽に加わり
彼の内なる国もとめて
交合の行に加わる
<中略>
ブルースは こうして
デキシーなんかじゃない 何千年に
さかのぼったところの
名づけようもない独りの男の さみしい国から
きこえてくる
産湯につかって
きこえてくる
(「中国のユリシーズ」白石かずこ)
それでは、渥美さんの解説を読んでみましょう。
「彼」は故郷に帰れずにさまようユリシーズであるが、憂い顔のユリシーズではない。「彼」には自分の「顔」、それも「生まれたての顔」がない。自らの「生存をあかす顔」、すなわち生まれた国を失っているのだ。触れることも、鏡に映して見ることもできない「顔のない」顔を置き去りにして、彼が「往く」のは、暗い夜の海である。
暗い海での宇宙的な「交合」にくわわるのは、そこに「彼」の求める「内なる国」=「ポエジー」があるからだ。しかし、アメリカの田舎町で「生きている幽霊」として暮らすこの男に、「酩酊」はない。酔えないのだ。
きこえてくるのは、アメリカ南部のジャズの「デキシー」ではなく、男の「さみしい国」のブルースだという。白石のエッセイ『アメリカン・ブラック・ジャーニー』(昭50河出書房新社)は、この詩のよき解説となろう。それによると、白石が「中国のユリシーズ」と呼ぶドミニック・チャンは、香港に生まれた広東人で、台湾で教育をうけた後アメリカに行き、今はアメリカで大学教授をしている詩人である。中国も台湾も彼の帰国を拒絶しているわけではない。国に「コトバの真の自由はない」から戻れないのだ。戻れば、詩人の魂は死んでしまう。魂の詩をもたらすもの、それは性のタブーである。チャンは「性のタブーは、生命の、人間の魂の自由、自然へのタブー」と考える。「真の自由」を求めるその求道的とも言える姿に、白石は「東洋のブルース」を感じたという。「アメリカにさすらう東洋」、そこに自分自身を重ねたのかもしれない。
(『展望 現代の詩歌 詩Ⅲ』「白石かずこ」渥美孝子)
白石さんの詩は、ただ自由に歌うだけではありません。そこには多くのタブーやボーダーが意識されていて、そのことを私たちに気づかせるのです。そして「中国のユリシーズ」のような、国際的な旅人の心に私たちを寄り添わせるのです。
このような白石さんのスケールの大きさには、感嘆せずにはいられません。日本語で表現しながら、国境を超えた感覚に魅了されます。私たちは「ユリシーズ」のように、大海原を超えて旅をするのですが、その旅は物見遊山の旅ではなく、もっと切羽詰まった深刻な旅なのです。
このような白石さんの詩に匹敵する絵画作品を即座に挙げよ、と言われると私は困ってしまいます。白石さんが言葉によって表現したものを、絵画の問題に置き換えるとどのようなことになるのか、これはよく考えなくてはなりません。もう少し、時間をください。
それにしても、吉本さんが「その様式的な変革が、自己の土壌をつきくずしてひろがるものではなく、自己の土壌をそのまま安置して表現様式を模索したにすぎなかったため、現在からみれば、様式の新奇性はのこらずに、都市生活者の恒定化された情緒しか感受されないのである」とモダニズム詩を批判したことから考えると、白石さんの変容は目覚ましいものがあります。
白石さんにこのような変革を可能にしたものは、何なのでしょうか?それは技巧としてのイメージの飛躍に拘泥せずに、自分の意識の中にあるタブーやボーダーを越えていこうとした、その意識そのものの飛躍に原因があると私は考えます。だから白石さんの詩はスケールが大きくなった一方で、言葉は平易になっていったのです。
このような白石さんの変革を、私もぜひ見習いたいと思います。技巧に頼らず、表現としては平易でありながら、作品のスケールはどんどん大きくなっていく・・・、そのためにはどのような試みをしたら良いのでしょうか?
今回の話題に合致するかどうかわかりませんが、現在、私が小品において試みていることを、近日中に書いてみたいと思います。洋の東西を問わず、自分が吸収できそうなものは貪欲に吸収し、その上で恐れることなく先人を超えていく、そんなことを考えています。
その先人がどんな巨匠であろうと、関係ありません。表現者としては、すべての人が対等であるはずです。
冒頭のテレビドラマにも勇気をもらいながら、困難に負けることなく、頑張っていきましょう。
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