平らな深み、緩やかな時間

314.『セザンヌ 画家のメチエ』前田英樹について①

前回、小説家の保坂 和志(ほさか かずし、1956 - )さんの著書、『小説、世界の奏でる音楽』(2008)を取り上げました。この本の中の、画家セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)に関する記述を読みながら、文学に関わる人が美術についてどのように語っているのか、を考察しました。その時に引用文献として引かれていたのがフランス文学者、文芸・映画評論家でもある前田英樹(まえだ ひでき、1951 - )さんの『セザンヌ 画家のメチエ』(2000)という本でした。

私は迂闊なことに、この『セザンヌ 画家のメチエ』を読んでいませんでした。それには、ちょっとした理由があります。日本語で書かれたセザンヌの文献は、日本の研究者の書いたものから翻訳されたものも含めると山ほどあります。私は美術史の研究者ではありませんが、それらの文献に積極的に目を通している方だと思います。しかし、さすがにこれからセザンヌについて読むとなると、新しい知見について書かれたものを求めることになります。

私の尊敬する美学者、持田 季未子(もちだ きみこ、1947 - 2018)さんは『セザンヌの地質学』(2017)を著すにあたって、次のように書いていました。

 

(セザンヌについて)調べ始めてみると、手を触れずにいた間に世ではセザンヌ研究は進展し精密化していることに気付く。おかげで情報量が格段に増したのは結構だが、今から自分がセザンヌ論を一冊書くとすれば、書くに値するものでなければならないと痛感した。厖大化した先行研究をしっかり押さえた上で、たとえ僅かであってもまだ誰も言っていないことを言い、誰もまだ提示していない視点を示すものでなければ新たにもう一冊セザンヌ論を公にする意味はないのである。

(『セザンヌの地質学』「あとがき」持田 季未子)

 

持田さんは、妥協のない厳しい研究者でしたが、この亡くなる直前に著した著書においても、セザンヌが同郷の地質学者に学びながらあの「サント・ヴィクトワール山」の連作を描いていた、という新たな知見を書いていたのでした。もちろん、セザンヌが地質学を学んでいたということだけなら、さまざまなところで書かれていました。しかし、その事実の重要性について指摘した点において、持田さんの著書の新しさがあったのです。

そのような観点から前田英樹さんの『セザンヌ 画家のメチエ』を読もうとすると、例えば「あとがき」に書かれた次の一節が気になってしまいます。

 

セザンヌについて書きたいという気持ちは、もうずいぶん以前から、思い出せないほど若い時分から持っていた。にもかかわらず、どう書いたらよいかについては、少しもはっきりした考えは、浮かんで来なかった。批評的散文が、彼の絵に追いつく、対峙するなどとは、想像することもできない。だが、彼についてとうとう何も書けないで終わるのなら、一体自分が散文を書いて生きる甲斐というものが、どこにある?他人には、可笑しな話でも、私はそういう妙な考えにしばしば付き纏われていた。その原因は、すべてセザンヌの絵そのものにあって、私にはない。それは、確かなことである。絵とは、ほんとうに不思議なものだ。

意を決して、書き始めてみると、私の書き方は、思いのほか評伝的な形を採ることになった。セザンヌの絵について考える上で、避けられない問題を書き連ねていけば、こんな外観が生まれてきたまでである。私はただ、この人の仕事がこのようである所以について、これをこのものにしている最後の事実について、能力の限り書き通してみたかった。ほかに目的はない。これ以上付け加える言葉もない。

(『セザンヌ 画家のメチエ』「あとがき」前田英樹)

 

前田さんがこう書いているように、『セザンヌ 画家のメチエ』は評伝風の読み物として読める本です。しかし、困ったことにセザンヌの評伝ならば、すでにたくさんあります。また、直接セザンヌと接した人たちも文章を残しています。だからいまさら日本人の書いたセザンヌの評伝には食指が動かないわけです。それに評伝風の形式をとっているだけに、セザンヌについて前田さんがどのように考えているのか、端的に書かれた文章を探すのが大変です。

しかし、試しに読んでみると、内容がセザンヌの時代の機微に触れるように書かれているので、なかなか興味深く読めました。そこで今回は、『セザンヌ 画家のメチエ』に書かれたセザンヌをめぐるさまざまなことの中で、「第一回 印象派展」について注目してみたいと思います。この展覧会の美術史における重要性は言うまでもありませんが、前田さんはこの展覧会を画策した画家たちの様子について、実に生き生きと描いていているので、それを読むだけでも面白いのです。

セザンヌについては、次の機会にじっくりと読み込むことにします。前田さんは「批評的散文が、彼の絵に追いつく、対峙するなどとは、想像することもできない」と書いていますが、その思いは誰でも同じです。だからこそ、セザンヌに数限りなく文章が紡がれているのです。そして前田さんのセザンヌの絵との向き合い方には、学ぶべき点が多々あります。それは次回に触れることにしましょう。

 

さて、『セザンヌ 画家のメチエ』に踏み込む前に基本的なところを押さえておきます。セザンヌは「後期印象派」の画家として美術史上で位置付けられていますが、その位置付けの根拠となった「印象派」という名称についておさらいをしておきましょう。

この「印象派」という言葉は、1874年の「第一回印象派展」において、クロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)が出品した『印象・日の出』という作品について、当時の批評家が揶揄する意味で新聞に「印象派」、「印象主義」と書いたのが始まりだった、という有名な話があります。このことについては、後で詳しく触れることになりますが、この展覧会を開催した時点では「印象派」という名称はなく、正確には「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」というのが展覧会の名称でした。

私たちは、この展覧会が「印象派」の旗上げのために開かれたものだという思い込みがあります。しかし、その実はどのような展覧会だったのか、ということを検証する試みがかなり以前にありました。1994年に東京上野の国立西洋美術館で、この展覧会をできるだけ再現して、その意味合いを正確に理解しよう、という企画がありました。

https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/past/1994_136.html

その展覧会について、東京文化財研究所が次のような記録を残しています。

 

印象派という呼称がうまれる契機となった1874年、パリで開かれた「画家、彫刻家、版画家などによる“共同出資会社”第一回展」を再現、今日的な視点から見直そうとする展覧会が、20日国立西洋美術館で開催。同展には、辛辣な批評によって印象派という言葉が生まれたモネの「印象、日の出」(マルモッタン美術館蔵)をはじめとして、今日印象派とよばれる画家たちの作品はもとより、現在ではその名前さえ忘れ去られようとしているサロン系の作家たちの作品もあわせて出品され、この第一回展に出品した作家たちのひろがりが示されるとともに、当時のパリの美術界の実相が理解できる展覧となった。

(『PARIS 1874 1874年―パリ「第1回印象派展」とその時代展開催』東京文化財研究所)

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/7646.html

 

このblogを読んでいる方で、『印象 日の出』を知らない方はいないと思いますが、念のために次の絵です。

https://www.artpedia.asia/impressionsunrise/

意外なことに「サロン系の作家たちの作品もあわせて出品」されていたのですが、この展覧会の開催の経緯はどのようなものだったのでしょうか。

それでは、いよいよそのことについて、前田さんの文章を読んでいきましょう。

 

セザンヌがオーヴェールでの戸外制作に没頭していた1873年に、ピサロはセザンヌと画架を並べてただ絵を描いていただけではなかった。ピサロは、頻繁にパリに出かけ、官展(サロン)に頼らない新しい芸術家組織の設立のためにモネ、ドガ、ルノワールと共に奔走していた。彼らの計画が形を成し始めたのは、戦後の好景気が慌ただしい夢のように終わって、第三共和国が最初の経済危機を迎えた頃だった。すでにサロンの画家として成功し始めていたマネは、こうした計画には見向きもしなかった。むしろ、ピサロたちが計画していることは、公的な闘いからの集団逃避のように、マネには思えたかも知れない。どうして、彼らは、サロンに出品し続けないのか、そこに自分たちの新しく正当な地位を要求し続けないのか。マネには、そういう苛立ちがあった。ところが、ピサロたちにしてみれば、話はまったく逆であった。73年のサロンにマネが出品し、入選して評判を取った『ル・ボン・ボック』という題の肖像画は、彼らをうんざりさせていた。この絵には、太鼓腹の親爺が安心し切ってパイプを吹かし、ビールを呑んでいる顔しかない。戦後のサロンもまた、こういう場所になるのか、マネにこれ程の妥協を要求する制度になるのか、という焦燥が彼らを独立展の構想に駆り立てていた。

(『セザンヌ 画家のメチエ』「3 第一回印象派展」前田英樹)

 

エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)が印象派展に参加しなかったのは知っていましたが、このような思惑が渦巻いていたのでしょうか。ちなみに『ル・ボン・ボック』はこのような作品です。

https://art.hix05.com/Manet/manet13.bonboq.html

そして、この展覧会に参加した画家たちの中にも、いろいろな思惑がありました。さらに、この続きを読んでみましょう。

 

サロンからの自立は、火急のことである、モネやピサロはそう考えていた。風景画に関する彼らの発見は、誰より彼ら自身を驚かす根底的な出来事として進行しており、どのような妥協も受け容れない何ものかが、そこにはあった。彼らは、ジャーナリズムがそう呼んだ通り、絵画においても組織論においても「非妥協派(intransigeants)」であらざるを得なかった。ドガはと言えば、事情は少し異なってくる。アングルを崇拝する彼は、絵画上の<線>をめぐる自分の探究が、古典的世界の精髄を成す要素と明確に連続することを疑わなかった。カフェ・ゲルボワの画家仲間たちが、一致して公衆に新しい絵画を示そうとすることはよい。そのための組織は、必要だと認めよう。だが、自分たちが、講習やアカデミスムをただ仰天させて得意がるような、血気にはやるだけが愛嬌であるような、そういう若手集団だとみなされるのは御免である。従って、マネの参加は不可欠であり、サロンに出品する多くの者たちの参加も望ましい。そう考えたドガは、執拗にマネの協力を要請するが、マネはそれに応じない。ドガは憤激してマネを罵る。

ドガには、そういう思惑があったから、ピサロが推薦するセザンヌのような男の新組織への加入は何よりも困るのである。ドガは忘れてはいない。戦前のセザンヌが、挑発を振り乱した薄汚い風体で、ルーヴルに火をつけろと喚いていたことを、またサロンを辟易させるためだけに、グロテスクな図柄の、絵具の壁のようなカンヴァスを毎年審査委員会に運び込み、拒絶されては得意になっていたことを。ああいう画家もどきが参加する限り、マネは我々と一緒には行動すまい。ドガはそう思っており、ある意味ではそれはその通りであっただろう。だが、いずれにせよ、展覧会のための新組織は、1873年12月27日に生まれた。それは、誠にサロン風な画家から飛びきりエキセントリックなセザンヌまでを含んだ、ちぐはぐで乱雑な陣容で成っていた。組織の名称は、揉めたあげくに「画家、彫刻家、版画家等による共同出資会社」という、いささか間の抜けた律儀なものに落ち着いた。

(『セザンヌ 画家のメチエ』「3 第一回印象派展」前田英樹)

 

セザンヌが若い頃から傍若無人の性格であったことは、よく知られた話ですが、10歳近く年長だったピサロ(Camille Pissarro, 1830 - 1903)はセザンヌに優しかったようです。しかし印象派の中でも古典的なデッサン力を併せ持っていたドガ(Edgar Degas 、1834 - 1917)と都会人であったマネは、セザンヌと反りが合わなかったようです。この時にドガが出品したと思われる『バレエの舞台稽古』はほとんど彩色のない、グリザイユ技法で描かれたものです。

https://madamefigaro.jp/series/ballet/191112-ballet-degas.html

セザンヌが出品したのは、有名な『首吊りの家』という作品です。

https://artmuseum.jpn.org/mu_kubiturinoie.html

この作品の実物を、私は何回か見ていますが、重層的な絵の具の重ね方が素晴らしい作品です。写真ではわかりにくいのですが、その重ねられた色合いを見ているだけでも飽きない作品です。

モネの『印象 日の出』のような即興的な筆使いの絵から、古典的な技法を用いたドガのバレエの絵、さらには印象派的な色彩の明るさを取り入れつつも、すでに独自の道を歩き始めたセザンヌの『首吊りの家』まで、「第一回印象派展」に出品されたこの三人の作品を見ただけでも三人三様で、共通したところがないように見えます。

しかし、当時のサロンで好評を博していたのは、おそらく神話や歴史に題材を求めた作品とか、古典的な肖像画などでしょう。マネの『ル・ボン・ボック』は、マネの新しい表現とサロン風の作品との共通解をうまくまとめた作品なのだろうと思います。それに比べると、モネ、ドガ、セザンヌの出品作品は、現代絵画に通じる「レアリズム」を追求したものだと言えます。題材や技法はそれぞれ違っていても、彼らの絵に対して私たちが時代錯誤の陳腐さを感じることはありません。この中では最も古典的な作風であったドガの絵においても、踊り子の群像に客観的な視点を導入している点において、現代的な表現であると言えるのです。ですから、今から見ればあまり共通点のない作品に見えたとしても、当時のサロンやアカデミーでもてはやされた作品と比べれば、彼らの作品は現代的である点において共通していたのでしょう。

そして、このようなそれぞれの思惑から作品が出品された展覧会でしたが、当時の人たちの受け止めは彼らの思惑通りにはいかなかったようです。ことにドガにとってはそうだったでしょう。

『セザンヌ 画家のメチエ』の続きを読んでみましょう。

 

ドガにとって、この展覧会は「レアリスムのサロン」でありさえすればよかった。彼は自分の絵が、ルネサンス以降の巨匠たちの古典的レアリスムから断絶したものだなどとは、夢にも考えたことがなかった。ただ自分は、彼らが古典的たる所以のものを、あるいは多くの人間にはもう見えなくなった彼らの精髄を、現代風俗のなかにはっきりと取り出してみせたに過ぎない。そのことが、馬鹿な約束事で凝り固まった連中の眼を白黒させているのだが、そんな事態は今に時が解決する。美術アカデミーとの争いは、無意味なことだ。彼の自信は、絶対であった。だが、世間のほうでは、この展覧会を決して「レアリスムのサロン」とは、受け取らなかった。なぜなら、世間に向かって、この展覧会を代表することになったのは、結局モネだったからである。モネはこの展覧会に九点の絵を出品し、周知のように、その内の『印象 日の出』(1973)と題する油彩画は、「印象派」の名称を生むきっかけになった。この言葉は、ルイ・ルロワが風刺新聞『ル・シャリヴァリ』に書いた対話形式の展覧会評に出てくるのだが、もちろんこれは、大して能もないジャーナリスト流の悪口のひとつに過ぎなかった。「非妥協派」という間抜けな呼び名は、「印象派」という子供じみた可愛らしい蔑称に取って替られる。それは、何よりも「非妥協派」の面々が、ドガの反対にも関わらず、この蔑称を自分たちのグループ名として採用したことによる。

(『セザンヌ 画家のメチエ』「3 第一回印象派展」前田英樹)

 

自分自身を古典的なレアリスムに連なると思いつつ、この展覧会に参加したドガの屈折した思いは、いかばかりであったでしょうか・・・。彼は印象派的な手法を用いることはありませんでしたが、印象派が光を色彩によって表現しようとしたレアリストたちだったのだとしたら、ドガはデッサンによって現代生活における一瞬の視野を表現しようとしたレアリストだったのでしょう。そして、官展や美術アカデミーの連中よりも自分は正統な古典的レアリストであり、いつかそのことが受け入れられるとドガは信じていたのです。結局はその通りになりましたが、それはドガが思っていたよりも長い時間がかかったのでした。

さて、それではセザンヌの芸術は、どのようなレアリスムであったのか・・。セザンヌに関する著作ですから、そのことについて前田さんはちゃんと書いているのですが、冒頭に書いたように、それは次回に回すことにします。今回はセザンヌのことではなくて、前田さんがモネの作品について興味深い考察をしているので、そのことについて書いておくことにしましょう。

モネは晩年には印象派風の点描を超えて、表現主義風の現代的な絵画にまで到達しますが、前田さんはその萌芽を「第一回印象派展」に出品された『印象 日の出』にある、と読み取っています。この考察は、なかなかユニークだと思いますので、ちょっと長くなりますが前田さんの文章を読んでみることにしましょう。

 

この絵は、一体何を示そうとしているのか、ル・アーヴルの港の夜明けは、モネの眼には一瞬間こんなふうに見えたということであろうか。もちろん、そうではあるまい。『印象 日の出』が宣言していることは、間違いなくこうである。海、空、漁船、太陽といった対象は、画家が描くべきものでも、描きうるものでもない。そのような実在は、画家の眼には与えられていない。与えられているものは光と、光を無限の色調に分散させる何ものかである。その何ものかの正体は、画家が捉える色調の変化によってしか知ることはできない。それは、海でもない、空でもない、しかし、私たちの経験に確かに与えられていると言える実在であり、色調の変化の知覚こそ、まさにその実在からやって来る直接の第一の経験なのだ。レアリスムに関するモネの懐疑はここまで行き、彼の方法はここから始まった。

誰でも一目見てわかることだが、『印象 日の出』には、他の出品作にはすでに明瞭に現れている色彩分割の技法が、ほとんど用いられていない。画筆は、素早くなめらかにカンヴァスの上を滑っている。それは、ここに描かれている対象が、ただぼんやりとした朝霞の風景だからではない。おそらく、モネにとっては、色彩分割の技法は、固体的な事物を純粋な視覚の事実に、つまりは色調の変化に還元するための手段にすぎなかった。この手段を強化する上で、彼に同時代の光学が力を与えたことは疑いないだろう。だが、このことは、彼の信じるレアリスムが、まだ光学的な知識に支えられた技法によってしか実現されていないということを示してもいるのである。色彩分割などは、突破して進まねばならない、なぜなら、色斑という絵画上の単位はこの世界にも、私たちの視覚経験にも、ほんとうには与えられておらず、あるのは色斑の視覚混合という言葉の上の理論にすぎないからだ。色調への光の分散を真に知覚しようとする筆は、このような理論に留まっていることはできない。90年代のはじめに、モネの眼と絵筆とは、ついに色彩分割の技法を突破する。それは、新印象派のスーラやシニャックが、光学理論の極端に精密な適用によって、彼らの点描式の絵画を、それ以上は行きようがないほど厳格に構成しきったその後だった。『印象 日の出』は、すでにこの突破を予告している。予告の力は、むろん、まだ三十三歳のモネのメチエにあったのではなく、彼が引き受けたレアリスムの孤独な意志に、展望にあった。

(『セザンヌ 画家のメチエ』「3 第一回印象派展」前田英樹)

 

『印象 日の出』は、美術史上の最重要作品であるにも関わらず、「印象派」の起源的な作品として見ようとすると、肩透かしを喰ってしまいます。画面上に見られるのは、色彩分割による緻密な筆致ではなくて、モネの自由な筆使いによる即興的な表現だからです。しかし、この作品をモネの晩年の作品と関連づけるなら、極めて興味深い予兆を含む作品となる・・・、前田さんはそういう見方をしているのです。

そして私は先ほど、モネの晩年の作品を「表現主義風の現代的な絵画」と、とりあえず言ってみました。前田さんはそれらの作品を「それは、海でもない、空でもない、しかし、私たちの経験に確かに与えられていると言える実在であり、色調の変化の知覚こそ、まさにその実在からやって来る直接の第一の経験なのだ」と書いています。そしてそれを表現するためには、ありきたりのリアリスムの絵画に対して、あるいは印象派風の色彩分割に対して、懐疑的にならざるを得ないのです。

ここにおいて、前田さんはとても面白いことを言っています。画家が自分自身にとってのリアリスムを実現するには、画家が感受する「色調の変化の知覚」に忠実でなければならない、と書いているのです。前田さんはその前の文章で、「画家が捉える色調の変化によってしか知ることはできない」とも書いています。写真のように捉えられた色彩ではなく、あるいは色調分割のような科学理論による色彩でもなく、画家はそれらと並行して存在するような自分の知覚によって感受された色彩を表現する他ないのです。それこそが、その画家によって表現されたレアリスムである、ということになります。

ここにおいて、レアリスムの意味合いがだいぶ変わってきます。写実的な絵画も、印象派の絵画も、いずれもレアリスムの絵画だと言えるでしょう。しかしモネが晩年に到達した絵画に対して、レアリスムだとはなかなか言えません。しかし、それはモネの知覚が感受するレアリスムであり、その表現の準備がすでに『印象 日の出』の頃から彼の内面で動き出していたのです。その予兆は「まだ三十三歳のモネのメチエにあったのではなく、彼が引き受けたレアリスムの孤独な意志に、展望にあった」というのは、大胆な考察だと思います。

私自身、前田さんのこの考察から、これまで私の中にあった二つのわだかまりが氷解したように思います。それは『印象 日の出』という作品の言葉にし難い魅力が一体なんなのか、ということと、晩年のモネの絵が同時代の表現主義の絵よりも何か確かなものに触れていると感じるのはなぜなのか、ということです。いま、前田さんからの指摘でにわかに気の利いた考察ができるわけではありませんが、これは確かに魅力的な指摘です。この、モネの独特のレアリスムについて、いつか私の考えを書いてみることにしましょう。

 

さて、そしてこれはもちろん、セザンヌの絵についても例外ではありません。セザンヌの絵が徹底したレアリスムであることを、私は前田さんから指摘されるまでもなく知っていましたし、感じてもいました。

しかしセザンヌの場合は、モネよりもちょっと事情が複雑です。前田さんはセザンヌを語るにあたって、セザンヌの芸術に特徴的な「タンペラマン(気質)」という言葉をキーワードとして用いています。セザンヌの絵画には、セザンヌ独特の「タンペラマン」との対決が彼の内面でなされていて、その結果、セザンヌの中で変換を重ねられた色や形が画面上に現れることになるのです。それこそが、セザンヌにとってのレアリスムということになります。

いかがですか、面白そうな話でしょう?

次回は、このような話から入ることにしましょう。

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