今回の本題に入る前に、少しだけ横道にそれます。
前回、話題にした「岩波ホール」の映画ですが、私の気のせいかもしれませんが、一時期、かなり話題になって、上映された映画が一般的な人気を博しました。
そして、話題になった映画はたくさんあるのですが、その中でも最も巷で人気があった一本に、ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, conte di Modorone, 1906 - 1976)監督の『ルードヴィヒ/神々の黄昏』という映画がありました。
この映画は『地獄に堕ちた勇者ども』『ベニスに死す』とともに、ヴィスコンティ監督の「ドイツ三部作」と呼ばれる作品の最終作です。バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II., 1845 - 1886)の即位から死までを史実に沿った形で描いたものですが、自分自身が貴族の末裔でもあったヴィスコンティが絢爛豪華な貴族趣味を極限まで追求した作品として、その見栄えの良さも手伝って、相当に話題になったのだと思います。
私が見たのは40年ぐらい前なので、印象的な場面以外はなにも憶えていませんが、一つだけ印象的な出来事があります。それは本当にたまたまなのですが、観光旅行でバイエルン国王ルードヴィヒ2世が建てたノイシュヴァンシュタイン城にいく機会がありました。有名な観光地なので、ルードヴィヒ2世のことを知らない人でも立ち寄ることが多いところです。そのお城の外観がとにかく美しかった、というのも、たぶん機能性よりも美しさを追求して建てたものだからだと思います。ところが、中を見るとやはり近世(近代?)以降に建てられたものなので、作り物である印象を否めません。職業がら壁にかけられた絵画が気になったのですが、さすがにルーベンスの大作が並んでいて・・・、というわけにはいきません。なるべく見ないようにしていましたがちょっと興醒めでした。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64504
もしかしたら、ルードウィヒの夢見たお城は、ヴィスコンティの『ルードヴィヒ/神々の黄昏』という映画の中にこそ、あるのかもしれません。
そのヴィスコンティの貴族らしさが最も表現された映画が、この『ルードヴィヒ/神々の黄昏』か、もしくは『山猫』ではないか、と私は思っています。もしも滅びゆく貴族の世界に浸りたい方、それも薄っぺらい映画ではなくて、本物の重厚な映画に浸りたい方は、一度ご覧になってみてください。
さて、本題に入ります。
私の好きなゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)の作品に『サン=レミの療養院の庭』というタブローがあります。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/130949
今回はこの絵を含めて、以前から気になっていたゴッホの色彩表現の秘密に迫ってみたいと思います。今回だけでは終わらないので、続きを書く予定ですが、とりあえずお読みください。
ところで私は、この作品を2019年の「ゴッホ展」で見たのだと思います。
この記事に載っている2021年の「ゴッホ展」は、確か予約が取れずに見られなかったはずです。チケットが入手できれば、この絵と再会できていたのでしょう。ちょっと残念です。
私がこれまで見た絵の中で、色彩豊かで美しいと思った作品は何か、と聞かれれば、この『サン=レミの療養院の庭』はその一点に入るはずです。この記事の中では「草地の緑はやや単調だが」と書かれていますが、そうでしょうか?上の木の葉や花のように、立体的に描かれてはいませんが、それも計算のうちだと思います。とくに木立の真下の緑は、明らかに意図的に、平面的な描き方をしています。これは、ゴッホがいかに冷静に絵を描いていたのかを表していると思います。出来上がった作品を見れば、それは見事な対比だとわかりますが、夢中で描いているとそんな余裕はないはずです。ゴッホは上の木立の立体感を際立たせるために、草地の緑を対比的に描いたのです。
その色彩表現の差異を含めて、この絵のテクニックは完璧です。ゴッホがアカデミックな教育を受けていないということは、この際まったく問題ではありません。この絵の実物を見て、そのことがわからない人間がいるのだろうか、と疑問に思うほどに色彩感覚と技術が一体となった作品です。ゴッホの絵が生前に売れなかった、というのは本当に信じ難いことです。これほどにわかりやすく、説得力のある絵を私は他に知りません、と言いたいぐらいです。
ところで、ゴッホの絵の色彩については、彼の向日葵の絵の黄色を例にとって、情熱的であるとか、色の純度が高いとか言われるようですが、本当にそうでしょうか?
https://www.sompo-museum.org/collection/gogh/
そもそも、情熱や純粋さだけで、このような多様な黄色を表現できるわけがありません。花びらが黄色い花を、同系色のバックで表現してしまおう、と発想すること自体、相当に意図的だし、自信もあったのだろうと思います。
また別の作品の話になりますが、ゴッホの描いた『葡萄畑とオーヴェールの眺め』について、私の尊敬する藤枝晃雄さんは次のようなことを書いています。
http://succeed21.com/shopdetail/000000001298/
ファン=ゴッホは、色彩を主情的、恣意的に施しているのではない。ここには表現上の関係への配慮がある。白は家屋にも使われているが、とくに左端と右端のそれは明度が高く、画面に解放と完結を与える。そして、これと対応しているのは、右の棚の黒である。山には明るい緑のタッチがつけられている。それは近景の緑のこだまとして平衡を保つ役目を果たしているが、このオーヴェールの眺めのなかで多用されているのは、樹木、屋根などに見られるように暗い緑である。それは葡萄園の中央に施され斜めに走っているものであり、園の中で緑内部の対比をなす一方、塀、棚、そしてオーヴェールの眺めへと繋がってゆく。葡萄畑には青の棒が描かれ、緑からの推移をなし、かつ濃淡を変えたり、隣接する色相とともに塀、山に用いられる。
(『モダニズム以降の芸術』「第5章 作家と作品」藤枝晃雄)
ゴッホのこの作品の色彩は、主情的でも恣意的でもない、と藤枝さんが書いています。しかし、その一方でゴッホの作品の色彩が、写実的ではないことも確かだと思います。私はそのことについて触れたくて、2003年の個展の折に「ゴッホの色彩」という小文を書いてみました。
http://ishimura.html.xdomain.jp/text.html
いま読み返すと、大したことを書いていませんが、無理もありません。この文章を書いて15年以上経ってから、私は先の『サン=レミの療養院の庭』に出会ったのです。
この小文の中で、私は美術史家の高階秀爾さんの次の文章を引用しています。
おそらくゴッホは、自己の内部に、彼を遂には狂気に追いやるほど激しく渦巻いている多くの情念を 抱いていながら、形を生み出す能力という意味での想像力をまったく欠いた画家であった。彼は、「眼 に見えるものしか描かない」のではなく、「眼に見えるものしか描けない」のである。ゴッホ自身、ア ルルからエミール・ベルナールに宛てた手紙のなかで、「僕はモデルなしには仕事をすることができな い」と語っているが、おそらくそれは、きわめて正直な告白であったろう。
(『ゴッホ』(新潮美術文庫) 高階秀爾)
いま読み返しても、この部分は興味深いです。
先の藤枝さんは、ゴッホの色彩を「主情的」ではない、と言い、ここで高階さんはゴッホのことを「眼に見えるものしか描けない」と書いています。いやいや、ゴッホの色彩も形体も写実的とはとても言えないのに、「主情的」ではない、「見えるものしか描けない」と言われてしまっては、私たちはそれをどのように解釈したら良いのでしょうか。
ここで私たちは「主情的」ではない色というのは、どういうものなのか、少し考えてみましょう。
そもそも色彩というものは、それを研究する人の分野によって、さまざまな構造や仕組みで語られます。その最も初歩的なところを押さえておきましょう。
『光と色彩の科学』(斎藤勝裕著)という一般書があります。そのはじめのところで、空はどうして青く見えるのか、それが時刻によってどうして色を変えるのか、ということを問いながら、著者は次のように書いています。
このように、私たちの身の回りで見られる光と色彩の関係は不思議に満ちています。人類がこの不思議に気づいたのはいまに始まったことではありません。ギリシャ時代のアリストテレスは、すでに現代の色彩論の基礎になるような考えを持っていました。しかし、光と色彩の関係を科学的に扱い、実験し、考察したのはニュートンでした。
ニュートンはプリズムで光を分光し、無色の太陽光の中に七色の色が存在しており、それを合わせるとまた元の無色の光に戻ることを発見しました。この発見が、バラの赤とネオンサインの赤に象徴される、現代光学の基礎を作ったのです。
19世紀にはゲーテが『色彩論』を著し、ニュートンとは異なる視点から色彩について論じています。ゲーテはドイツの森にかかる神秘的な靄(もや)を目にしたとき、卓抜な直観力でその本質を見抜きました。それが現在、構造色と呼ばれる青空や夕焼け空の色の原理に繋がったのです。
光と色彩は不思議なものです。誰も手にとって見ることはできません。しかし、誰もが光と色を実感します。光を感じる視神経の中にある、レチナールという小さな分子です。もしかしたら、光や色彩は、レチナールと、神経伝達物質と呼ばれる分子と、脳の神経細胞を形作る分子たちが作り出した、壮大なフィクションなのかもしれません。
(『光と色彩の科学』「はじめに」斎藤勝裕)
もしもあなたが、色彩の理論についてまったく疎い方だったら、ドイツの文豪のゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)の名前が出てきて、意外に思われたのではないでしょうか。ゲーテは今で言う自然科学的な分野にも興味を示していて、例えば解剖学の分野では人間の骨格には存在しないと思われていた「顎間骨」という部位の痕跡を発見したという話があります。(私の興味のない話なので不正確だったらごめんなさい。)
私たちの誰もが、色彩を感受できるのは光のおかげであって、その光の色そのものを見たいのならば、プリズムという分光器を使えば良い、ということぐらいなら、中学校の理科の実験で習いました。しかし、ゲーテが興味を抱いたのは、その色彩を私たちがどのように感受するのか、その感覚と認識の仕組みであったようです。
ゲーテの話はこの『光と色彩の科学』の中の第6章にも出てくるので、そちらも参照してみましょう。
とにかく、ゲーテは基本となる色として黄と青を考えました。彼によると黄と青は対立する色彩なのであり、黄は明朗快活で優しく、それに対して青は冷たく陰影を感じさせるというのです。そして黄が高進すると橙になり、一方、青が高進すると菫になります。この菫と橙が結合すると最高にして最も高貴な色彩の深紅になるといいます。しかし黄と青が合体すると緑になりますが、緑は対立する青と黄の平衡状態なので、感覚と感情の安らぎをもたらす色彩である、ということになるのだそうです。
なにやら、独断と偏見の結晶のようにも見えますが、しかし、ゲーテが芸術や科学に造詣が深かったことを考えれば、色彩にこのような感覚的な要素を持ち込むことが、あながち無意味なこととも思えません。結局、色彩に関するゲーテのこのような主観的、感覚的なアプローチが現代の色彩と心理あるいは生理の関係を解析する研究の道を開いたものと見ることができるでしょう。
(『光と色彩の科学』「第6章 色彩の心理学」斎藤勝裕)
色彩と人間の心理の関係が面白く解説された本ならば、本屋さんに行けばすぐに見つけられます。しかし、ここでゲーテが考えていた色のイメージは、そんな曖昧なものではなく、もう少し人間にとって普遍的なものを考えていたように思います。このゲーテのやり方を「独断と偏見の結晶のように見えます」というのは言い得て妙ですが、たとえそうだとしても、ゲーテが目指したものは、繰り返しになりますが、ちょっとした色の心理学ではないと思うのです。
そして、このゲーテの視線は科学的研究者のものというよりは、むしろ画家の視線に近いもののように思います。というのは、例えばここで言われている「黄と青は対立する」という感覚を、私もしばしば持つことがあるからです。
ゲーテは『色彩学』の中で黄色と青について、具体的にどのように書いているのでしょうか、見てみましょう。
黄色
これは光に最も近い色彩である。この色彩は曇った媒体によってであれ、あるいは白い面からのかすかな反射によってであれ、光をちょっとでも弱めることによって生ずる。・・・
黄色は最も純粋な状態においてはつねに明るいという本性をそなえ、明朗快活で優しく刺激する性質を有している。
・・・
それゆえ、黄色がきわめて暖かい快い印象を与えるというのは経験に即している。絵画においても黄色が明るく照らされた活動的な方面に多く用いられるのもそのためである。
・・・
青色
黄色がつねに何か光を伴っているように、青はつねに何か暗いものを伴っていると言うことができる。
この色彩は眼に対して不思議な、ほとんど言い表しがたい作用を及ぼす。青は色彩として一つのエネルギーである。しかしながら、この色彩はマイナスの側にあり、その最高に純粋な状態においてはいわば刺激する無である。それは眺めた時に刺激と鎮静を与える矛盾したものである。
・・・
われわれから逃れていく快い対象を追いかけたくなるように、われわれは青いものを好んで見つめるが、それは青いものがわれわれに向かって迫ってくるからではなく、むしろそれがわれわれを引きつけるからである。
・・・
(『色彩論』「第六編 色彩の感覚的精神的作用」ゲーテ著 木村直司訳)
このように、黄色と青は色味として決して当価値ではなく、それぞれの色味が持っている性質があるのです。個人的に言えば、黄色が「明るく照らされた活動的な方面に多く用いられる」というところと、青が「われわれから逃れていく快い対象を追いかけたくなる」というところに魅かれます。
この二つの色味の差異を科学的に解明する方法があるのでしょうか?光学的に数値としての差異を示すことは簡単でしょうが、それが人間に違った感覚を与えることまでは解明できないでしょう。ゲーテは、自分の目と感覚を、まるで実験器具のように考えて、その印象を客観的な事実であるかのように記述しました。これはまさに独断と偏見に満ちたものですが、しかしゲーテの言葉にある程度の妥当性があるように感じられるのはなぜでしょう。
私が思うに、この場合には「主観」と「客観」という二つの概念が、必ずしも対比的なものではないのではないでしょうか?「客観」の反対側にある概念は、藤枝晃雄さんがゴッホの批評に用いた「主情的」あるいは「恣意的」という概念になるのではないか、と私は考えます。
そしてゲーテの眼差しが背負う概念は、「客観」と「主情」の間にある「主観」なのではないか、というふうに思うのです。そうだとすると、厳密な「主観性」という概念が存在しても不思議ではありません。ゲーテが自分の目で実験したことは、厳密な「主観性」によるものだったのではないか、というふうに読み取れるのです。
そんなふうに考えると、ゴッホの絵の色彩の謎が、一気に解明されるのではないでしょうか?
ゴッホの色彩は、写実的な絵画の「客観性」に比べれば「主観的」なものですが、だからといってそれは「主情的」なものではありません。ゴッホはものを描くときに、その形体においても、色彩においても「客観的」でも「主情的」でもありませんでした。それは厳密に「主観的」な態度で描かれたものなのです。ですから、彼の絵画に描かれたものがデフォルメされて歪んだ形をしていても、それは厳密な「主観性」によって必然的に歪んだものであり、色彩においても同じことが言えます。
そしてゴッホの向日葵は、言わば「絶対的な黄色」という色彩の中で表現されるほかなかったのではないでしょうか?他の色との対比で、黄色をより鮮やかに見せよう、などという演出とゴッホの絵は何の関係もありません。それは黄色という色調に満たされた中で描かれる必要があったのです。
ゴッホは先輩の農民画家、ミレー(Jean-François Millet、1814 - 1875)に憧れて、農作業の情景をよく描きました。それらの作品も、向日葵の絵のように画面全体が黄色で描かれていることが多いのです。というのは、彼にとって麦はつねに豊かな収穫を象徴するものであり、その麦の色は「絶対的な黄色」で表現されなくてはならなかったのです。それは同僚のゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin, 1848 - 1903)の象徴主義的で神秘的な色使いとは違っています。
ゴッホにとって、黄色は特別な色だったのだと思います。それを私は「絶対的な黄色」というふうに言ってみました。向日葵も麦同様に、何か豊かなものの象徴、例えば太陽の化身だったのではないでしょうか。だから向日葵の絵は黄色を主調に描かれるほかなかったのです。
さて、今回はちょっと当てずっぽうに、思うがままにゴッホの色彩を、ゲーテの「色彩論」から読み解いてみました。この考察にどれほどの妥当性があるのか、にわかにはわかりません。次回、もう少し具体的な事例にあたって、今回の謎解きが妥当なものなのかどうか、答え合わせをしてみたいと思います。
そして、先に言い訳を言っておくと、仮に答え合わせが合わなくても、私は「主観的な色彩」に興味があります。自分の作品でも、そのことを考えてみようと思って、ワクワクしているところです。
それでは、よかったら次回の続きもお読みください。