第一章 出会いと安住の地 『回想』
四月に入ったばかりの山麓の朝はまだ寒い。
霧野 和久は、朝の光と小鳥のさえずりで眠りから覚めた。
窓越しに見える木々の葉には、白く霜が付いている……目が覚めた時の光景が好きで、何時もカーテンは開けていた。
ベッドの中で手足を伸ばして、思いっ切り深呼吸をする……大きく吐いた息が白くなり消えた……傍らで寝ていた愛犬のダイスケは、まだ眠り足りないのか、チラッと和久を見て毛布の中に潜り込んだ。
ダイスケはオスのシーズー犬で二歳に成る。
普通のシーズー犬の様に、鼻が引っ込んで無くて口はオチョボで、毛色は薄い茶と白である……この容姿の為に、シーズーの愛好家には敬遠されていたのだが、和久は凄く気に入って譲り受けた。
和久の言葉や手の動きを見て、それなりに理解したような行動を取るし、言葉は結構分かる様だ……独身である和久の良き相棒でもある。
和久は、今日という日を心待ちにしていた……天才演歌歌手『茜 夕子』の復帰公演が放映されるからである。
友人の医師、山野 武夫妻を招いての観賞会を、心待ちしている和久とダイスケ。
和久は天井の節穴を見詰めながら、夕子との出会いを振り返り、朝霧の里に辿り着くまでの日々を思い起こしていた……。
料理人に憧れ、関西の高級料亭『太閤楼』で修業をしていた頃、歌謡界に彗星の如く現れた天才演歌歌手が、五歳年下の茜 夕子である。
卓越した歌唱力と魂に響く天性の声! 人を和ませる笑顔を持つ夕子は、瞬く間に歌謡界の頂点に上り詰めた。
修行が苦しくて辛い時、夕子の歌に励まされ、精進に精進を重ねた和久は、並み居る先輩を差し置いて、二十五歳にして太閤楼の調理場を任された。
関西の天才料理人、味の魔術師と呼ばれ、政財界や芸能界にまで名が知れ渡り、和久の料理を食したいと言う予約が、数カ月先まで入っていた。
一方で、数々のヒット曲を世に送り出していた夕子は、過密スケジュールの中でトップスターの座に君臨している。
戦場のような慌ただしい時が過ぎ、静寂が戻った部屋で酒を飲み、夕子の歌を聞く時が和久にとって、最も安らぎを覚える時である。
夕子は全国公演の最終地である大阪に来ていた……その千秋楽に過労で倒れた夕子は、静養を余儀なくされた。
夕子が入院して数日後、仕入れから帰って来た和久は、女将の麗子に呼ばれて社長室に行く。
「霧野です、失礼します!」
ドアを軽くノックして社長室に入る。
調べ物をしていたらしく、机の書類を整理した麗子は、微笑みながら応接椅子に座る様に勧めた。
女将は『小竹 麗子』と言い、関東の由緒ある料亭の娘で、歳は四十五歳で気品に満ちた美人である。
和久の前に座った麗子は、小さなメモを見ている。
「和さんご苦労さん! じつはなぁ、あんたも知っていると思うけど、歌手の茜 夕子さん……夕子さんの講演会の会長をしている、ホシノ電気の会長さんから電話が有って、3日後に夕子さんの快気祝いを兼ねて、食事がしたいとの事です! 会長さんと夕子さん、それに事務所の社長さんの3人でと言う事です……部屋は離れを使います」
言った後で、麗子は思い出したように付け加えた。
「あぁそれから、夕子さんは余り苦労も無く頂点を極めたものだから、少しわがままな所があり、失礼な事を言うかも知れないが、大目に見てやって欲しいということです」
黙って麗子の話を聞いた和久は、一礼をして社長室をで出る。
部屋に戻り暫く考え込んでいた和久は、調べていた文献を取り出して、時の皇帝しか口に出来なかったと言われる幻のスープを作る為、矢継ぎ早に取引先に電話を入れ食材の注文をした。
全ての仕事が終り、誰も居なくなった調理場で、仕入れた食材を調理して鍋に入れる……火を弱めたり強めたりしながら、数時間掛けて食材の煮出しを始めた和久は、少しの仮眠を取っただけで2日目の夜を迎えた。
明日の夜には、夕子達が来る……皆が帰った後、煮出しをしていたスープに最後の食材を入れた! 弱火で2時間、一時も休まず混ぜ続け火を止める……中の材料を全て取り出し、スープと一緒に陶器の瓶に入れ直し、蓋をして目張りをした。
「これで出来た!」
満足してコップの水を飲み干した和久。
数日間の緊張から解放され、転寝をした和久が目を覚ますと、毛布が掛けられていた。
「んっ誰だろう?」
考える間もなく、次の調理に掛かる。
頃合いを見て瓶の目張りを取り、スープだけを鉄鍋に移して弱火で煮出す! 何とも言えない香りが漂い、空腹に沁み渡る……味を確かめた和久が思わず唸った。
「美味い! 良く出来ている……先人の知恵は大したものだ! だが、二度とご免だ!」
ファンである夕子の為に、全身全霊を掛けて調理したスープである。
その時、調理場の戸が開き、麗子が心配そうな顔をして入って来た。
「お早うございます……」
麗子に心配を掛けまいと、笑顔で挨拶をする和久。
「和さん、お早うさん……何や知りませんけど、一生懸命に作っていましたなぁ、ご苦労さん!」
麗子の一言で、毛布を掛けてくれたのが麗子だと知った和久は、出来たばかりのスープの味見を頼んだ。
「女将さん、和食の太閤楼には合わないと思いますが、茜さんの健康を思って調理してみました……」
そう言って出された器のスープを見る麗子。
「綺麗な色やねぇ、それに良い香り……」
一口飲んだ麗子は、何も言わずに残りを飲み干した。
「如何でしょうか?」
麗子を見て、心配そうに問い掛ける和久。
和久を見詰めた麗子の目に、涙が滲んで来た。
「和さん、亡くなった主人を超えましたなぁ……あの人が言っていた通りやった。(和久は、食の街大阪の宝や! あいつの味覚は天性のものや! 数年後には越されるでっ、楽しみやなぁ……そやから和には厳しゅうするのや! 後は宜しゅう頼むでっ)それが口癖やった! あの人の目に狂いは無かったなぁ、それにしても和さん、こんなに美味しいスープは初めて頂きましたわ! 何かしら大きな温かいものに抱かれているようで、言いようの無い優しさを感じますなぁ……何と言うスープです?」
和久は厳しかった先代の話を聞かされて、胸に込み上げて来るものを感じていた。
「はい、皇帝料理の文献に書かれていた物です……材料は多少違いますが、それなりに調理してみました! 如何いたしましょう?」
調理場の全権を任されている和久ではあるが、和食とは釣り合わないスープを出す為に、麗子の気持ちを問い掛け見詰める和久。
「太閤楼の調理場は和さんの物です! あんたの思うようにしたらええ、全ての責任は私が持ちます。 和さん、先代の遺志を受け継いでくれましたなぁ、おおきに……(料理は心や、小細工したらあかん! 客の気持ちに成って調理せんとあかん!)そう言われて怒られていたのに、よう精進しましたなぁ……」
麗子はそっと目頭を拭った。
「女将さん、ありがとうございます」
礼を言うのが精一杯の和久である。
「和さん、お腹が空いてしませんか? ご飯を食べて風呂にでも行って来なはれ……夕子さん達が来るまで休みなはれ……」
麗子は和久を労い、自宅で朝食を食べさせる……食事が終った和久はサウナに行き、仮眠を取って営業前の太閤楼に戻って来た。
献立を矢継ぎ早に指示して、自分は夕子達の献立に取り掛かった。
今日の離れの接客は、麗子と仲居頭の春子である……春子は麗子の右腕として太閤楼を守り立てている! 見習いの時から何かに付けて、面倒を見てくれた人でもあった。
6時、夕子達を乗せた車が離れの玄関に横付けされ、麗子と春子が出迎えて離れの部屋に案内する。
離れの部屋は孤立した造りで、部屋からは照明がされた庭が見え、特別な客にしか使用する事が無かった。
案内を終えた春子が、調理場に居る和久の所に来た。
「和さん、会長さん達がお着きになられました……お庭を見て夕子さんが喜んでいましたよ、会長さんが和さんに宜しくとの事です」
春子の報告を聞き、用意していたスープを出すように言う。
3人の前に出されたスープを見ている夕子。
「何これ? コンソメスープ? 会長さん、此処は日本食の老舗ですよねぇ、私は和食を頂きに来たのに……」
夕子は不機嫌に成り、不服そうに言った。
「女将、此れは?」
会長では無く、事務所の社長が問い掛けた。
「はい、茜様のお体を気遣って、料理長が調理いたしました……食して下さいませ」
麗子は和久の心情を察し、信頼し切って返答した……二人の問い掛けと、麗子の説明を聞いていた会長。
「二人ともちょっと……」
不満そうな二人を止めて、スープを見ている。
「何と言う綺麗な色だ! 夕子君が言うようにコンソメの様だが香りが違う! 先ずは食して見よう……」
会長の言葉で、不満顔の夕子が不貞腐れながらスープを飲んだ。
「美味しい……」
一口飲んだ夕子は、そう呟いて飲み干した。
「美味い! こんなスープは初めてだ!」
興奮した様に会長が言い、夕子を見た。
夕子は、綺麗な目に涙を溜めている。
「女将さん、先程は失礼な事を言ってすみませんでした……」
言い終わらないうちに、綺麗な瞳から涙がこぼれ落ちた。
「夕子、どうした?」
心配した社長が問い掛ける。
「はい、料理長の気遣いが嬉しくて……温かい優しい気持ちに成って、何かしら大きな物に体が抱かれているような……」
奇しくも夕子は、麗子と同じ事を言った。
「うん、うん……」
夕子の言葉に、大きく頷いた会長。
「女将、何と言うスープだ?」
初めて食したスープに感動し、麗子にスープの由来を問い掛けた。
「はい、皇帝料理の文献に載っていたとの事で、茜様の為に調理したとの事です……」
「そうか! 年は若いが見事なものだ! 流石に味の魔術師と言われるだけの事は有る……夕子君と一緒で良かった、わっはっはっ」
会長は二人を見て、満足げに笑った。
頃合いを見計らって出される料理、夕子に出された料理には全てに火が通されていて、生物は一皿も無かった……和久の心憎いまでの演出である。
全ての料理が出された後、春子が夕子の前にスープを置いた。
「茜様、料理長が……」
出されたスープを黙って飲んだ夕子。
「会長さん、ありがとうございました……女将さん、美味しいお料理をありがとうございました……」
夕子は、深々と頭を下げて心よりの礼を言った。
「そうか、良かった良かった! 女将ありがとう、今日のスープまた頂きたいものよ!」
会長の言葉に軽く頭を下げた麗子は、微笑みながら会長を見詰めた。
「会長さん、ありがとうございます……ですが此のスープは、申し訳有りませんが太閤楼では二度とお出しできません……今日のが最初で最後なのです」
和久の心情を察している麗子は、そう説明した。
「そうか、幻のスープか! 実に美味かった! 料理長に宜しくなっ」
麗子に礼を言って、会長が立ち掛けたその時。
「女将さん、お願いが有ります! どうしても料理長にお礼が言いたいのです! 会わせて頂けませんか?」
麗子を見詰めて、必死に嘆願する夕子。
「私に出されたお料理には、みんな火が通されていました! 私の体を気遣って頂いての事だろうと思います! それが嬉しくて……」
夕子の言葉に、考え込む麗子。
「女将、此処では料理人が客と会う事が出来ない事は知っている! だが、料理長の気持ちを汲み取った夕子君の為に、何とか出来ないか?」
夕子の気持ちを汲み、夕子の為に頼む会長。
「良く分かりました……茜様、此方に……」
麗子は、夕子を応接間に案内し、春子に和久を呼びにやる……暫くしてドアがノックされ、和久が入って来た。
夕子と対面した和久は、夕子を見詰めて頭を下げる。
「霧野 和久と申します。 本日はお越し頂きまして、誠にありがとうございました」
和久の丁寧な挨拶を聞いた麗子。
「茜様、和さん、私は外に居ますから……」
軽く会釈して、部屋を出る麗子。
「はじめまして、茜 夕子です……美味しいお料理をありがとうございました。 あんなに美味しいスープは初めて頂きました……優しくて温かくて、目に見えない大きな物に抱かれているような安らぎを感じました! 私の体を気遣って頂いたお料理が嬉しくて……でも、女将さんにお聞きしましたが、あのスープはもう二度と作らないって、どうしてですか?」
夕子に問い掛けられた和久は、夕子を見詰めて少し照れたような顔をした。
「はい、あのスープは私の大切な人にしか調理しません! 非売品の様なものですから……」
照れながら、夕子を見詰めて心情を伝える和久。
「大切な人! 私が?」
夕子は少し驚き、和久を見詰めて聞き直した。
「はい、見習い時代の辛い時や、思うように調理が出来なくて悩んだ時に、夕子さんの歌を聞いて精進して来ました! 夕子さんの歌が有ったから此処まで来れたと思って居ります……何時までも良い歌を聞きたいと思っております」
和久の話を聞いていた夕子は、綺麗な目に涙を浮かべた。
「ありがとうございます……そんな風に言われたのは……」
言い掛けて言葉を飲み込む夕子。
少しの時が流れ、夕子は微笑みを取り戻して和久を見詰めた。
「料理長は和さんって呼ばれているのですねっ……私もそうお呼びしても良いですか?」
華やかな歌謡界の頂点に立ち、大勢の取り巻きに囲まれている夕子でも、それは見掛けだけで、今自分の目の前に、孤独な夕子が居る事を感じた和久である……それに、報道されている様な我がままな娘では無い事も……何より、自分が出した料理を理解していた事が嬉しかった。
「はい、大ファンの夕子さんから、そのように言って頂けるとは感激です……お体に気を付けられて良い歌を聞かせて下さい」
一礼をして部屋を出ようとした和久に、夕子が近付いて来た。
「和さん、何もお礼が出来ないけど此れを……」
そう言って指輪を外し、和久の手に渡した。
「此れは……」
驚いた和久は、高価な物だから! と言って返そうとする。
「お願い! 和さん……」
夕子の眼差しに、断り切れず指輪を預かる和久。
和久はドアを開け、待っていた麗子に頭を下げて夕子を見送った……部屋に入り掛けた夕子は和久に振り返り、嬉しそうに微笑みながら視界から消えた。
夕子に会った和久は、何とも言いようの無い心地良さを感じている。
四月に入ったばかりの山麓の朝はまだ寒い。
霧野 和久は、朝の光と小鳥のさえずりで眠りから覚めた。
窓越しに見える木々の葉には、白く霜が付いている……目が覚めた時の光景が好きで、何時もカーテンは開けていた。
ベッドの中で手足を伸ばして、思いっ切り深呼吸をする……大きく吐いた息が白くなり消えた……傍らで寝ていた愛犬のダイスケは、まだ眠り足りないのか、チラッと和久を見て毛布の中に潜り込んだ。
ダイスケはオスのシーズー犬で二歳に成る。
普通のシーズー犬の様に、鼻が引っ込んで無くて口はオチョボで、毛色は薄い茶と白である……この容姿の為に、シーズーの愛好家には敬遠されていたのだが、和久は凄く気に入って譲り受けた。
和久の言葉や手の動きを見て、それなりに理解したような行動を取るし、言葉は結構分かる様だ……独身である和久の良き相棒でもある。
和久は、今日という日を心待ちにしていた……天才演歌歌手『茜 夕子』の復帰公演が放映されるからである。
友人の医師、山野 武夫妻を招いての観賞会を、心待ちしている和久とダイスケ。
和久は天井の節穴を見詰めながら、夕子との出会いを振り返り、朝霧の里に辿り着くまでの日々を思い起こしていた……。
料理人に憧れ、関西の高級料亭『太閤楼』で修業をしていた頃、歌謡界に彗星の如く現れた天才演歌歌手が、五歳年下の茜 夕子である。
卓越した歌唱力と魂に響く天性の声! 人を和ませる笑顔を持つ夕子は、瞬く間に歌謡界の頂点に上り詰めた。
修行が苦しくて辛い時、夕子の歌に励まされ、精進に精進を重ねた和久は、並み居る先輩を差し置いて、二十五歳にして太閤楼の調理場を任された。
関西の天才料理人、味の魔術師と呼ばれ、政財界や芸能界にまで名が知れ渡り、和久の料理を食したいと言う予約が、数カ月先まで入っていた。
一方で、数々のヒット曲を世に送り出していた夕子は、過密スケジュールの中でトップスターの座に君臨している。
戦場のような慌ただしい時が過ぎ、静寂が戻った部屋で酒を飲み、夕子の歌を聞く時が和久にとって、最も安らぎを覚える時である。
夕子は全国公演の最終地である大阪に来ていた……その千秋楽に過労で倒れた夕子は、静養を余儀なくされた。
夕子が入院して数日後、仕入れから帰って来た和久は、女将の麗子に呼ばれて社長室に行く。
「霧野です、失礼します!」
ドアを軽くノックして社長室に入る。
調べ物をしていたらしく、机の書類を整理した麗子は、微笑みながら応接椅子に座る様に勧めた。
女将は『小竹 麗子』と言い、関東の由緒ある料亭の娘で、歳は四十五歳で気品に満ちた美人である。
和久の前に座った麗子は、小さなメモを見ている。
「和さんご苦労さん! じつはなぁ、あんたも知っていると思うけど、歌手の茜 夕子さん……夕子さんの講演会の会長をしている、ホシノ電気の会長さんから電話が有って、3日後に夕子さんの快気祝いを兼ねて、食事がしたいとの事です! 会長さんと夕子さん、それに事務所の社長さんの3人でと言う事です……部屋は離れを使います」
言った後で、麗子は思い出したように付け加えた。
「あぁそれから、夕子さんは余り苦労も無く頂点を極めたものだから、少しわがままな所があり、失礼な事を言うかも知れないが、大目に見てやって欲しいということです」
黙って麗子の話を聞いた和久は、一礼をして社長室をで出る。
部屋に戻り暫く考え込んでいた和久は、調べていた文献を取り出して、時の皇帝しか口に出来なかったと言われる幻のスープを作る為、矢継ぎ早に取引先に電話を入れ食材の注文をした。
全ての仕事が終り、誰も居なくなった調理場で、仕入れた食材を調理して鍋に入れる……火を弱めたり強めたりしながら、数時間掛けて食材の煮出しを始めた和久は、少しの仮眠を取っただけで2日目の夜を迎えた。
明日の夜には、夕子達が来る……皆が帰った後、煮出しをしていたスープに最後の食材を入れた! 弱火で2時間、一時も休まず混ぜ続け火を止める……中の材料を全て取り出し、スープと一緒に陶器の瓶に入れ直し、蓋をして目張りをした。
「これで出来た!」
満足してコップの水を飲み干した和久。
数日間の緊張から解放され、転寝をした和久が目を覚ますと、毛布が掛けられていた。
「んっ誰だろう?」
考える間もなく、次の調理に掛かる。
頃合いを見て瓶の目張りを取り、スープだけを鉄鍋に移して弱火で煮出す! 何とも言えない香りが漂い、空腹に沁み渡る……味を確かめた和久が思わず唸った。
「美味い! 良く出来ている……先人の知恵は大したものだ! だが、二度とご免だ!」
ファンである夕子の為に、全身全霊を掛けて調理したスープである。
その時、調理場の戸が開き、麗子が心配そうな顔をして入って来た。
「お早うございます……」
麗子に心配を掛けまいと、笑顔で挨拶をする和久。
「和さん、お早うさん……何や知りませんけど、一生懸命に作っていましたなぁ、ご苦労さん!」
麗子の一言で、毛布を掛けてくれたのが麗子だと知った和久は、出来たばかりのスープの味見を頼んだ。
「女将さん、和食の太閤楼には合わないと思いますが、茜さんの健康を思って調理してみました……」
そう言って出された器のスープを見る麗子。
「綺麗な色やねぇ、それに良い香り……」
一口飲んだ麗子は、何も言わずに残りを飲み干した。
「如何でしょうか?」
麗子を見て、心配そうに問い掛ける和久。
和久を見詰めた麗子の目に、涙が滲んで来た。
「和さん、亡くなった主人を超えましたなぁ……あの人が言っていた通りやった。(和久は、食の街大阪の宝や! あいつの味覚は天性のものや! 数年後には越されるでっ、楽しみやなぁ……そやから和には厳しゅうするのや! 後は宜しゅう頼むでっ)それが口癖やった! あの人の目に狂いは無かったなぁ、それにしても和さん、こんなに美味しいスープは初めて頂きましたわ! 何かしら大きな温かいものに抱かれているようで、言いようの無い優しさを感じますなぁ……何と言うスープです?」
和久は厳しかった先代の話を聞かされて、胸に込み上げて来るものを感じていた。
「はい、皇帝料理の文献に書かれていた物です……材料は多少違いますが、それなりに調理してみました! 如何いたしましょう?」
調理場の全権を任されている和久ではあるが、和食とは釣り合わないスープを出す為に、麗子の気持ちを問い掛け見詰める和久。
「太閤楼の調理場は和さんの物です! あんたの思うようにしたらええ、全ての責任は私が持ちます。 和さん、先代の遺志を受け継いでくれましたなぁ、おおきに……(料理は心や、小細工したらあかん! 客の気持ちに成って調理せんとあかん!)そう言われて怒られていたのに、よう精進しましたなぁ……」
麗子はそっと目頭を拭った。
「女将さん、ありがとうございます」
礼を言うのが精一杯の和久である。
「和さん、お腹が空いてしませんか? ご飯を食べて風呂にでも行って来なはれ……夕子さん達が来るまで休みなはれ……」
麗子は和久を労い、自宅で朝食を食べさせる……食事が終った和久はサウナに行き、仮眠を取って営業前の太閤楼に戻って来た。
献立を矢継ぎ早に指示して、自分は夕子達の献立に取り掛かった。
今日の離れの接客は、麗子と仲居頭の春子である……春子は麗子の右腕として太閤楼を守り立てている! 見習いの時から何かに付けて、面倒を見てくれた人でもあった。
6時、夕子達を乗せた車が離れの玄関に横付けされ、麗子と春子が出迎えて離れの部屋に案内する。
離れの部屋は孤立した造りで、部屋からは照明がされた庭が見え、特別な客にしか使用する事が無かった。
案内を終えた春子が、調理場に居る和久の所に来た。
「和さん、会長さん達がお着きになられました……お庭を見て夕子さんが喜んでいましたよ、会長さんが和さんに宜しくとの事です」
春子の報告を聞き、用意していたスープを出すように言う。
3人の前に出されたスープを見ている夕子。
「何これ? コンソメスープ? 会長さん、此処は日本食の老舗ですよねぇ、私は和食を頂きに来たのに……」
夕子は不機嫌に成り、不服そうに言った。
「女将、此れは?」
会長では無く、事務所の社長が問い掛けた。
「はい、茜様のお体を気遣って、料理長が調理いたしました……食して下さいませ」
麗子は和久の心情を察し、信頼し切って返答した……二人の問い掛けと、麗子の説明を聞いていた会長。
「二人ともちょっと……」
不満そうな二人を止めて、スープを見ている。
「何と言う綺麗な色だ! 夕子君が言うようにコンソメの様だが香りが違う! 先ずは食して見よう……」
会長の言葉で、不満顔の夕子が不貞腐れながらスープを飲んだ。
「美味しい……」
一口飲んだ夕子は、そう呟いて飲み干した。
「美味い! こんなスープは初めてだ!」
興奮した様に会長が言い、夕子を見た。
夕子は、綺麗な目に涙を溜めている。
「女将さん、先程は失礼な事を言ってすみませんでした……」
言い終わらないうちに、綺麗な瞳から涙がこぼれ落ちた。
「夕子、どうした?」
心配した社長が問い掛ける。
「はい、料理長の気遣いが嬉しくて……温かい優しい気持ちに成って、何かしら大きな物に体が抱かれているような……」
奇しくも夕子は、麗子と同じ事を言った。
「うん、うん……」
夕子の言葉に、大きく頷いた会長。
「女将、何と言うスープだ?」
初めて食したスープに感動し、麗子にスープの由来を問い掛けた。
「はい、皇帝料理の文献に載っていたとの事で、茜様の為に調理したとの事です……」
「そうか! 年は若いが見事なものだ! 流石に味の魔術師と言われるだけの事は有る……夕子君と一緒で良かった、わっはっはっ」
会長は二人を見て、満足げに笑った。
頃合いを見計らって出される料理、夕子に出された料理には全てに火が通されていて、生物は一皿も無かった……和久の心憎いまでの演出である。
全ての料理が出された後、春子が夕子の前にスープを置いた。
「茜様、料理長が……」
出されたスープを黙って飲んだ夕子。
「会長さん、ありがとうございました……女将さん、美味しいお料理をありがとうございました……」
夕子は、深々と頭を下げて心よりの礼を言った。
「そうか、良かった良かった! 女将ありがとう、今日のスープまた頂きたいものよ!」
会長の言葉に軽く頭を下げた麗子は、微笑みながら会長を見詰めた。
「会長さん、ありがとうございます……ですが此のスープは、申し訳有りませんが太閤楼では二度とお出しできません……今日のが最初で最後なのです」
和久の心情を察している麗子は、そう説明した。
「そうか、幻のスープか! 実に美味かった! 料理長に宜しくなっ」
麗子に礼を言って、会長が立ち掛けたその時。
「女将さん、お願いが有ります! どうしても料理長にお礼が言いたいのです! 会わせて頂けませんか?」
麗子を見詰めて、必死に嘆願する夕子。
「私に出されたお料理には、みんな火が通されていました! 私の体を気遣って頂いての事だろうと思います! それが嬉しくて……」
夕子の言葉に、考え込む麗子。
「女将、此処では料理人が客と会う事が出来ない事は知っている! だが、料理長の気持ちを汲み取った夕子君の為に、何とか出来ないか?」
夕子の気持ちを汲み、夕子の為に頼む会長。
「良く分かりました……茜様、此方に……」
麗子は、夕子を応接間に案内し、春子に和久を呼びにやる……暫くしてドアがノックされ、和久が入って来た。
夕子と対面した和久は、夕子を見詰めて頭を下げる。
「霧野 和久と申します。 本日はお越し頂きまして、誠にありがとうございました」
和久の丁寧な挨拶を聞いた麗子。
「茜様、和さん、私は外に居ますから……」
軽く会釈して、部屋を出る麗子。
「はじめまして、茜 夕子です……美味しいお料理をありがとうございました。 あんなに美味しいスープは初めて頂きました……優しくて温かくて、目に見えない大きな物に抱かれているような安らぎを感じました! 私の体を気遣って頂いたお料理が嬉しくて……でも、女将さんにお聞きしましたが、あのスープはもう二度と作らないって、どうしてですか?」
夕子に問い掛けられた和久は、夕子を見詰めて少し照れたような顔をした。
「はい、あのスープは私の大切な人にしか調理しません! 非売品の様なものですから……」
照れながら、夕子を見詰めて心情を伝える和久。
「大切な人! 私が?」
夕子は少し驚き、和久を見詰めて聞き直した。
「はい、見習い時代の辛い時や、思うように調理が出来なくて悩んだ時に、夕子さんの歌を聞いて精進して来ました! 夕子さんの歌が有ったから此処まで来れたと思って居ります……何時までも良い歌を聞きたいと思っております」
和久の話を聞いていた夕子は、綺麗な目に涙を浮かべた。
「ありがとうございます……そんな風に言われたのは……」
言い掛けて言葉を飲み込む夕子。
少しの時が流れ、夕子は微笑みを取り戻して和久を見詰めた。
「料理長は和さんって呼ばれているのですねっ……私もそうお呼びしても良いですか?」
華やかな歌謡界の頂点に立ち、大勢の取り巻きに囲まれている夕子でも、それは見掛けだけで、今自分の目の前に、孤独な夕子が居る事を感じた和久である……それに、報道されている様な我がままな娘では無い事も……何より、自分が出した料理を理解していた事が嬉しかった。
「はい、大ファンの夕子さんから、そのように言って頂けるとは感激です……お体に気を付けられて良い歌を聞かせて下さい」
一礼をして部屋を出ようとした和久に、夕子が近付いて来た。
「和さん、何もお礼が出来ないけど此れを……」
そう言って指輪を外し、和久の手に渡した。
「此れは……」
驚いた和久は、高価な物だから! と言って返そうとする。
「お願い! 和さん……」
夕子の眼差しに、断り切れず指輪を預かる和久。
和久はドアを開け、待っていた麗子に頭を下げて夕子を見送った……部屋に入り掛けた夕子は和久に振り返り、嬉しそうに微笑みながら視界から消えた。
夕子に会った和久は、何とも言いようの無い心地良さを感じている。