♪話す相手が居れば、人生は天国!

 人は話し相手を求めている。だったら此処で思いっきり楽しみましょう! 悩み事でも何でも、話せば気が安らぐと思うよ。

小説らしき読み物(31)

2016年01月31日 15時16分01秒 | 恐怖
                 
 色白の顔に薄っすらと赤みが差し、微笑んで和久を見た夕子の顔は、紛れも無く太閤楼で見せた天才、茜 夕子の素顔に違いが無かった。
「うん……和さんは?」
「わしはもう少し飲んでからや……夕子が眠るまで此処に居るから、安心して休んだらええ……」
 ためらっている夕子を見た和久は、ポケットから指輪を取り出した。
「そうや、夕子にお守りを遣るわ! 夕子、此の指輪を覚えているか?」
 太閤楼で、別れ際に夕子がくれた指輪を見せる和久。
「此の指輪は……」
 太閤楼で和久に渡した指輪を見詰めて、当時を思い出した夕子。
「そうや! 太閤楼で夕子がくれた指輪や、わしの宝物や!」
 大切にしていた指輪を見せ、夕子と一緒に居た事を告げる和久。
「和さん、ずっと持って居てくれたの?」
 信じられない面持ちで、問い掛ける夕子。
「そうや! 夕子と何時でも一緒に居る様に持っていたのや!……此の指輪のお陰で、色々な良い人と巡り会えた。 こうして夕子とも会えた……幸せを呼ぶ指輪や! 今度は夕子が幸せに成れる様にプレゼントや!」
 夕子の手を取り、夕子の細くて白い指に指輪を嵌めた和久……指に嵌められた指輪を見た夕子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう和さん、死ななくて良かった……」
 消え入る様な声で礼を言い、流れる涙を拭おうともせずに、和久の胸に顔を埋めた夕子。
 優しく抱き締めた和久は、夕子の涙を拭った。
「そうやで夕子……死んだら終わりや! 生きとったら辛い事も有るけど、良い事も有る……生きとったから逢えたのや! 何も心配は要らんから安心して寝たらええ……」
 和久は夕子の耳元で、暗示を掛ける様に小さな声で呟いた……和久の言葉にこくりと頷いた夕子は、ダイスケを連れて部屋に入って行く。
 夕子を見送り、囲炉裏の側で飲みながら悪夢からの解放を願う和久。
 翌朝、何時もなら起きて来ている筈の、ダイスケの姿が見えない……夕子の泣き叫ぶ声を聞く事も無く、目を覚ました和久は不審に思い、静かに夕子の部屋を開けて見た。
 外はうっすらと明るさを増して来たのだが、夕子はぐっすりと眠ったままである……和久を見たダイスケは布団から抜け出し、ベッドから降りて足元に来た……和久は、ダイスケを抱き上げて部屋を出る。
 朝食の支度が済んでも、夕子は起きて来ない……待ちかねているダイスケを外に連れ出して、散歩に行く和久。
 日が昇り、散歩から帰って来ても夕子は眠っていた……十数年来の悪夢から解放され、安らぎを得た和久の翼の下で、安心して眠っていたのであろう。
 ダイスケと共に朝風呂から戻って来た時に、爽やかな顔をした夕子が居間に来た。
 夕子を見て甘え出したダイスケ……ダイスケを抱き上げた夕子は、和久を見詰めて、晴れ晴れとした笑顔を投げ掛けて来た。
「お早うございます……ごめんねダイちゃん、散歩に行けなくて……」
 夕子は、胸元で優しく見詰めているダイスケに、小さく声を掛けた。
「おはよう! 夕子が良く眠っていたので……夕子、朝風呂に行ったらええ、気持ちが良いから……上がる頃には朝食が出来るからなっ」
 和久に促された夕子は、ダイスケをそっと下ろして風呂に行く……そして、此の夜を境に、忌まわしい夢を見る事が無くなった夕子であった。
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小説らしき読み物(30)

2016年01月31日 09時54分54秒 | 恐怖
                  
 山を降りて家に入った和久は、ダイスケと風呂に行くように言い、自分は家族湯に行く……風呂から出た和久は、小川の向こう岸に群生している食べ頃のタラの芽を摘み、源三が栽培していた椎茸を刈って家に入った。
 夕子とダイスケは、まだ風呂から上がっていない。
 夕食の支度が整った時、ダイスケが入って来た……ダイスケは囲炉裏の側に寝そべり、上目使いに和久を見ている。
 少しして風呂からのドアが開き、夕子が入って来た……夕子は囲炉裏の火を調整している和久に微笑み掛け、部屋に入って行った。
 ダイスケに食事を与え、炭火の周りに山女の串刺しを挿して、スープに火を通した和久。
 部屋から出て来た夕子が、囲炉裏の側に座るのを見た和久は、温まったスープを夕子の前に置いた。
「夕子、温い内に飲み……」
 陶器のカップに入れられたスープを一口飲んだ夕子は、カップを静かに囲炉裏の縁に置いて和久を見詰めた。
 目が合った和久は、優しい眼差しで夕子を見ている。
「和さん?……」
 夕子の言葉に、微笑んで頷く和久。
 和久を見詰めながら、静かに立ち上がる夕子……その様子を見た和久も、夕子に合わせて立ち上がった。
「和さん?……」
 信じられない様な面持ちで聞き返す夕子。
「そうや! 夕子、思い出したか!」
 嬉しそうに夕子を見詰め、微笑んで答えた和久。
 和久を見詰めていた目に、見る見る涙が滲み、和久の胸に飛び込んで来た夕子。
「バカァー和さんのバカァー……幾ら呼んでも和さん来てくれないんだもん!怖くて和さんを呼んでも来てくれないんだもん! ワーンンンン……」
 夕子は激しく和久の胸を叩き、子供の様に大声で泣きながら和久にしがみ付いて来た……泣きじゃくり、胸にしがみ付いている夕子を、優しく抱き締める和久。
「ごめんなぁ夕子、怖い思いをしたんやなぁ……そやけど、もう大丈夫や! 心配せんでええ、心配せんでええでっ! わしが夕子を守るからなっ! 誰にも指一本触れさせへんから安心しっ……」
 和久の一言一言に無言で頷く夕子……泣きじゃくる夕子を優しく抱き締め、夕子の黒髪をそっと撫でる和久。
「和さん……」
 涙で濡れた瞳で和久を見詰め、小さな声で和久の名を呼んだ夕子……和久の胸に力一杯しがみ付いていた夕子は、力を抜いて小さな体を委ねた。
「夕子、大丈夫やでっ! 何も心配せんでええ……わしとダイスケが夕子を守るからなっ」
 和久の言葉を聞いた夕子は、和久を見詰めて大きく頷いた。
「和さん……こんな私でも、大切な人だと思ってくれているの?」
 縋る様な眼差しで問い掛ける夕子。
「そうや! この世で一番大切な人だと思っている!」
 夕子の目を見詰め、はっきりと伝えた和久。
「私の事、好き?……」
「うん! 誰よりも夕子が好きや!」
「良かった!……」
 和久の言葉で安らぎを取り戻した夕子は、抱き付いている手に力を込めた。
 少しの時が流れ、落ち着きを取り戻した夕子は、優しい穏やかな眼差しを和久に投げ掛けている。
「夕子、スープが冷めた……温めて来るわ」
 抱き締めていた手を緩め、夕子の涙を拭った和久。
 温められたスープを大事そうに、記憶を辿る様に飲んだ夕子。
「美味しい……和さん、私の為に作ってくれたの?」
 分かっている答えを、聞き質す様に問い掛ける夕子。
「そうや、大切な夕子の為に作ったのや!」
 和久の言葉を聞いた夕子は、太閤楼で見せた笑顔で和久の心に応えた。
「夕子、タラの芽の天ぷらや! 塩かポン酢で食べっ……旬の物やから体にも良いから……」
 目の前で揚げたタラの芽の天ぷらを、夕子の取り皿に置き、微笑みながら勧める和久。
 取り皿に置かれた天ぷらを食べる夕子。
「美味しい! 和さん、お酒飲んでも良い?」
 夕子の言葉に少し驚いたが、嬉しそうな顔で夕子を見詰めた。
「夕子、飲めるんか?」
「うん、少しだけ……」
「そうかそうか! そりゃええわ!……酒は百薬の長やからなぁ、何がええ? 何でも有るでっ! 日本酒にビール、焼酎にワイン、何にする?」
 初めての願い事に喜んだ和久は、少し舞い上がっていた。
「日本酒が良い……」
 和久の言い草が可笑しかったのか、笑いながら答える夕子。
「よっしゃ! 日本酒やったら美味いのが有るでぇ……太閤楼の料理長が送ってくれた幻の銘酒『霧のしずく』や!」
 嬉しそうに言って、ガラスの徳利に入れて持って来た。
 初めて酒を飲み、料理を堪能した夕子……夕子の表情は、朝霧に来た時からすれば、明らかに変わって来ていた。 和久とダイスケには、得体の知れない呪縛から解き放たれた爽やかな、様子を見せ始めたからである。
 夕子は優しい眼差しでダイスケを見て、目を閉じている頭をそっと撫でた。
「色んな事があったから疲れたやろ? 先に寝てもええよ……」
 酒を楽しみながら気遣いを見せる和久。
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小説らしき読み物(29)

2016年01月30日 17時54分01秒 | 暇つぶし
                  
  久し振りにソバと押し寿司を作った和久は、武夫妻を昼食に招いた……だが夕子が二人に見せた笑顔に変わりは無かった。
 食事が済み、夕子と加代は外でダイスケと遊んでいる。
「夕子君が来てから一週間か! 先程見せた笑顔ではなぁ……まあ、難しいのは初めから分かってはいたが……」
 武は気長に遣れよ! と言いたかったのだろう。
 此れまでの経過をつたえる和久……聞いている武に同情の色が見て取れる。
「だがなぁ武さん、毎晩夢を見て泣き叫ぶ夕子が哀れでなぁ……見守る事しか出来ん自分が情けのうてなぁ、出来る事なら代わって遣りたいと思うでっ!」
 辛い身の内を明かす和久である。
「うん、しかしなあ和さん……あんたとダイスケにだけでも、昔の笑顔が戻って来たのなら、少しは希望が出て来たという事だ! 希望は有る!」
 武に励まされたが、自信が無さそうに頷く和久。
 翌日、夕子とダイスケが小川沿いの探索に出掛けている時に、待っていたスープの食材が正晴から届いた。
 早速調理に掛かる和久……二日後、出来上がったスープの味見をした和久は大きく頷いた。
「美味い! 太閤楼で作った味と同じやっ!」
 和久は外で遊んでいる夕子とダイスケに留守を任せて、診療所にスープを持って出掛けた。
 診療所の横に在る武の家に上がり、台所を借りてスープに火を通した和久。
「此れが皇帝料理のスープや! 太閤楼で一回だけ作ったスープや、武さん、加代さん、飲んで見てくれや!」
 台所の椅子に座って、調理を見ていた二人に勧める和久。
「綺麗な色、それに良い香り……」
 呟きながら、一口飲んだ加代。
「美味しい……」
 放心したように言って飲み干し、和久を見た加代。
「美味い! 此れが味の魔術師と言われる所以か! こんなに美味いスープは初めてだ! 料理とは凄いものだなぁ……たった一杯のスープが、こんなにも人の心を和ませるとはなあ……」
 武は感動して褒めた。
「おおきに!……此のスープは、夕子が太閤楼に来た時に始めて作ったのや! 後で女将さんに聞いたのやが、涙を流していたと言うてた……此のスープを覚えてくれていたら良いけどなぁ……」
 藁にもすがる思いで、調理した事を話した和久。
「大丈夫ですよ和さん! 和さんの気持ちは、きっと伝わりますよ!」
 加代は微笑みながら言い切った。
 和久が席を立って帰り掛けた時。
「和さん、そんな大切なスープを如何して飲ませてくれたのだ?」
 和久の後ろ姿に声を掛けた武。
「わしにとって、大事な人やからや!」
 和久は振り返らずに言い、手を上げて挨拶をした。
 家に帰ると、山女が泳ぐ小川の側に夕子とダイスケが見えた……ダイスケは何時もの様に、泳ぎ回る山女に吠えている。
 荷物を置き、タオルと水を入れた竹の水筒を持って夕子達の所へ行くと、ダイスケの仕草が面白いのか、夕子が大笑いをしている。
「夕子、夕日を見に行こうや! 夕焼けも綺麗やでっ!」
 夢中でダイスケの仕草を見ていた夕子は、和久の声にちょっと驚いたが、素直に頷いて山頂への階段を上がって行く。
 山女と遊んでいたダイスケは、二人の姿が遠くなるのを見て、慌てて追い掛けて来た。
 山頂に着いた二人を金色に輝く茜雲が迎えてくれ、夕子の額に流れる汗が、夕日に照らされて宝石の様に輝いている。
 汗を拭き、水を飲んだ夕子は、沈む夕日に手を合わせている。
「またお願いしたのか? 太閤楼の和さんの事を……」
 和久の問い掛けに、恥ずかしそうに微笑んで頷いた夕子。
「そうか、優しいのやなぁ夕子は……」
「それとねっ、此処で何時までも暮らせますようにって……」
 蚊の鳴くような声で言い、ダイスケを抱き上げた夕子。
「うん、夕子がそうしたのなら、此処に居ったらええ……」
 複雑に揺れ動く夕子の気持ちを察した和久は、安心するように言った。
「本当、和さん! 此処に居ても良いの?」
 子供の様に目を輝かせて確かめる夕子……夕子の嬉しそうな顔を見て、毎夜魘される現実が恨めしく感じる和久である。
 和久は夕子の問い掛けに、優しく夕子を見詰めて大きく頷いた。
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小説らしき読み物(28)

2016年01月30日 09時36分54秒 | 暇つぶし
                  
 寝食を共にして五日目の朝、山頂で手を合わす夕子に、微かな変化が見えて来た……和久にもダイスケと同じ笑顔を見せ始めたのである。
 山頂の広場を探索しながら走り回っていたダイスケは、和久の足下に座り込んだ……そして、和久に入れて貰った器の水を飲み、再び探索に出掛けたダイスケは、目を閉じて手を合わせている夕子を見上げて見詰めている。
 可愛い目で自分を見ているダイスケに気が付いた夕子は、ダイスケを抱き上げ、笑みを浮かべて和久に近付いて来た。
 側に来た夕子に抱かれて、安心しているダイスケの頭を撫でる和久。
「何か願い事でもあるの?」
 ダイスケの頭を撫で、空の彼方に視線を移しながら優しく問い掛けた。
 少し恥じらって頷いた夕子。
「昔、一度だけお会いした人だけど、もう一度逢わせて下さいって……」
 言った後で、悲しそうな表情を見せた夕子。
「そうか……夕子の大切な人か、その人は……」
 和久の問い掛けに、当時を思い出しながら話し始めた夕子。
「その人は、大阪の料亭太閤楼の料理長で、和さんって呼ばれていました……」
 夕子はその時の経過を話した。
「そうか! そんなに美味しいスープやったのか?」
「はい……優しい大きなものに抱かれている様な……それに、私に出されたお料理には全て火が通されていた。 和さんの気遣いが嬉しくて、女将さんに無理を言って会わせて頂いたの……そして、二度と太閤楼では出せない! と言われたスープの事を尋ねたら(大切な人にしか作らない!)って言ってくれたの……こんな私を、大切な人だと言ってくれた。 そしてねっ(私の歌が有ったから此処まで来れた!)って……此処に居てくれる和さんと同じように、優しくて温かい目で見てくれたの……」
 話している夕子の目に、宝石の様な涙が滲んで来た。
 そっと夕子の肩を抱いた和久。
「そうやったんか……そやけど、その和さんも夕子に逢いたがっているかも知れんなぁ……」
 和久は、夕子が自ら思い出すまで待とうと思っていたのである。
「でもね和さん、もう歌は歌えないし! 汚れてしまったから……」
 ダイスケを抱き締めている夕子は、和久の胸に顔を埋めて泣き出した。
 夕子の背を優しく摩る和久。
「そんな事は無い! 夕子は少しも汚れてなんか無い……綺麗な優しい心が有る! それに、元気に成ったら歌は歌える……苦しんだ分、もっとええ歌が歌えると思うよ……」
 和久の言葉を噛み締めている夕子。
「本当に? 私、汚れてない?」
 和久を見詰め、確かめる様に問い掛ける夕子。
「うん、少しも汚れてなんか無い! 夕子が汚れていたら、ダイスケが懐かんよ!」
 涙ぐんでいる夕子を見詰め、諭すように話す和久。
「良かったぁ……和さん、有難う……」
 満面の笑みを浮かべ、和久を見詰める夕子。
「さあ、腹も減ったし帰ろうや! ダイ、何時まで抱かれてるのや!」
 ダイスケの頭を軽く叩くと、にっこり微笑んだ夕子が、そっとダイスケを下ろした。
 和久とダイスケには、昔の笑顔を取り戻した夕子だが、夢を見て泣き叫ぶ夜は続いている。
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小説らしき読み物(27)

2016年01月29日 16時21分05秒 | 暇つぶし
                  
 囲炉裏の側に座り、何事も無い事を祈りながら眠りについた和久。
 早朝、囲炉裏の側で寝ていた和久は、聞き慣れない物音で目を覚ました……周りを見回すと、台所で夕子が何やらしているのが見える。 
声を掛けると、驚いたような顔をしたが、直ぐに作り笑顔で挨拶を返して来た……どうやら、昨夜の事は何も覚えてはいないようだ。
何から手を付ければ良いのか、見当もつかない和久は、朝食の用意をしていると言う夕子を、山頂への散歩に誘う事にした。
日が昇るまでにはまだ時間が有る……ダイスケは慣れたもので、外に出て和久を呼んでいる。
「夕子、ダイスケが散歩に行こうと言っている! 一緒に行かへんか? 朝日が綺麗やでぇ……」
 ダイスケに託けて誘って見た和久。
「はい、直ぐ支度をしてきます!」
 驚くほど従順な夕子は、朝食の支度を止めて部屋に行き、着替えを済ませて居間に来た……外はまだ暗い! 竹の水筒に水を入れ、山頂に続く階段の明かりを点けた和久。
 暗闇に照らされた山頂への階段は、木々の色彩と相まって幻想的でさえある。
「綺麗……」
 目を輝かせて、ぽつりと呟いた夕子。
 先に上がって行ったダイスケは、何時もの様に、小川の山女に向かって吠えている。
 夕子の手を取って、ゆっくりと上がって行く和久。
 山頂近くに来ると、山女に飽きたダイスケが二人を追い越して山頂に行き、
和久達に向かって吠えている。
「夕子、大丈夫か? 足は痛とうないか?」
 労わりながら声を掛ける和久。
 額に汗を浮かべて階段を上がる夕子は黙って頷き、ぎこちない笑顔を投げ掛けて来た。
 山頂に着くと東の空が白み始め、真赤な朝焼けが二人を迎えてくれた。
 持って来たタオルと水筒を夕子に渡し、朝焼けに向かって大きく深呼吸をした和久。
 夕子は額の汗を拭き、水筒の水を飲んだ。
「美味しい……」
 感慨深げに言い、澄み切った山頂の空気を思い切り吸い込み、深呼吸をしている……ダイスケに水を飲まし、夕子が使ったタオルで額の汗を拭き、水を飲んだ和久。
 水を貰って安心したダイスケは、夕子に甘えて走り回っている。
「ダイちゃん! おいで!」
 走り回るダイスケを、笑いながら追い掛けている夕子の笑顔は、紛れも無く太閤楼で見せた笑顔であった。
 朝焼けが消えて、幾重にも連なる山脈の向こうから朝日が昇り始めた……太古の昔から続く壮大な自然の営みを目の当たりにして、何かを祈る様に手を合わせている夕子。
 朝日に照らされた夕子の顔は、菩薩の様に眩しく輝いている……だが、毎夜夢に魘されて泣き叫び、太閤楼の和久に助けを求める姿は変わらなかった。
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小説らしき読み物(26)

2016年01月29日 12時35分47秒 | 暇つぶし

 夜も更けて、武夫妻を見送った和久と夕子は、囲炉裏の側でダイスケと遊んでいた。
 夕子の過去には一言も触れず、優しく微笑み掛ける和久。
「夕子、疲れたやろ? 休んだらどうや……」
 和久の言葉に頷き、膝の上に居るダイスケを抱いて立ち上がった夕子。
 ドアを開けて、部屋に連れて行く和久。
室内は、川の側に作られている電灯の明かりと、差し込んで来る月明かりで、室内灯が要らない位の明るさである。
部屋に入っても、ダイスケを離さない夕子を見た和久は微笑んでいた。
「ダイスケと一緒に寝たらええ……ダイスケの用足しやったら、専用の出入口が在るから大丈夫や」
 驚いて聞いている夕子に、ドアの下に在る出入口を教えると、少し笑みを浮かべて頷いていた……此の家のドアには、ダイスケが自由に出入り出来る様に、専用のドアが有る事を教えた。
 夕子の要望で、カーテンは開けたまま部屋を出る和久。
 和久は朝食の下準備を済ませて、家風呂に降りて行く……湯音がする湯船に身を沈め、照明灯の明かりが揺らぐ川面を、ぼんやりと眺めている和久。
 小川のせせらぎが心地良く、風で揺れる木の葉の音が、一時の安らぎを和久に与えてくれている。
 目を瞑ると、昨日からの出来事が思い起こされる……此れから起こるであろう事を想定しながら、大きな溜め息を吐いた和久は風呂から上がり、囲炉裏の側で酒を飲み、武の言葉を思い起こしていた。
 武が言うように(とんでもない事に関わったのか!)と、自問自答をしながらも、後戻りが出来ない現実を噛み締める和久である。
 だが、夕子の感情を取り戻す為に、何から手を付ければ良いのか! 何をすれば良いのか! 武でさえ手を焼く難題に対して、見当さえ付かない自分に、腹立たしさを覚えるのも事実であった。
 考え込んでいた和久が何気無く横を見ると、何時の間に来たのかダイスケが夕子の部屋から出て来ている。
 ダイスケは和久を見て、甘えるように膝の上に乗って来た。
 ダイスケの全身を撫でる和久。
「ダイ、お疲れさん……」
 耳元で労うと、安心した様に和久を見て眠り出した。
 ダイスケを膝に乗せ、静寂を楽しみながら飲んでいた夜半、突然夕子の部屋から悲鳴にも似た叫び声がした……驚いた和久が夕子の部屋に入ると、寝ている夕子が涙を流して叫んでいる。
「いやー止めて! ご免なさい! 止めて、止めて! 貴方止めて! 和さん助けて! 和さん!」
 夢を見て夢の中で助けを求め、涙を流している夕子。
武が言った体罰の夢を見ているのだろう……昔、一度だけ会った和久に助けを求めているのだろう。
居た堪れなくなった和久は、泣き叫んでいる夕子を抱き起こし、小刻みに震えている夕子を抱き締めた。
「大丈夫や夕子! わしや! 和久や!」
 抱き締めながら背中を撫でると、夢の中に居るはずの夕子が力を込めて、しがみ付いて来た。
「夕子! もう大丈夫や! 心配せんでええ……心配せんでええでぇ……」
 和久の言葉が伝わったかのように、震えながら力を込めて抱き付いていた夕子の力が弱まり、安らかな寝顔に変わって行った……人を恨んだ事の無かった人生で、夕子から歌を奪い体罰を加えた人物に、心底からの怒りを覚えた和久である。
 夕子は和久の腕の中で、安心した様に眠っている……穏やかな寝顔を見た和久は、夕子をそっと寝かし、暫くの間見守っていた。
 静寂の中、微かに聞こえて来る夕子の寝息に、安心した和久は静かに部屋を出た。
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小説らしき読み物(25)

2016年01月28日 14時46分37秒 | 恐怖
                  
 和久と目が合い、作り笑いをしている所へ、食事が済んだダイスケがトコトコと歩いて行き、可愛い目で夕子を見詰めている……夕子がダイスケを抱き上げて頬擦りをしょうとした時に、ぺろりと夕子の頬を舐めたダイスケ……その途端、嬉しそうに微笑み優しく抱き締めた夕子。
 その様子を見た社長は目を細めて頷き、夕子を託して帰り仕度を始めた。
 そして、和久を見詰めた社長。
「此れは当座の生活費です。 足りなくなったら何時でも連絡を下さい……ご迷惑をお掛けしますが、宜しくお願いします」
 二度三度と礼を言った社長は、夕子の事を嘆願して、社員が運転する車で朝霧を後にした。
 社長達を見送り家に入った武は、夕子を診察する為に、加代と共に夕子の部屋に入って行く。
 不安の中、後に残った和久は囲炉裏の側に座って結果を待っている。
 少しの時が流れ、悲痛な面持ちで夕子の部屋から出て来た武。
「武さん、如何したのやっ!」
 尋常でない武を見て、恐る恐る聞く和久。
「うん、健康には問題無いが体罰の痕が有る、消えかかってはいるのだが……此れは厄介な事に成った! 我々はとんでもない事に関わったようだ!」
 気落ちした様に話す武。
「以前話した患者には体罰は無かった! だが……」
 武は、言い掛けて言葉を飲み込んだ。
「武さん! だから如何なのやっ!」
 語気を荒げて問い掛ける和久。
「体罰によって怒りを拘束されたのだ! そして、笑いを強要されたのだ! 何と言う事を……」
 説明をする武の拳が震えている。
 しばし沈黙が続いた後、目を真っ赤にした加代が夕子の部屋から出て来た。 そして、囲炉裏の側に居たダイスケを抱き締め、何も言わずに俯いている。
「武さん、わしなあ……何かの本で読んだ事が有るのや(あらゆる生き物の中で、人間だけに忘却する能力が有る)と書かれていたのを……」
 武が言った言葉の重さを知りながら、僅かな望みを見つけるように和久が言った。
「加代さん、夕子は?」
 加代を労わる様に聞いた和久。
「うん、あんな目にあったのに私を見て作り笑いをするの……見るに忍びなくて……」
 加代は涙を流しながら言い、行動に移した人物を恨んだ。
 和久の言葉を理解した武は、少し落ち着きを取り戻していた。
「そうだなぁ、和さんの言う通りかも知れない! 人間は忘れる事が出来るのだ。 医者のくせに恥ずかしいよ……ただ一つの光明としては、ダイスケと触れ合った時の笑顔だ! あの笑顔は本物だ! ダイスケには警戒心が無く心を許しているのだ……和さん、其処の所に解決の糸口が有るかも知れないなぁ」
 自分が感じていた事を言われて、少しの希望が湧いて来た和久。
「加代さん、夕子と風呂に入ってくれへんやろか……車の長旅で疲れている筈やから! 武さんは家族風呂に入ってくれ。 風呂から上がる頃には食事が出来るから、一緒に食べてくれや……」
 加代は夕子を呼び、ダイスケを連れて家風呂に降りて行き、二人を見た武は家族風呂に行った。
 食事も終わり、何事も無かったように話している四人……会話に加わっている夕子は、時折見せる作り笑いと、驚くほどの従順さ以外は何の支障も無く、ダイスケに優しく微笑み掛けている。
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小説らしき読み物(24)

2016年01月28日 09時01分40秒 | 暇つぶし
                     
 和久の姿を見た武が、少し興奮した様に切り出した。
「和さん、良い所に来た! 今知らせようと思っていた所だった。 先輩から連絡が入り、夕子君の所属先の社長と相談した結果、報道関係者に知られない様に、此処に来ると言う事だ……車で発つから、明日の夕方には着くだろうと言う事だった。 近くまで来たら連絡をすると言っている……此処では人目も有るので、連絡が有り次第に和さんの所に連れて行くよ! あんたの所なら家族風呂に来る客が居るから、人目を避けられる……」
 待望の報告を聞いた和久は太閤楼の正晴に連絡を取り、スープの食材を送る様に頼み準備に掛かった。
 ベッドに入ると、一抹の不安が大きく膨らみ、眠れない夜を過ごした和久。
 翌朝、ダイスケと共に山頂への散歩を済ませてソバを打ち、夕子が暮らす部屋の戸を開けて四月の爽やかな風を入れた。
 日が西に傾き始めた頃、武に連絡を貰った和久は、ダイスケと共に駐車場で夕子達が着くのを待っている。
 暫くして夕子達よりも先に、診療を終えた武夫妻の車が着き、浮かぬ顔をした武が加代と共に降りて来た。
 そよ風に舞い落ちる桜の花弁を追い掛けていたダイスケは、加代の姿を見つけて、一目散に走り寄って甘え出す。
「武さん、ご苦労さん……」
 挨拶にも、心なしか不安の色が見て取れる和久。
「和さん、気楽にやろうよ……焦っても治る病じゃ無いのだから……」
 和久の不安を和らげる様に話す武。
「うん、分かっとるよ! それにしても少し遅いなぁ……」
「大丈夫だろう、場所の説明はしておいたから……」
 話している矢先、黒塗りの車が県道を曲がって、朝霧の入り口から入って来るのが見えた。
 車は家族風呂の駐車場を通り過ぎ、奥の駐車場で待っていた和久達の前も通り過ぎて、人目に付かない所で停まった。
 武が車に近付いて行くと、男が一人車から降りて武に挨拶をしている……挨拶をした後、話しながら武と共に近付いて来た。
 見知らぬ男に吠えているダイスケを、加代が抱き上げて宥めている。
 加代に会釈をして近づいて来た男は、和久に名刺を渡して自己紹介をした。
「この度は、大変なご迷惑をお掛けすると思いますが、宜しくお願いします」
 武に事情を聴いていたらしく、丁寧な挨拶をして来た。
 男は、夕子が所属している事務所の社長で有り、挨拶の後、車に戻って夕子を連れて来た。
 三人に紹介された夕子は、見るに忍びない作り笑顔で頭を下げた……だが、加代に抱かれているダイスケを見て、頭を撫でた時の笑顔は昔の夕子であり、太閤楼で和久に見せた笑顔であった。
 家に入る様に勧めると、運転をして来た社員が大きな荷物を持って来て、居間に下ろし夕子の部屋に運んだ。
 其々が囲炉裏の周りに座ると、用意していたソバを茹でて出し、気持ちだけの持成しをした和久。
「ご馳走さん! これ程美味いソバは初めて頂きました。 此処は自然が有って良い所だ! 先生、霧野さん……私はもう一度、夕子の歌が聞きたいのですよ! 天才、茜 夕子の歌がねっ! 魂を揺さ振る歌を歌わせて遣りたいのですよ……縋る思いで此処に連れて来ました! 宜しくお願いします……」
 社長は夕子と社員を見ながら、正座をして頭を下げた。
 和久を見詰めていた夕子だが、数年前に太閤楼で数分間会っただけの和久を覚えてはいなかった。
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小説らしき読み物(23)

2016年01月27日 15時54分25秒 | 暇つぶし
                
 夕子が居なくなった画面を、ぼんやりと見続ける和久。
「何が有ったのや……」
 放心したような表情で、ぽつりと呟いた。
「長い間、感情を拘束された顔だ! 喜怒哀楽……特に、怒りを抑え込まれた顔だ! 其れを取り戻さない限り歌は歌えないだろう……」
 武はひとり言のように言った。
「武さん、如何言う事やっ!」
 和久の問い掛けに、少しの間考え込む武。
「うん……此れは憶測だし、結婚生活で何が有ったのかは知る由もないが、医者の立場から言えば、長年に渡って感情を、特に怒りを拘束され、笑いを強要された結果だと思う! つまり、精神的な病だ! 心底からの怒りを取り戻さなければ、歌は特に演歌は歌えないだろう……厄介な病だ!」
 此の話を聞いていた加代は、ダイスケを膝に乗せ、ダイスケの頭を撫でながら頷いた。
「可愛そうな夕子さん……」
 ぽつりと呟いた加代。
「武さん! 治せないのか?」
 武の言動から、難病である事は察した和久だったが、僅かな望みでも有ればと言う思いで問い掛けた。
「医者では治せない! 以前、同じような患者を見た事が有る……精神科の権威で先輩でもある人に頼まれて、助手をした時の事だ! 其の患者は資産家と結婚したのだが、離婚して実家に帰って来た……実生活には何の支障も無いのだが、会う人毎に作り笑いをする、と言う事で、先輩の病院に入院して来たんだ……二人で治療にあたったのだが、二ヶ月経っても何の進展も無く、医療の限界を感じていた時だった……彼女の幼馴染だという男性が訪ねて来た! 彼は来る度に彼女を散歩に連れて行き、優しく語り掛けていた……ひと月ほど経った時だったか、彼女に少しの変化が起こった! 彼にだけは作り笑いでは無く、心からの笑顔を見せる様になったのだ……多分、彼だけには心を許したのだろう」
 武の話を、一言も聞き漏らさず聞き入っている和久。
「だが其れ以上の進展は無く、二ヶ月が経った頃だった……突然病室からのベルが鳴り出し、先輩と駆け付けて見て驚いた! 部屋の中がめちゃめちゃに成っていて、泣いている彼女を彼が抱き締めているのだ……彼に訳を聞くと(何時もの様に散歩に誘ったら、寒いから嫌だ! と言うので、笑いながらもう一度誘ったのですよ、その途端! 何が可笑しいのよ! 嫌だと言ってるでしょうって……そう言ったかと思うと暴れ出し、子供の様に大声で泣き出したのですよ)彼は優しく彼女を労わりながら、そう言った。 其の事が有ってからは二度と作り笑いをしなくなり、良い笑顔で数日後に退院したよ」
 病によって医療は、愛の力に及ばない事を痛感し、其の事を和久に教えた武である。
 武の話を悲痛な面持ちで聞いていた和久は、無言で考え込んでいる……物音ひとつ聞こえない重苦しい空気の中、一陣の風によって木々の擦れ合う音が悲しげに三人を襲った。
「武さん、あんたほどの医者でも、どうしょうもないのか……」
 落胆した和久が、蚊の鳴くような声で問い掛けた。
「和さん、友として言うのだが、今の話は普通の主婦の話だ! 茜 夕子のように、人の心に訴え掛ける歌を、歌わなければならない歌手とは次元が違う話だ……もし治ったとしてもだ、公演での出来事が脳裏に焼き付いていて、マイクを握る事も出来ないだろう……冷たい事を言うようだが、私なら関わり合いたくない」
 諭すように言い切った武。
「武さんが其処まで言うのなら仕方がない事か……どうしょうも無い事なのか」
 落胆した和久は、大きな溜め息を付いて天井を見上げ、其のまま目を瞑って物思いに耽ってしまった。
 そんな和久の落胆した姿を見た武は、ダイスケを膝に乗せ、黙って聞いていた加代を見て、和久の心中を探る様に問い掛けた。
「和さん、如何して其処まで考え込むのだ? ファンなだけで関係無いだろうに……」
 確かに、武の言う事は正しかった……和久は少し間を置いた後、太閤楼で夕子に出会った事を話し、夕子から預かった指輪を見せた。
「そんな事が有ったのか……」
 和久の心中を聞き、何も言わずに目を閉じた武。
 静寂の中、囲炉裏の炭が弾ける音が、やけに寂しく聞こえる夜である。
「あの時見た夕子の笑顔と(私の体を思ってくれた料理が嬉しくて)と言ってくれた言葉が、忘れられへんのやっ! あの時ほど、料理人に成って良かったと思った事は無かった……あの笑顔と、夕子の歌が取り戻せるのなら何でもする! 武さん……」
 目に涙を滲ませ、縋る様に武を見詰める和久。
 目を閉じて和久の話を聞いていた武。
「和さん、あんた、もしかして……」
 言い掛けて、武は加代を見た……武と目が合った加代は黙って頷いた。
そして聞かれた和久は、何も言わずに武と目を合わせた……和久の眼差しから全てを察した武。
「分かった! おそらく治療の為に、先輩の病院に行くと思うので連絡を取っておくよ! だがなあ和さん、一度始めたら後戻りはできんよ! 地獄を見る事に成るかも知れんが、それでも良いのか!」
 武の忠告と問い掛けに頷いた和久。
「武さん、わしには身寄りは居らん……そやけど、あんたや加代さんと言う掛け替えの無い友が居る! 太閤楼の母さんや正晴、笹の家の女将さんや昌孝、居酒屋の小母さん達が居るし、源三さんも居る。 華やかな芸能界に居っても夕子は孤独なのや……歌しかないのや! 天性の歌声と夕子の笑顔が取り戻せるのなら、わしは地獄でも何でも見てええのや! 孤独や無い事を夕子に教えて遣りたいのや!」
 思いの全てを話す和久。
 和久の決意を、涙を滲ませて聞いている加代。
「幸せな夕子さん……こんなにも思ってくれている人が……」
 言い掛けたが言葉が続かない加代は、そっと目頭を拭った。
「よし分かった! 遣るだけ遣って見よう……結果が出たら、また考えれば良い! 此処には澄み切った空気が有り、綺麗な水が有り、体を癒せる温泉が有る……大自然に身を委ねるのも良いかもしれない、もしもだ……」
 武は、もし治らなければ此処で暮らせば良い! と言いたかったのかも知れなかった。
「そうよ和さん! ダイスケも居るし……」
 ダイスケが持っている癒しを伝えた加代。
 加代の膝の上で、気持ち良さそうに寝ていたダイスケは、自分が呼ばれたとでも思ったのか、顔を上げて三人の顔を見回している。
 ダイスケの仕草で張り詰めていた空気が和み、顔を見合わせた三人に笑みが戻って来た。
 夜も更けて、帰り仕度を始めた武と加代。
「ダイちゃん、またね!」
 居間を降りて声を掛けたが、眠った振りをして振り向きもしない。
「二人が帰るから拗ねているのや! 可愛いやっちゃ……」
 拗ねているダイスケを抱いて、見送りに行く和久。
「ダイちゃん、また来るからねっ!」
 帰り際、優しく耳元で囁くと、機嫌を直したダイスケがぺろりと加代の頬を舐めた。
 月明かりの中、見送った和久とダイスケは家に入り、囲炉裏の側に腰を下ろした……ダイスケを膝に乗せて頭を撫でながら、待つ事しか出来ない事態に、苛立ちを覚える和久である。
 翌日の報道でも『天才歌手、茜 夕子の歌は死んだ!』との酷評が踊り、復帰公演での出来事が、情け容赦なく伝えられた……だが、『必ず復活させる!』と言う所属事務所の返答が、和久に僅かな希望を抱かせた。
 何の進展も無く、一週間が過ぎようとしていた昼過ぎ、満開に成った桜を見ながら、ダイスケを連れて診療所へ行った和久。
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小説らしき読み物(22)

2016年01月27日 09時41分50秒 | 暇つぶし
                 
    第二章  夕子との再会 

布団に潜り込んで、上目使いに和久を見ているダイスケ……和久が何にもましてほっとする仕草である。
今夜七時から放映される、夕子の復帰公演を楽しみに散歩に出掛ける和久とダイスケ……二歳に成ったダイスケは足もしっかりして、元気一杯に山頂を目指し、途中の深みで泳いでいる山女に向かって吠えている。
散歩から帰り、朝風呂に入った和久とダイスケ……小さな頃から風呂に慣れさせていた為、無類の風呂好きに成っているダイスケ。
朝食が済んだダイスケは、囲炉裏の側に有る座布団の上で眠り出し、和久は武夫妻を持て成す料理の下準備に掛かった。
五時を少し過ぎた頃、目を瞑っていたダイスケが突然顔を上げ、何かを知らせる様に吠えながら、ダイスケ専用の出入口から出て行った……車が停まり、ダイスケが泣き止んだ後、武と加代に抱かれたダイスケが入って来た。
「よっ、いらっしょい!」
 全ての準備が終っていた和久が、囲炉裏の側から軽く手を上げて二人を招いた……加代がダイスケを居間に下ろすと、二人に向かって『上がれ、上がれ!』と、言っている様に吠えるダイスケ。
 ダイスケの様子を見た加代は、優しく笑い掛けている。
「はい、はい……ありがとう、ダイちゃん」
 ダイスケに語り掛け、頭を撫でて上がる武と加代。
 ダイスケは安心したように和久を見て、二人が座る所に付いて行く。
「武さん、先に風呂に行くと良い……」
 勧められた武夫妻は、新しく造られた風呂に通じるドアを開け、少しの階段と廊下を降りて行った。
 二人が風呂から上がる頃合いを見計らい、調理に掛かる和久……ダイスケは暇を持て余し、大きく口を開けてあくびをしている。
 料理が並べられたと同じに、風呂からのドアが開き二人が入って来た。
 加代の姿を見たダイスケは喜び、足元に纏わり付いてじゃれている……喜んでいるダイスケを抱き上げた加代。
「ダイちゃん、待っていてくれたの……ありがとう!」
 優しく話し掛けて、料理が置かれている囲炉裏の側に座った。
 和久の料理に満喫した加代は、横で食事をしているダイスケの頭を撫で、飲みながら話している二人を見て目を細めている。
 時間を見た和久がテレビを点けた。
 十数年振りに見る夕子と、魂を揺さ振る歌声に会える興奮を、抑え切れずにいる和久である。
 時報と共に映し出された会場……天才歌手! 茜 夕子の復帰を願っていた観客で超満員であった。
 司会者の紹介で流れだす演奏……演奏に乗って、セットの階段を降りて来る夕子! 正に千両役者の登場である。
 三人が固唾を呑んで見守る中、マイクを握った夕子……観客とテレビカメラに向かって礼をし、顔を上げて微笑んだ夕子の顔が大きく映し出された。
「夕子じゃ無い!」
 食い入る様に画面を見ていた和久が叫んだ。
「駄目だ! 此れでは歌は歌えない!」
 和久に同調する様に叫んだ武。
 テレビに映し出された夕子の顔は、健康で明るく人を引き付けた引退前の笑顔には程遠い、作り物の笑顔であった。
 そんな中、歌い始めた夕子……だが、引退前の歌唱力は無く、魂を揺さ振る天性の声は失せていた。
 一曲目を歌い終えた夕子は、精一杯の笑顔で挨拶をするのだが、誰一人として拍手をする者が居なかった……そして、二曲目を歌い終えた時には席を立って帰る者が出始め、期待して見ていた中継は打ち切られた。
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