夕子が居なくなった画面を、ぼんやりと見続ける和久。
「何が有ったのや……」
放心したような表情で、ぽつりと呟いた。
「長い間、感情を拘束された顔だ! 喜怒哀楽……特に、怒りを抑え込まれた顔だ! 其れを取り戻さない限り歌は歌えないだろう……」
武はひとり言のように言った。
「武さん、如何言う事やっ!」
和久の問い掛けに、少しの間考え込む武。
「うん……此れは憶測だし、結婚生活で何が有ったのかは知る由もないが、医者の立場から言えば、長年に渡って感情を、特に怒りを拘束され、笑いを強要された結果だと思う! つまり、精神的な病だ! 心底からの怒りを取り戻さなければ、歌は特に演歌は歌えないだろう……厄介な病だ!」
此の話を聞いていた加代は、ダイスケを膝に乗せ、ダイスケの頭を撫でながら頷いた。
「可愛そうな夕子さん……」
ぽつりと呟いた加代。
「武さん! 治せないのか?」
武の言動から、難病である事は察した和久だったが、僅かな望みでも有ればと言う思いで問い掛けた。
「医者では治せない! 以前、同じような患者を見た事が有る……精神科の権威で先輩でもある人に頼まれて、助手をした時の事だ! 其の患者は資産家と結婚したのだが、離婚して実家に帰って来た……実生活には何の支障も無いのだが、会う人毎に作り笑いをする、と言う事で、先輩の病院に入院して来たんだ……二人で治療にあたったのだが、二ヶ月経っても何の進展も無く、医療の限界を感じていた時だった……彼女の幼馴染だという男性が訪ねて来た! 彼は来る度に彼女を散歩に連れて行き、優しく語り掛けていた……ひと月ほど経った時だったか、彼女に少しの変化が起こった! 彼にだけは作り笑いでは無く、心からの笑顔を見せる様になったのだ……多分、彼だけには心を許したのだろう」
武の話を、一言も聞き漏らさず聞き入っている和久。
「だが其れ以上の進展は無く、二ヶ月が経った頃だった……突然病室からのベルが鳴り出し、先輩と駆け付けて見て驚いた! 部屋の中がめちゃめちゃに成っていて、泣いている彼女を彼が抱き締めているのだ……彼に訳を聞くと(何時もの様に散歩に誘ったら、寒いから嫌だ! と言うので、笑いながらもう一度誘ったのですよ、その途端! 何が可笑しいのよ! 嫌だと言ってるでしょうって……そう言ったかと思うと暴れ出し、子供の様に大声で泣き出したのですよ)彼は優しく彼女を労わりながら、そう言った。 其の事が有ってからは二度と作り笑いをしなくなり、良い笑顔で数日後に退院したよ」
病によって医療は、愛の力に及ばない事を痛感し、其の事を和久に教えた武である。
武の話を悲痛な面持ちで聞いていた和久は、無言で考え込んでいる……物音ひとつ聞こえない重苦しい空気の中、一陣の風によって木々の擦れ合う音が悲しげに三人を襲った。
「武さん、あんたほどの医者でも、どうしょうもないのか……」
落胆した和久が、蚊の鳴くような声で問い掛けた。
「和さん、友として言うのだが、今の話は普通の主婦の話だ! 茜 夕子のように、人の心に訴え掛ける歌を、歌わなければならない歌手とは次元が違う話だ……もし治ったとしてもだ、公演での出来事が脳裏に焼き付いていて、マイクを握る事も出来ないだろう……冷たい事を言うようだが、私なら関わり合いたくない」
諭すように言い切った武。
「武さんが其処まで言うのなら仕方がない事か……どうしょうも無い事なのか」
落胆した和久は、大きな溜め息を付いて天井を見上げ、其のまま目を瞑って物思いに耽ってしまった。
そんな和久の落胆した姿を見た武は、ダイスケを膝に乗せ、黙って聞いていた加代を見て、和久の心中を探る様に問い掛けた。
「和さん、如何して其処まで考え込むのだ? ファンなだけで関係無いだろうに……」
確かに、武の言う事は正しかった……和久は少し間を置いた後、太閤楼で夕子に出会った事を話し、夕子から預かった指輪を見せた。
「そんな事が有ったのか……」
和久の心中を聞き、何も言わずに目を閉じた武。
静寂の中、囲炉裏の炭が弾ける音が、やけに寂しく聞こえる夜である。
「あの時見た夕子の笑顔と(私の体を思ってくれた料理が嬉しくて)と言ってくれた言葉が、忘れられへんのやっ! あの時ほど、料理人に成って良かったと思った事は無かった……あの笑顔と、夕子の歌が取り戻せるのなら何でもする! 武さん……」
目に涙を滲ませ、縋る様に武を見詰める和久。
目を閉じて和久の話を聞いていた武。
「和さん、あんた、もしかして……」
言い掛けて、武は加代を見た……武と目が合った加代は黙って頷いた。
そして聞かれた和久は、何も言わずに武と目を合わせた……和久の眼差しから全てを察した武。
「分かった! おそらく治療の為に、先輩の病院に行くと思うので連絡を取っておくよ! だがなあ和さん、一度始めたら後戻りはできんよ! 地獄を見る事に成るかも知れんが、それでも良いのか!」
武の忠告と問い掛けに頷いた和久。
「武さん、わしには身寄りは居らん……そやけど、あんたや加代さんと言う掛け替えの無い友が居る! 太閤楼の母さんや正晴、笹の家の女将さんや昌孝、居酒屋の小母さん達が居るし、源三さんも居る。 華やかな芸能界に居っても夕子は孤独なのや……歌しかないのや! 天性の歌声と夕子の笑顔が取り戻せるのなら、わしは地獄でも何でも見てええのや! 孤独や無い事を夕子に教えて遣りたいのや!」
思いの全てを話す和久。
和久の決意を、涙を滲ませて聞いている加代。
「幸せな夕子さん……こんなにも思ってくれている人が……」
言い掛けたが言葉が続かない加代は、そっと目頭を拭った。
「よし分かった! 遣るだけ遣って見よう……結果が出たら、また考えれば良い! 此処には澄み切った空気が有り、綺麗な水が有り、体を癒せる温泉が有る……大自然に身を委ねるのも良いかもしれない、もしもだ……」
武は、もし治らなければ此処で暮らせば良い! と言いたかったのかも知れなかった。
「そうよ和さん! ダイスケも居るし……」
ダイスケが持っている癒しを伝えた加代。
加代の膝の上で、気持ち良さそうに寝ていたダイスケは、自分が呼ばれたとでも思ったのか、顔を上げて三人の顔を見回している。
ダイスケの仕草で張り詰めていた空気が和み、顔を見合わせた三人に笑みが戻って来た。
夜も更けて、帰り仕度を始めた武と加代。
「ダイちゃん、またね!」
居間を降りて声を掛けたが、眠った振りをして振り向きもしない。
「二人が帰るから拗ねているのや! 可愛いやっちゃ……」
拗ねているダイスケを抱いて、見送りに行く和久。
「ダイちゃん、また来るからねっ!」
帰り際、優しく耳元で囁くと、機嫌を直したダイスケがぺろりと加代の頬を舐めた。
月明かりの中、見送った和久とダイスケは家に入り、囲炉裏の側に腰を下ろした……ダイスケを膝に乗せて頭を撫でながら、待つ事しか出来ない事態に、苛立ちを覚える和久である。
翌日の報道でも『天才歌手、茜 夕子の歌は死んだ!』との酷評が踊り、復帰公演での出来事が、情け容赦なく伝えられた……だが、『必ず復活させる!』と言う所属事務所の返答が、和久に僅かな希望を抱かせた。
何の進展も無く、一週間が過ぎようとしていた昼過ぎ、満開に成った桜を見ながら、ダイスケを連れて診療所へ行った和久。