♪話す相手が居れば、人生は天国!

 人は話し相手を求めている。だったら此処で思いっきり楽しみましょう! 悩み事でも何でも、話せば気が安らぐと思うよ。

小説「雲海」(10)

2015年09月03日 18時23分57秒 | 暇つぶし
数日間、元の生活に戻った和久と夕子……和久は今後の相談に、夕子とダイスケを残して診療所に出掛ける……武は和久の話を聞いて、夕子が所属する事務所に連絡を取り、事の一部始終を社長に話した。
「和さん、社長が感謝していたよ! 宜しく伝えて欲しいとの事だ!……明日迎えに来ると言っていた!」
 報告を聞いた和久は黙って頷き、大きく溜息を吐いた。
「武さん、今から用意をするので、後で加代さんと来てくれや! 夕子に送別会をして遣りたいから……」
 急な出来事の中、和久の誘いを快く受ける武夫妻……朝霧に帰って来た和久は、夕子に事の説明をして調理に掛かった。
 武夫妻と共に送別会を終えた和久と夕子は、ダイスケと共に武夫妻を見送り、ベランダの椅子に腰を下ろした……大きな月が朝霧を照らし、和久と夕子を優しく照らしている。
「綺麗なお月さま……」
 ぽつりと呟いた夕子は静かに立ち上がり、ベランダの手摺に両手を突いて月を見ている……その様子を見て立ち上がった和久は、月を見上げる夕子の肩にそっと手を掛けた。
「本当に待っていてくれるのよねっ!」
 静かに振り向いた夕子は、和久を見詰めて問い掛ける。
「うん、ずーと待っている! 夕子が帰って来るまでなっ!」
 和久の返事に小さく頷き、見詰めていた目を閉じて佇む夕子……佇む夕子を抱き締めた和久は、夕子の唇にそっと唇を重ねた。
 翌朝、何時もの様にダイスケを連れて散歩に行く和久と夕子……明日からは夕子の居ない山道を登る和久! 和久は、そっと夕子の手を握り締め、ゆっくりと階段を上って行く。
 山頂に着くまで何も言わなかった夕子……山頂で和久を見詰める夕子は、涙を滲ませている。
「行きたくない! 此処に居たい! 和さんと居たい!……」
 消え入る様な声で言い、和久の胸に顔を埋める夕子……夕子をそっと抱き締めた和久は、夕子の黒髪を優しく撫でて無言で夕子を諭した。
 山頂から帰り朝風呂を勧めた和久は、朝食の支度に掛かった……支度をして部屋から出て来た夕子は、調理をしている和久の前で佇んでいる。
「一緒に入ろう……」
 寂しそうな眼差しで見詰め、呟くように声を掛けて来た。
「うん、入ろう……直ぐに終わるから、ダイスケと先に行っててくれるか……」
「うん、和さん……」
 嬉しそうに答えた夕子は、爽やかな笑顔を投げ掛けて居間を出た……風呂に入り夕子の背を流す和久は、夕子と暮らした日々を振り返り、一筋の涙を流した。
 風呂から上がり自分の部屋を片付けた夕子は、荷物の準備をして囲炉裏の側に座った……ダイスケは、夕子との別れを感じているのか、夕子に纏わり付いて離れない。
 無言の内に朝食を終えた和久と夕子……夕子はダイスケを膝に乗せて、優しく全身を撫でている。
 互いの感情を労わる重苦しい空気の中で、ダイスケの仕草が和久と夕子を和ませた。
「そろそろ社長達が着く時間や……」
 夕子を見詰めて、重い口を開く和久。
「うん、和さん……」
 寂しそうな眼差しで、呟くように答える夕子……二人が外に出ると、武の車の後に迎えの車が見える……車は朝霧の入口を曲がり、奥の駐車場で停まった。
 車を降りた社長は、迎えに出ている和久に頭を下げて礼を言い、夕子に歩み寄る……夕子は挨拶の後、満面の笑みを浮かべて社長の温情に応えた。
 社員が夕子の荷物をトランクに積み、武と和久に挨拶をした社長も、後部座席に乗り込んだ。
 夕子を見送る和久と武夫妻……車に乗り掛けた夕子は、足元で自分を見詰めているダイスケを抱き上げる。
「ダイちゃん、元気で居るのよ! 病気をしない様にねっ……ありがとう、ダイちゃん……」
 優しく礼を言う夕子の頬を、ペロっと舐めたダイスケ……ダイスケを加代に渡した夕子は、武に礼を言い加代に別れを告げて、後部座席に乗り込んだ。
 愛しそうな眼差しで、和久を見詰める夕子……和久は、二度三度と大きく頷いて、夕子の気持ちを和らげた。
 車が動き出し、和久の前をゆっくりと通り過ぎる。
「夕子! 待って居るからなぁ……」
 涙を流して叫ぶ和久……和久の声に振り返った夕子は、涙を流して和久を見詰めて頷いている……ダイスケは吠えながら車を追い、その姿を見た夕子も手を振ってダイスケに応えていた。
 朝霧の入り口を曲がり、夕子を乗せた車は朝霧の里を後にした……吠えながら、入り口まで追い掛けて行ったダイスケは立ち止まって、夕子の後ろ姿に吠えている。
 そして、此の別れが今生の別れに成ろうとは、誰も知る由が無かったのである……朝霧を旅立ち、再び和久の元に戻る事を誓った夕子は、生きて再び朝霧の土を踏む事は無かった。
 夕子の車が見えなくなっても、ダイスケは後を追う様に見詰め、その場を動こうとはしなかった。
「ダイスケ! おいで!」
 大声でダイスケを呼び戻す和久……和久の声を聞いたダイスケは、入り口を振り返り振り返り、和久の所に駆け戻って来た。
 ダイスケを抱き上げた和久は、旅立った夕子の面影を追っている。
「寂しく成るなぁ……」
 和久の肩を軽く叩き、慰める様に呟いた武……武の言葉に黙って頷く和久。
 空は良く晴れ、温かさを増した一陣の風が、爽やかな笑顔を残して旅立った夕子の笑顔と共に、青葉を揺らして見送る三人の頭上を吹き抜けて行った。
 そして、歌謡界に戻った夕子は、再び復帰公演を催した……朝霧の囲炉裏の側で公演の中継を見る和久と武夫妻。
 夏が過ぎて、秋風が心地よい朝霧の里……優しく朝霧を照らす中秋の名月! ダイスケを膝に乗せ、期待を込めて見詰める和久……超満員の観衆が見詰める中、舞台に立った夕子は深々と頭を下げて顔を上げた。
 夕子の顔が大きく映し出される……その顔は自信に満ち溢れ、人を和ませ人を引き付けた天才演歌歌手、茜 夕子に違いが無かった。
 曲に乗り歌い始めた夕子……静まり返った観客は、茜 夕子の世界に引きずり込まれ、魂を揺さ振る歌に聞き入っている。
 夕子の歌が流れだすと、膝の上に居たダイスケはそろりと降りてテレビの前に座った……夕子の声を聞き、振り向いて和久を見るダイスケ。
 曲が終った……だが、誰一人として拍手をしない! 深々と頭を下げた夕子が顔を上げて微笑んだ途端、感動の余り、拍手をする事さえ忘れていた観客から地響きを立てる様な拍手が起こった。
 鳴り止まない怒涛の拍手の中、にっこり微笑んで涙を流す夕子……涙を流しながら、カメラを見詰める夕子の瞳が大きく映し出された……其の瞳は、遠く離れた和久に(和さん、聞いてくれた? 歌えたよ……ありがとう和さん!)と、言っている様に見詰めている。
 夕子の気持ちを感じ取った和久は、テレビに向かって大きく頷いた……和久に気持ちが伝わったのを確信した様に、涙も拭わずに二度三度と頷いた夕子。
 夕子の姿を見守っていた観客から、再び怒涛の如き拍手が起こった。
「夕子君は凄いなぁ和さん……此れがスーパースター茜 夕子か!……本当に素晴らしい歌手だ!」
 夕子の復活を確信した武が、我が事の様に褒め称えて和久を見た……目が合った和久は目を瞑って頷き、武に応えている。
「素敵ですねぇ夕子さんは、ねっ和さん……」
 苦しみ抜いた夕子の姿を知っている加代も、目を潤ませて夕子の復活を喜んでいる。
 次々と歌う夕子のヒット曲、会場を興奮の坩堝に巻き込み、不死鳥の如く蘇った茜 夕子!……夕子に魅せられた観客は放心しているかのように、舞台で輝く夕子を見詰めている。
 歌い終えた夕子は、怒涛の歓声の中で何度もカーテンコールを受け、満面の笑みで観客に応えた……放映が終り、画面から夕子の姿が消えると、テレビの前に居たダイスケは、皆を見回して加代の膝に上がって目を閉じている。
 復帰公演の成功を果たした夕子は、再び歌謡界の頂点に返り咲く……復帰後数々のヒット曲を世に送り出し、時代を駆け抜けて行く天才、茜 夕子。
 朝霧を旅立って一年数カ月が経ち、桜が蕾を付け始めた頃、疲労感を訴えて検査入院をした夕子……心配する和久の元に、病床の夕子から電話が掛かって来た。
「どうや夕子、大丈夫か?」
「うん、大丈夫!……検査だけだから! ダイちゃんは元気?」
「うん、ダイスケは元気やでっ……山女と遊んどるよ!」
 夕子を元気付ける様に、明るく話す和久。
「良かった!……和さん、朝霧の桜はもう咲いている?」
「まだ蕾で咲いては無いけど、夕子が帰って来る頃には満開に成ってるやろなぁ……夕子に見て貰おうと思うて、咲き誇るやろなぁ……」
 少しの冗談を交えて、夕子を和ます和久。
「和さん、今でも私の事を大切な人だと思ってくれている?……」
 約束を確かめる様に問い掛ける夕子。
「当たり前や夕子! 夕子はわしの大切な人やっ、誰よりも大切な人や!……言うたやろ夕子! 夕子が帰って来るのを待ってるって……」
 気弱になっている夕子を、元気付ける和久。
「私の事、好き?……」
「うん、好きや! 誰よりも夕子が好きや!」
「ありがとう和さん! 私も、和さんが好き!……帰りたい! 和さんの所に、朝霧に帰りたい!……和さん、私、疲れた……」
 泣きながら訴え掛ける夕子。
「分かったでっ夕子……元気に成ったら帰って来い! 夕子が元気に成ったらダイスケと迎えに行ってやる!……一緒に暮らそうなっ夕子! そやから元気に成らんとなっ……」
 精一杯の言葉で、夕子を励ます和久。
「うん、和さん……待ってるから……」
 力無く言った夕子は、電話を切った……夕子の言葉に不安を感じた和久は、ダイスケを車に乗せると、急いで診療所に向かった。
「和さん、良い所に来た! 先程、事務所の社長から電話が有った。 検査入院をしている夕子君の事だが、余り良くは無いらしい……知り合いの病院だから院長に問い質したら、今のところは何とか持ちこたえている、と言う事だ! 肺炎を併発しなければ良いのだがと言っている……後で詳しく知らせると言っていた!」
 武の言葉を聞き、その場に座り込んだ和久……暫くして電話が掛かり、武が受話器を取ったが、話す武の顔に不安の色が漂っている。
 聞いている和久を見て受話器を置いた武。
「武さん、如何や?」
 立ち上がった和久が、不安そうな顔をして問い詰める。
「うん、今のところはなっ……だが、予断は出来ないと言っている……」
 武の言葉に、不安を募らせる和久。
「武さん、明日行って来るわ!」
「そうか! 其れまでに何か連絡が入ったら、直ぐに知らせるから……」
「和さん、心配ですねっ……」
 顔を曇らせて聞いていた加代が、言葉少なに呟いた……武に病院の住所を聞き、家に帰った和久は、迎えに行く支度に掛かった。
 桜が蕾を付ける季節なのに、夕子の病を知った和久の心に、北風が吹き抜けて行く……朝霧の夜は静かに更け、小川のせせらぎが悲しみを囁く様に聞こえて来る。
 眠れぬまま時を過ごす和久の元に、武からの電話が入った。
「和さん、私だ! 夕子君の容体が変わった! 肺炎を併発したと知らせが有った! 急を要するとの事だ!」
 沈着冷静な武が、興奮した様に知らせて来た……連絡を聞いた和久は、支度をしていた荷物を車に積み、ダイスケを助手席に乗せて夜道を走り出す……山道を走り高速道路に乗った和久は、少しの休息を取っただけで夕子の居る病院に着いた。
 車を停めて病院に行くと、連絡をしていた社長が玄関で迎えてくれる。
「霧野さん、遠路ありがとう……疲れたでしょう……」
 悲痛な面持ちで和久を見詰め、労いの言葉を掛けて来た社長。
「社長さん、夕子は?……」
 挨拶もそこそこに、夕子の容体を聞く和久。
 社長は黙って首を振り、ぽつりと呟いた。
「意識がねっ……」
 社長の意図を汲み取った和久は、夕子の待つ病室に急ぐ……院長に連絡を取っていた武の計らいで、ダイスケも連れて行く。
 病室のドアをノックして中に入る和久……和久が病室に入った途端、意識の薄れている夕子が布団から手を出した。
「和さん……和さんが迎えに来てくれた……」
 病室に居た親族らしき人達が驚いて、和久とダイスケを見た……周りの人達に頭を下げた和久は、手を出している夕子に近付いて、手を握り締めた。
「夕子、わしや……和久や! 分かるか? ダイスケも居るでっ……」
 和久の言葉を聞いた夕子は、ゆっくりと目を開けて微笑んでいる。
「和さん、迎えに来てくれたの? 嬉しい……ダイちゃんも来てくれたの?」
 愛しそうに和久を見詰め、ダイスケを探す夕子……和久は、ダイスケを抱き上げて、夕子の枕元に下ろした。
 久し振りに夕子を見たダイスケは、懐かしそうに尾っぽを振り、夕子の顔を舐め回している。
「あっは、ダイちゃん! 好き好きしてくれたの……」
 力無く微笑んだ夕子は、ダイスケの頭を撫でた。
「そうや、夕子……迎えに来たのや、元気出しやっ!……夕子の好きな朝霧に帰るのや、武さんも加代さんも夕子の帰りを待って居るでっ……一緒に暮らそうなぁ夕子! そやから、元気に成らんとあかんでっ……」
 和久の言葉に頬笑みを返した夕子は、小さく頷いて和久の手を握り、安心した様に眠り出した。
 診察に来た院長に呼ばれて、廊下に出る和久。
「霧野さんですねっ、山野君に色々とお聞きしています……」
 挨拶を済ませ、夕子の容体を聞く和久。
「残念ながら、今夜が……」
 院長の言葉が残酷に聞こえ、天井を見詰めて大きく溜息をついた和久……病室に戻ると、夕子は良く眠っていた……院長の許しを得て、夕子の病室で一夜を過ごす和久。
 皆が帰った後、夕子の寝顔に見入っている……誤診では無いのか、と思わせるほど綺麗な寝顔の夕子! 和久は夕子の寝顔に顔を近づけ、そっと唇を合わせた。
 夕子を見守る和久は旅の疲れで眠り込み、名前を呼ばれて目を覚ました……目を覚ました和久は、爽やかな笑顔で自分を呼ぶ夕子に気が付いた。
「おはよう……どうや? 気分は!」
 院長の言葉が信じられない様に、夕子を見詰める和久。
「ずーと付いて居てくれたの和さん?……和さんとダイちゃんが来てくれたから、元気になったよ!」
 夕子は微笑み、愛おしそうに和久を見詰めている。
「そうか、良かった!……夕子、後で夕子の好きなスープを温めてやるからなっ、夕子が何時帰って来ても良い様に作り直したんやっ!……夕子を喜ばせようと思って、一緒に持って来たんや!」
 ベッドに横たわる夕子の黒髪を撫でながら、優しく伝える和久。
「本当、和さん……嬉しい……和さんの奥さんに成る人は幸せだろうねっ! その時は教えてねっ……」
 布団の上で目を瞑っているダイスケを撫でながら、嬉しそうに答えて問い掛ける夕子……夕子の言葉は和久に対して、言い様の無い後悔と、申し訳なさを抱いている様に聞こえた。
「其れは無理やで夕子……」
 和久は微笑みながら夕子を見詰め、夕子の後悔を拭い去る様に言った。
「如何して?」
 和久を見詰めて、心の内を問い掛ける夕子。
「わしなぁ……まだ返事は聞いてないけど、心に決めてる人が居るんや……」
 夕子から少し目を逸らして、照れる様に話す和久。
「そう……でも、和さんが好きになった人だから、きっと素敵な人でしょうねっ……」
 見詰めていた目を逸らし、小さな声で寂しそうに問い掛けた夕子。
「うん、素敵な人や! 優しいし、可愛いしなぁ……綺麗な優しい目をしているのや、笑ろうた顔が好きなんや! 茜 夕子と言う人やけど、命よりも大切な人なんや!」
 夕子を見詰め、目を細めて心の内を告げた和久……驚いた様に和久を見詰めた夕子の目に涙が滲んで来た。
「夕子! わしの奥さんに成ってくれへんか?……」
 和久の赤心を聞いた夕子は、涙を流して和久に抱きついて来た。
「駄目か?……夕子」
 抱き締めている夕子の黒髪を撫でながら、優しく問い掛けた和久。
「駄目じゃない! 駄目なんかじゃない!……和さん……」
 抱きついている手に力を込め、流れる涙を拭こうともせづに、濡れた瞳で和久を見詰めた夕子は、何度も何度も大きく頷き、喜びを確かめている。
 和久とダイスケが来てから、日増しに容体が良くなって行く夕子……夕子の病室から頻繁に笑い声が聞こえ出し、院長も首をかしげている。
 穏やかな日が続き、病室から見える桜が満開を迎えていた。
「桜が満開になったねっ……朝霧の桜も綺麗だろうねぇ……」
「そうやなぁ、夕子に負けん様に、夕子に見て貰おうと思うて、咲き誇っているやろうなあ……夕子、もう直ぐ朝霧に帰れるぞ!……先生が言うとった、見違えるほど良く成って居るって!」
 夕子の回復に、院長が驚いていた事を告げる和久。
「本当、和さん!……また、キャンプがしたい! 和さんと見た山頂の星が見たい……綺麗だろうねっ和さん……」
 目を輝かせて、懐かしい朝霧の話をする夕子。
「そうや、夕子……帰ったらキャンプに行こうなっ! 食べる物を一杯持ってなっ、夕子の好きな酒も持って行こうなっ……綺麗な星を見に行こうなっ! そやから、もっと元気に成らんとなぁ夕子!」
 和久の言葉に頷き、笑顔で応える夕子……和久は夕子を見詰め夕子の手を握り、そっと唇を近付ける。
「駄目! 和さん、病気が移るよ……」
 心配した夕子が咄嗟に言った。
「大丈夫や夕子……夕子の病気やったら、何ぼでも移して欲しいわ!」
 夕子を諭す和久は愛しむ様に夕子を見詰め、目を閉じた夕子の唇に、そっと唇を重ねる……唇を重ねる夕子の目から、一筋の涙が頬を伝った。
「少し寝た方がええ……起きたらスープを温めるからなっ……」
 和久の言葉に頷き、目を瞑る夕子……少しの眠りから覚めた夕子は、ダイスケを抱いてベッドを起し、外の桜に目を移している。
 院長に呼ばれていた和久が、病室に戻って来た。
「起きてたんか! 直ぐにスープを温めて来るからなっ……」
 和久は、ポットに入れて持って来たスープを持って、部屋を出掛かった。
「良いお天気だから、桜の下で飲みたい……」
 和久を見詰めて、甘える様に言った夕子。
「そうやなっ、風も無いしなぁ……寒む無いから、そうしょうか! 温めて来るので少し待っていてなっ夕子……」
 暫くして、温めたスープを持って病室に戻って来た和久……夕子は、和久が居ない間に薄化粧をしていた。
「夕子、お待たせ……さぁ行こうや……」
 夕子を車いすに座らせ、膝に毛布を掛けた和久……ダイスケを夕子の膝に乗せて病室を出ると、親族が入れ違いに入って来た。
 訳を話して、外に出た和久と夕子……外は暖かく風も無かった! 車椅子を桜の木の下で止めた和久は、ダイスケを下ろして夕子を見ている。
「綺麗やなぁ夕子……化粧したんか!」
 しみじみと夕子を見詰めて問い掛ける和久。
「うん、和さんが恥をかかない様に……」
 恥らいながら、愛しむ様に和久を見詰めて呟いた夕子……夕子の優しさに触れた和久は、そっと夕子の手を握り締めた。
 その頃、夕子の診察に来た院長は、親族の者と話しをしていた。
「院長、夕子は助かりそうですねっ? 連絡を頂いて五日に成るが、有り難い事に、日に日に元気に成って来ている……失礼ですが、もしや?……」
 言葉を濁す親族の話を聞いている院長は、黙って俯いている。
「そうであってくれれば、と願っております……」
 病室から二人の姿を見ていた院長は、其れだけを言って病室を出た……桜の木の下で、走り回るダイスケの仕草を見て、夕子が笑っている。
 陽の光を浴びる夕子の瞳が輝き、愛しむ様に和久を見詰めていた。
「桜って綺麗ねっ和さん……優しい色だし、散る時まで心を和ませてくれるから……」
 優しく語り掛ける夕子は、舞い落ちる桜の花弁を見詰めている。
「夕子、スープ飲むか? 今までのより美味いでっ……」
 ポットのスープを注いで夕子に手渡した。
「熱いからなぁ、ゆっくり飲むんやでっ……」
 一口飲んだ夕子は、和久を見詰めて綺麗な目を潤ませた。
「美味しい……ありがとう和さん! 和さんと出会えて良かった!……生まれ変わっても和さんと逢いたい……」
 呟くように話す夕子はスープを飲み、和久に微笑み掛けた。
「何を、あほな事を言ってるのや夕子! 元気に成って朝霧に帰るのやろ? 一緒に帰るのやろ夕子?……」
 気弱になっている夕子を、元気付ける様に諭す和久……夕子は微笑み、和久の問い掛けに小さく頷いている。
 陽が傾き始め、空が茜色に染まり出した……夕子は陽に照らされて茜色に染まる小さな桜の小枝を見ている。
「和さん、あの桜の枝を持って帰りたい!……お部屋に飾りたい……」
夕子が指差した、小さな桜の枝を見た和久。
「よっしゃ夕子、ちょっと待っときや! 内緒で取って来てやる!」
 夕子に片目を瞑って、悪戯っぽく笑った和久は、咲き掛けの小枝を取りに行く……小枝を取った和久は、笑いながら夕子の側に戻って来た。
「夕子取って来たでっ!」
 夕子に小枝を渡し掛けた和久は、眠る様に目を瞑っている夕子を見て、その場に膝から崩れ落ちた。
「夕子、どうしたんや? 寝たんか! 夕子、目を開けてくれ……朝霧に帰るんやろ? 一緒に帰るんやろ?……夕子、わしを一人にするなっ! わしを置いて逝くなっ夕子! あほぉー夕子のあほぉー 何でわしを置いて逝くのやっ! 夕子……夕子ぉー……」
 膝を揺すり泣き叫ぶ和久の声は、最早夕子には聞こえていなかった……和久の声を聞いたダイスケは、眠る夕子の足下で、じっと夕子の顔を見上げて見詰めている。
 桜の花の下で、茜色に輝く夕日に照らせれる夕子……歌謡界の頂点を極め、時代を駆け抜けた天才、茜 夕子!……夕子は静かに、短い生涯の幕を下ろした……自らが愛した霧野 和久に、綺麗な優しい寝顔を残して……
 少しの時が経ち、気を取り戻した和久は、夕子の膝の上にダイスケを乗せ、走馬燈の様に駆け巡る夕子への思いを胸に、ゆっくりと車椅子を押した。
 部屋に戻って来た夕子の枕元に、取って来た桜の小枝を活け、朝まで語り尽くした和久……事情の分からないダイスケは、和久に抱かれて悲しそうな声を出し、夕子の寝顔を見詰めている。
 夕子に寄り添っている和久は、院長に呼ばれて院長室に行く。
「霧野さん、此れは茜さんが生前託されたものです! 霧野 和久さんに渡して欲しいと……年は若いが立派な方でした! 死と直面していても、平然として居られた……流石は頂点を極められた方だった……」
 院長は目頭を赤くして、夕子を褒め称えた……和久もまた、小さな体で頂点を極め、時代を駆け抜けた天才、茜 夕子を愛した事に誇りを感じていた。
 夕子の遺品は、和久が夕子に貰い、夕子に渡した指輪と手紙だった……院長に礼を言い、夕子の待つ病室に戻って来た和久……夕子が眠る部屋で、手紙を見る和久。
(和さん、私の大好きな和さん……和さんのお陰で、歌謡界に戻る事が出来ました! 好きな歌が歌えるようになりました! ありがとう和さん……朝霧では酷い事を言ってご免なさい!……こんな私を大切な人だと言ってくれた和さん……風呂で背中を流してくれた時、嬉しくて泣いていました! 綺麗な星空を見せてくれた和さん……美味しいお料理を食べさせてくれた和さん! 山小屋でのキャンプは楽しかった! 可愛いダイちゃんと会わせてくれてありがとう……ダイちゃんには、何時も癒されていました!……もっともっとお礼が言いたいのだけれど!……朝霧に帰れなくてご免なさい! 和さん、本当にありがとう! 大好きな和さん!……夕子)
 夕子の手紙を読んだ和久は、夕子に縋って涙を流した。
 数日後、夕子の盛大な葬儀が行われ、夕子のヒット曲が流れる中、数千人の人が別れを惜しんで涙した……その中に、夕子が別れた男が居た。
 テレビカメラの前に立った男は、此の時とばかりに悲劇の主人公を演じている。
斎場のテレビで、此の報道を見た和久……夕子に体罰を加えた男に怒りを覚えた和久は、形見の指輪を握り締めて男に近付いて行った。
 涙を流しながら演技をする男に、震える拳を上げた和久!
『駄目っ! 和さん止めて!……こんな人に手を上げて、和さんの手を汚さないでっ! 美味しいお料理を作る手を汚さないでっ!……』
 拳を上げた和久の心に、夕子の叫びが聞こえた!……指輪を握り、振り上げた拳を下ろした和久は、静かに其の場を離れて、ダイスケが待つ車に乗り込んだ。
 形見の指輪と共に、朝霧に帰る和久……夕子の面影を偲びながら、朝霧を目指す和久とダイスケ……途中の休息場で見上げた星空! 大きな星が一つ、輝きを放ちながら朝霧に向かって流れて行った。
 形見の指輪を見詰める和久。
「夕子、帰ろうなっ……夕子の好きな朝霧に帰ろうなっ……」
 夕子に語り掛けた目から、大粒の涙が光って零れ落ちた……夕子の歌を聞きながら走り続けた和久は、夕子が愛した朝霧の里に戻って来た。
 湖に沿って咲く満開の桜、夕子が好きだった朝霧の桜……だが、夕子の居ない今、全てが空しく見える和久である……ダイスケを連れて風呂に行き、長旅の疲れを癒した和久は、夕子の香りが残るベッドに倒れ込んで眠った。
 小川のせせらぎと、微かに擦れる木の葉の音が、子守唄の様に和久を和ませている。
 どれ位眠ったのであろうか、小鳥の囀りで目を覚ました和久……外はまだ明るい! 傍らで眠っていたダイスケは、和久を見て頬を舐める……ダイスケを胸の上に乗せ、優しく撫でる和久。
 夕子の香りが残る部屋で、せせらぎを耳にした和久の目から、一筋の涙が頬を伝った。
 気だるさの残る体で起き上がり、キャンプの支度をして、ダイスケと共に山頂に向かう和久……久し振りに会った山女に向かって、大きな声で吠えているダイスケ。
 形見の指輪をそっと握った和久は、ダイスケの仕草に目を細めている。
「夕子、見てみぃ……お前が好きやったダイスケの仕草や、可愛いなぁ……」
 心の中で、夕子に語り掛ける和久……山頂に着き、山小屋に荷物を下ろした和久はダイスケに水を飲ませ、小屋の戸を全て開けた。
 陽は西に傾き始めている……囲炉裏に火の準備を始めた時、小屋の中が真赤に染まった! 準備の手を止めて外に出た和久……沈む大きな夕日が真っ赤に燃えて、大空を茜色に染めている。
 自然の奇跡に見入られた和久は、夕子の指輪を握り、ぼーぜんと立ち尽くした。
「夕子、綺麗やなぁ……帰って来たんやでっ、夕子の好きな朝霧の山頂やっ! 夕子、帰って来たんやでっ……」
 語り掛ける和久の涙が真っ赤に染まり、零れ落ちる涙が山頂の大地に吸い込まれて行く……ダイスケを抱き上げて、ベンチに腰を下ろした和久は、沈む夕日を空しく見詰めていた。
 陽が落ちて、囲炉裏に火を熾した和久は、ダイスケに食事をさせ、囲炉裏の縁に盃を置いた……盃に酒を注ぎ、指輪を取り出して盃の側にそっと置いた。
「夕子、お疲れさん……よう頑張ったなぁ夕子、お疲れさん夕子……」
 夕子を労った和久は、注いだ酒を一気に飲んだ。
「美味いでっ夕子……お前が好きやった酒や! 夕子も飲みっ……」
 涙で見詰める形見の指輪に、優しく語り掛ける和久……夕子と過ごした日々を振り返り、一人盃を空ける和久。
 何時の間に来たのか、和久の膝の上で目を瞑っているダイスケ……和久はダイスケの全身を優しく撫でた。
 闇に包まれた山頂の山小屋……開けていた戸を締め、置いて有った形見の指輪を持って外に出た……満天の星空を見て佇む和久。
「夕子、見えるか!……綺麗やなぁ……」
 指輪を握り締め、呟くように語り掛ける和久……見上げる満天の星空、夕子を偲ぶように無数の星が流れて行った。
 小屋に戻り、夕子と語る和久は眠れぬ夜を過ごし、一人寂しく酒を飲んでいる……心の中をすきま風が吹き抜け、埋められる事の無い空しさが、時を静かに刻んで行く。
 眠れぬまま、闇が明るさを取り戻し始めた時、プレーヤーを持って外に出た和久……見渡す限りの木の葉に、朝露が付いている。
 プレーヤーをベンチに置き、見詰めるダイスケを抱き上げた……朝日が昇り朝露が光る山頂……音量を上げて再生ボタンを押した。
 夕子のヒット曲が、朝露の中で流れ出す……曲は風に乗り、朝霧の里を駆け巡り、山間を抜けて響き渡った。
 歌謡界の頂点を極めた天才、茜 夕子……人を引き付け、人を和ませ魅了した夕子……朝露が光る山頂で、歌う夕子の姿を見た和久。
 曲が終り、優しい眼差しで微笑み掛ける夕子……天才、茜 夕子が満面の笑みを、霧野 和久に投げ掛けて微笑んでいた。

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小説「雲海」(9)

2015年09月03日 18時11分18秒 | 暇つぶし
 二、三日静養をした夕子は元気を取り戻し、散歩を兼ねて山女の所でダイスケと遊んでいる。
「おーい夕子! 昼飯の支度が出来たでっ!」
 遊んでいる夕子に、大声で知らせる和久……其の声を聞いた夕子は、和久に手を振って応え、ダイスケと一緒に駈け寄って来た。
「和さん! 止めて止めて!……」
 坂道で勢いが付き、大きな声で叫びながら手を広げた和久に抱き付いた……笑って抱き止めた和久は、爽やかな夕子の笑顔に、此れまでと違う感覚を覚えたのである。
 夕子と一緒に走って来たダイスケは、凄い勢いで和久の横を走り抜け、息を切らせて立ち止まった。
「ダイ、おいで!」
 足元に来たダイスケを抱き上げて、頬擦りをする和久。
「腹が減ったやろ? 昼飯にしようや!……後で武さんが診察に来てくれるから……」
 ダイスケを撫でながら、武と加代に見せるであろう夕子の笑顔に、淡い期待を抱いている和久である……そして、以前の笑顔が戻っていなくても、其れはそれで仕方の無い事だと思い始めた和久でもあった。
 昼食が済み、小川の側に有る大きめの石に腰を下ろして、せせらぎを聞いている和久と夕子……ダイスケは走り回った後、浅瀬に足を踏み入れて水を飲んでいる。
 時折聞こえて来る木の葉の擦れる音が、小川のせせらぎに調和して、二人の気持ちを和ませていた。
「静かだねぇ和さん……」
 感慨深げに、ぽつりと呟いた夕子。
「うん、静かやなぁ……此処に居ると時間が経つのも忘れるわっ! ええ所やろ夕子……源三さんと言う人が譲ってくれたのや……」
 和久は、懐かしそうに当時を思い出して経緯を聞かせた。
「そんなにお客さんが来たの?……」
 夕子は、綺麗な目を輝かせて驚いたように問い掛けてきた。
「そらぁ凄かったでっ! 口コミで来てくれだしてなっ……休日なんかは特に凄かった! 入り口近くまでお客さんが並んでたなぁ……源さんが喜んでくれてなあ、娘さんの所に行く時に、お礼や! と言うて、此処を譲ってくれたのや……源三さんのお陰で、武さんや加代さんとも知り合えたのや、ダイスケともなあ……」
 源三と過ごした半年余りの出来事を、懐かしそうに話す和久。
「良い人だもんねっ、先生も加代さんも……」
 話を聞いた夕子は、嬉しそうに言った。
「そうやっ、武さんのお陰で、夕子を此処に連れて来る事が出来たのや、大切な夕子をなあ……」
 和久は、夕子への思いを大事そうに語った……嬉しそうに話す和久を見詰めて、夕子は無言で頷いている。
「良かった! 此処に来れて、和さんに逢えて……」
 夕子は嬉しそうに和久を見詰め、微笑みながら小声で呟いた。
 初夏の日差しを避けて、せせらぎが聞こえる岩に座っている二人は、小川で遊んでいるダイスケを見て笑っている。
 暫くすると、浅瀬で遊んでいたダイスケが大きな声で吠え、土手を駆け上がって駐車場に走って行った……駐車場に武の車が停まるのを見た和久は、夕子の手を取って、小川の狭まった所を渡って駐車場に急いだ。
先に行ったダイスケは、車から降りた加代に抱かれてご機嫌である。
 車に近付き、武と加代に先日の礼を言った和久は、不安の中で夕子の顔に見入っている。
 夕子は、武と加代に礼を言った後、爽やかな笑顔を見せた……その笑顔は、此れまで見せた作り笑いでは無く、人を引き付け、人を和ませた天才茜 夕子の笑顔に違いが無かった……怒りを取り戻し、天性の笑顔を取り戻した夕子に言い様の無い喜びを感じた和久である。

第一章  蘇る不死鳥

 爽やかな笑顔を取り戻した夕子……家に入り診察を終えた武が、夕子の部屋から出て囲炉裏の側に座った。
「優しい笑顔だなぁ、良い笑顔だ!……安心したよ和さん! 風邪も治ったし他に異常は無いよ! ただ、少し気に掛かる事が有るので、その内に血液検査をしょうと思っているんだ……」
 ほうじ茶を入れている和久に、含みのある事を言った武。
「気に掛かる事? 夕子の体で?……」
 思いも掛けない事を聞いた和久は、ほうじ茶を飲みながら考えている武に問い質した。
「いやぁ、大した事は無いと思うけど、念の為になっ……」
 話している最中、夕子の部屋のドアが開き、笑いながら夕子と加代が居間に来た……夕子と加代は、目が会った二人に微笑み掛けて、ほうじ茶が置かれている囲炉裏の側に腰を下ろした。
 囲炉裏の側で目を瞑っていたダイスケは、夕子が座るのを見て皆の顔を見回し、そろりと夕子の膝に上がり目を瞑っている……暫く話していた武夫妻を見送った和久と夕子は、初夏の太陽が照り付ける中、ダイスケを連れて山女の所に歩き出した。
 時折吹く風が夕子の黒髪を撫で、木々を揺らしている……何時もの様に山女に吠えるダイスケを見て、夕子が笑っている。
「夕子、何か食べたい物があるか?……」
 夕子の希望する料理を作ってやろうと、問い掛ける和久。
「何でも良いの?……」
 和久の問い掛けに、何か希望がある様に聞いて来た。
「うん、何でもええよ!……何か有るんか?」
「太閤楼のお料理が食べたい!」
 夕子は、懐かしそうに言った……3日後に迫った夕子の誕生日を前に、夕子の気持ちを確かめた和久である。
「そうか! そんなら、腕によりを掛けて最高の料理を作ってやるわ!……楽しみにしときや夕子……」
 自分の思いと同じであった事に喜んだ和久は、目を細めて夕子に告げた。
「本当! 和さん、嬉しい……」
 和久を見詰めて、満面の笑みで答えた夕子。
 七夕の早朝、朝食と昼食の支度を終えた和久は、伝言を書いた紙を囲炉裏の縁に置いて、食材の仕入れに向かった……和久が出掛けた後、起きて居間に来た夕子は囲炉裏の縁に置いて有る伝言を見ている。
 伝言の通り、ダイスケを連れて散歩から帰って来た夕子は、ダイスケに食事を与え、一人だけの朝食を済ませた……朝食を終えた夕子は部屋と居間の掃除をして、部屋のベランダの椅子に腰を下ろして、暫しの休息を取っている。
 初夏の爽やかな風が夕子の頬を撫で、小川のせせらぎが優しく夕子を包み慰めていた……そして一人に成って初めて、和久の存在の大きさに気付いた夕子である。
 自然と調和する夕子は、和久の居ない寂しさを紛らわす様に、自分の歌を小さな声で口ずさんでいる……少しの休息を取った夕子は、ダイスケを連れて外に出た。
 河原に降りて岩に座り、川面に流れる木の葉を見詰めている夕子……ダイスケは小魚を見つけ、水しぶきを立てて追い掛け出した……ダイスケの仕草を見て夕子が微笑んでいる。
 家に戻り早めの昼食を済ませた夕子は、和久の帰りを待ちながら、ダイスケに吠えられて泳ぎ回る山女の姿を楽しんでいる……山女を追い回していたダイスケは山女に飽きたのか、チラッチラッと夕子を見て小川の水を飲み始めた。
 つまらなさそうな表情に変わった夕子が、何げ無く朝霧の入り口に目を向けると、和久の車が入って来るのが見えた……その途端、喜びの表情に変わった夕子は、急いで駐車場に走って行く。
 小川の水を飲んでいたダイスケは夕子の様子を見て、慌てた様に土手を駆け上がって追い掛けて来た……車を降りた和久は、笑みを浮かべて夕子を見詰めている。
「お帰りなさい!」
 夕子は満面の笑みを浮かべて抱き付いて来た。
「ただいま! ごめんなぁ夕子……一緒に行こうと思ったんやけど、よう寝とったんで一人で行って来たのや!……昼飯食べたか?」
 抱いている夕子の黒髪を撫で、笑いながら言った和久。
「うん、食べたよ!……和さん、寂しかった……」
 抱き付いている手に力を込めて、喜びを隠す様に呟く夕子……一緒に走って来たダイスケは、和久の足下に来て和久を見詰めている……ダイスケを抱き上げて頬擦りをする和久。
「ダイ、ご苦労さん……夕子を守ってくれてたのやなぁ……」
 抱き上げた耳元で労うと、和久の頬をぺろりと舐めた。
 車から荷物を下ろして家に入り、急いで下準備に掛かる和久。
「和さん、何か手伝う事は無い?……」
 荷物を運んで来た夕子が、荷物を下ろして和久に問い掛けた。
「おう、ありがとう……それやったら、此の器を洗ってくれるか?……」
 出掛ける時に出していた、食器の洗いを頼んだ和久。
「はい! 和さん……」
 嬉しそうに返事をした夕子は、楽しそうに洗い出した……鼻歌交じりに食器を洗っている夕子は、今日が自分の誕生日である事を、すっかり忘れている様である。
 食器を洗い終えて、調理の様子をじっと見詰めている夕子。
「美味しそうだね、和さん……」
 和久の手際の良さを見ていた夕子が、ぽつりと呟いた……笑って夕子を見詰める和久。
「ほれっ、夕子……」
 味の付いた煮物を皿にとって手渡した……出された煮物を食べた夕子は、目を細めて頷いている。
「美味しい……」
小さく呟いて、和久を見詰める夕子。
「そうか! おおきに夕子……夕子に気に入ってもろうて良かったわっ!」
 和久は、嬉しそうに答えて夕子に微笑んだ。
調理が全て終わった時に、囲炉裏の側で眠っていたダイスケが起き上がり、大きな声で吠えながら外に飛び出して行った。
暫くして車が停まり、武と加代に抱かれたダイスケが入って来た……何とも言えない笑顔を見せて挨拶をした夕子。
「武さん、加代さん、いらっしゃい!……早速やが、風呂に行こうや! わしと武さんは家族風呂や!」
 挨拶もそこそこに、風呂を勧める和久……夕子と加代はダイスケを連れて家風呂に行った。
 家族湯に行った武と和久は早めに風呂から出て、居間の飾り付けをして席を作り、夕子と加代を待っている。
 囲炉裏の縁に名前を書いた献立表を置き、前菜を並べた時に夕子と加代が居間に戻って来た。
「何? 此れ……」
 飾り付けを見て、驚きの表情で加代を見る夕子……加代は微笑んで、夕子を主賓の席に座らせた。
 和久はダイスケに食事を出し、シャンパンを開けて其々に注ぐ……皆がグラスを持ったのを確かめた和久。
「夕子! 誕生日おめでとう……」
 にっこり笑って夕子を見詰め、祝いの言葉を掛けた和久……武と加代も、気持ちの籠った言葉を掛けた。
 祝いの言葉を聞いた夕子は自分の誕生日に気付き、持っていたグラスを囲炉裏の縁に置くと、感極まった様に顔を伏せて頷いた。
「主役が泣いたらあかん……」
 夕子を見詰める和久は、優しく囁く様に言葉を掛ける……和久の言葉を聞いて顔を上げた夕子は涙を拭い、爽やかな笑顔を投げ掛けて来た。
 和気藹々の中、和久の料理を堪能した武夫婦は帰り仕度を始める。
「和さん、ご馳走様でした……美味しかったぁ……」
 最高の礼を言って武を見詰める加代。
「流石に天才料理人、味の魔術師だ!……生きてて良かったよ和さん! 料理とは、こんなにも凄いものかと感じ入ったよ!」
 和久の苦労を知っている武は、良かったなぁ! と言う様に頷いた。
「先生、加代さん、本当に有難う御座いました!……」
 二人に微笑んだ夕子は、心からの礼を言って頭を下げた。
「夕子さん、良かったですねっ! 元気になって……」
 病との葛藤を知っている加代は、自分の事の様に喜んでいる……不貞腐れているダイスケを連れて、二人を見送った和久と夕子。
「夕子、山小屋に行こうか? 二人だけでもう一回お祝いをしょうや……」
 夕子の肩を抱き、優しく問い掛ける和久。
「うん、和さん行きたい! 星が綺麗だろうねっ……」
 喜ぶ夕子を見て準備をする和久……少しの荷物を持ち、階段の明かりを点けて山頂に向かう……途中で湧水を汲み、山小屋に着いた和久と夕子。
 山小屋の戸を開け、中に入った夕子が明かりを点けて驚いている……山小屋の中も綺麗に飾られ、夕子の好きな花が置かれていたからである。
「和さん、此れ?……」
 言葉に詰まった夕子は、目に涙を溜めて和久を見詰めた……囲炉裏の側に夕子を座らせてグラスに酒を注いだ和久。
「夕子、おめでとう……生まれて来てくれて有難う……」
 愛しげな眼差しで夕子を見詰め、夕子の誕生を感謝した和久……それまで我慢をしていた夕子は和久の一言を聞き、涙を流して抱き付いた。
「和さん……和さん有難う……」
 和久の胸の中で消え入る様に言い、子供の様に泣き出した夕子。
「泣いたらあかん……わしは、夕子の笑顔が好きなのや……」
 小さな肩を抱き締めて、泣きじゃくる夕子の黒髪を撫でる和久……その言葉に小さく頷いた夕子は、涙に濡れた瞳で和久を見詰めた。
 夕子の涙をそっと拭う和久……少しの時が経ち、笑顔が戻った夕子を誘って外に出た……暗闇の中、佇む夕子と和久の頭上には無数の星が輝いている。
「天の川や!……綺麗やなぁ……」
夕子を癒す様に、ぽつりと呟く和久。
「うん、綺麗ねぇ和さん……」
 短く返事をした夕子は大きく深呼吸をした後、自分の歌を小さな声で歌い始めた……夕子の声を聞いたダイスケは夕子の足下に座り、歌っている夕子の顔をじっと見詰めている。
 星空に向かって歌い終えた夕子は、恥ずかしそうに和久を見詰め、佇んでいる和久の手をそっと握り締めた……満天の星空の中、大河の様に流れる天の川が夕子の誕生を祝福する様に光り輝いている。
「やっぱり夕子には歌が一番似合っているなあ……綺麗な声や!……」
 歌に聞き入っていた和久は、握り締めた手を労わる様に呟いた。
「和さん、私は此処に居て良いのよねっ! 和さんの側に居て良いのよねっ!」
 何かを感じ取っているかの様に、何度も問い掛ける夕子。
「うん、此処は夕子の家も同じや、夕子の好きなようにしたらええ……」
 夕子の心情を察した和久は、安心させるように言った。
「良かったぁ……」
 嬉しそうに言った夕子は、微笑んで和久を見詰めている……物音一つしない朝霧の山頂で、天の川を見詰めて佇んでいる夕子と和久。
「そやけど、夕子は歌が好きなのやろ? 歌いたいのやろ?」
 夕子の気持ちを汲み取った様に問い掛けた。
「うん、歌は好き! 歌いたいけどマイクを持つのが怖いの!……マイクを持つとね、復帰公演の事を思い出して声が出なくなるの……」
 悲しそうな顔をして、寂しそうに言った夕子。
「そうか、そうやったんか……」
 夕子の小さな肩を抱き、呟く様に言った和久。
「でも和さん……私、歌いたい!」
 赤心を伝える夕子は、和久を見詰めて泣きながら言った……夕子の赤心を知り、抱き締めている手に力を込めた和久は、夕子の涙を拭って肩を抱き寄せる。
「夕子、人は忘れる事が出来るのや! 嫌な事や辛い事をなっ……夕子は長い間、怒る事を責められて笑いを強要されて来た! そやけど、もう大丈夫や! 夕子は歌えるのや! もう大丈夫なのや夕子!」
 自分にも言い聞かすように、怒りを取り戻した夕子に伝える和久である。
「うん、和さん……でも怖い……」
夕子の気持ちを確かめた和久は、頷いて夕子の黒髪を撫でた……天空に光る無数の星が、夕子の歌を待つ様に輝きを放つ夜である。
「ちょっと冷えて来たなぁ……夏になったとは言うても、やっぱり山の上は冷えるなぁ、夜は……」
 独り言の様に言った和久は、頷いた夕子の肩を抱いて小屋に入り、囲炉裏に火を熾した……囲炉裏の側が暖かいのか、そろりと火の側に来て眠り始めたダイスケ。
「夕子、スープ飲むか?」
 ダイスケの寝顔に目を細め、囲炉裏の縁に盃を置いた夕子に、呟く様に言った和久。
「うん、お酒よりスープが良い……」
 爽やかな笑顔を見せて、嬉しそうに言った夕子……降り注ぐ星空に包まれた山小屋の夜は静かに更けて行く。
 翌日、陽が昇る前に目を覚ました和久は、静かに物置を開けて、前以って用意をしていた携帯用のプレーヤーを持って外に出た……夕子は眠っていたが、気が付いたダイスケが付いて来る。
 ベンチにプレーヤーを置き、白み始めた東の空に向かって大きく深呼吸をした和久……足元に来て、和久を見詰めるダイスケを抱き上げて頬擦りをした。
「ダイ、おはよう……」
 小さく囁くと、嬉しそうに頬を舐めるダイスケ……夜明け前の山頂は風も無く、朝露に濡れた青葉が、朝日を待ち浴びるように連なっている。
 和久は曲だけのCDをセットして、小さな音量で再生した……流れ出したメロディは、山頂の静けさを震わせるように響き渡る……曲が聞こえたのか、山小屋の戸を開けて、夕子が起きて来た。
 夕子を見たダイスケは喜んで、足に纏わり甘え出す……ダイスケを抱き上げて頬擦りをする夕子。
「おはよう和さん、此れは?……」
 爽やかな笑顔で問い掛けて来た夕子。
「おぅ夕子、おはようさん! 此れなぁ、夕子の曲だけのCDやっ……歌を聞こうと思って買うたんやけど間違ってしもうたんや! それで、歌の練習をしてたのやっ……そやけど、ええ歌は曲だけでも、ええものやなぁ……」
 問い掛けの説明を聞いて、にっこり微笑んだ夕子。
「どうや夕子、練習して見るか?……」
 さり気無く、夕子に勧める和久……夕子は、和久の勧めに戸惑いながら迷っている。
「わしなぁ、大勢の観客の前で輝いて歌う夕子が見たいのや! 夕子の歌が聞きたいのや! わしに勇気をくれた歌がなぁ……」
 訴え掛ける様に言った和久……和久の言葉に無言で佇み、ダイスケを抱き締めている夕子は、和久を見詰めて小さく頷いた。
「和さん……でも、怖い……」
 呟くように、和久を見詰めて答える夕子。
「歌えんかったら歌えんでもええやんか! 勇気を出してやってみっ、大丈夫やから……」
 和久の言葉に勇気付けられた夕子は、静かにダイスケを下ろして、和久に近寄って来た……夕子を見詰めて微笑みながら、そっとマイクを手渡す和久。
 ためらいながらも、震える手でマイクを受け取る夕子……陽が昇り始め青葉に付いた朝露が、宝石の様に輝く朝霧の山頂。
 和久が再生のボタンを押した……静かに流れ出す夕子のヒットメロディ! 前奏を聞いている夕子は、不安そうな眼差しで和久を見ている。
 夕子の不安を汲み取っている和久は、見詰めていた目を閉じて大きく頷き、にっこり微笑んで夕子を見詰め直した。
 朝日に照らされた夕子は、和久の仕草を見て微笑みを取り戻し、大きく深呼吸をして歌い始める……曲に乗った夕子の表情! 和久が憧れ、人を魅了し、人を和ませた笑顔が戻った夕子……昇る朝日がスポットライトの如く夕子を照らし、朝露に濡れた青葉が静まり返った観客の如く、天才歌手! 茜 夕子の歌に聞き入っている。
 時には優しく、時には静かに! そして、怒涛の如く押し寄せては帰す夕子の歌!……その歌声は往年の夕子の声であり、天性の歌声であった。 
 夕子の復活を聞く和久の目から、宝石の如く光って落ちた涙が、朝霧の大地に吸い込まれて行く。
 朝露の様に澄み切った歌声は魂を揺さぶり、山間を駆け抜けて何処までも響き渡った……天才歌手、茜 夕子が数々の苦難を乗り越えて、朝露の光る山頂で十数年の沈黙を切り裂き、不死鳥の如く蘇って来たのである。
 曲が終り、たった一人のコンサートは終わった……和久は立ち上がり、流れる涙を拭こうともせず、割れんばかりの拍手を送った……拍手を聞いて振り向いた夕子! 見詰める瞳に浮かんだ涙がキラリと光っている。
「和さん、歌えた!……声が出た!」
 和久を見詰め震える声で言った夕子は、ゆっくりと近付いて来た……夕子の言葉に、二度三度と頷いた和久は、大鳥の翼の如く大きく手を広げて夕子を待った。
 和久の翼に飛び込んだ夕子……静かに翼を閉じて、優しく抱き締める和久! 朝日に照らされた二つの影が、朝露の光る山頂で一つになった。
 少しの時が過ぎ、足元に来ているダイスケに気付いた夕子は、静かに抱き上げて頬擦りをする。
「ダイちゃん、ありがとう……ダイちゃんのお陰で声が出たよ! 歌が歌えたよ!」
 可愛い目で見ているダイスケに、語り掛ける夕子……喜びの仕草をしたダイスケは、頬を伝う夕子の涙をぺろりと舐めた。
「やっぱり夕子は凄いなぁ……流石は天才や! 茜 夕子は天才や!……夕子の歌に感動した! 感動して鳥肌が立ったわっ……流石に茜 夕子やっ!」
 流れる涙を拭おうともせず、夕子を見詰めた和久は心の内を夕子に伝えた。
「和さん……」
 綺麗な瞳に涙を溜めている夕子は、愛しむ様に名を呼び、ダイスケを抱いたまま和久の胸に寄り掛かった。
 空は晴れ渡り、昇った朝日が夕子の門出を祝う様に、優しい光を投げ掛けている。
「さぁ夕子、家に帰ろうやっ! 朝風呂に入ろうやっ! 一緒に入るか? 背中を流してやるわ……」
 夕子の復活を確信した和久は、興奮してはしゃぐように言う。
「本当! 和さん、背中を流してくれるの!」
 嬉しそうに微笑みを投げ掛けて、和久の言葉を確かめる夕子。
 山小屋を片付けて山を下りた和久と夕子は、家に着くと朝風呂に行く……風呂で夕子の背を流す和久は、小さな体で苦難と戦い、苦難に打ち勝った夕子に涙した。
 風呂を出て、朝食の支度に掛かろうとした時、駐車場に車が停まり、武が入って来た……武は和久と夕子の採血をする。
「武さん、朝飯は?」
「ありがとう、済ませて来たよ! 何軒か回るので失礼するよ!」
 住民の採血に行くと言う武は、慌ただしく帰って行った。
 武を見送った後、朝食を済ませた和久と夕子は、ベランダの椅子に座って小川のせせらぎを聞いていた……夕子は小川の流れに目を移して、何かを考えている様に川面を見詰めている。
「何か心配事でも?……」
 夕子の心情を察している和久は、其れとなく問い掛けてみた。
「此れから如何したら良いかなぁ?」
 天性の歌声を取り戻した夕子は、進む道に迷っている様に小さく囁いた。
「夕子は如何したいのや? 歌謡界に戻りたいのやろ?」
 夕子の心情を探る様に、優しく問い掛ける和久。
「うん、でも此処に居たい! 和さんの側に居たい! 歌は捨てても良い!」
 和久を見詰めて、訴え掛ける様に言った夕子。
「ありがとう夕子……そやけどなぁ夕子、人には天分と言うものが有るのや! 夕子の天分は歌や!……大勢のファンが夕子の歌を待っているのや……天才、茜 夕子の歌をなっ! 人の生涯は短い、今歌謡界に戻らんかったら、後で後悔すると思う! わしはなぁ夕子、お前が歌謡界の頂点に立って輝き、魂を揺さ振る歌を歌う姿が見たいのや! 此処には何時でも帰って来られる……疲れたら翼を休めに帰って来たらええ! わしはダイスケと一緒に、夕子が帰って来るのを此処で待ってるから……此の部屋も、何時夕子が帰って来ても使えるようにしとく! そやから、安心して行ったらええ……」
 夕子の迷いを取り払う様に、優しい眼差しを投げ掛けて諭す和久。
「本当にずっと待っていてくれる?……」
 目を潤ませて、縋る様に確かめる夕子。
「うん、何時までも夕子を待っとく、大切な夕子をずーと待ってるでっ……」
「本当! 本当ねっ和さん、嬉しい……」
 感極まった夕子は、何度も確かめて手で顔を覆い俯いた……俯いて泣く夕子を見た和久は静かに立ち上がり、夕子の小さな肩をそっと抱き寄せる。
「ずーと待ってるからなっ……」
 小刻みに震える肩を抱きながら、優しく語り掛ける和久……和久の腕の中で小さく夕子が頷いた。
 初夏の日差しの中で、小川のせせらぎと時たま聞こえる小鳥の囀りが、二人に安らかな時を与えている。
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第一章の(8)小説「雲海」

2015年09月03日 17時25分23秒 | 暇つぶし
暫し佇み、生物の様に波打つ雲海に見入っている和久と夕子。
「スープを温めて来るわ! もうちょっと此処に居るか?」
「うん、和さん……」
 和久に振り向き、短く返事をした夕子は、足元に居たダイスケをそっと抱き上げ、雲海を見詰めている。
「そうかっ……そんなら、用意が出来るまで此処におりっ……」
 雲海を見詰める夕子に微笑み掛け、山小屋に戻った和久はスープを温め、餅を網に乗せて夕子を呼んだ……ダイスケに食事を与え、スープと餅だけの朝食を取った和久と夕子。
 二人は惜しみながら雲海に別れ、新緑を楽しみながら山頂を下りて行く……先に降りたダイスケは、山女に吠えながら和久達を待っている。
「ダイスケの奴、山女に挨拶をしているのやなぁ……」
 和久の言葉に、笑って頷く夕子。
 家に着き、囲炉裏に火を熾した和久は、ダイスケと遊ぶ夕子に目を細めた。
「夕子! 朝風呂に行ったらどうや?」
「うん、ダイちゃん行くよ!」
 ダイスケを連れて家風呂に行く夕子は、ドアの所で振り返り、囲炉裏の火を整えている和久に爽やかな笑顔を投げ掛けた。
 夕子の後ろ姿を見送る和久……だが、自分を信じ切っている夕子を、如何にして怒らせれば良いのか、見当も付かないまま日は過ぎて行く。
 何時しか季節は梅雨に移り、うっとうしい雨の日が続いている。
 其の日も朝から雨が降っていた……朝食の後、囲炉裏の側で暇を持て余している和久は、ダイスケと戯れる夕子に見惚れている。
「よう降る雨やなぁ……夕子、気晴らしに買い物にでも行くか?」
 夕子が朝霧に来て、初めて買い物に誘った和久。
「うん……でも、私って分からないかなあ……」
 夕子は、有名人である自分が、知られる事を気にした様である。
「大丈夫やでっ! まさか、こんな田舎にスーパースターの茜 夕子が居るやなんて、誰も思わんやろっ……似てる人が居るなあ位にしかなっ……」
 笑いながら気楽に答えた和久。
「そうだねっ和さん!……もしも分かったら、此の人に誘拐されて連れてこられました! って、騒がせようか!……」
 夕子は、悪戯っぽく笑いながら言った。
「あっはっはっ、そらええわ!……夕子、お前は面白い事を言うなぁ……」
 夕子の冗談に、大笑いで応える和久……笑いながら支度を済ませた和久は、ダイスケを抱いて待っている夕子に、傘を差し掛けて車に乗った。
「夕子、診療所に寄って行こう……診察してから出掛けようやっ!」
 暫く会って無かった武夫妻に、夕子が示す反応を期待した和久は、車を診療所に向けて走らせる……昼前の診療所に患者の車は無く、ダイスケを車に残して診療所に入って行く和久と夕子……だが、武夫妻に見せた夕子の笑顔は以前と変わらなかった。
 診察室に入った夕子の後ろ姿に、落胆の色を示した和久……和久の様子を受付の椅子に座って見ていた加代は、目を瞑り無言で小さく顔を左右に振った。
 診察が済み、診察室から出て来た武と夕子。
「和さん、お待たせ! 異状なしだ!……顔色も良く健康そのものだ!」
 和久の気持ちを察している武は、明るく振舞っている。
「加代さん、買い物に行くんやけど、何か要る物が有るんやったら一緒に買うてくるでっ……」
 側に来た夕子に気遣いをさせないよう、さらりと問い掛けた和久。
「ありがとう和さん……今は何も無いから、気を付けて行ってらっしゃい……ダイちゃんは車の中?」
「うん、診療所には連れて来れんから……そんなら行って来るわ!」
 車の所まで見送りに来た加代!……加代の姿を見たダイスケは、開けていた窓に飛び付き、甘える様に泣き始めた。
「ダイちゃん、お留守番していたの……お利口さんだねっ!」
 ダイスケを抱き上げて優しく言い、頬擦りをする加代……加代に抱かれて安心したダイスケは、加代の頬をぺろりと舐めた。
 二人が車に乗り、座席に座るのを見た加代は、助手席に座った夕子にダイスケを渡し、ダイスケの頭をそっと撫でた……加代に見送られた和久達は、小雨が降る山道を走り続けている。
「夕子、昼はそば街道で食べようか?」
「うん、美味しいかなあ……」
「どうやろか? わしも食べた事が無いからなあ……」
 話をしながら買い物を済ませ、ソバを食べて朝霧に帰って来た……囲炉裏に火を熾し、猪鍋を作り直した和久は、久し振りに葉ワサビの押し寿司を作って武夫妻を呼んだ。
 雨はまだ降り続いている……其の雨の中、武夫妻が車で着き居間に上がって来た……加代と夕子は、ダイスケを連れて家風呂に行き、武と和久は家族風呂に行く……風呂に浸かって水嵩が増した小川を眺め、雨に煙る山林を見ている武と和久。
「難しいなあ……」
 呟く様に話し掛ける和久。
「そうだなあ……あんたを信じ切って居るからなあ夕子君は! どうだ、和さん! このまま此処で、夕子君と暮らせば……」
 和久の心情を察している武は、気を晴らす様に問い掛けた。
「武さん、夕子は歌が好きなんやって! わしも夕子の歌が聞きたいしなぁ! あいつも、目に見えん何かと必死で戦っているのや!……もうちょっと黙って見守って遣ろうと思っているのや……」
「うん……」
 短く返事をした武は、川辺に咲いている黄色い野草の花弁に視線を移した。
「わしには、夕子を怒らす事は出来んかもしれん……」
「・・・・・・・」
 和久の言葉に、無言で頷いた武。
 居間に帰ると夕子と加代の姿は無く、囲炉裏の側にダイスケが座っている。 和久を見たダイスケは、近寄って抱き上げられると、嬉しそうに尾っぽを振り和久の頬を舐めた。
「ダイ、腹が減ったのやろ? 直ぐに支度をするからなっ……」
 ダイスケを下ろし、器に入れた食事をダイスケの前に置くと、和久の顔を見て食べ始めたダイスケ……食事が済んだダイスケは、家風呂に行く戸の前で夕子と加代を待つ様に、和久達に背を向けて寝そべっている。
 暫くして戸が開き、夕子と加代が居間に入って来ると、起き上がったダイスケが足元に纏わり付いて甘え出した。
「ダイちゃん、お待たせ!」
 同時に声を掛け、夕子が抱き上げると夕子の頬をぺろりと舐めたダイスケ。
「あっはっ、ありがとうダイちゃん……好き好きしてくれたの……」
 嬉しそうに語り掛け、優しく抱き締めた夕子……夕子の様子を見ていた和久は、武が風呂で言った事を思い起こしていた。
 囲炉裏の周りで夕食を楽しみ、茶を飲みながら会話が盛り上がっている。
「買い物に行って、夕子さんだと知られなかった?」
 夕子と同じ事を聞いて来た加代……加代の言葉を聞いた和久と夕子は、お互いの顔を見て大笑いを始めた。
「如何したの? 二人とも……」
 笑いの意味が分からない加代は、武を見ながら問い掛けて来た。
「それがなぁ加代さん、夕子が同じ事を言ったのやっ! わしが、大丈夫や! こんな田舎に茜 夕子が居る訳が無い、似ている人が居るなあと、思うだけやと言ったらなっ、夕子が(分かったら、此の人に誘拐されて連れて来られた! 助けて下さいって言おうかっ!)と言うたから、お前も面白い事を言うなぁと言って大笑いをしたのや……」
 和久の説明を聞き、加代と武も大笑いを始めた……二人が笑う姿を見た夕子は、嬉しそうに微笑みダイスケを膝に乗せた。
 降りしきる雨の中、武夫妻を見送り、囲炉裏の側でダイスケと遊ぶ夕子……ダイスケと戯れる夕子を見て、和久の気持ちは複雑に揺れ動いていた……武が言う様に、此のまま此処で暮らした方が良いのか! 華やかな歌謡界を望むのか! それは、夕子自身が決める事だと分かってはいるのだが……だが、歌謡界に復帰する為には、怒りを取り戻し、天性の歌声を取り戻さなければ成らない……和久を信頼し切っている夕子を、如何にして怒らせるのか! 糸口さえ見えない思いが和久に圧し掛かって来る……夕子に体罰を加え、喜怒哀楽を奪った人物に、言い様の無い怒りを覚える和久である。
「和さん、どうかしたの? 何か心配でも……」
 思案顔をして考えている和久に、夕子が問い掛けて来た。
「あっ、いや別に何でもあれへんよ……よう降る雨やなぁと思うてなっ、こんだけ降ったら散歩にも行けへんからなぁ……」
 まさか、夕子の事を考えているとも言えない和久は、夕子をちらっと見て話を作り出した。
「うん、そうだねっ! ダイちゃんも退屈しているし、山女にも会えないしねっ……」
 膝の上で目を瞑っているダイスケを撫でながら、呟く様に言った夕子。
「明日も多分雨やろ!……雨やったら、ソバでも打ってお好み焼きでも作るかなぁ……ソバの打ち方を教えてやろか、夕子……」
「本当、和さん! 教えて教えて、それに私、お好み焼き大好き! 大阪のお好み焼きが好き!……公演に行った時には、必ず食べに行ったから、和さんお好み焼き作れるの?」
 夕子は、はしゃぐように言って和久を見詰めた。
「夕子君、作れるの? とは、どう言う意味ですか? 私を誰だと思っているのですか……」
 わざと標準語で、おどけて言った和久。
「あっはっ、和さん標準語も喋れるの?」
「あのねぇ夕子君!」
「そうでした、ご免なさい!……天才料理人、味の魔術師! 霧野 和久さんでした!」
 微笑みながら、笑いを噛み殺す様に言った夕子。
「そう、分かればいいのです! 分かっていればねっ……」
 おどけて言った和久と夕子は、お互いを見て大笑いをした。
 翌日も予想した通りの雨である……朝食を済ませて、ソバの打ち方を教えている和久。
「和さん、これ位で良いの?」
 夕子の問い掛けに、夕子が打った蕎麦の硬さを見る和久。
「おう、丁度ええわ! 夕子、お前は天才と違うか?……」
 初めて夕子が打った蕎麦の出来栄えを、大袈裟に褒める和久。
「本当! 和さん……」
「本当や! わしでも初めての時は上手く出来んかった……やっぱり、一芸に秀でる者は全てに秀でる! と言うが、本当やなぁ……大した者や、夕子は!」
 和久の絶賛に頬を赤らめ、嬉しそうな眼差しで見詰める夕子……麺棒での生地の伸ばし方を教え、生地の折り畳みと切り方を教える和久……教えられた夕子は額の汗を拭い、微笑んで和久を見た。
「うん、出来たなあ夕子! 麺の太さはバラバラやけど、初めてにしては特上やっ! 後は、ちょっと置いといて、お好み焼きの粉を混ぜるでぇ……」
 見詰める夕子に目配せし、説明しながらお好み焼きの生地を作る和久。
「まず初めに、出汁にお好み焼きの粉を入れる! 出汁はインスタントでええのや! 粉も、山芋入りの市販の粉! 卵を入れて泡立てで混ぜる……粉の玉が出来んようになっ……」
 和久の説明に聞き入っている夕子。
「和さん、ソースは?」
 夕子の問い掛けに、微笑んで夕子を見る和久。
「うん、ソースも市販のお好み焼きソースに、焼きそばソースを混ぜて、ケチャプを入れて混ぜるのや!」
 説明しながらソースを作った和久。
「手抜きの魔術師!……」
 見ていた夕子が、笑いながらぽつりと言った……夕子の一言を聞き、顔を上げて夕子を見詰めた和久は、大きな声で笑い出した。
「ほんまに面白い事を言うなあ夕子は! 頭がええのやろなぁ……」
 和久は、夕子が心を許して居る事が嬉しかったのである……だが、夕子が心を許せば赦す程、和久の思惑から離れて行く不安が、和久を襲うのも事実であった。
「夕子、蕎麦を打って汗を搔いたやろ? 風邪を引いたらあかんから、風呂に行ってこいや……昼過ぎにお好み焼きを焼いて、夕子が打った美味しい蕎麦を食べるからなっ!」
 少しの可能性を見付けようとする和久ではあるが、其の糸口さえ見えずに日は暮れて行く。
 降り続いた雨が止み、久し振りに青空が見える朝霧の里……梅雨の中休みを喜んだダイスケは、山女の所に走って行き、大きな声で吠えている……和久と夕子は全ての窓を開けて、空気の入れ替えをし、陽の当たるベランダに布団を干した。
「久し振りの天気や! 散歩に行こうか? 夕方から雨に成るそうやから……」
 布団を干して、居間に来た夕子に声を掛けた和久。
「うん……」
 短い返事をして、和久を見詰めて微笑んだ夕子……だが、心なしか何時もの夕子では無い様な気がした和久である……梅雨は続いていたが、その日以来、何かを思い詰めた様な仕草が気に掛かる和久であった。
 暫く続いていた雨が止み、少しの晴れ間に散歩をする和久と夕子……ダイスケは喜び、走り回って夕子に纏わり付いている。
 散歩から帰り、夕食の支度をしている和久は、風呂に行くように勧めた……風呂の支度をして部屋から出て来た夕子は、食事の支度をしている和久に近付き、微笑みながら佇んでいる。
「和さん……」
 小さな声で和久を呼んだ夕子。
「んっ、何や? 夕子……」
 支度の手を止めて、優しく夕子を見詰めて問い掛けた和久。
「ううん、何でも無い……」
 何かを言い掛けた夕子だが、何も言わずに微笑み、ダイスケを連れて風呂への階段を下りて行った。
 夕子が朝霧に来て二ヶ月が経とうとしている……桜の季節に来て、里が新緑に染まり、梅雨が終りを告げようとしていたが、和久の思いとは別に、時が空しく過ぎ去っただけである。
 暦が替わり掛けた梅雨末期の早朝、物凄い落雷と共に、夕子の悲鳴が聞こえた……囲炉裏の側で寝ていた和久は、夕子の悲鳴を聞いて、慌てて夕子の部屋に飛び込んだ……ダイスケも怖がり、夕子の布団に潜り込んでいる。
 夕子の部屋に入ると同時に、再び空が光り間髪を入れづに落雷した……その音の凄まじさに悲鳴をあげた夕子は、部屋に入って来た和久に抱き付いた。
 怖がる夕子を、しっかりと抱きしめている和久……落雷の度に、抱き付いている手に力を込める夕子。
 必死に耐えている夕子の震えは、抱き締めている和久の手に、小刻みに伝わって来る。
 外は物凄い豪雨に成り、容赦ない雨粒がガラス戸を叩く……暫く降り続いた雨が止み、雷雲が遠ざかると、雲の合間から朝日が差し込んで来た。
「もう大丈夫や夕子! 陽が差して来た……雷の音で、よう眠れんかったやろ? 朝飯が出来るまで寝てたらええ……」
 夕子は頷いて、ダイスケが潜り込んでいる布団に入った……朝食の支度が整い、夕子とダイスケを呼んだ和久は、囲炉裏の側に座ってテレビの気象情報を見ている。
「何や、夕方からまた雷雨やて……まっ此れが最後の雨やろ! そやけど、朝の雷は凄かったなあ……怖かったやろ、夕子?」
 味噌汁と飯を手渡しながら、和ませるように問い掛けた。
「うん、怖かった! でも、和さんが来てくれたから……」
 愛しそうに和久を見詰めて答える夕子。
「そうか!……夕子、この大根おろし辛いけど美味いでぇ……」
 夕子の答えに照れた和久は、目を細めて話をはぐらかした……ダイスケは先に食事を終えて、夕子の側で伸びをして夕子を見詰めている。
 朝食が済み、後片付けが終った和久と夕子は、ほうじ茶を飲んでいる。
「美味しいねっ和さん、此のお茶……」
 ほうじ茶を飲んだ夕子は、和久に感謝する様に言った。
「夕子は大した者やなぁ……歌だけやなしに、凄い味覚の持ち主やなぁ」
 和久は嬉しそうに夕子を褒めた……褒められた夕子は恥ずかしそうに、和久を見詰めて頬を赤らめている。
「夕子、夕方から雨に成る様やから、握り飯を持って山頂に行こうか? 歩いて汗を出したら気持ちがええから……」
「うん、和さん行こう……」
「よっしゃ行こう! 日差しが強よなってるから、帽子を被って行く方がええでっ!」
 昼前にダイスケを連れて、山頂に向かった夕子と和久……途中の小川で湧水を汲み、山頂に着いた和久は、夕子の背中を拭いてやる。
「ありがとう和さん……気持ちが良いねっ!」
 山小屋の窓を開けて風を入れ、木陰に成っているベンチに腰を下ろして、走り回るダイスケを見て笑っている夕子と和久。
 梅雨は明けてはいないが、山頂の風は心地良く、和久と夕子の頬を撫でて行く……昼食が終り、風に吹かれて姿を変える、雲の形を楽しんでいる二人。
「ぼちぼち帰ろうか?」
「うん……ダイちゃん帰るよ!」
 夕子に呼ばれたダイスケは、息を切らせて走り寄って来た……帰る途中、川辺に咲いている花を見つけた夕子は、川辺に降りて行った。
「綺麗でしょう……摘んで帰っても良い?……」
 夕子の嬉しそうな問い掛けに、にっこり微笑んで頷いた和久……家に入り、摘んで来た花を陶器の花挿しに挿し、囲炉裏の縁に置いた夕子。
「綺麗やなぁ……夕食が一段と美味なるわ! 流石に夕子やっ!」
 和久を見た夕子は、ポット頬を赤らめて下を向いた。
「もう少しダイちゃんと遊んで来る!」
 照れを隠す様に、夕食の下準備をしてる和久に言って、ダイスケと河原に行く夕子。
 気象予報のように雲行きが変わり掛けた頃、汗を掻いた夕子が帰って来た。
「曇って来たよ! 雨が降りそうになって来た!」
 少し慌てている夕子の報告を聞いた和久は、夕子に微笑んで外に出た。
「ほんまや! 予報が当たったなっ……ちょっとしたら降り出すわ! 夕子、それまでに風呂に行ってこいや……」
 勧められて支度をして来た夕子は、和久の所に来て佇んでいる。
「んっ、どうかしたんか?……」
 佇む夕子に声を掛けた。
夕子は恥ずかしそうに、うつむき加減に佇んでいる。
「和さん、一緒に入ろう……」
 思いの全てを打ち明ける様に、恥らって小声で言った夕子……夕子の一言に驚いた和久は、調理の手を止めて夕子を見た……目が会った夕子は、和久から目を逸らし、頬を赤らめて俯いた。
 先日より、言い掛けては言葉に出さなかった夕子の思いを知り、恥らいながら佇み、頷いている夕子が愛おしく思える和久である……だが、気持ちとは裏腹に、和久の口から思いも掛けない言葉が出た。
「またまた、夕子は! 冗談きついわっ……本気にするやんか!」
 夕食の支度をしながら、照れを隠す様に言った和久……思惑と違う返事を聞いた夕子は、戸惑った様に和久を見たが、直ぐに笑顔を取り戻した。
「やっぱり、冗談だと分かった?……」
 精一杯の笑顔で、冗談にすり替えた夕子。
「そらぁ分かるわ!……ああ、びっくりした! 脅かすなよ夕子……」
 和久は、ちらっと夕子を見て答えた。
「ごめんね、和さん!……ダイちゃんお風呂に行くよ!」
 夕子は寂しげな眼差しを残し、和久に背を向けると、ダイスケを連れて居間を出た……何時もなら、ドアの所で立ち止まって振り返り、和久に笑顔を見せる夕子だが、一度も振り返らずにドアを出て行った。
 そして、風呂に行く夕子の目から、大粒の涙が零れ落ちた事を、和久は知る由も無かったのである。
 支度を済ませて家族湯に行った和久は、遠雷を耳にしながら、夕子に詫びる気持ちが募っていた。
 風呂から出た和久が居間に帰ると、囲炉裏の側にはダイスケが居るだけで、夕子の姿は無かった……ダイスケは甘える様に和久に近付いて、抱き上げられると、嬉しそうに頬を舐め回し始める……和久はダイスケを下ろし、夕子が置いた花挿しの横に、出来上がった夕食を並べた。
 暫くして風呂からのドアが開き、夕子が居間に入って来た……夕子を見たダイスケは、喜びを体いっぱいに表して夕子の所に走り寄る……足元に来たダイスケを抱き上げた夕子は、和久に微笑み掛けて部屋に行ったのだが、何処か様子が違っている。
 遠くで聞こえていた雷が近くなり、曇り空から雨が落ちて来た。
 夕子の部屋のドアが開き、居間に来て囲炉裏の側に座った夕子は、何かを思い詰めて居る様に、無言でダイスケを撫でて花挿しの花を見ている。
「夕子、酒飲むか?」
 自分の盃に酒を注ぎながら、夕子に問い掛けた。
「うん、少しだけ……」
 言葉少なに答えた夕子……和久は夕子の前に盃を置き、酒を注いでやる……盃を合わせて飲み始めた和久と夕子……夕子は一気に飲んで、静かに囲炉裏の縁に盃を置いた。
 料理に箸を付けた夕子の盃に、酒を注ぐ和久……食事は進むが、何時ものように会話は無く、少し激しさを増して来た雨音が、居間に聞こえて来るだけである。
「和さん、和さんは私の事を大切な人だ! 好きだ! って言ってくれたけど本当?……」
 食事の最中、思い詰めた様に問い掛けて来た夕子。
「うん、何でや……」
 戸惑いを感じながら答えた和久。
「和さん、はっきり言って!……」
 夕子の、激しく思い詰めた様な問い掛けに、少し驚いた和久。
「そうや、夕子……夕子は大切な人や! 誰よりも好きな人や!」
 夕子に向かって、初めて本音を打ち明けた和久である。
「嘘でしょ? 和さん……」
 夕子は和久を見詰めて、寂しそうな眼差しで言い、視線をはぐらかした。
「和さんは優しい人だから、歌えなくなった私に同情しただけなんでしょう?私が、どんな気持ちで誘ったのか分かる?……」
 視線を落したまま、悔しさを噛み殺す様に話す夕子。
「夕子……」
 返答に困った和久は夕子を見詰めて、名前を呼ぶのが精一杯であった。
「随分昔の話だけど、年末の歌番組でトリを任せられた時期、私は誰にも負けない誇りを持っていた……歌謡界で頂点を保つには、人一倍の誇りが必要だった! でも、あの結婚で私の誇りは踏み躙られた。 優しかったのは半年位だった……私も悪かったのだけどねっ! 後は(怒るな! 笑え!……僕の前では笑顔を絶やすなっ!)何年も、そう言われて来た……あの人にもスターとしての誇りが有ったのだと思う……私の気持ちなど関係無くねっ! その内、体罰を加えられるようになり、言われるままに従う様になって行った……もう、誇りも何も要らない! と思う様に成って行った……」
 話す夕子は悔しさが込み上げて来るのか、大粒の涙を落して拳を握りしめている。
「夕子……」
 夕子の胸の内を察する和久は、労わる様に名前を呼んだ。
「でもねぇ和さん、こんなに汚れてしまった私でも、少しの誇りは残っていたのよ……その少しの誇りも捨てて、大好きな和さんを誘ったのに……」
 俯き加減に話しながら、目頭を拭う夕子……雨が一段と激しさを増し、居間にも落雷が聞こえて来た。
 何の返答も出来ず、夕子の話を聞く和久。
「和さん……私、そんなに汚れている? 一緒に、お風呂にも入りたくない位に汚い?……」
 寂しげな眼差しで和久を見詰め、問い掛ける夕子。
「夕子、それは……」
 和久が返答し掛けた時。
「黙って聞いて!」
 語気を強めて、和久の言葉を制止した夕子。
「誇りの高かった人間が、一番嫌な事は何だか分かる? 和さん……」
 怒りを表した眼差しで、優しく問い掛ける夕子の言葉に、応える術が無かった。
「和さんには分からないでしょうけど、情けとか憐みを掛けられる事が、誇りの高かった者には一番嫌な事なのよ!……掛ける方は気持ちが良いでしょうけどねっ!」
 言葉は柔らかいが、夕子の怒りが伝わって来る言葉に、黙って聞き入るしかない和久である。
「でも、もう良いの……もう、歌は歌えないのだから……」
 寂しそうに消え入る様な声で言い、花挿しの花を見詰める夕子。
「そんな事は無い! 歌はまた歌える!……」
 夕子を見詰めて、労わる様に言った和久。
「良いのよ和さん、慰めなんかは……」
 和久の慰めに少し笑みを浮かべ、反発するように返答した夕子。
「慰めなんかや無いでっ、夕子……」
「もう良いの……気持ちが良いでしょうね和さん! 人に憐みを掛けるって!」
 夕子の口から、思いも掛けない言葉が出た。
「夕子!……」
 夕子の心情が分かっていながら、言い掛けた和久。
「もう良いって言ってるでしょう!」
 語気を荒げ、置いて有った陶器の花挿しを持って立ち上がる夕子……寂しそうな目で、花挿しの花を見詰めている。
「あの時死んでいれば良かった!……歌えない歌手が憐みを掛けられ、同情されて生きて行くなんて最低よねっ……」
 涙を流し自分に言い聞かすように、花に話し掛ける夕子。
「夕子! 違うんや!」
 和久が立ち上がり、夕子に近付き掛けた時。
「もう良い! 近寄らないでっ!」
 怒りを露わにした夕子は怒声を発して、握っていた花挿しを、思いっ切り壁に投げ付けた……陶器の花挿しが壁に当たって砕け散り、音を聞いたダイスケは驚いて和久に飛び付いた……和久の胸に抱かれて怯えているダイスケを宥めて、夕子に近付いて行く和久。
「来ないでっ!」
 和久を一括した夕子は、雷雨の中に飛び出して行った……太閤楼で見せた、天才、茜 夕子を彷彿させる威厳を感じた和久は、制止する事も出来ずにダイスケを抱いたまま、その場に立ち尽くした。
 雨は激しさを増し、容赦無く振り続けている……飛び散った破片を片付け、夕子が摘んで来た花を別の花瓶に挿して、囲炉裏の縁に置いた和久。
 少しの時が流れ、和久は静かに戸を開けて外を見た……軒下で雨を避けていると思っていた夕子は、降り頻る雷雨の中で落雷に怯えながら、駐車場の電灯の下に佇んでいる……滝の様な雨の中、ずぶ濡れになって立っている夕子の姿に驚いた和久は、慌ててタオルを取り、ダイスケを残して駆け付けた。
 夕子に傘を差し掛けた和久。
「アホ! 何を遣ってるのやお前は!」
 一括して、夕子の頭にタオルを掛けた……和久を見た夕子は、綺麗な目に涙を滲ませて見詰めている……そして、次の瞬間。
「バカッ! 和さんのバカッ!」
 激しく和久の胸を叩き、子供の様に大声で泣き出し、和久に抱き付いて来た夕子……小刻みに震え、泣きじゃくる夕子をしっかりと抱き締めた。
「夕子、ごめんなっ……わしが悪かった! お前の気持ちは分かっていたのやが、何かをして夕子に嫌われるのが怖かったのや……」
 和久の言葉を聞いて、泣きながらも優しく見詰めた夕子は、顔を小さく左右に振って和久の胸に顔を埋めた。
「わしが悪かった、ごめんなっ夕子……風を引いたらあかんから、家に入ろうやっ! 風呂に入ろうなっ夕子、一緒に入ろう……」
 抱き締めている手に力を込めて、夕子の黒髪を手で梳かした。
「うん……和さん、ごめんねっ……酷い事を言ってごめんねっ……」
「心配せんでもええよっ夕子……」
 涙を流しながら和久を見詰めて、謝る夕子を優しく労わる和久。
「怒って酷い事を言った私なんか、嫌いになった? 和さん……」
 涙に濡れた目で和久を見詰め、心配そうに問い掛ける夕子。
「いいや、本気で怒った夕子が嬉しかった! 前よりもっと夕子が好きになった……」
 不安そうに見ている夕子を見詰めて、優しく語り掛けた。
「本当? 和さん……」
 夕子は、和久の言葉を確かめる様に問い直した。
「本当やっ! 誰よりも夕子が好きや!」
 夕子を見詰め、目を細めて答えた和久。
「良かったぁ……」
 降り頻る雨の中、和久を見詰めて目を瞑った夕子の唇に、和久はそっと唇を重ねる……少しの時が流れ、ずぶ濡れの夕子を連れて家に入った。
 和久と夕子を見たダイスケは、夕子の足下に来て、甘える様に尾っぽを振っている。
「ダイちゃんごめんねっ、大きな声を出して……」
 足元で甘えるダイスケを抱き上げて、頬ずりをする夕子……ダイスケは嬉しそうな仕草を見せて、夕子の頬を舐めた。
「夕子、着替えを持って風呂に入れや! 濡れた服を着替えんと風邪を引くでっ! わしも直ぐに行くから……」
 部屋に行き、着替えを持って出て来た夕子は、囲炉裏の火を整えている和久に微笑み、ダイスケを連れて風呂への階段を下りて行った。
和久が支度をして風呂に行こうとした時、風呂からの階段を駆け上がって、ダイスケが居間に飛び込んで来た……そして何かを知らせる様に吠えては風呂の方を振り向き、和久を見詰めている。
ダイスケの仕草に異常を感じた和久は、慌てて風呂に降りて行き、ずぶ濡れの服を着たまま脱衣場で倒れている夕子に驚いた。
「夕子、如何した! 大丈夫か?……」
 倒れている夕子の上体を起し、和久を見た夕子に大声で叫んだ。
「和さん、寒い……」
 か細い声で、呟くように言った夕子……和久は夕子の額に手を当てた。
「あかん、熱がある……夕子、ちょっと辛抱せいよ!……服を着替えんと駄目やからなっ!」
 和久の腕の中で震える夕子に言い、ずぶ濡れの服を脱がしたのだが、下着まで濡れている……全てを脱がした和久は、夕子の全身を拭いて着替えさせ、小柄な夕子を抱き上げて部屋に運んだ。
 寒がる夕子をベッドに寝かせ、毛布の上に布団を重ねた。
「和さん、寒い……」
「夕子! もうちょっと辛抱せいよ、武さんに来て貰うからなっ……」
 和久の言葉に頷いた夕子は、布団の中で震えながら力無く微笑んでいる……夕子を気遣って部屋を出た和久は武に連絡を取り、部屋の薪ストーブに火を熾して、氷枕で夕子の額を冷やした。
「和さん……和さん……」
 熱にうなされて、うわ言の様に和久の名前を呼ぶ夕子。
「夕子、心配せんでもええでっ……此処に居るでっ!」
 夕子の耳元で優しく言って、手を握り締めた和久……和久の言葉が聞こえたのか、夕子も手を握り返して来た。
「和さん、寒い……」
「夕子、もう直ぐ武さんが来てくれるからなっ! 辛抱するんやでっ!」
 和久の言葉に、少し笑みを浮かべた夕子は力無く頷いた。
 武を迎えに表に出た和久……雷雲は去って、激しく降っていた雨は止んでいる……朝霧の入り口付近を見詰める和久! その時、入り口を曲がって武の車が来た……車は駐車場に止まり、迎えに出ている和久を見て家に入った。
「武さん、こっちや!」
 和久の案内で、夕子の部屋に入る武と加代。
「加代、熱を測ってくれ!」
 注射の用意をしながら指示をする武……熱を計った加代は、少し驚いた様に報告した。
「四十一度もある!……」
 パジャマの袖を捲り、夕子の細い腕に注射をした武。
「加代、薬を飲ませて……」
 夕子の上体を起した加代は、小さな声で囁くように言う。
「夕子さん、薬を飲んで!……」
 加代の言葉に頷いた夕子は、出された薬を飲んだ。
「此れで少し様子を見よう。 和さん、心配は要らんよ! 直ぐに熱は下がるから……」
 心配そうに見ている和久を、安心させる武。
「うん……」
 武の言葉で安心した和久だが、返事は重たかった……暫くの間見守っていると、微かな寝息をして夕子が眠り始めた。
「薬が効いて来たようだ! 暫くは眠るだろう……」
 静かに部屋を出た三人は、囲炉裏の側に腰を下ろした。
「和さん、あんたも濡れたのだろう……此処は良いから風呂に入って来いよ! あんたまで風を引いたら大変だからなっ!」
 武の言うまま風呂に行った和久……風呂から出た和久は、脱衣場に置いて有る、濡れた夕子の衣類を持って居間に戻って来た……ダイスケは加代の膝に乗って目を瞑っている。
「武さん、加代さん、おおきに! あんたらも風呂に行ってくれや……何も無いけど、食事を作っておくから食べてくれや……」
 武と加代が風呂に行くのを見た和久は、食事を作って待っている……出て来た二人に食事を出した和久。
「武さん、加代さん、助かったわ……ほんまに、ありがとう!」
 和久は武に酒を勧めて、心からの礼を言った。
「何を言うのや和さん、友達や無いか!……なぁ加代!」
 武は笑って、和久の気持ちを和らげた……傍らの加代が小さく微笑み、和久に頷いている。
 食事が一段落したところで、加代が夕子の部屋に行き、頭を冷やしているタオルを変えて戻って来た。
「良く眠っていた! 熱も下がって来たみたい……綺麗な寝顔だった!」
 加代の言葉を聞いた和久は、安堵の表情を浮かべて盃の酒を飲み干した。
「和さん、何が有ったのだ!」
 武が重い口を開いて問い掛ける……武の問い掛けに、全てを話した和久。
「そうか、誇りか!……何となく分かる様な気がするよ。 派手な芸能界で頂点を保つには、誇りが必要なのだろうなぁ……」
 武は盃を傾けて、夕子に同情するように呟いた。
「あの小さな体で頂点を極め、持っていた誇りをズタズタにされたのに、良く耐えていたと感心するよ! やはり、茜 夕子はスーパースターだ!……しかし、酷い事をする男が居たものだなあ、和さん……」
 話振りは穏やかな武だが、体罰を加えた男に対して、言い様の無い怒りを抱いているように感じた和久である。
「そうやなぁ……本気で怒った夕子は、初めて会った時と同じ迫力があった! あの小さな体の何処に、そんな力が有るのかと思ったわっ……」
 思い出しながら話す和久は、何故だか喜んで居る様にさえ見える。
「武さん、夕子は怒りを取り戻したやろか?」
 期待はしているのだが、それとは別に、不安が大きく圧し掛かって来た様な問い掛けをした。
「うん、そうなら良いけどなあ……」
 自信が無さそうに答え、加代を見る武……加代は武と和久を見て微笑むだけで、膝のダイスケを撫でている。
「そうや! 武さん、来月の七日は夕子の誕生日なのや! 夕子には内緒でお祝いをしてやるつもりなのやっ……予定に入れといてくれや! 勿論、病が治っていたらの話しやがなっ……」
 和久は、病が治っている事を願って話した。
「七夕の日か……喜んで参加させて貰うよ、なあ加代……」
 加代は微笑み、和久を見て大きく頷いた。
「ありがとう……夕子が喜んでくれた太閤楼の料理を作って遣ろうと思っているのやっ、あんた達が来てくれたら夕子が喜ぶからなっ! 武さん、加代さん宜しくなっ……」
 快く承諾した武夫妻に、心からの礼を言う和久。
「そうか、天才料理人! 味の魔術師と言われた霧野 和久の料理が頂けるのか! 此れは楽しみが出来た、なあ加代……どうあっても夕子君には治っていて貰わなくてはなぁ……」
 武もまた、夕子の病が回復している事を願っているのである。
「太閤楼のお料理って、美味しいのでしょうねっ?」
 加代は、夕子の病が回復している事を確信している様に、武を見て聞いた。
 黙って頷く武に変わって、和久が笑いながら答える。
「加代さん、大した事はあれへんよ……気持ちを込めて作るだけのもんや!」
 和久は、調理の真髄を謙遜した様に話した。
「でも、日本一の料亭の味だから……」
 楽しみを待つ様に話す加代も、夕子の病が治ってる事を願っている……二人が帰り仕度を始めると、目を瞑っていたダイスケは、加代の膝からそろりと降りて囲炉裏の側で寝そべった。
「夕子君が目を覚ましたら、何か食べさせて薬を飲ませてくれ……」
 立ち上がった武は、和久に言って履物を履いた……何時もの様に不貞腐れているダイスケを抱いて、車の所まで見送りに行く和久……車のドアの前で立ち止まった加代は、不貞腐れているダイスケを見て微笑んでいる……そして、笑いながら和久から受け取り抱き締めた。
「ダイちゃん、また来るからねっ!」
 加代の言葉が分かるのか、機嫌を直して加代の頬を舐めるダイスケ。
 雷雲が去った後の夜空には大きな月が有り、月明かりが静かな朝霧を照らしている……武夫妻を見送った和久は家に戻り、ダイスケを居間に下ろすと、夕子の食事を作り始めた……準備を終えた和久は、夕子を冷やしている額のタオルを変えようと、ダイスケと共に夕子の部屋に入る。
 部屋の中は電灯が要らない位に明るく、眠っている夕子に、月明かりが優しく降り注いでいる……冷やしているタオルを取ると、気が付いた夕子が目を開けた。
「和さん?……」
 まだ記憶がはっきりしないのか、目を開けた夕子が虚ろに問い掛けて来る。
「うん、わしや……ごめんなぁ夕子、起してしもうたなぁ……」
 夕子の額に手を当てた和久は、微笑んで答えた。
「ずーと付いて居てくれたの?」
「うん、よう眠って居たなぁ夕子……武さん達は少し前に帰った。 熱も下がったし、もう大丈夫や!……」
 夕子の額に当てていた手を退けて、安心させる和久。
「和さん……」
 優しい眼差しで和久を見詰めた夕子は、愛しそうに和久の名前を呼んだ。
「夕子、汗を掻いてへんか?」
 和久に言われて体を起した夕子は、汗で湿っているパジャマに気が付いた。
「うん、汗掻いてる……」
「そうか! 急いで体を拭いて着替えなあかん……また、熱が出たら大変やからなっ」
 夕子に聞いて、着替えを取り出した和久は、絞ったタオルで夕子の背中を拭いてやる……そして、其のタオルを洗って夕子に手渡した。
「夕子、食事を作って来るから、着替えたら寝てるんやでっ……」
 食事を作る為に部屋を出た和久は、暫くして料理を持って戻り、部屋に有る木のテーブルに食事を置いた……夕子は、ダイスケを抱いて和久を見ている。
「夕子、其処で食べるか?……」
 和久の問い掛けに首を振った夕子は、ダイスケを膝から下ろし、ベッドから降りてテーブルの椅子に座った。
「寒うないか?……」
「うん大丈夫! 部屋が暖かいから……」
 微笑んで穏やかに応える夕子……和久は土鍋の蓋を取り『おじや』を注いで夕子の前に置いた。
「熱いから、ゆっくり食べるんやでっ……」
「うん……」
 愛しげな眼差しで見詰め、小さく答える夕子。
「美味しい!……和さん、此れは……」
 一口食べた夕子は、和久を見て問い掛けた。
「そうや! 夕子が思っているものや……あのスープで作ったのや! やっぱり夕子の味覚は大したものやなぁ……いっぱい食べるんやでっ」
 夕子を労わり、目を細めて勧める和久……お代わりをした夕子は、和久が注ぐのを見て涙を流している。
「如何したんやっ、涙なんか流したりして……」
 涙の意味が分からない和久は、夕子を見詰めて優しく問い掛けた。
「和さんが優しくしてくれるから……酷い事を言って怒った私を、大切にしてくれるから嬉しくて……和さん、怒ったりしてご免なさい!」
 泣きながら詫びる夕子。
「アホやなぁ夕子は……大切な人を、大切にするのは当たり前やないか!……其れになぁ夕子、怒りたい時には怒ったらええのやっ! 無理に笑う事なんか無いのや……夕子が本気で怒って、わしは嬉しかったのや……」
 夕子は、和久の慰めに泣きながら頷いている……泣いている夕子を見た和久は静かに立ち上がり、タオルを洗って絞り、泣いている夕子に渡した……渡されたタオルで涙を拭き、照れたように微笑んで食事を終えた。
 食事が終り、和やかに話す夕子と和久を、月明かりが優しく照らしている。
「薬を飲んで寝たらええ……ぐっすり寝たら、明日には治るからなっ!」
 薬を飲んだ夕子は、ベッドに上がり布団に入った。
「また星が見たい……」
 布団に入った夕子は、和久と見た満天の星空を思い出している様に、小さな声で呟くように言った。
「うん、夕子が治ったらキャンプに行こう……星を見に行こうなっ、そやからゆっくり寝るのやでっ夕子……」
 優しく労わる様に言った和久。
「和さん、本当に嫌いになってない?」
 不安そうな眼差しで、再び問い掛けた夕子。
「嫌いになんか成る訳が無いやんか!……夕子が一番好きや、世の中で夕子が一番好きや!」
 夕子の不安を取り除く様に、優しい眼差しで見詰めて微笑んだ。
「本当? 和さん……」
 愛しげに和久を見詰めて、問い質す夕子。
「本当や! 夕子が好きや!……さあ、ゆっくり寝るんやでぇ夕子」
 夕子を見詰めて優しく言い、夕子の綺麗な黒髪を撫でる和久……和久の言葉に安心した夕子は、爽やかな笑顔を投げ掛けて目を瞑った……夕子の頬笑みと綺麗な寝顔を見た和久は、目を瞑っている夕子の唇にそっと唇を合わせる。
 夕子が眠るまで部屋に居た和久は、布団の上で目を瞑るダイスケを残して部屋を出た……早朝、目を覚ました和久は、静かに夕子の部屋に入って行く……夕子は良く眠っていた。 布団の上で眠っていたダイスケは和久の足音で目を開け、和久の姿を見てベッドから飛び降りてきた。
 梅雨が明け、初夏の太陽が燦々と降り注いでいる朝霧の里……生い茂った青葉が光を浴びて、一層の青さを見せ付けている。
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第一章の(7)小説「雲海」

2015年09月03日 17時16分48秒 | 暇つぶし
 夕子が朝霧に来て、一ヶ月が過ぎようとしている。。
 桜の季節が過ぎ、新緑で山が緑に包まれ、うっとうしい梅雨の季節が近付いて来たが、夕子の病に進展は見られなかった……和久とダイスケに見せる笑顔を他の者に見せる事は無く、驚くほどの従順さだけを残して、時だけが空しく過ぎ去って行く。
 何時しか、夕子に関する報道も無くなり、浮き沈みの激しい芸能界で、夕子の存在も忘れ去られようとしていた。
 怒りを取り戻す為の糸口さえ見付けられない和久は、ダイスケと戯れる夕子をじっと見守っている。
 温かさを増して来た爽やかな風が、夕子の黒髪を撫でて木々を揺らしていた。
「夕子、武さんの所に行くけど、一緒に行くか?」
 ダイスケと遊んでいる夕子に、声を掛けた和久。
「いいよ和さん、ダイちゃんと遊んでいるから……」
 珍しく、和久の誘いを夕子が断った。
「そうか、そんなら行って来るわ! 直ぐに帰るからダイと遊んでいてなっ」
「はーい和さん、行ってらっしゃい!」
 大きな声で返事をし、和久を見送った夕子は、ダイスケと走り回っている。
 昼休みの診療所に着いた和久を、武夫妻が迎えてくれた……台所の椅子に座り、出された茶を一口飲んだ和久は、大きな溜め息を吐いた。
「和さん、どうした? 溜め息など吐いて……それより、夕子君はどうだ?」
 和久の悩みを察っした武は、元気付ける様に問い掛ける。
「うん、夕子は元気や! ダイスケと遊んどるよ……だがなぁ武さん、如何したら良いのか見当も付かんのやっ! 如何したら良いのかなぁ……」
 ほとほと困り果てた様に問い掛ける和久。
「うん、如何したら良いのかなぁ……」
 名案も浮かばずに、考え込んでいる武と和久。
「和さん、夕子さんの身の上なんか聞いた事が有りますか?」
 傍らで黙って聞いていた加代が、さり気無く問い掛けて来た。
「いや、聞いた事は無いわ! 今までの事は嫌な思い出として、持っているやろと思っていたから……」
 加代の問い掛けに答えながら、少しだけ糸口を見出した様に感じた和久。
「そうか! 加代! 良い所に気が付いた……和さん、其処の所に何か糸口が有るかも知れんぞ!」
 少し興奮した様に言った武。
「うん、そうやなっ! そうして見るか! 加代さん、おおきに!」
 此れと言った糸口が見えない中で、加代と武の言葉に、僅かな光明を見た和久である……少しの期待を抱いた和久は、診療所を出て朝霧に帰って来た。
 河原で遊んでいるダイスケを、笑いながら見ている夕子は、和久が帰って来た事に気付いていない……夕子の背にそっと近付き、驚かせる和久。
「わっ!」
「きゃー……」
 驚いて大声を上げた夕子は、和久を見て和久の胸に抱き付いた。
「あっはっはっ、ごめんごめん……驚いたか? 夕子……」
「もう、和さんは! 心臓が止まるかと思った!」
 少し膨れっ面を見せた夕子だが、目は優しげに微笑んでいる……そして、河原で遊んでいたダイスケは、夕子の悲鳴を聞いて土手を掛け上がって来た……駆け上がって足に纏わり付いているダイスケを抱き上げる和久。
「夕子、支度をしてキャンプするか?」
 和久は夕子の過去が、少しでも解ればと言う思いで誘った。
「うん、何処でするの? 和さん」
「山頂の山小屋やっ! 星が綺麗やでぇ……今日は天気が良いから、綺麗な星空が見えるわ!」
「わー嬉しい! 山小屋で寝るの?」
「そうや、囲炉裏に火を熾して、餅や椎茸を焼いて食べるのや! 美味いでぇ夕子」
「わー良いな良いなっ! 和さん、早く行こう!」
 子供の様に喜び、はしゃぐ夕子。
「よっしゃ、行くでぇ……わしは美味しい酒を持って行くのや!」
「わー和さん、私もお酒飲みたい!」
「うん、分かっとるよ夕子! そんなら支度をして来るから、もうちょっとだけダイスケと遊んでいてなっ……」
「はい! ダイちゃん行くよ!」
 喜んだ夕子は、嬉しそうにダイスケを連れて山女の所に行き、山女に吠えるダイスケを見て笑っている。
 急いでキャンプの支度を整えた和久は、山女の所で遊んでいる夕子とダイスケを呼んだ。
「ダイスケと風呂に行って来いやっ! 風呂から出たら出発や!……夜はまだ冷えるから、厚手の物を持って行く方がええでっ」
 夕子とダイスケが家風呂に行くのを見て、和久も家族風呂に行く……先に風呂から出た和久は、囲炉裏の火を消して夕子とダイスケを待っている。
 灯が沈むまでには、まだ時間が有る……暫く待っていると、ダイスケと一緒に夕子が風呂から帰って来た……夕子は待っている和久に微笑み、着替えを取りに部屋に行った。
 着替えを済ませて、部屋から出て来た夕子……夕子は笑みを浮かべて和久の前に来た。
「和さん、お待たせ!」
 和久に挨拶をして、にっこり微笑んだ顔は、人を引き付けて和ませた天才、茜 夕子の笑顔であった……和久は、夕子の笑顔に見入っている。
「和さん、どうかした? 私の顔に何か付いている?」
 自分の顔に見入ってる和久を見て、問い掛けた夕子。
 夕子の問い掛けに、ふっと我に返った和久。
「あっ、いやっ……あんまり夕子が綺麗やから、見惚れ取ったのや!」
 咄嗟に本音を漏らした和久。
 夕子は少し顔を赤らめた。
「またまた和さんは!……お世辞を言っても何も出ませんよ!」
 照れながらも、微笑みながら言った夕子。
「何や、何も出んのかい!……褒めて損したわ……」
 和久は、本音を気取られない様に惚けた。
「もー和さんは、素直じゃないのだから……」
 顔を赤らめて、恥ずかしそうに言った夕子……だが、少しの冗談が言える様に成っただけでも、多少は進展しているのかと思う和久である。
「そうやっ! 大好きな夕子に見惚れていたのや!……さあ、ぼちぼちでかけようか夕子!」
 恥らいながらも、茶化した様に本音を漏らした和久……夕子は和久の言葉に頬を赤らめている。
 荷物を持って家を出る和久と夕子……ダイスケは一足先に出て山女と遊び、通り過ぎる二人を見て、慌てて追い掛けて来た。
 山頂に着き、山小屋に荷物を下ろした和久は、小屋の戸を開けて囲炉裏に火の用意を始める……そして、湧水を汲みに行き準備を整えた。
 準備が終り、小屋を出た和久と夕子は、雲一つ無い天空を見詰めている。
「広いねぇー和さん……」
 自然の雄大さを目の当たりにした夕子は、ぽつりと呟いた。
「そうやなぁ……夕子の歌と同じで、気持ちを和ませてくれるなぁー」
 夕子の肩に手を添えた和久は、始めて歌に触れて見た。
「私の?……」
 驚いたような顔をし、和久を見詰めて問い掛ける夕子。
「うん……夕子の歌と笑顔は、聞く人や見る人に、安らぎと希望を与えてくれる……心に安らぎをなぁ。 わしも、夕子の歌に慰められて、勇気を貰ったからなあ……」
 遥か彼方の山影を見詰めながら、夕子を諭すように話す和久である。
「和さん……」
 消え入る様に和久の名を呼んだ夕子は、肩に置かれている和久の手に、そっと手を重ねた。
 沈む大きな夕日が、山頂で佇む二人を照らし、探索しているダイスケを照らしている……日が沈み、うす暗くなった山頂から、消えかかる遥かな連山を見詰める和久と夕子。
「少し冷えて来たなあ……小屋に入ろうやっ!」
「うん、ダイちゃん行くよ!」
 山小屋に入り明かりを点けた和久は、囲炉裏に火を熾した……アミ置きにアミを乗せ、自在鉤に鍋を吊るして湯を沸かし、五徳に置いた鍋でスープを温めた……アミの上には、椎茸や玉ねぎの輪切り、サツマイモの輪切りや猪肉を乗せ、炭火の周りに山女の串刺しを刺した。
「夕子、此れを先に飲み……」
 ダイスケを膝に乗せ、囲炉裏の側に座っている夕子に、温まったスープを手渡した和久。
「美味しい! 持って来てくれたの和さん……嬉しい……」
 スープを飲んだ夕子は、愛しげな眼差しを和久に投げ掛けている。
「ダイ、ご飯やでっ!」
 目を瞑っていたダイスケは、夕子の膝からそろりと降り、和久の顔を見て食べ始めた。
 外は闇に包まれ、囲炉裏の火が山小屋の中を温かく包んでいる。
 食事の途中で外に出た和久。
「夕子、来てみっ! 綺麗やでっ!」
 大きな声で夕子を呼んだ……ダイスケと共に小屋を出て来た夕子は、夜空を見上げて佇んだ。
「綺麗……」
 ぽつりと呟いた夕子の眼前に、宝石を散りばめた様な星空が無限に広がっている……遮るものが何も無い、山頂からの星空は遥か彼方まで続き、終りの無い天空が幻想的な奇跡を見せ付けていた。
 着ていた上着を脱いで夕子に掛け、夕子の肩に手を廻した和久。
「綺麗ねぇ、和さん……」
 放心した様に呟いて、満天の星空を見詰めている夕子。
「うん、綺麗やなぁ……夕子の心と同じや! そやから、あれだけの歌が歌えるのやろなぁ……」
「和さん……」
 和久の横顔を見る夕子は返す言葉を失い、小さく名前を呼んで遠くで輝く星に視線を移した。
 まるで宇宙の中心に居るかのように、周りで輝く星を見ている和久と夕子。
「ちょっと寒むなったなぁ、小屋に戻ろうやっ……飲み直しや!」
 夕子の肩を抱き、ダイスケと共に入った山小屋は、別世界の様に温かい……囲炉裏の側に座った夕子を見て、空に成っている夕子のグラスに酒を注ぎ、挿していた山女の串を返す和久。
「山女の塩焼きも食べ頃や、椎茸も返して醤油を掛けて焼くと美味いのや! 一杯食べるのやでっ夕子!」
 酒を一口飲んで、焼けた椎茸を食べる夕子。
「おいしい! お醤油だけでこんなに美味しいの?」
 夕子は、醤油だけで焼いた椎茸を食べて感動した様に言った。
「そうや! 醤油は最高の調味料やからなぁ……良い素材の物は、あんまり手を掛けん方が美味いのや! 何でもそうやけど、手を掛け過ぎるのは、あんまり良うはないわなぁ……」
 料理の話をしながらグラスの酒を飲み干し、酒を注いだ和久は、優しい眼差しで夕子とダイスケを見ている。
 静かな山頂の夜は、深々と更けて行く。
「和さんは良いねっ……」
 和久を見詰めて、ぽつりと言った夕子。
「何がや? 夕子……」
 酒を一口飲んだ和久は、夕子を見ながら、穏やかな口調で問い掛けた。
「お料理が出来るから……」
 夕子は、羨ましそうに言う。
「あっはっはっ……夕子、こんなのは時間を掛けたら誰にでも出来るでっ!」
 夕子の心情を察した和久は、諭すように答える。
「ねぇ、和さん……和さんは如何して料理人に成ろうと思ったの?」
 夕子の身の上を少しでも知ろうと、夕子の問い掛けに応える和久は、夕子を見詰めて視線を逸らした。
「そうやなぁ、食う為かなぁ……料理人に成ったら、ひもじい思いをせんでも良いと思ったのや! そしてなっ、料理人に成るのやったら大阪やと思って、アルバイトで貯めて金を持って汽車に乗ったのや!……両親が亡くなって身寄りが居らんかったから気楽やった!」
 和久の話を、頷きながら黙って聞いている夕子。
「大阪に着いて街を見物してなっ……腹が減ったから、飯を食べようと思って金を探したら有れへんのや! 何処かで落としたのやろなぁ……夕方まで腹を減らして歩いていたら、赤提灯が目に入って来た。 中を見たらお客さんで一杯やった……働かせて貰おうと思って店に入ったら、調理場に小母さんが一人居てなっ、洗い物が流しに一杯積んであるのや! わしは小母さんに頼んだ(お金は無いけど、ご飯を食べさせて下さい! その分働かせて下さい!)と言ってなっ! そしたらご飯とおかずを出してくれた……わしは先に仕事を! と言ったけど、先に食べてからや! と言われて食べた。 洗い物が済んで、カウンターに座っていた小父さんの横に座ったら、その小父さんが色々と聞いて来た! わしが答えたら大きな声で笑い出してなっ、わしを家に連れて帰ったのや!……その小父さんは太閤楼のご主人やったのやっ! 女将さんと二人で本当の子供の様に可愛がってくれた。 調理を教えてくれてなっ! 厳しかったけど優しいご主人やった……」
 話す和久の目に涙が滲み、聞き入っている夕子の眼差しを避ける様に、グラスの酒を飲み干した。
「わしはご主人と女将さんの期待に応えようと、寝る間も惜しんで修行した。 そやけど、上手くいかん事も有って考え込んだりした。 そんな時に夕子の歌を聞いたのや! わしは身震いがした……こんなに若い歌手が、心を揺さ振る歌を歌う事になっ!……夕子の歌に勇気づけられ、和まされてなぁ……そして太閤楼の料理長に成った時に、夕子が来てくれたのや! わしが出した料理が解ってくれた時、わしは思った! 料理人に成って良かったと……」
 和久の話を聞き、そっと目頭を抑える夕子は、愛しげに和久を見詰めた。
「和さんは、如何して太閤楼を出たの?」
 和久の全てを知りたい様に、問い掛ける夕子。
「うん、先代の息子さんに太閤楼を任せたくてなぁ……大恩が有るご主人と女将さんに、万分の一でも御恩返しが出来たらと思ったのや!」
「優しかったのねっ、ご主人と女将さんは……和さんに逢わせて欲しいってお願いした時も、気持ちを分かってくれて会わせてくれたから……」
 夕子は、和久と会わせてくれた太閤楼の女将、麗子の事を思い出して懐かしんだ。
「うん、優しかった!……わしが見習いの頃やが、ダイコンの桂剥きが出来んでなぁ、ご主人に叱られて調理場を飛び出した時の事や……店が終り、調理場の明かりが消されても、わしは庭に在る大きな木の下に居った……腹が減ってなぁ、家に入りとうても入れへんのやっ! そしたら女将さんが来てくれたのや(お腹が空いたやろ?)言うて、調理場に連れて行ってくれた……そしてご飯を食べさせてくれた! わしは嬉しゅうて泣きながら食べた! そしたら女将さんが(和久、初めから出来る人は居らんよ! 遅いから食べたら寝なさい!)そう言うて、わしの頭を撫でてくれてなぁ……わしは食べた後で、泣きながら朝方まで練習をしたのや!……その様子を、ご主人が見ていてくれたのや! 後で知って涙が止まらんかった!」
 話を聞いている夕子は、愛しげな眼差しを投げ掛けている。
「そんな時やった、夕子の歌が慰めてくれたのは……魂を揺さ振る夕子の歌がなぁ……」
「和さん……」
 見詰めていた夕子は、和久の胸の内を聞いて、消え入る様な声で和久の名前を呼んだ。
「わしが太閤楼の調理場を任された時、夕子は歌謡界の頂点に居った! 夕子は輝いとった!……其の時にわしは思ったのや! 太閤楼の名声を上げたら、必ず夕子が食べに来てくれる! いや、わしの調理する料理を夕子に食べて欲しい! 夕子の歌に負けん様な料理を作るのや! そう思って精進したのや!」
 和久は、誰にも話した事の無い過去を夕子に話した……其の思いを聞いた夕子は目に涙を溜めて和久を見詰め、側に来ると子供の様に泣き出して抱き付いて来た……泣きじゃくる夕子を受け止めて抱き締めた和久は、夕子の黒髪を優しく撫でた。
「和さん、ありがとう!……私は一人じゃ無かったんだ! 和さんが居てくれた! 和さん……」
 涙に濡れた瞳で和久を見詰め、思い詰めた様に呟いた夕子。
「そうや! 夕子、夕子は一人や無いでっ! 何が有っても、わしは夕子の味方や! 夕子の為やったら百万の敵にも向かって行ける! 其れに夕子を守るダイスケも居る……さぁ、もうちょっと飲もうか!」
 努めて明るく振舞う和久は夕子を座らせて、空に成っている夕子のグラスに酒を注いだ。
 一口飲んで、囲炉裏の縁にグラスを置く夕子。
「私は此れまで一人だった……小さい頃から歌の練習で、友達と遊んだ事も無かった。 歌手に成って歌が売れ出すと、人は寄って来たけど、私の事を本心から心配してくれる人は居なかった! 私を利用する為だけだった……」
 寂しそうな顔をして、過去を離す夕子。
「ヒット曲が続けば続くほど、孤独に成って行った……悩みを相談する人も居なくてねっ! だから、お客さんの前で歌っている時が一番楽しかった。 有名に成るに連れて、行動や言動を指図された! 私は自由で居たかったのにねっ……」
 夕子は悲しげな眼で和久を見詰め、俯いて話を続けた。
「公演に行く先々で、高級な食べ物屋さんに案内された! 私の体調に関係無く、普通にお料理が出されてねっ……そして、無理が重なって大阪公演で倒れたの!……回復して、和食が食べたい! と言った私を、後援会の会長さんが太閤楼に連れて行ってくれた。 私は、何処のお料理も同じだろうと思っていた……初めに出されたスープを見て、不機嫌に成った私に変わって、社長が女将さんに聞いたの……女将さんは(茜様の体調を思い料理長が調理しました、食して下さいませ!)って信頼し切って言われた……私は、スープを頂いて感動した……目に見えない優しい大きな物に、体が包まれている様な安らぎを感じたの……会った事も無いのに、私の体を思って作られたスープが嬉しくて泣いてしまった……出された全てのお料理に、優しさを感じたの……」
 夕子は話しながら涙を拭った。
「そしてねっ……」
 言い掛けたが、涙で後が続かなかった夕子。
 ゆっくりと立ち上がった和久は夕子の側によって、泣いている夕子の肩をそっと抱いた。
「そうやったのか……やっぱり夕子は優しいのやなぁ! わしも嬉しかった! 夕子が料理を分かってくれて……」
 泣いている夕子の肩を抱いて、囁き掛ける様に言った和久。
『和さんだけだった! 私の事を本当に心配してくれたのは……嬉しかった、本心から心配してくれる人が居てくれる事が分かって……でも、芸能界に戻って忘れてしまったのね! 神様の罰が当たったのよねっ!……どうして、あんな人と結婚したのだろう……』
 当時を思い出して結婚を悔やみ、拳を震わせて顔を伏せる夕子。
「夕子……神さんは罰なんか当てへんよ! 夕子に試練を与えただけや……」
 体罰を受けた事を思い出し、込み上げて来る怒りを抑える夕子に、優しく語り掛ける和久。
「試練?……」
夕子は、伏せていた顔を上げて和久を見詰め、小さな声で問い掛けた。
「そうや! この試練を乗り越えてみっ! 言うてなっ……」
 和久の言葉に、顔を曇らせる夕子。
「心配せんでもええ!……超えられん様な試練は与えられへんから……この試練を超えれたら夕子はもっと大きゅうなる! 今まで以上に良い歌が歌えるようになる!……」
 夕子の心配を取り払い元気付ける和久! 和久の気持ちを理解した夕子は、穏やかな眼差しを投げ掛けて頷いた。
「和さん、星が見たい……」
 気が楽に成ったかのように、夕子は微笑んで甘える様に言った。
「よっしゃ、行こう! 外は寒いから上着を着てなっ!」
 二人が外に行くのを見て、慌てて追い掛けて来たダイスケ。
 風も無く静まり返った山頂で、星空を見詰める和久と夕子……夕子は大きく息を吸い込み、何かを吹っ切る様に深呼吸をした。
和久の横顔を見て、無限の星空に視線を移した夕子。
「綺麗ねぇ和さん……あっ流れ星! 和さん、見たぁー?」
 夕子の声と同じくして、大きな流れ星が一つ、光りながら二人の頭上を流れて行った。
「うん、見たよ!……夕子に幸せをくれたのや!」
 さり気ない和久の優しさに触れた夕子は、佇む和久の手を、そっと握り締めた……静かな時が流れ、満天の星空を見詰めている二人に、星明かりが優しく降り注いでいる。
「和さん、お酒が飲みたくなった! お腹も空いて来た……」
 何かが吹っ切れた様に、爽やかな笑顔の夕子が甘える様に言った……山小屋に戻って酒を飲み、和久と話す夕子の笑い声が、星空に響き渡る爽やかな夜である。
 翌日、和久は陽が昇る前に目を覚ました……夕子とダイスケは、囲炉裏の側で眠っている。
 静かに戸を開けて外に出た和久! 昨夜見た満天の星空に代わり、見事な雲海が和久の眼前に姿を現している……まるで、山水の世界に迷い込んだ様な幻想的な風景である……真っ白い雲の海が果てしなく続き、雲の間から出ている山脈が点在する島の様に見えている。
 小屋の戸を開けて夕子を起こした和久。
「おはよう和さん……随分早いのねっ!」
 夕子は目を細めて、爽やかな笑顔を投げ掛ける……側で寝ていたダイスケも目を開け、大きなあくびをして伸びをしている。
「夕子、外に出てみっ! 凄い雲海や!」
 興奮して夕子を誘う和久。
「雲海?……」
「そうや! 雲海や! わしも初めて見たわ……」
 和久に誘われ、上着を羽織って外に出た夕子は、眼前に見える自然の奇跡に声を失い、ぼーぜんと立ち尽くした。
「綺麗!……」
 ぽつりと呟く夕子の前で、静かに上下を繰り返す雲の海は、大海原の波の様に見え、山頂に佇む二人を優しく包み込んでいる。
 陽が昇り、光が雲海を照らし始めると、雲は御伽の国に居る様な色彩に変わって行った。
 佇みながら、自然の奇跡を見詰める夕子……朝日に照らされ、雲海を見詰める夕子の瞳は、夢を追い掛け、夢を見続けた幼い日の少女の様に輝いている。
「ありがとう……和さん」
 眼前の奇跡を見詰めて、小さな声で呟くように言った夕子。
「・・・・・・・」
 消え入る様に呟いた夕子の気持ちを察した和久は、優しく肩を抱き寄せて無言で頷いた……山頂に佇み、雲海に魅せられた二つの影が、照らす光を浴びて一つになった。
 
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第一章の(6)小説「雲海」

2015年09月03日 17時06分36秒 | 暇つぶし
社長達を見送り家に入った武は、夕子を診察する為に、加代と共に夕子の部屋に入って行く。
 不安の中、後に残った和久は囲炉裏の側に座って結果を待っている。
 少しの時が流れ、悲痛な面持ちで夕子の部屋から出て来た武。
「武さん、如何したのやっ!」
 尋常でない武を見て、恐る恐る聞く和久。
「うん、健康には問題無いが体罰の痕が有る、消えかかってはいるのだが……此れは厄介な事に成った! 我々はとんでもない事に関わったようだ!」
 気落ちした様に話す武。
「以前話した患者には体罰は無かった! だが……」
 武は、言い掛けて言葉を飲み込んだ。
「武さん! だから如何なのやっ!」
 語気を荒げて問い掛ける和久。
「体罰によって怒りを拘束されたのだ! そして、笑いを強要されたのだ! 何と言う事を……」
 説明をする武の拳が震えている。
 しばし沈黙が続いた後、目を真っ赤にした加代が夕子の部屋から出て来た。 そして、囲炉裏の側に居たダイスケを抱き締め、何も言わずに俯いている。
「武さん、わしなあ……何かの本で読んだ事が有るのや(あらゆる生き物の中で、人間だけに忘却する能力が有る)と書かれていたのを……」
 武が言った言葉の重さを知りながら、僅かな望みを見つけるように和久が言った。
「加代さん、夕子は?」
 加代を労わる様に聞いた和久。
「うん、あんな目にあったのに私を見て作り笑いをするの……見るに忍びなくて……」
 加代は涙を流しながら言い、行動に移した人物を恨んだ。
 和久の言葉を理解した武は、少し落ち着きを取り戻していた。
「そうだなぁ、和さんの言う通りかも知れない! 人間は忘れる事が出来るのだ。 医者のくせに恥ずかしいよ……ただ一つの光明としては、ダイスケと触れ合った時の笑顔だ! あの笑顔は本物だ! ダイスケには警戒心が無く心を許しているのだ……和さん、其処の所に解決の糸口が有るかも知れないなぁ」
 自分が感じていた事を言われて、少しの希望が湧いて来た和久。
「加代さん、夕子と風呂に入ってくれへんやろか……車の長旅で疲れている筈やから! 武さんは家族風呂に入ってくれ。 風呂から上がる頃には食事が出来るから、一緒に食べてくれや……」
 加代は夕子を呼び、ダイスケを連れて家風呂に降りて行き、二人を見た武は家族風呂に行った。
 食事も終わり、何事も無かったように話している四人……会話に加わっている夕子は、時折見せる作り笑いと、驚くほどの従順さ以外は何の支障も無く、ダイスケに優しく微笑み掛けている。
 夜も更けて、武夫妻を見送った和久と夕子は、囲炉裏の側でダイスケと遊んでいた。
 夕子の過去には一言も触れず、優しく微笑み掛ける和久。
「夕子、疲れたやろ? 休んだらどうや……」
 和久の言葉に頷き、膝の上に居るダイスケを抱いて立ち上がった夕子。
 ドアを開けて、部屋に連れて行く和久。
室内は、川の側に作られている電灯の明かりと、差し込んで来る月明かりで、室内灯が要らない位の明るさである。
部屋に入っても、ダイスケを離さない夕子を見た和久は微笑んでいた。
「ダイスケと一緒に寝たらええ……ダイスケの用足しやったら、専用の出入口が在るから大丈夫や」
 驚いて聞いている夕子に、ドアの下に在る出入口を教えると、少し笑みを浮かべて頷いていた……此の家のドアには、ダイスケが自由に出入り出来る様に、専用のドアが有る事を教えた。
 夕子の要望で、カーテンは開けたまま部屋を出る和久。
 和久は朝食の下準備を済ませて、家風呂に降りて行く……湯音がする湯船に身を沈め、照明灯の明かりが揺らぐ川面を、ぼんやりと眺めている和久。
 小川のせせらぎが心地良く、風で揺れる木の葉の音が、一時の安らぎを和久に与えてくれている。
 目を瞑ると、昨日からの出来事が思い起こされる……此れから起こるであろう事を想定しながら、大きな溜め息を吐いた和久は風呂から上がり、囲炉裏の側で酒を飲み、武の言葉を思い起こしていた。
 武が言うように(とんでもない事に関わったのか!)と、自問自答をしながらも、後戻りが出来ない現実を噛み締める和久である。
 だが、夕子の感情を取り戻す為に、何から手を付ければ良いのか! 何をすれば良いのか! 武でさえ手を焼く難題に対して、見当さえ付かない自分に、腹立たしさを覚えるのも事実であった。
 考え込んでいた和久が何気無く横を見ると、何時の間に来たのかダイスケが夕子の部屋から出て来ている。
 ダイスケは和久を見て、甘えるように膝の上に乗って来た。
 ダイスケの全身を撫でる和久。
「ダイ、お疲れさん……」
 耳元で労うと、安心した様に和久を見て眠り出した。
 ダイスケを膝に乗せ、静寂を楽しみながら飲んでいた夜半、突然夕子の部屋から悲鳴にも似た叫び声がした……驚いた和久が夕子の部屋に入ると、寝ている夕子が涙を流して叫んでいる。
「いやー止めて! ご免なさい! 止めて、止めて! 貴方止めて! 和さん助けて! 和さん!」
 夢を見て夢の中で助けを求め、涙を流している夕子。
武が言った体罰の夢を見ているのだろう……昔、一度だけ会った和久に助けを求めているのだろう。
居た堪れなくなった和久は、泣き叫んでいる夕子を抱き起こし、小刻みに震えている夕子を抱き締めた。
「大丈夫や夕子! わしや! 和久や!」
 抱き締めながら背中を撫でると、夢の中に居るはずの夕子が力を込めて、しがみ付いて来た。
「夕子! もう大丈夫や! 心配せんでええ……心配せんでええでぇ……」
 和久の言葉が伝わったかのように、震えながら力を込めて抱き付いていた夕子の力が弱まり、安らかな寝顔に変わって行った……人を恨んだ事の無かった人生で、夕子から歌を奪い体罰を加えた人物に、心底からの怒りを覚えた和久である。
 夕子は和久の腕の中で、安心した様に眠っている……穏やかな寝顔を見た和久は、夕子をそっと寝かし、暫くの間見守っていた。
 静寂の中、微かに聞こえて来る夕子の寝息に、安心した和久は静かに部屋を出た。
 囲炉裏の側に座り、何事も無い事を祈りながら眠りについた和久。
 早朝、囲炉裏の側で寝ていた和久は、聞き慣れない物音で目を覚ました……周りを見回すと、台所で夕子が何やらしているのが見える。 
声を掛けると、驚いたような顔をしたが、直ぐに作り笑顔で挨拶を返して来た……どうやら、昨夜の事は何も覚えてはいないようだ。
何から手を付ければ良いのか、見当もつかない和久は、朝食の用意をしていると言う夕子を、山頂への散歩に誘う事にした。
日が昇るまでにはまだ時間が有る……ダイスケは慣れたもので、外に出て和久を呼んでいる。
「夕子、ダイスケが散歩に行こうと言っている! 一緒に行かへんか? 朝日が綺麗やでぇ……」
 ダイスケに託けて誘って見た和久。
「はい、直ぐ支度をしてきます!」
 驚くほど従順な夕子は、朝食の支度を止めて部屋に行き、着替えを済ませて居間に来た……外はまだ暗い! 竹の水筒に水を入れ、山頂に続く階段の明かりを点けた和久。
 暗闇に照らされた山頂への階段は、木々の色彩と相まって幻想的でさえある。
「綺麗……」
 目を輝かせて、ぽつりと呟いた夕子。
 先に上がって行ったダイスケは、何時もの様に、小川の山女に向かって吠えている。
 夕子の手を取って、ゆっくりと上がって行く和久。
 山頂近くに来ると、山女に飽きたダイスケが二人を追い越して山頂に行き、
和久達に向かって吠えている。
「夕子、大丈夫か? 足は痛とうないか?」
 労わりながら声を掛ける和久。
 額に汗を浮かべて階段を上がる夕子は黙って頷き、ぎこちない笑顔を投げ掛けて来た。
 山頂に着くと東の空が白み始め、真赤な朝焼けが二人を迎えてくれた。
 持って来たタオルと水筒を夕子に渡し、朝焼けに向かって大きく深呼吸をした和久。
 夕子は額の汗を拭き、水筒の水を飲んだ。
「美味しい……」
 感慨深げに言い、澄み切った山頂の空気を思い切り吸い込み、深呼吸をしている……ダイスケに水を飲まし、夕子が使ったタオルで額の汗を拭き、水を飲んだ和久。
 水を貰って安心したダイスケは、夕子に甘えて走り回っている。
「ダイちゃん! おいで!」
 走り回るダイスケを、笑いながら追い掛けている夕子の笑顔は、紛れも無く太閤楼で見せた笑顔であった。
 朝焼けが消えて、幾重にも連なる山脈の向こうから朝日が昇り始めた……太古の昔から続く壮大な自然の営みを目の当たりにして、何かを祈る様に手を合わせている夕子。
 朝日に照らされた夕子の顔は、菩薩の様に眩しく輝いている……だが、毎夜夢に魘されて泣き叫び、太閤楼の和久に助けを求める姿は変わらなかった。
 寝食を共にして五日目の朝、山頂で手を合わす夕子に、微かな変化が見えて来た……和久にもダイスケと同じ笑顔を見せ始めたのである。
 山頂の広場を探索しながら走り回っていたダイスケは、和久の足下に座り込んだ……そして、和久に入れて貰った器の水を飲み、再び探索に出掛けたダイスケは、目を閉じて手を合わせている夕子を見上げて見詰めている。
 可愛い目で自分を見ているダイスケに気が付いた夕子は、ダイスケを抱き上げ、笑みを浮かべて和久に近付いて来た。
 側に来た夕子に抱かれて、安心しているダイスケの頭を撫でる和久。
「何か願い事でもあるの?」
 ダイスケの頭を撫で、空の彼方に視線を移しながら優しく問い掛けた。
 少し恥じらって頷いた夕子。
「昔、一度だけお会いした人だけど、もう一度逢わせて下さいって……」
 言った後で、悲しそうな表情を見せた夕子。
「そうか……夕子の大切な人か、その人は……」
 和久の問い掛けに、当時を思い出しながら話し始めた夕子。
「その人は、大阪の料亭太閤楼の料理長で、和さんって呼ばれていました……」
 夕子はその時の経過を話した。
「そうか! そんなに美味しいスープやったのか?」
「はい……優しい大きなものに抱かれている様な……それに、私に出されたお料理には全て火が通されていた。 和さんの気遣いが嬉しくて、女将さんに無理を言って会わせて頂いたの……そして、二度と太閤楼では出せない! と言われたスープの事を尋ねたら(大切な人にしか作らない!)って言ってくれたの……こんな私を、大切な人だと言ってくれた。 そしてねっ(私の歌が有ったから此処まで来れた!)って……此処に居てくれる和さんと同じように、優しくて温かい目で見てくれたの……」
 話している夕子の目に、宝石の様な涙が滲んで来た。
 そっと夕子の肩を抱いた和久。
「そうやったんか……そやけど、その和さんも夕子に逢いたがっているかも知れんなぁ……」
 和久は、夕子が自ら思い出すまで待とうと思っていたのである。
「でもね和さん、もう歌は歌えないし! 汚れてしまったから……」
 ダイスケを抱き締めている夕子は、和久の胸に顔を埋めて泣き出した。
 夕子の背を優しく摩る和久。
「そんな事は無い! 夕子は少しも汚れてなんか無い……綺麗な優しい心が有る! それに、元気に成ったら歌は歌える……苦しんだ分、もっとええ歌が歌えると思うよ……」
 和久の言葉を噛み締めている夕子。
「本当に? 私、汚れてない?」
 和久を見詰め、確かめる様に問い掛ける夕子。
「うん、少しも汚れてなんか無い! 夕子が汚れていたら、ダイスケが懐かんよ!」
 涙ぐんでいる夕子を見詰め、諭すように話す和久。
「良かったぁ……和さん、有難う……」
 満面の笑みを浮かべ、和久を見詰める夕子。
「さあ、腹も減ったし帰ろうや! ダイ、何時まで抱かれてるのや!」
 ダイスケの頭を軽く叩くと、にっこり微笑んだ夕子が、そっとダイスケを下ろした。
 和久とダイスケには、昔の笑顔を取り戻した夕子だが、夢を見て泣き叫ぶ夜は続いている。
 久し振りにソバと押し寿司を作った和久は、武夫妻を昼食に招いた……だが夕子が二人に見せた笑顔に変わりは無かった。
 食事が済み、夕子と加代は外でダイスケと遊んでいる。
「夕子君が来てから一週間か! 先程見せた笑顔ではなぁ……まあ、難しいのは初めから分かってはいたが……」
 武は気長に遣れよ! と言いたかったのだろう。
 此れまでの経過をつたえる和久……聞いている武に同情の色が見て取れる。
「だがなぁ武さん、毎晩夢を見て泣き叫ぶ夕子が哀れでなぁ……見守る事しか出来ん自分が情けのうてなぁ、出来る事なら代わって遣りたいと思うでっ!」
 辛い身の内を明かす和久である。
「うん、しかしなあ和さん……あんたとダイスケにだけでも、昔の笑顔が戻って来たのなら、少しは希望が出て来たという事だ! 希望は有る!」
 武に励まされたが、自信が無さそうに頷く和久。
 翌日、夕子とダイスケが小川沿いの探索に出掛けている時に、待っていたスープの食材が正晴から届いた。
 早速調理に掛かる和久……二日後、出来上がったスープの味見をした和久は大きく頷いた。
「美味い! 太閤楼で作った味と同じやっ!」
 和久は外で遊んでいる夕子とダイスケに留守を任せて、診療所にスープを持って出掛けた。
 診療所の横に在る武の家に上がり、台所を借りてスープに火を通した和久。
「此れが皇帝料理のスープや! 太閤楼で一回だけ作ったスープや、武さん、加代さん、飲んで見てくれや!」
 台所の椅子に座って、調理を見ていた二人に勧める和久。
「綺麗な色、それに良い香り……」
 呟きながら、一口飲んだ加代。
「美味しい……」
 放心したように言って飲み干し、和久を見た加代。
「美味い! 此れが味の魔術師と言われる所以か! こんなに美味いスープは初めてだ! 料理とは凄いものだなぁ……たった一杯のスープが、こんなにも人の心を和ませるとはなあ……」
 武は感動して褒めた。
「おおきに!……此のスープは、夕子が太閤楼に来た時に始めて作ったのや! 後で女将さんに聞いたのやが、涙を流していたと言うてた……此のスープを覚えてくれていたら良いけどなぁ……」
 藁にもすがる思いで、調理した事を話した和久。
「大丈夫ですよ和さん! 和さんの気持ちは、きっと伝わりますよ!」
 加代は微笑みながら言い切った。
 和久が席を立って帰り掛けた時。
「和さん、そんな大切なスープを如何して飲ませてくれたのだ?」
 和久の後ろ姿に声を掛けた武。
「わしにとって、大事な人やからや!」
 和久は振り返らずに言い、手を上げて挨拶をした。
 家に帰ると、山女が泳ぐ小川の側に夕子とダイスケが見えた……ダイスケは何時もの様に、泳ぎ回る山女に吠えている。
 荷物を置き、タオルと水を入れた竹の水筒を持って夕子達の所へ行くと、ダイスケの仕草が面白いのか、夕子が大笑いをしている。
「夕子、夕日を見に行こうや! 夕焼けも綺麗やでっ!」
 夢中でダイスケの仕草を見ていた夕子は、和久の声にちょっと驚いたが、素直に頷いて山頂への階段を上がって行く。
 山女と遊んでいたダイスケは、二人の姿が遠くなるのを見て、慌てて追い掛けて来た。
 山頂に着いた二人を金色に輝く茜雲が迎えてくれ、夕子の額に流れる汗が、夕日に照らされて宝石の様に輝いている。
 汗を拭き、水を飲んだ夕子は、沈む夕日に手を合わせている。
「またお願いしたのか? 太閤楼の和さんの事を……」
 和久の問い掛けに、恥ずかしそうに微笑んで頷いた夕子。
「そうか、優しいのやなぁ夕子は……」
「それとねっ、此処で何時までも暮らせますようにって……」
 蚊の鳴くような声で言い、ダイスケを抱き上げた夕子。
「うん、夕子がそうしたのなら、此処に居ったらええ……」
 複雑に揺れ動く夕子の気持ちを察した和久は、安心するように言った。
「本当、和さん! 此処に居ても良いの?」
 子供の様に目を輝かせて確かめる夕子……夕子の嬉しそうな顔を見て、毎夜魘される現実が恨めしく感じる和久である。
 和久は夕子の問い掛けに、優しく夕子を見詰めて大きく頷いた。
 山を降りて家に入った和久は、ダイスケと風呂に行くように言い、自分は家族湯に行く……風呂から出た和久は、小川の向こう岸に群生している食べ頃のタラの芽を摘み、源三が栽培していた椎茸を刈って家に入った。
 夕子とダイスケは、まだ風呂から上がっていない。
 夕食の支度が整った時、ダイスケが入って来た……ダイスケは囲炉裏の側に寝そべり、上目使いに和久を見ている。
 少しして風呂からのドアが開き、夕子が入って来た……夕子は囲炉裏の火を調整している和久に微笑み掛け、部屋に入って行った。
 ダイスケに食事を与え、炭火の周りに山女の串刺しを挿して、スープに火を通した和久。
 部屋から出て来た夕子が、囲炉裏の側に座るのを見た和久は、温まったスープを夕子の前に置いた。
「夕子、温い内に飲み……」
 陶器のカップに入れられたスープを一口飲んだ夕子は、カップを静かに囲炉裏の縁に置いて和久を見詰めた。
 目が合った和久は、優しい眼差しで夕子を見ている。
「和さん?……」
 夕子の言葉に、微笑んで頷く和久。
 和久を見詰めながら、静かに立ち上がる夕子……その様子を見た和久も、夕子に合わせて立ち上がった。
「和さん?……」
 信じられない様な面持ちで聞き返す夕子。
「そうや! 夕子、思い出したか!」
 嬉しそうに夕子を見詰め、微笑んで答えた和久。
 和久を見詰めていた目に、見る見る涙が滲み、和久の胸に飛び込んで来た夕子。
「バカァー和さんのバカァー……幾ら呼んでも和さん来てくれないんだもん!怖くて和さんを呼んでも来てくれないんだもん! ワーンンンン……」
 夕子は激しく和久の胸を叩き、子供の様に大声で泣きながら和久にしがみ付いて来た……泣きじゃくり、胸にしがみ付いている夕子を、優しく抱き締める和久。
「ごめんなぁ夕子、怖い思いをしたんやなぁ……そやけど、もう大丈夫や! 心配せんでええ、心配せんでええでっ! わしが夕子を守るからなっ! 誰にも指一本触れさせへんから安心しっ……」
 和久の一言一言に無言で頷く夕子……泣きじゃくる夕子を優しく抱き締め、夕子の黒髪をそっと撫でる和久。
「和さん……」
 涙で濡れた瞳で和久を見詰め、小さな声で和久の名を呼んだ夕子……和久の胸に力一杯しがみ付いていた夕子は、力を抜いて小さな体を委ねた。
「夕子、大丈夫やでっ! 何も心配せんでええ……わしとダイスケが夕子を守るからなっ」
 和久の言葉を聞いた夕子は、和久を見詰めて大きく頷いた。
「和さん……こんな私でも、大切な人だと思ってくれているの?」
 縋る様な眼差しで問い掛ける夕子。
「そうや! この世で一番大切な人だと思っている!」
 夕子の目を見詰め、はっきりと伝えた和久。
「私の事、好き?……」
「うん! 誰よりも夕子が好きや!」
「良かった!……」
 和久の言葉で安らぎを取り戻した夕子は、抱き付いている手に力を込めた。
 少しの時が流れ、落ち着きを取り戻した夕子は、優しい穏やかな眼差しを和久に投げ掛けている。
「夕子、スープが冷めた……温めて来るわ」
 抱き締めていた手を緩め、夕子の涙を拭った和久。
 温められたスープを大事そうに、記憶を辿る様に飲んだ夕子。
「美味しい……和さん、私の為に作ってくれたの?」
 分かっている答えを、聞き質す様に問い掛ける夕子。
「そうや、大切な夕子の為に作ったのや!」
 和久の言葉を聞いた夕子は、太閤楼で見せた笑顔で和久の心に応えた。
「夕子、タラの芽の天ぷらや! 塩かポン酢で食べっ……旬の物やから体にも良いから……」
 目の前で揚げたタラの芽の天ぷらを、夕子の取り皿に置き、微笑みながら勧める和久。
 取り皿に置かれた天ぷらを食べる夕子。
「美味しい! 和さん、お酒飲んでも良い?」
 夕子の言葉に少し驚いたが、嬉しそうな顔で夕子を見詰めた。
「夕子、飲めるんか?」
「うん、少しだけ……」
「そうかそうか! そりゃええわ!……酒は百薬の長やからなぁ、何がええ? 何でも有るでっ! 日本酒にビール、焼酎にワイン、何にする?」
 初めての願い事に喜んだ和久は、少し舞い上がっていた。
「日本酒が良い……」
 和久の言い草が可笑しかったのか、笑いながら答える夕子。
「よっしゃ! 日本酒やったら美味いのが有るでぇ……太閤楼の料理長が送ってくれた幻の銘酒『霧のしずく』や!」
 嬉しそうに言って、ガラスの徳利に入れて持って来た。
 初めて酒を飲み、料理を堪能した夕子……夕子の表情は、朝霧に来た時からすれば、明らかに変わって来ていた。 和久とダイスケには、得体の知れない呪縛から解き放たれた様な、様子を見せ始めたからである。
 夕子は優しい眼差しでダイスケを見て、目を閉じている頭をそっと撫でた。
「色んな事があったから疲れたやろ? 先に寝てもええよ……」
 酒を楽しみながら気遣いを見せる和久。
 色白の顔に薄っすらと赤みが差し、微笑んで和久を見た夕子の顔は、紛れも無く太閤楼で見せた天才、茜 夕子の素顔に違いが無かった。
「うん……和さんは?」
「わしはもう少し飲んでからや……夕子が眠るまで此処に居るから、安心して休んだらええ……」
 ためらっている夕子を見た和久は、ポケットから指輪を取り出した。
「そうや、夕子にお守りを遣るわ! 夕子、此の指輪を覚えているか?」
 太閤楼で、別れ際に夕子がくれた指輪を見せる和久。
「此の指輪は……」
「そうや! 太閤楼で夕子がくれた指輪や、わしの宝物や!」
「和さん、ずっと持って居てくれたの?」
「そうや! 夕子と何時でも一緒に居る様に持っていたのや!……此の指輪のお陰で、色々な良い人と巡り会えた。 こうして夕子とも会えた……幸せを呼ぶ指輪や! 今度は夕子が幸せに成れる様にプレゼントや!」
 夕子の手を取り、夕子の細くて白い指に指輪を嵌めた和久……指に嵌められた指輪を見た夕子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう和さん、死ななくて良かった……」
 消え入る様な声で礼を言い、流れる涙を拭おうともせずに、和久の胸に顔を埋めた夕子。
 優しく抱き締めた和久は、夕子の涙を拭った。
「そうやで夕子……死んだら終わりや! 生きとったら辛い事も有るけど、良い事も有る……生きとったから逢えたのや! 何も心配は要らんから安心して寝たらええ……」
 和久は夕子の耳元で、暗示を掛ける様に小さな声で呟いた……和久の言葉にこくりと頷いた夕子は、ダイスケを連れて部屋に入って行く。
 夕子を見送り、囲炉裏の側で飲みながら悪夢からの解放を願う和久。
 翌朝、何時もなら起きて来ている筈の、ダイスケの姿が見えない……夕子の泣き叫ぶ声を聞く事も無く、目を覚ました和久は不審に思い、静かに夕子の部屋を開けて見た。
 外はうっすらと明るさを増して来たのだが、夕子はぐっすりと眠ったままである……和久を見たダイスケは布団から抜け出し、ベッドから降りて足元に来た……和久は、ダイスケを抱き上げて部屋を出る。
 朝食の支度が済んでも、夕子は起きて来ない……待ちかねているダイスケを外に連れ出して、散歩に行く和久。
 日が昇り、散歩から帰って来ても夕子は眠っていた……十数年来の悪夢から解放され、安らぎを得た和久の翼の下で、安心して眠っていたのであろう。
 ダイスケと共に朝風呂から戻って来た時に、爽やかな顔をした夕子が居間に来た。
 夕子を見て甘え出したダイスケ……ダイスケを抱き上げた夕子は、和久を見詰めて、晴れ晴れとした笑顔を投げ掛けて来た。
「お早うございます……ごめんねダイちゃん、散歩に行けなくて……」
 夕子は、胸元で優しく見詰めているダイスケに、小さく声を掛けた。
「おはよう! 夕子が良く眠っていたので……夕子、朝風呂に行ったらええ、気持ちが良いから……上がる頃には朝食が出来るからなっ」
 和久に促された夕子は、ダイスケをそっと下ろして風呂に行く……そして、此の夜を境に、忌まわしい夢を見る事が無くなった夕子であった。
 その日の午後、夕子とダイスケを残して診療所に行った和久は、昨夜の出来事を一部始終話した。
「うん、少しは進展したようだ! だがなあ和さん、以前に話した患者と同じ所に来ただけだ……体罰を思い出さなくなっただけだ! 怒りを取りも出さなければ……それにだ、作り笑いをしなくなったのは、和さんだけにかもしれない。 和さんとダイスケには警戒心が無くなって、心を許したからだと思う。それに、驚くほどの従順さが気に掛かる……あの従順さが体罰から来たものでなければ良いのだが……」
「武さん! もしそうだとしたら如何なるのや?」
 和久は、武の言葉に一抹の不安を覚えながら問い掛けた。
「和さん、あれ程従順な人をどうやって怒らせるのだ! それに、夕子君が夢で口走ったと言う(ごめんなさい!)と言った言葉が気に掛かる……何を謝ったのかがなっ!」
 武に言われて初めて気が付いた和久……太閤楼に同伴していた会長が(我儘な所があるから)と麗子に言った一言が気に掛かり出した和久である。
 和久は、太閤楼での事を武に話した。
「そうか、結構気が強いのかもなっ! まっ此処で詮索していても仕方がないよ! もう少し様子を見ようやっ……」
「そうやなっ、そやけど怒らせると言うても、如何したらええのやっ? 武さん、あんたが言う通り、夕子は何を言っても素直に聞くからなぁ……」
「うん、泣かせる事や笑わせる事は、そんなに難しくは無いと思うが、本心から怒らせる事は如何だろう?……まして、夕子君の従順さは尋常では無いからなあ……」
「・・・・・?」
 和久は、武の指摘に黙って考え込んだ。
「そうやなあ、此処に来て初めてやったからなあ……何かをして良いか! と言うたのは……」
 和久は、少しの時間を置いた後、思い出したように呟いた。
「まぁ、あんまり考えてもしょうがないか! そうや、武さん! 夕飯を食べに来いや! 二人で来てくれたら夕子とダイスケが喜ぶから……」
 是非にと言う口調で言った和久。
「有難う! 夕子君の診察も兼ねてお邪魔するよ」
 武と加代に見送られて、診療所を後にする和久。
 家に帰ると何時もの様に、夕子とダイスケが山女の所で遊んでいる……和久の姿を見た夕子。
「和さーん! お帰り!……」
 大きくて綺麗な声で叫びながら、走り寄って来る夕子……久し振りに聞いた夕子の明るい声に驚きながらも、嬉しさが込み上げて来た和久は、しっかりと抱き締めた。
「夕子、如何したのや? 嬉しそうな顔をして……」
「だって、和さんが帰って来たから……」
 愛しさが漂う目で和久を見詰め、恥らう様に言った夕子。
「ありがとう夕子! 優しいのやなぁ夕子は……そうや夕子、後で武さんと加代さんが来るわ! 一緒に食事をしょうって誘ったからなっ……用意が出来たら散歩に行こうや! それまでダイスケと遊んでいてなっ!」
「はい、和さん……」
 何かを言い掛けた夕子だが、和久と目が合った途端にっこり微笑み、何も言わずにダイスケの所へ歩いて行った。
 夕食の下準備を済ませ、待っている夕子とダイスケを連れて、山頂へ上がって行く和久。
 山頂に着いた夕子は、風に乱れた黒髪を手で梳かし、天と地の境に連なる山々を眺めながら、大きく深呼吸をした……そして何を思うのか、無言で天空を見詰めている。
 青空は果てしなく続き、人間の小ささを思い知らされる光景でもあった。
 彼方此方を探索しているダイスケを見ながら、大きく深呼吸をして夕子の側に行く和久。
「ええ眺めやろ……」
 壮大な自然を無言で見詰める夕子に、そっと呟いた和久。
「うん、自然って凄いね和さん!……」
「そうやなぁ、人間の営みなんかは関係ないのやぁ……人が生まれようが亡くなろうが、苦しもうが笑おうが、何時でも同じように時を刻むのや! 気が遠く成る位の時間を掛けて出来上がった癒しの空間や……人の生涯なんかは自然の瞬きよりも短いのや! そやから、一生懸命に生きて行かな行かんのやろなぁ……」
「うん……」
 和久の言葉を噛み締めた夕子は、小さく答えた……話しながら上着を脱ぎ、遠くを眺めている夕子の背にそっと掛ける和久。
「ありがとう、和さん……」
 恥らいを隠すように礼を言い、和久を見詰めて微笑んだ夕子。
「夕子は歌が好きか?」
 遠くに視線を移した和久は、夕子の心境を知ろうと問い掛けた……少し考えていた夕子は、寂しそうな目で和久を見ている。
「うん、歌は好き! でも、もう歌えない……結婚して何年か経って、歌いたくなって頼んだけど許してくれなかった。 それに、公演でファンの期待を裏切ってしまったから……」
 悲しそうに答える夕子。
「そうか、ごめんなっ夕子……辛い事を思い出させて……」
 慰めの言葉を言った後、夕子の肩をそっと抱いた和久。
 愛しげに和久を見詰めた夕子は目を閉じて、何も言わずに小さく顔を左右に振った。
 山頂に佇む和久と夕子は、自然に融和した様に動かず、遠くに連なる連山を見詰めている。
「夕子、ぼちぼち帰ろうか……武さん達が来るまでに、ゆっくり風呂にでも入ろうや……」
「はい、和さん!」
「ダイ! 帰るぞ!……」
 和久に呼ばれたダイスケは、息を切らせて走り寄って来た……山頂を下りて風呂に入った和久は、料理の準備をしている。
「和さん、何か手伝わせて!」
 ダイスケを風呂に入れ、ダイスケと遊んでいた夕子が和久の所に来て、甘える様に言った。
「おぅ、ありがとう……そんなら、此の皿を囲炉裏の縁に並べてくれるか!」
「はい!」
 夕子は嬉しそうに皿を持って行き、囲炉裏の側に並べて和久を見た。
「和さん、此れで良い?」
「おぅ、上等や! 夕子、此れを皿に盛り付けてくれや!」
「はい!……美味しそう……」
「味見してもええでっ!」
 和久に微笑み、摘み食いをした夕子。
「美味しい!……太閤楼で頂いたお料理と一緒! 流石は味の魔術師……」
 心を許した和久に、おどけて、はしゃいでみせる夕子。
「あっはっはっ、おおきに夕子! 夕子が褒めてくれるとは光栄や!」
 和久は、明るくなった夕子に内心喜んでいた。
「夕子、酒飲むやろ?」
「うん……和さん、飲んでも良いの?」
「ええよ! 此処に有る物は何でも夕子の物やから、遠慮せんでもええからなっ」
「ありがとう和さん……」
 和久の労わりに、しんみりと言った夕子。
「夕子は笑った顔の方がええよっ!」
 調理をしながら夕子を見詰め、優しく微笑みながら言った和久。
「うん……」
短く返事をした夕子は、満面の笑みを和久に投げ掛けて来た……その笑顔は人を引き付け、和みをもたらした往年の天才! 茜 夕子の笑顔に違いが無かった。
夕子の笑顔に安堵した和久は、此の笑顔が万人に向けられる事を願っている。
全ての支度が整った時、囲炉裏の側で目を瞑っていたダイスケが急に起き上がり、専用の出入口から、吠えながら飛び出した……暫くしてダイスケの鳴き声が止み、武と加代に抱かれたダイスケが入って来た。
二人を見て立ち上がった夕子は、近付いて挨拶をしたのだが、武が心配した通り、和久に見せた笑顔には程遠い笑顔であった。
「武さん、先に風呂へ行くとええ……」
 武夫妻に見せた笑顔に気落ちした和久は、力無く風呂を勧める。
「うん、ありがとう……先に診察して来るよっ!」
 武もまた、がっかりした様子で居間に上がり、夕子と加代を伴って夕子の部屋に入って行った。
 少しの時が経ち、一人夕子の部屋から出て来た武は、囲炉裏の側で目を瞑っているダイスケを抱き上げて、和久に近付いて来た。
「良かった良かった! 健康そのものだ……体罰の痕も無くなり綺麗なものだっ! だが和さん、此れから如何する? 先程見せた笑顔は以前と同じだ!」
 ダイスケを撫でながら、難題を問い掛ける武。
「うん……」
 武の問い掛けに考え込んだ和久は、困った様な顔をしている。
 暫くして、夕子の部屋のドアが開き、にこやかな表情の夕子と加代が居間に来た……その姿を見たダイスケは、抱かれている武の腕から飛び降りて、夕子と加代に愛嬌を振ってじゃれ出した。
 和久の勧めで風呂に行く武と加代……残されたダイスケを抱き上げて、和久を見詰めている夕子。
「和さん、先生何か言ってた?」
 夕子は心配そうな顔をして問い掛け、和久と目が合った途端、恥らった様に俯いた。
「何処も悪くない! 健康そのものやって言うてたよ……」
 夕子の心配を取り払う様に、明るく伝えた和久。
「良かった! 何処か悪いと、和さんに心配かけるから……」
 恥らう様に言った夕子は、ダイスケに頬擦りをした。
「優しいなぁ夕子は……けど夕子の心配やったら、何ぼでもして見たいわ!」
 優しい眼差しで夕子を見詰め、さり気なく言った和久。
「本当に! ありがとう和さん……」
 夕子は、嬉しそうに言って和久を見詰めている。
「そやけど、夕子には健康と明るい笑顔が似合うからなぁ……病気の夕子は見とうないわなぁ……」
「うん、和さん……」
「さぁ済んだ! 夕子、此れを運んでくれや!」
 しんみりしかけた夕子を、元気付ける様に言った和久だが、今ひとつ気が晴れない事も事実であった。
「あっそうや! 忘れていたわ……ダイスケの飯がまだやった! 夕子、此れを食べさせてやって……」
 和久に言われてダイスケを下ろした夕子は、ダイスケの食事が入った器を取って、座って待っているダイスケの前に置いた……夕子と和久の顔を交互に見て食べ始めたダイスケ。
「ねえ和さん、ダイちゃんは如何して顔を見たの?」
「夕子にお礼を言うたのや……賢いやろダイスケは……」
「うん、賢くて可愛いねっ!」
 微笑んだ夕子は、食事をしているダイスケの頭をそっと撫でた。
 和久と夕子が囲炉裏の側に座ると、風呂からの戸が開いて武夫妻が居間に入って来た。
 ダイスケを見た加代は、優しく微笑む。
「ダイちゃん、ご飯食べてるの……」
 加代の言葉を聞いたダイスケは、ちらっと加代を見て食事を続けている。
 新緑の季節に成ってはいたが、囲炉裏の火が、心地良さを与えてくれる夜でもあった。
 食事が済み、加代とダイスケを抱いた夕子が駐車場に行く。
「和さん、此れから如何する?」
 居間を出掛かる和久に、解決の糸口さえ掴めない武が問い掛けて来た。
「うん、如何したらええのや武さん……わしには見当もつかんわ!」
「そうだなっ、心の病だから治療の術が無い! 時間を掛けるしかないのかなっ……」
「そうやなぁ……」
 気落ちした和久は、力無く答えて二人を見送った。
 家に入った夕子と和久は、囲炉裏の側に座ってダイスケと遊んでいる。
一人で酒を飲んでいる和久は、笑いながらダイスケの相手をしている夕子に
目を細めていた。
「夕子、もう少し飲むか? 其れか、スープを温めようか?」
「和さん、スープが飲みたい……」
 ダイスケから目を離して和久を見詰め、嬉しそうに愛しむ様に言った。
「そうか、直ぐ温めて来るわ……ちょっと待っていてなっ」
 瓶の中に入れていたスープを鉄鍋に取り、温めて夕子に手渡した和久。
 温められたスープを味わう夕子。
「美味しい!……此のスープが和さんと会わせてくれた! 私にとって生涯忘れる事の無いスープ……優しさが伝わって来る温かいスープ! 和さん……」
 愛しむように和久を見詰め、和久の名を呼んだ夕子。
「ありがとう夕子……太閤楼で初めて作った時は迷ったんやけどなぁ、そやけど作って良かったわっ! 此のスープのお陰で、夕子が覚えてくれたのやからなぁ……初めて夕子と会った時は、心臓が止まるかと思ったわ! 嬉しゅうてなぁ……憧れの茜 夕子やったからなぁ……」
 目を細めて、夕子との出会いを思い起こす様に話す和久。
「本当、和さん……でも、落着いていたよ! 私も和さんと初めて会った時、こんなに若い人が、老舗の高級料亭の料理長だなんて信じられなかった……優しい温かい眼差しが嬉しかった。 私を茜 夕子ではなく、一人の人間として見てくれた和さんの気持ちが嬉しかった」
 夕子もまた、和久との出会いを懐かしそうに告げた。
「あっはっはっ、そうか! そやけど、落着いて見えたんは緊張していたからや! 夕子に見詰められた時は、舞い上がってしもてなっ……夕子が、とてつものう大きゅう見えた! 小柄な夕子に圧倒されたわ……やっぱり、夕子はスーパースターやと思うた! 綺麗な目をした、小さくて可愛い年下の夕子に威圧されたのやからなあ……」
 記憶を辿る様に話しながら盃の酒を飲み、囲炉裏の火を調整する和久……夕子は和久の話に笑みを浮かべて、ダイスケを膝の上に乗せた。
「良かった! 和さんと逢えて……」
 ダイスケを撫でながら和久を見詰め、消え入る様な声で呟いた夕子。
「うん……わしも夕子に逢えて良かったわ!……夕子に逢わせて下さいちゅて、神さんにお願いしとったからなぁ……」
 夕子を見詰めて、悪戯っぽく言った。
「本当! 和さん!」
 嬉しそうに問い質した夕子。
「うそ!……」
 和久の顔を見ていた夕子は、ちょっと膨れっ面をして小さく手を上げた。
「もう、和さんは……」
 顔を見合わせた和久と夕子は、大笑いを始めた……涙を流さんばかりに笑っている夕子に、目を細める和久。
「そやけど、本当に良かったわ! 夕子に逢えて……」
 夕子を見詰め、微笑みながら心の内を話した和久。
「うん……」
 小さく返事をした夕子の目に、喜びが漂っている……だが何の進展も無く、糸口さえ見えない和久の胸中を嘲る様に、夜は更けて行った。
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第一章の(5)小説「雲海」

2015年09月03日 13時14分47秒 | 暇つぶし
頼もしい相棒が出来た和久は、武夫妻に紹介をして朝霧に帰って来た。
 年の瀬も押し詰まった除夜、朝霧の山頂で初日を見る為に、武夫妻と過ごす和久は、囲炉裏の側に座って懐かしの歌番組を見ていた。
 ダイスケは加代の膝の上で、気持ち良さそうに寝ている。
 番組が進み、絶頂期の夕子が歌い出すと、加代の膝の上で寝ていたダイスケが起き上がり、目をくるくるさせて周りを見回し、そろりと加代の膝の上から降りて和久の所に来た。
 ダイスケを抱き上げてテレビの側に行き、歌っている夕子を見せる和久。
 夕子の歌を聞いていたダイスケは、歌が終ると安心した様に加代の膝に乗って眠り出した。
 年が替わり新年の挨拶をし、囲炉裏の側で仮眠を取った三人とダイスケは、五百メートル程ある土止めをした階段を、山頂に向かって登り始める。
 懐中電灯は持っているのだが、使う必要が無い位の月明かりであった。
 山頂は平坦に成っていて小さな木のベンチが有り、周りは木の柵で囲まれている……ベンチの直ぐ横には、周りの木を切って建てられた十坪程の山小屋が有り、中に囲炉裏が造られている。
 囲炉裏で火を焚き、暖を取って待ちながら酒を飲む和久と武……加代は小さな器に水を入れてダイスケに飲ませている。
 空が白み始めると、ダイスケを抱いた和久と武夫妻は小屋を出た。
 日が昇り始め、太陽の光に照らされた山頂からの景色は素晴らしく、光と影が織り成す自然の芸術に、暫し三人は酔いしれていた。
 三が日も過ぎ、のんびり過ごす和久とダイスケは、朝の日課とした山頂への散歩に出掛ける……道に沿って流れる小川の源泉は湧水で有り、源泉の下流には五メートルほどのワサビ田が造られている……また、小川に何カ所かある深みには数百匹の山女が泳いでいた。
 動く山女を見る度に大きな声でダイスケが吠え、その様を知らせようとする様子が可笑しかった。
 立春が過ぎた頃、北山が三人の社員と遣って来た……雪が積らない所が有る! と、源三が書いてあった場所で温泉掘削が始まり、二ヶ月を待たずにアルカリ温泉を掘り当てた。
 和久は自宅の裏に階段と脱衣所を造り、数人が入れる専用の露天風呂とダイスケの小さく浅い湯船を造った。 
また駐車場の小川に沿って七つの家族風呂を造り、山頂への階段に数カ所の電灯を取り付けた。
源三が置いて行ったノートを見ながら椎茸の栽培や収穫! 野菜作りを楽しみ、ダイスケとの戯れを楽しむ和久である。
時の流れが穏やかな朝霧の里は、大いなる安らぎを和久に与え癒してくれた。
久し振りに作った押し寿司を手土産に、診療所を訪ねた和久とダイスケ。
二人が笑顔で迎えてくれて、加代に抱かれたダイスケは大喜びで愛嬌を振りまいている。
話の最中、ふと見た週刊誌の見出しに驚いた和久……其処には大きな見出しで『茜 夕子、破局か!』の文字が有り、数十ページに渡る記事に取り上げられていた。
秋も深まった頃、正式に離婚をした夕子……連日テレビで報道されていたが、歌謡界復帰の話は無く、何時しか人々の記憶から消えようとしていた。
年が明けて、二歳に成ったダイスケと散歩に出た和久。
山頂から戻ってテレビを点け、囲炉裏の側で朝食を取っていた時に、流れて来た『茜 夕子四月復帰!』の報道に喜んだ和久。
梅の季節が終り、桜が蕾を付け始めた朝霧の里……夕子の復帰を心待ちにしていた和久は、朝の光と小鳥の囀りで眠りから覚めた。
布団に潜り込んで、上目使いに和久を見ているダイスケ……和久が何にもましてほっとする仕草である。
今夜七時から放映される、夕子の復帰公演を楽しみに散歩に出掛ける和久とダイスケ……二歳に成ったダイスケは足もしっかりして、元気一杯に山頂を目指し、途中の深みで泳いでいる山女に向かって吠えている。
散歩から帰り、朝風呂に入った和久とダイスケ……小さな頃から風呂に慣れさせていた為、無類の風呂好きに成っているダイスケ。
朝食が済んだダイスケは、囲炉裏の側に有る座布団の上で眠り出し、和久は武夫妻を持て成す料理の下準備に掛かった。
五時を少し過ぎた頃、目を瞑っていたダイスケが突然顔を上げ、何かを知らせる様に吠えながら、ダイスケ専用の出入口から出て行った……車が停まり、ダイスケが泣き止んだ後、武と加代に抱かれたダイスケが入って来た。
「よっ、いらっしょい!」
 全ての準備が終っていた和久が、囲炉裏の側から軽く手を上げて二人を招いた……加代がダイスケを居間に下ろすと、二人に向かって『上がれ、上がれ!』と、言っている様に吠えた。
 ダイスケの様子を見た加代は、優しく笑いかけている。
「はい、はい……ありがとう、ダイちゃん」
 ダイスケに語り掛け、頭を撫でて上がる武と加代。
 ダイスケは安心したように和久を見て、二人が座る所に付いて行く。
「武さん、先に風呂に行くと良い……」
 勧められた武夫妻は、新しく造られた風呂に通じるドアを開け、少しの階段と廊下を降りて行った。
 二人が風呂から上がる頃合いを見計らい、調理に掛かる和久……ダイスケは暇を持て余し、大きく口を開けてあくびをしている。
 料理が並べられたと同じに、風呂からのドアが開き二人が入って来た。
 加代の姿を見たダイスケは喜び、足元に纏わり付いてじゃれている……喜んでいるダイスケを抱き上げた加代。
「ダイちゃん、待っていてくれたの……ありがとう!」
 優しく話し掛けて、料理が置かれている囲炉裏の側に座った。
 和久の料理に満喫した加代は、横で食事をしているダイスケの頭を撫で、飲みながら話している二人を見て目を細めている。
 時間を見た和久がテレビを点けた。
 十数年振りに見る夕子と、魂を揺さ振る歌声に会える興奮を、抑え切れずにいる和久である。
 時報と共に映し出された会場……天才歌手! 茜 夕子の復帰を願っていた観客で超満員であった。
 司会者の紹介で流れだす演奏……演奏に乗って、セットの階段を降りて来る夕子! 正に千両役者の登場である。
 三人が固唾を呑んで見守る中、マイクを握った夕子……観客とテレビカメラに向かって礼をし、顔を上げて微笑んだ夕子の顔が大きく映し出された。
「夕子じゃ無い!」
 食い入る様に画面を見ていた和久が叫んだ。
「駄目だ! 此れでは歌は歌えない!」
 和久に同調する様に叫んだ武。
 テレビに映し出された夕子の顔は、健康で明るく人を引き付けた引退前の笑顔には程遠い、作り物の笑顔であった。
 そんな中、歌い始めた夕子……だが、引退前の歌唱力は無く、魂を揺さ振る天性の声は失せていた。
 一曲目を歌い終えた夕子は、精一杯の笑顔で挨拶をするのだが、誰一人として拍手をする者が居なかった……そして、二曲目を歌い終えた時には席を立って帰る者が出始め、期待して見ていた中継は打ち切られた。
 夕子が居なくなった画面を、ぼんやりと見続ける和久。
「何が有ったのや……」
 放心したような表情で、ぽつりと呟いた。
「長い間、感情を拘束された顔だ! 喜怒哀楽……特に、怒りを抑え込まれた顔だ! 其れを取り戻さない限り歌は歌えないだろう……」
 武はひとり言のように言った。
「武さん、如何言う事やっ!」
 和久の問い掛けに、少しの間考え込む武。
「うん……此れは憶測だし、結婚生活で何が有ったのかは知る由もないが、医者の立場から言えば、長年に渡って感情を、特に怒りを拘束され、笑いを強要された結果だと思う。 つまり、精神的な病だ! 心底からの怒りを取り戻さなければ、歌は特に演歌は歌えないだろう……厄介な病だ!」
 此の話を聞いていた加代は、ダイスケを膝に乗せ、ダイスケの頭を撫でながら頷いた。
「可愛そうな夕子さん……」
 ぽつりと呟いた加代。
「武さん! 治せないのか?」
 武の言動から、難病である事は察した和久だったが、僅かな望みでも有ればと言う思いで問い掛けた。
「医者では治せない! 以前、同じような患者を見た事が有る……精神科の権威で先輩でもある人に頼まれて、助手をした時の事だ。 其の患者は資産家と結婚したのだが、離婚して実家に帰って来た……実生活には何の支障も無いのだが、会う人毎に作り笑いをする、と言う事で先輩の病院に入院して来た・ 二人で治療にあたったのだが、二ヶ月経っても何の進展も無く、医療の限界を感じていた時だった……彼女の幼馴染だという男性が訪ねて来た。 彼は来る度に彼女を散歩に連れて行き、優しく語り掛けていた。 ひと月ほど経った時だったか、彼女に少しの変化が起こった……彼にだけは作り笑いでは無く、心からの笑顔を見せる様になったのだ。 多分、彼だけには心を許したのだろう」
 武の話を、一言も聞き漏らさず聞き入っている和久。
「だが其れ以上の進展は無く、二ヶ月が経った頃だった……突然病室からのベルが鳴り出し、先輩と駆け付けて見て驚いた! 部屋の中がめちゃめちゃに成っていて、泣いている彼女を彼が抱き締めているのだ。 彼に訳を聞くと(何時もの様に散歩に誘ったら、寒いから嫌だ! と言うので、笑いながらもう一度誘ったのですよ、その途端! 何が可笑しいのよ! 嫌だと言ってるでしょうって……そう言ったかと思うと暴れ出し、子供の様に大声で泣き出したのですよ)彼は優しく彼女を労わりながら、そう言った。 其の事が有ってからは二度と作り笑いをしなくなり、良い笑顔で数日後に退院したよ」
 病によって医療は、愛の力に及ばない事を痛感し、其の事を和久に教えた武である。
 武の話を悲痛な面持ちで聞いていた和久は、無言で考え込んでいる……物音ひとつ聞こえない重苦しい空気の中、一陣の風によって木々の擦れ合う音が悲しげに三人を襲った。
「武さん、あんたほどの医者でも、どうしょうもないのか……」
 落胆した和久が、蚊の鳴くような声で問い掛けた。
「和さん、友として言うのだが、今の話は普通の主婦の話だ! 茜 夕子のように、人の心に訴え掛ける歌を、歌わなければならない歌手とは次元が違う話だ……もし治ったとしてもだ、公演での出来事が脳裏に焼き付いていて、マイクを握る事も出来ないだろう……冷たい事を言うようだが、私なら関わり合いたくない」
 諭すように言い切った武。
「武さんが其処まで言うのなら仕方がない事か……どうしょうも無い事なのか」
 落胆した和久は、大きな溜め息を付いて天井を見上げ、其のまま目を瞑って物思いに耽ってしまった。
 そんな和久の落胆した姿を見た武は、ダイスケを膝に乗せ、黙って聞いていた加代を見て、和久の心中を探る様に問い掛けた。
「和さん、如何して其処まで考え込むのだ? ファンなだけで関係無いだろうに……」
 確かに、武の言う事は正しかった……和久は少し間を置いた後、太閤楼で夕子に出会った事を話し、夕子から預かった指輪を見せた。
「そんな事が有ったのか……」
 和久の心中を聞き、何も言わずに目を閉じた武。
 静寂の中、囲炉裏の炭が弾ける音が、やけに寂しく聞こえる夜である。
「あの時見た夕子の笑顔と(私の体を思ってくれた料理が嬉しくて)と言ってくれた言葉が、忘れられへんのやっ! あの時ほど、料理人に成って良かったと思った事は無かった。 あの笑顔と、夕子の歌が取り戻せるのなら何でもする! 武さん……」
 目に涙を滲ませ、縋る様に武を見詰める和久。
 目を閉じて和久の話を聞いていた武。
「和さん、あんた、もしかして……」
 言い掛けて、武は加代を見た……武と目が合った加代は黙って頷いた。
そして聞かれた和久は、何も言わずに武と目を合わせた……和久の眼差しから全てを察した武。
「分かった! おそらく治療の為に、先輩の病院に行くと思うので連絡を取っておくよ! だがなあ和さん、一度始めたら後戻りはできんよ! 地獄を見る事に成るかも知れんが、それでも良いのか!」
 武の忠告と問い掛けに頷いた和久。
「武さん、わしには身寄りは居らん……そやけど、あんたや加代さんと言う掛け替えの無い友が居る! 太閤楼の母さんや正晴、笹の家の女将さんや昌孝、居酒屋の小母さん達が居るし、源三さんも居る。 華やかな芸能界に居っても夕子は孤独なのや……歌しかないのや! 天性の歌声と夕子の笑顔が取り戻せるのなら、わしは地獄でも何でも見てええのや! 孤独や無い事を夕子に教えて遣りたいのや!」
 思いの全てを話す和久。
 和久の決意を、涙を滲ませて聞いている加代。
「幸せな夕子さん……こんなにも思ってくれている人が……」
 言い掛けたが言葉が続かない加代は、そっと目頭を拭った。
「よし分かった! 遣るだけ遣って見よう……結果が出たら、また考えれば良い! 此処には澄み切った空気が有り、綺麗な水が有り、体を癒せる温泉が有る……大自然に身を委ねるのも良いかもしれない、もしも……」
 武は、もし治らなければ此処で暮らせば良い! と言いたかったのかも知れなかった。
「そうよ和さん! ダイスケも居るし……
 ダイスケが持っている癒しを伝えた加代。
 加代の膝の上で、気持ち良さそうに寝ていたダイスケは、自分が呼ばれたとでも思ったのか、顔を上げて三人の顔を見回している。
 ダイスケの仕草で張り詰めていた空気が和み、顔を見合わせた三人に笑みが戻って来た。
 夜も更けて、帰り仕度を始めた武と加代。
「ダイちゃん、またね!」
 居間を降りて声を掛けたが、眠った振りをして振り向きもしない。
「二人が帰るから拗ねているのや! 可愛いやっちゃ……」
 拗ねているダイスケを抱いて、見送りに行く和久。
「ダイちゃん、また来るからねっ!」
 帰り際、優しく耳元で囁くと、機嫌を直したダイスケがぺろりと加代の頬を舐めた。
 月明かりの中、見送った和久とダイスケは家に入り、囲炉裏の側に腰を下ろした……ダイスケを膝に乗せて頭を撫でながら、待つ事しか出来ない事態に、苛立ちを覚える和久である。
 翌日の報道でも『天才歌手、茜 夕子の歌は死んだ!』との酷評が踊り、復帰公演での出来事が、情け容赦なく伝えられた……だが、『必ず復活させる!』と言う所属事務所の返答が、和久に僅かな希望を抱かせた。
 何の進展も無く、一週間が過ぎようとしていた昼過ぎ、満開に成った桜を見ながら、ダイスケを連れて診療所へ行った和久。
 和久の姿を見た武が、少し興奮した様に切り出した。
「和さん、良い所に来た! 今知らせようと思っていた所だった。 先輩から連絡が入り、夕子君の所属先の社長と相談した結果、報道関係者に知られない様に、此処に来ると言う事だ……車で発つから、明日の夕方には着くだろうと言う事だった。 近くまで来たら連絡をすると言っている……此処では人目も有るので、連絡が有り次第に和さんの所に連れて行くよ! あんたの所なら家族風呂に来る客が居るから、人目を避けられる……」
 待望の報告を聞いた和久は太閤楼の正晴に連絡を取り、スープの食材を送る様に頼み準備に掛かった。
 ベッドに入ると、一抹の不安が大きく膨らみ、眠れない夜を過ごした和久。
 翌朝、ダイスケと共に山頂への散歩を済ませてソバを打ち、夕子が暮らす部屋の戸を開けて四月の爽やかな風を入れた。
 日が西に傾き始めた頃、武に連絡を貰った和久は、ダイスケと共に駐車場で夕子達が着くのを待っている。
 暫くして夕子達よりも先に、診療を終えた武夫妻の車が着き、浮かぬ顔をした武が加代と共に降りて来た。
 そよ風に舞い落ちる桜の花弁を追い掛けていたダイスケは、加代の姿を見つけて、一目散に走り寄って甘え出す。
「武さん、ご苦労さん……」
 挨拶にも、心なしか不安の色が見て取れる和久。
「和さん、気楽にやろうよ……焦っても治る病じゃ無いのだから……」
 和久の不安を和らげる様に話す武。
「うん、分かっとるよ! それにしても少し遅いなぁ……」
「大丈夫だろう、場所の説明はしておいたから……」
 話している矢先、黒塗りの車が県道を曲がって、朝霧の入り口から入って来るのが見えた。
 車は家族風呂の駐車場を通り過ぎ、奥の駐車場で待っていた和久達の前も通り過ぎて、人目に付かない所で停まった。
 武が車に近付いて行くと、男が一人車から降りて武に挨拶をしている……挨拶をした後、話しながら武と共に近付いて来た。
 見知らぬ男に吠えているダイスケを、加代が抱き上げて宥めている。
 加代に会釈をして近づいて来た男は、和久に名刺を渡して自己紹介をした。
「この度は、大変なご迷惑をお掛けすると思いますが、宜しくお願いします」
 武に事情を聴いていたらしく、丁寧な挨拶をして来た。
 男は、夕子が所属している事務所の社長で有り、挨拶の後、車に戻って夕子を連れて来た。
 三人に紹介された夕子は、見るに忍びない作り笑顔で頭を下げた……だが、加代に抱かれているダイスケを見て、頭を撫でた時の笑顔は昔の夕子であり、太閤楼で和久に見せた笑顔であった。
 家に入る様に勧めると、運転をして来た社員が大きな荷物を持って来て、居間に下ろし夕子の部屋に運んだ。
 其々が囲炉裏の周りに座ると、用意していたソバを茹でて出し、気持ちだけの持成しをした和久。
「ご馳走さん! これ程美味いソバは初めて頂きました。 此処は自然が有って良い所だ! 先生、霧野さん……私はもう一度、夕子の歌が聞きたいのですよ! 天才、茜 夕子の歌がねっ! 魂を揺さ振る歌を歌わせて遣りたいのですよ……縋る思いで此処に連れて来ました! 宜しくお願いします……」
 社長は夕子と社員を見ながら、正座をして頭を下げた。
 和久を見詰めていた夕子だが、数年前に太閤楼で数分間会っただけの和久を覚えてはいなかった。
 和久と目が合い、作り笑いをしている所へ、食事が済んだダイスケがトコトコと歩いて行き、可愛い目で夕子を見詰めている……夕子がダイスケを抱き上げて頬擦りをしょうとした時に、ぺろりと夕子の頬を舐めたダイスケ……その途端、嬉しそうに微笑み優しく抱き締めた夕子。
 その様子を見た社長は目を細めて頷き、夕子を託して帰り仕度を始めた。
 そして、和久を見詰めた社長。
「此れは当座の生活費です。 足りなくなったら何時でも連絡を下さい……ご迷惑をお掛けしますが、宜しくお願いします」
 二度三度と礼を言った社長は、夕子の事を嘆願して、社員が運転する車で朝霧を後にした。
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第一章の(4)小説「雲海」

2015年09月03日 13時00分37秒 | 暇つぶし
笹の家を出立し、夕子の歌と共に朝霧の里を目指す和久。 
桜の季節とは言え、山間部の桜の木には小さな蕾が、春を待ち兼ねる様に並んでいるだけである。
一時間位走った所に展望台が有り、久住の壮大な景色を見ながら夕子の歌を聞く和久は、天と地の雄大な境に感動していた。
再び県道で有る山道を走っていると、道が左右に分かれている。 其処に大きな看板が有り、朝霧の里まで二十キロの文字が目に入って来た。
看板には大きな湖と遊歩道、その遊歩道に沿って桜並木が有り、湖に掛かる橋が描かれている。
看板に従って山間を走る和久……所々に早咲きの桜が見え、真下に見える渓谷に沿って走っていると『ようこそ、朝霧の里へ』の看板が、和久を迎えてくれた。
先程見た看板と同じに、湖に沿って遊歩道が有り、まだ蕾の桜の木が果てしなく並んでいる。 道路沿いには民家が並び、小さな店や郵便局、ガソリンスタンドや派出所が有り、小学校の看板が有った。
其処を通り過ぎた所に診療所が有り、道を隔てた湖の横に大きな建物が見えている。 建物には公衆浴場の文字が描かれていた。
更に進んだ所に、消えそうな文字で『猪鍋とソバ・朝霧』と書かれた古びた看板が目に入った。
入り口は5~6メートル程有って、入って行くと道に沿って小川が流れている……入り口から一〇〇メートル程、穏やかに上がって行った所に、大きな駐車場が有り丸太で造られた店が見えて来た。
川幅の違う小川は、店と駐車場を取り巻く様に流れている。
車を停めた和久は、2メートル程高くなっている店に行ったが、営業している様子は無く、店内に明かりが点いて無い。
 店舗にはベランダが有り、椅子とテーブルが数台置かれている。 ベランダからの眺めも良く、小川の向こうに蕾を付けた大きな桜の木が一本、堂々と立っている。
 車に戻った和久は、千恵子が作ってくれた握り飯を持って、駐車場から1メートル程下を流れている、川岸の石に腰を下ろして弁当を開いた。
 目の前には先程見えた桜の木が有り、小さなピンクの蕾が空の青さに映えている。 小鳥のさえずりが聞こえ、小川のせせらぎが心地良い安らぎを与えてくれた。
 和久が握り飯を食べ掛けた時。
「美味そうじゃのう……」
 後ろから声がした……振り返ると男が立っている。 男はにっこり笑って、駐車場から降りて和久の横に来た。
「美味そうな握り飯じゃのう……」
 再び言って握り飯を見ている。
 男の言い草が可笑しかったのか、くすっと笑った和久。
「小父さん、どうぞ!」
 笑いながら握り飯を差し出した。
 男は、差し出された握り飯を取って一口食べた。
「美味い! 愛情の籠った握りじゃ……兄さん、恋人が作ってくれたのか?」
 目を細めて言い、持っていた握りを食べてしまった。 和久は、男の問い掛けには答えずに、再び握り飯を差し出した。
 食べ終わった男は小川で手を洗い、両手で水をすくって飲んでいる。
「兄さん、御馳走さん! 美味い握り飯だった……ところで、何か用が有って来たのか?」
 男の仕草を見ていた和久に、ぶっきらぼうに問い掛けて来た。
「はい、猪鍋とソバが美味いと聞いたので、食べに来たのですが……」
 和久が答えると、男は頭を掻き出した。
「そうだったのか、悪かったなぁ兄さん! ちょっと思うところが有って休業中だよ……」
 そう言って、また頭を掻いている。
「それでは、小父さんは『大谷 源三』さんですか?」
 思わず名前を聞いた和久。
「如何して、わしの名前を知っている?」
 名前を言われた男は、驚いたように聞いて来た。
「はい、此処から二時間程行った所の商店街に有る、めし屋の女将さんに聞きました」
 事の成り行きを話した和久。
「そうか、多恵さんに聞いたのか! その女将さんは、他に何か言って無かったか?」
「はい、変った人だが良い人だと言っていました」
 話を聞き、大きな声で笑い出した源三。
「そうかそうか、そんな事を言っていたか……兄さん、あんたは多恵さんに気に入られた様じゃのう! ところで兄さん、名前は何と言う?」
「申し遅れました! 霧野 和久です。 味の追求で全国を回って来て、此処に着きました! 宜しくお願いします。 それにしても自然が有って、此処は良い所ですねっ!」
 和久は素直にそう言った。
「そうか、和さんか! 握り飯の礼がしたいが、泊って行かんか? 多恵さんの話も聞きたいしなあ……猪鍋とソバを御馳走するから、どうだ? 和さん」
 多恵に聞いていた通りで、人柄の良い源三の勧めを快く受け入れた和久は、五十メートルほど上に有る源三の家に付いて行く。 
 源三の家も丸太で造られていて、周りには駐車場と畑が有り、家の横を小川が流れている。
 かなり大きな駐車場には電灯が有り、源三の物と見られる軽のトラックが停まっていた。 
 軽トラックの横に車を停めた和久は、荷物を取って源三に付いて行く。。
 玄関は引き戸に成っていて、居間と壁は板張りで造られていた。
 三十畳程有る居間にはテレビとソファーが置かれ、十人ほどが座れる長方形の囲炉裏が有る……天井からは竹で組まれた火棚が吊るされ、その中に自在鉤が有り、自在鉤には蓋の有る大きな鉄鍋が掛けられている。
 居間からは調理場が見え、調理場の横に大型の冷蔵庫が置かれていた。
個別の部屋と見られる扉が相対的に二つ有り、入り口の横に水洗のトイレも有って、中々機能的な造りの家である。
 扉の一つは源三の部屋で有り、もう一つの部屋に荷物を持って入った和久。
 部屋には、木で造られた大きなベッドが有り、洗面所とトイレが造られていた。 
 部屋は外の景色が見える様に、透明のガラス戸で仕切られ、ガラス戸の向こうにベランダがある。
 ベランダに出て見ると、二メートル程下を山頂に向かう細い道が有り、道に沿うように小川が流れている。
 荷物を置いた和久は居間に戻った。
「小父さん、本当に良い所ですねっ!」
 ソバの支度をしている源蔵を見て、感慨深かげに言った。
「そうか、気に入ったか! 良かった良かった……和さん、用意が出来るまで風呂に行ってこいやっ! 温度の低い温泉だが疲れが取れるから……この時間なら誰も来てないから貸し切りじゃ! わしは昼前に行って来たから……」
 ソバを捏ねながら勧める源三。
「場所は、県道に出て左に少し行くと診療所が有る! その前に公衆浴場の看板が有るから直ぐに分かる。 そうじゃ、もしかしたら診療所の先生が来るかも知れん……先生と会ったら、猪鍋とソバを用意して待ってるから、奥さんと来て下さいと伝えてくれんか! 和さんと同じ位の年だから直ぐ分かる」
 和久に言って、又ソバを捏ねている源三。
 車を朝霧村営温泉の駐車場に停めて館内に入ると、入浴券の自動販売機が置かれていた。 入浴券を買い、木で造られた扉の無い下駄箱に靴を入れた和久は、受付の女性に会釈して券を渡し、少し長い廊下を湯殿に歩いて行く。
 源三の言葉通り、昼過ぎの温泉には誰も居なくて貸し切である。 温泉特有の匂いの中、十人ほどが入れる湯船に身を沈めた和久は、水風呂かと思うほど温度の低い温泉に驚いたが、肩まで浸かって窓越しに外を見た。
 窓は湯垢で白く成り、昼の明るさの中で、ぼんやりと山影が見えているだけである。 
時たま、天井から湯船に落ちて来る水滴が弾けて、和久の顔を濡らす。
少しの間目を閉じて、落ちて来る水滴の音を楽しんでいると、浴室の戸が開いて男が一人入って来た。 
和久を見た男は会釈しながら挨拶をして、少し離れた湯船に身を沈めた。
挨拶を返した和久は、源三の言葉を思い出して問い掛ける。
「診療所の先生ですか?」
 男は和久の問い掛けに、少し驚いた様子で答えた。
「はい、診療所の『山野 武』ですが、如何して私の事を?」
「やはり先生でしたか! 私は、霧野 和久と言います。 実は、朝霧のご主人に頼まれまして……」
 和久は源三との経緯を話した。
 話を聞いた武は大きな声で笑い出し、和久を見詰めている。
「そうでしたか! あの源三さんが泊って行けと言いましたか!」
 言った後、尚も笑っている武。
「先生! 何がそんなに可笑しいのですか?」
 笑いの意味が分からずに問い掛ける和久。
「あっ、すみません……源三さんは変り者で、他人に心を許さない人なのですよ! その源三さんが(泊って行け!)と言った事が可笑しくてねっ」
説明しながら尚も笑っている武。
風呂に浸かりながら会話が弾んだ二人は、何時しか和さん! 武さん! と呼び合う程の間柄に成っていた。
温めの湯に一時間近く入っていた和久は、額から出る汗を拭き、湯船から出て体を洗った。
体を洗い終わった和久は、湯船に居る武に振り返った。
「武さん、帰って源さんの手伝いをするから……」
 武に言って、浴室を出掛かる和久。
「和さん、後でお邪魔するから、源三さんに宜しく伝えて下さい」
 湯船から軽く手を上げて、出て行く和久に伝えた武。
 朝霧に帰って来た和久は、囲炉裏の側で酒を飲んでいる源三に会釈する。
「良い温泉でした! 先生は後でお邪魔するから、小父さんに宜しくと言っていました」
「そうか、先生と会えたか! 和さん、冷蔵庫にビールが冷えているよ」
 冷蔵庫からビールを取り出した和久は、源三が座っている囲炉裏の正面に座って飲み出した。
「此れ摘みだ! 葉ワサビを漬けた物だが……」
 自分の前に置いていた摘みを、器のまま和久に手渡した源三。
 摘みを一口食べた和久は目を細めた。
「美味い! 小父さん此れは良いですねっ……ところで、思う所が有って休業していると言われましたが……」
 休業している訳が気に成り、問い掛けた和久。
「うん、実はなあ……ソバつゆが気に成ってなあ……」
 困り果てた様な顔をして言った源三は、コップのビールを飲み干した。
「小父さん、ソバを食べさせて頂けませんか?」
 和久に催促された源三は、ソバを切って茹で始め、つゆと薬味を和久の前に置いた。
 置かれたつゆの味見をした和久は、囲炉裏の炭を整えながら、茹で上がるのを黙って待っている。
 茹で上がった麺を水で洗い、ざるに盛り付けて持って来た源三。
「和さん、出来たよ! 食べて見てくれ……」
 薬味を入れて食べた和久は、小さく頷いて源三を見た。
 心配そうに和久を見ている源三に会釈した和久は、源三に許しを得て調理場につゆを持って行く。
 何度も味見をしながら、出来たつゆを器に移して冷やした。
 源三は米の炊き上がりを確かめ、囲炉裏の自在鉤に掛けられている鉄鍋の蓋を取って、味を確かめている。
「小父さん、飯はどうしましか?」
「そうだなっ、握り飯にでもするか!」
 源三の返事を聞いた和久。
「小父さん、私に任せて頂けますか?」
 和久は源三の返事を待って寿司酢を調合し、先程食べた葉ワサビの漬物を使った押し寿司を作った。
 源三は再び鉄鍋の蓋を取り、猪鍋の味を見ている。
「和さん、出来たぞ!」
 満足そうな顔付きで和久を見て、丼に入れて手渡した。
「美味い!」
 一口食べた和久は、何とも言えない味付けに満足した。
 暫く食べて飲んでいると、車の停まる音がして話声が近付いて来る……其の声が止んだかと思うと、引き戸が開いて武と女性が入って来た。
「先生、奥さん……どうぞ上がって下さい!」
 二人を見た源三は、笑みを浮かべて手招きをする。
 居間に上がった武夫妻は、囲炉裏の側で会釈して座った。
「源三さん、お言葉に甘えて来ました! 此れは貰いものですが……」
 提げて来た酒を源三に渡した武。
 其々の紹介が済み、囲炉裏の周りに座って乾杯をする。
 源三は、用意していた山女の串刺しを火の周りに刺して、ソバを切り茹で出した
 和久もまた、作った寿司を切り、作り直したつゆを皆の前に置いた。
 武と妻の『加代』は猪鍋を食べながら、笑顔で話している。
 加代は武より五歳年下で、夕子と同じ三十三歳であり、小柄だが笑顔が可愛い美人であった……余り酒が飲めないと言う加代は、猪鍋を食べた後で押し寿司を食べた。
「美味しい!」
 加代の一言を聞いた源三は、茹で上がったそばを水で洗い、ざるに盛り付けて皆の前の置き、押し寿司を食べた。
 それを見ていた武も、飲んでいたグラスを置いて食べ始めた。
「美味い! こんなに美味い寿司は始めてだ!」
 絶賛して源三を見た武……源三は無言で味を噛み締めている。
 二人が食べるのを見た加代は、つゆに薬味を入れてソバを食べ始めた……だが何も言わずに、盛り付けられていたそばを食べてしまった。
「美味しい……」
 ぽつりと言い、放心した様に溜め息を吐いている加代。
 加代の様子を見た武と源三もソバを食べ、黙って猪鍋を食べている和久を見た。
 二人の視線を感じている和久は丼を置き、火の回りに刺されている山女の串刺しを返し始めた。
 食べ終わり、つゆの味見をして和久を見詰める源三。
「和さん、あんた何者だ! この寿司の酢飯と言い、此のつゆと言い、並みの料理人に出来る代物ではない!」
 真顔で言い、武夫妻に同意を求める様に視線を送った源三。
「味の魔術師か! 和さんは、大阪太閤楼の前料理長! 霧野 和久さんでしょう……」
 武は風呂で名前を聞き、集めていた雑誌や新聞の切り抜きを調べたと言う。
 武の問い掛けに、武を見て笑みを浮かべ、目を閉じて頷いた和久。
「そうだったのか! もう少し早くに会いたかったのう……」
 二人の会話を聞いていた源三は溜め息混じりに言い、朝霧を手放して、娘夫婦の所に行く事を話した……そして朝霧が、源三の思惑通りの金額では買い手が付かない事も……此の朝霧を開店した時に、描いた夢が実現していない事も話した源三。
 源三の話が終り、少しの沈黙が流れた。
「源三さん其れまでには、まだ半年以上ある……此れから観光シーズンに入り観光客が来る! これ程美味い猪鍋と押し寿司が有るのだから、朝霧を再開してはどうですか?」
 武の提案を聞いて頷いている加代。
「私もそう思います! 此れほど美味しいお料理は初めて頂きました。 源三さん、そうされては?」
 二人の話に、暫く考え込んだ源三。
「うん! だがのう、此の味は和さんが作った物だから……それに、わし一人では如何にもならんよ……」
 源三は、ちらっと和久を見て武と加代に言った。
「大丈夫だと思いますよ! 其のつもりで私達に、御馳走してくれたのだと思いますよ、ねっ和さん!」
 和久に確かめる様に聞いた武。
「流石は武さんですねっ、何もかもお見通しか! 小父さん、出来るか出来ないか分かりませんが、遣るだけ遣って見ませんか? お手伝いさせて頂けませんか……」
 負担の掛からない言い回しで、源三に頼む和久。
 話が決まり、山女の塩焼きを食べながら、再開店の計画を話し合う四人……尽きぬ話の中、加代には和久の部屋で寝て貰い、三人は飲み明かした。
 翌日から数日間掛けて、源三の幼馴染である女性数人に手伝いを頼み、店や周りの掃除をして看板も書き直した……また、村長や里の人を招待しての試食会も済まし、朝霧は再開店をした。
 湖の側に有る広大な駐車場の一角に、農産物の販売所も立てられ、観光シーズンに備えての準備が整った朝霧の里。
 そして、源三達の思惑も当たり、桜が開花し始めた頃から来店客が増え出し、紅葉の季節が終わりを告げるまで、朝霧は大繁盛の日々を送ったのである。
 最後の日を終えた和久と源三は風呂から帰り、囲炉裏の側で飲みながら、お互いを労った。
「和さん、有難う! あんたのお陰で長年の夢が叶ったよ。 和さん、わしの願いを聞いてくれんか?」
 立ち上がった源三は自分の部屋に行き、大きめの封筒を持って来て和久に渡した。
「朝霧の権利書じゃ! 何も言わずに受け取ってくれんか! それから利益の半分を……」
 渡された権利書を見ると、名義が和久に変えられていた。
 礼を尽くしてくれる源三に感謝する和久。
「小父さん、有難う御座います……お言葉に甘えさせて頂き、権利書だけ頂きます」
 和久は源三の礼に答えて、権利書だけを受け取った……それでも執拗に、利益を渡そうとした源三だったが、最後には和久の説得に従った。
 診療が終って武夫妻が来たのは、それから間もなくしてだった……四人は思い出話に花を咲かせ、別れの前夜を語り明かした。
 翌日、迎えに来た娘の車に荷物を積み、見送る武夫妻と和久に礼を言った源三は、住み慣れた朝霧の里と朝霧に別れを告げて旅立った。
 源三と武夫妻を見送った和久は、譲り受けた我家に入り、源三が住んでいた部屋に入った……几帳面な源三らしく、部屋の中は綺麗に片づけられて、机の上に手紙とノートが置かれていた。 ノートには和久の知らない朝霧の事が、事細かく書かれている。
 そして、霧野 和久様と綺麗な楷書で書かれた手紙を読んだ和久は、律儀な源三の文面に改めて感謝をし、遠く離れた源三の無事を祈った。
 源三が去って数日が経った師走の半ば頃……手紙に書かれていた源三の夢である温泉掘削の話をする為に、隣町の北山ボーリング工業を訪ねる事にした。
 夢を実現してくれるようにと、源三が掘削費用を置いて行ったからである。
 住所と電話番号を写し取り、夕子の歌を聞きながら山道を走る和久……此処の社長である北山 昇は、源三の無二の親友とあり、信頼出来る人物であるとも記されていた。
 隣町とは言っても、県道で有る山道を、車で一時間以上走らなくてはならない……街に着いた和久は買い物を済ませて、街の外れに有る北山ボーリング工業を訪ねた。 
塀で囲まれた広い敷地の端に木造の事務所が有り、挨拶を済ませた和久は応接椅子に座るように勧められた。
 事務所には五台の机が置かれ、従業員と思われる男が三人で、何やら調べ事をしている。
 事務を兼ねていると言う奥さんが茶を持って来た。
 手紙に書いてあった通り、北山は温和な人柄で好感が持てた……源三が発つ時に寄って、和久の事を話して行ったと言う。 
 掘削の話や朝霧での出来事を話し終えた後、北山が不意に話し掛けて来た。
「ところで霧野さんは、犬は好きですか?」
 食べ物の話が終ったばかりで、大いなる勘違いをした和久。
「まだ、食べた事は有りませんが……」
 和久が答えたと同時に、静かだった事務所内が爆笑に変わった。
「面白い事を言う人だ……源三が気に入った事が分かったよ!」
 話しながら笑っている北山……皆の笑いが止むのを見た北山は、奥さんに言って子犬を持って来させた。
「霧野さん、此れですよ……家で飼っているシーズーの子供で、三匹生まれたのですが、此の子だけがシーズーの容姿と違う為に、引き取り手が居ないのですよ……」
 確かに、北山が言うように鼻は出ていて、口はオチョボ口のオスの子犬である……だが、愛嬌のある顔立ちが気に入った和久は、譲り受ける決心をした。
 奥さんが床に下ろすと、足元に来てじっと和久を見ている。 
暫く和久を見ていた子犬は、甲高い声で吠え、抱け! と言う様な仕草を見せた……和久が抱き上げると尻尾を振り、顔中を舐め回して喜んでいる。
 子犬を膝に乗せて全身を撫でてやると、和久を見て安心した様に背を丸めて眠り出した。
 此の様子を見ていた北山は、目を細めている。
「霧野さんが気に入ったようだ! 霧野さん、如何ですか?」
 北山の問い掛けを待っていた和久は、是非にと言って譲り受けた。
 帰る道中、泣き続けていた子犬だが、夕子の歌を聞かせた途端、泣き止んで眠り出した……暫く走っていると、目を覚ました子犬がチラチラと和久を見ている。 そして前足を助手席の窓に上げ、何かを訴える様に泣き出した。
 車を停めて外に出すと、待ちかねていた様に腰を下ろして小便をし、得意顔で和久を見ている……驚きながらも感心した和久は子犬を抱き上げ、貰って来たビスケットを与えて褒めてやった。
 子犬を助手席に乗せて何気無く横を見ると、樹齢何百年かと思わせる大木の下である……大木に一礼をして車を出した和久。
 そして、大きな木にあやかり子犬の名前を『ダイスケ』とした。
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第一章の(3)小説「雲海」

2015年09月03日 11時11分31秒 | 暇つぶし
太閤楼を出た和久が、想い出の多いオバちゃんの店に行くと、店の前に二人が立っている。 驚いて車から降りた和久は、二人の所に走って行った。
「おはようございます! オバちゃんどうしたのや? 明美ちゃんまで……こないに朝早ようから……」
「和、おはようさん! 此れを渡そうと思うてなっ」
「何や、此れは?」
「昼飯のおにぎりや! 明美と二人で作ったのや、持って行き!」
 身寄りの無い和久に、大都会の人情が身に沁みた。
「明美ちゃん、オバちゃんの事頼んだよ! オバちゃん、明美ちゃん、行って来ます」
「和久ぁ、体に気を付けてなぁ……」
 目にいっぱい涙を溜めて見送る明美。
 人生の半分近くを過ごした街と、厳しい修業に明け暮れた太閤楼! 思い出の人達と別れて、食を極める旅に出た和久は、引退した茜 夕子の歌を聞きながら日本海に出た。 
小さな港町に着いた和久は、堤防に腰を下ろしてオバちゃん親子に貰った握り飯を食べ始めた。
 五月の爽やかな風が、気持ち良く和久の頬を撫でて行く。
「美味いなぁ、流石はオバちゃんと明美や!」
 改めて二人に感謝する和久。
 日本海を北上しながら、評判の良い店が有ると出掛けて行き、納得するまで食べに行く。 太閤楼を出て関門海峡を渡り、九州の地に入るまでに五年の歳月が流れていた。
 二十年振りに九州の土を踏んだ和久は感無量であった。
 海峡の見える食堂で昼食を済ませ、温泉のある割烹旅館『笹の家』を二日間予約した。
 笹の家に着いた和久は、記帳をして部屋に案内された。
 温泉に入り旅の疲れを癒した和久は、窓際の椅子に腰を下ろして遠くの海を眺めている。
 夕食の準備に来た仲居に、評判の良い店を聞く。
「お姐さん、この近くで珍しいものを食べさせてくれる店は有りませんか?」
「この辺りでは別に珍しくは有りませんが、猪鍋とソバの美味しい処は有りますよ」
 仲居は料理を並べながら、詳しく話し始めた。
「二時間程の所ですけど、久住に『朝霧の里』と言う村が有ります。 そこに『朝霧』と言う店が有って、そこの猪鍋とソバが美味しいですよ! 結構評判が良いですねっ……でも、変った人らしいので、営業しているかどうかは分かりませんけど……」
 猪鍋の話を聞き、胸の高鳴りを覚えた和久。 並べられた料理を見て、席に着き食事を始める。
 割烹旅館とは言っても、此れと言って珍しくは無く無難な料理である。
 食事が終り、仲居が片付けに来た。
「ご馳走さんでした……ところで、此処の料理長は長いのですか?」
 何かを確かめる様に聞く和久。
「はい、旦那さんが亡くなられてからですので、三年に成ります。 何か御座いましたか?」
 不審そうに問い掛ける仲居。
「いやっ別に! 美味しく頂きました」
 差し障りの無い返事をした和久。
「ありがとうございます! でも、お客さんが少なく成って来まして、息子さんも調理場に入って見習いをしております」
 言いにくそうに本音を漏らす仲居。
 部屋が片付けられた後、休息を取った和久は風呂に行く。
 風呂から出て部屋の椅子に座り、ぼんやりと遠くの漁火を見ていると、ドアがノックされて女性が入って来た。
 女性は竹田 千恵子と名乗り、笹の家の女将だと言った。 太閤楼の女将、小竹 麗子を彷彿させる様な上品さと美しさを秘めている。
 和久の前に座り、両手を付いて頭を下げる。 和久もまた、座りなおして頭を下げた。
 顔を上げ、和久を見詰めた目に優しさが漂っている。
「先程、宿泊名簿を見ておりましたら、霧野様のご住所が大阪の太閤楼に成っておりましたが……もしかして、前料理長の霧野様では?」
 半信半疑に問い掛ける千恵子。
「はい、旅の途中で寄らせて頂きました。 霧野 和久と申します……よろしくお願い致します」
 頭を下げ、礼を尽くす和久。
「知らぬ事とは申せ、拙い料理をお出しして誠に申し訳御座いません」
 話を聞いてみると、和久が料理長をしていた時に、夫婦で太閤楼に来たと言う。 洗練され妥協を許さない料理に感心し、和久の年を聞いて驚いたと言った。 千恵子は見習い中の息子の為に、教えを請いに来たと言う。
「女将さんお気持ちは分かりますが、料理長を差し置いてそれは出来ません! ただ、調理が出来れば後は精進しか無いと思います。 私も見習いの時に良く叱られました。 (アホか! 何回言うたら分かるのや! 料理は心や、見せ掛けの小細工はあかん! 客の気持ちになれ! 自分が食べるつもりで調理せい!……和、この食材を見てみぃ、大切な命を頂いてるのやでっ! よう覚えとけドアホッ!)そう言って叱られました。 厳しい先代でしたが有り難かったです」
 教える事は出来ないが、先代が自分にしてくれた事を伝えた和久。
「霧野様、ありがとうございました。 息子に良く言って聞かせます……でも霧野様は先代がお好きだったようですね」
 心の中を見透かされた様で照れる和久。
 翌日、朝風呂に入り食事に行くと、昨夜の仲居が立っている。 和久が挨拶をすると、ニッコリ微笑んで挨拶を返して来た。
「今日は七十人の宴会が入って大変ですよ! 以前からの大切なお客様で、主催の社長様は、大変な食通らしいのです……あっ霧野様のお席はこちらです。ごゆっくりお召し上がりください」
 案内され食事を済ませた和久は、散歩がてらに、部屋から見えていた海岸の方へ歩いて行く。
 昼近くまで、のんびりと過ごした和久は、旅館に帰ろうとして商店街を通り抜けようとした。 何気なく歩いていたら商店街の一角に『めし』とぶっきらぼうに書かれた看板を見つけ、中を覘いて見ると客で埋まっている。 
 気を引かれた和久は店に入った。
「いらっしゃい! 同席で良ければ此方にどうぞ!」
 大阪の明美に似た、元気の良い娘が席を取ってくれた。
「お客さん、昼は定食しか有りませんが良いですか?」
 明るく元気の良い問い掛けに、定食を頼み店内を見回した。 
厨房には中年の女性が三人居て調理をしている。 客は五十人ほどで、来た時には居なかったが、店の外に十人ほどが並んでいた。
 食べている客は、満足そうな顔で美味そうに食べている。
 直ぐに、定食が運ばれて来た。
 定食の献立は、飯に貝汁、サバの煮付に卵焼きが付いている。
 貝汁を一口飲んだ和久は、大きく頷き煮付に箸を運んだ。
 サバの煮付を食べた和久。
(何や此れは? なんちゅう味付けや! ん……蜂蜜? オバちゃんの味に似ている……)
 小さな声で呟いたのだが、横に居た客の耳に入ったらしい……。
 その客は、ニッコリ笑って和久を見た。
「兄ちゃん、其れサバや!」
 丁寧な説明をしてくれた客。
 やはり世の中は広い! こんな食堂にも此れだけの味付けが出来る料理人が居る……味の奥深さを改めて、肝に銘じた和久。
 満足して食べた定食に600円を払い、店を出て旅館に帰って来た。
 玄関を入ると館内が慌ただしい、昨夜の仲居を見つけて呼び止めた和久。
「何か有りましたか? いやに慌ただしいけど……」
 気に成り問い質す和久。
「あっ、御帰りなさい! 実は、宴会の準備をしていた料理長が腰を痛めて立てないのです。 大切なお客様なので、他に料理人を探している所なのですが 見つからなくて、女将さんがお困りなのです」
 話を聞いた和久は、太閤楼の麗子と正晴の事を思い出し、手伝おうか! と思ったのだが、後々の事を思うと決断がつかなかった。
 和久が考えていると、千恵子が若い料理人とやって来た。
「霧野様、お帰りなさいませ! 此れは息子の昌孝でございます……お見知り置き下さいませ」
 千恵子は丁寧な挨拶をして、息子の昌孝を紹介した。
「初めてお目に掛かります竹田 昌孝です。 母からお話は伺いました! ありがとうございました」
 丁寧な挨拶をした昌孝。
「霧野 和久です! よろしく!」
 昌孝を見詰め、簡単に挨拶をした和久。
 挨拶が終るのを見ていた千恵子は、いかにも困り果てた様な表情を浮かべている。
「霧野様! 色々と手を尽くしましたが……お助け願えませんか?」
 千恵子と昌孝は、深々と頭を下げて嘆願した。
 太閤楼の女将麗子より歳は若いが、何となく似ている千恵子に頼まれて、何とか手助けをと思った和久。
「分かりました! お二人とも顔を上げて下さい。 微力ながらお手伝いをさせて頂きます」
 後の事は後で考えれば良いと思い、手伝う決心をした和久。
「そうと決まれば時間が無い! 昌孝さん、献立表を見せて下さい」
 そう言って、包丁を取りに車の所に行き、包丁セットと割烹着を取って戻って来た。
 暫くして、昌孝が献立表を持って来て和久に手渡す。
「霧野さん、今日の献立表です……それから、私の事は呼び捨てにして下さい」
 千恵子と昌孝は和久を厨房に案内し、千恵子は厨房に居る全員を集めた。
「ご苦労さん! 厨房を見て頂く霧野様です……ご指示に従って下さい!」
 千恵子の挨拶を聞いた和久。
「霧野です! よろしくおねがいします」
 簡単に挨拶をした和久は、次々に指示をする。
 和久にとって、七〇人程の料理はさして難しくは無いのだが、自分が指揮を取ると言う事は、太閤楼の名誉が問われる事にもなり、妥協が許されない事も分かっていた。
 其々の持ち場を見て周り、味付けを見ながら的確な指示を出す和久。 
一丸となって和久の指示通りに動き、何とか宴会の時間に間に合わせる事が出来た。
 和久は出来た料理を、腰痛で休んでいる料理長の所に持って行かせ、其々にも試食を勧める。 同じ食材で調理した料理、しかも自分たちで調理した料理を食べて、一同は声を失った。
 和久は此処の料理人に、料理に対して謙虚に成る事を教えた。
 宴会が始まり、出すべき料理に目安が立ったのを見計らった和久。
「皆さん、ご苦労さんでした! 後は、何時もの要領でお願いします」
 一言労って、厨房を後にした。
 部屋に戻った和久は窓辺の椅子に座り、此れからの事を考えている。
 その頃、最後の料理が出されたのを見届けた千恵子が厨房に来た。
「皆さん御苦労さまでした……お客様が、とても満足されていましたよ」
 満足そうな顔で報告して、料理人の労を労った千恵子。 そして、料理を持って来させて食べてみた。
 一口食べた千恵子は、その違いを知り、宴会場で主催の社長に言われた言葉を思い出した。
「女将! 味付けが違うが料理人が代わったのかね? 実に美味い料理だ!」
 そう言われた千恵子は、事の成り行きを社長に話した。
「そうか! しかし此れだけの人が、この味を知ったからなぁ……」
 奥歯に物が挟まった様に言う社長。
思えば自分が和久に手伝いを頼んだ時、和久が少し躊躇した事の意味が分かった。
「女将さん、あの方は何者ですか? あんなに凄い料理人は初めて見ましたよっ!」
 副料理長を任されている梅田が、考え込んでいる千恵子に問い掛けた。
「あの方は、料亭太閤楼の前料理長です!」
「えっ、では、天才料理人! 味の魔術師と言われた伝説の人、霧野 和久さんですか! どうりで……調理も素晴らしいが、何より、褒めながら的確に人を動かす術を心得ている。 女将さん、有難う御座いました、良い勉強をさせて頂きました……」
 梅田の言葉を聞いて、千恵子の不安が更に大きなものに成って来た。
 不安の中、礼を言う為に太閤楼の女将麗子に電話をし、事の一部始終を話した千恵子。
「女将さん、お話は良く分かりました。 和久がお世話に成りまして、有難う御座います……ですが、御心配は要らないと思います。 和久がお手伝いを承知したのでしたら、何か考えが有っての事だろうと思います……礼節を弁えた子ですから……和久は元気にして居りましたか? お知らせ頂きまして有難う御座いました。 でも、この電話の事は和久には内緒にしておいて下さい」
 千恵子を安心させ、電話を切った麗子。
 麗子の話を聞いた千恵子は、太閤楼の女将に全幅の信頼を受けている和久を信じて、もう一度だけ嘆願して見ようと決意した。
 窓辺の椅子に座って考えていた和久は、決心が付いたのを確信しタオルを取って風呂に行く。 
風呂から上がり部屋に帰る途中、玄関近くで宴会客を見送った仲居を見つけて昌孝に伝言を頼んだ。
部屋に帰り着替えた和久は、昼食を食べた定食屋に出掛けて行く。
 ガラス越しに見える店内は、満席状態だった。 引き戸を開けて店内に入ると、昼間の娘が笑みを浮かべながら近付いて来た。
「いらっしゃい! お昼にも来て頂きましたね……此方にどうぞ!」
 和久を覚えていた娘は、カウンターの端を空けてくれた。
 腰を下ろした和久はビールを頼み、献立表を見て、昼間食べたサバの煮付と煮込みを頼んだ。
 店の雰囲気を楽しみながら食べて飲んでいると、隣に居た客が勘定を済ませて出て行った。
 時間が経つに連れて客が減り、和久の他に二組だけに成った時に、昌孝が入って来た。
「昌ちゃん、いらっしゃい!」
 和久の横に立っていた娘が、大きく叫んで昌孝に近付き、何やら話しながら和久の方を見ている。
 娘と一緒に和久の所に来た昌孝。
「すみません! 遅くなりまして……お袋が、宜しくお伝えしてほしいと言っていました。 本当に有難う御座いました」
 詫びて礼を言った後、和久の勧めで横に座る昌孝。
 昌孝にビールを注ぎ、自分の空いたグラスにもビールを注いだ。
「お疲れさん!」
 労ってグラスを合わせた二人。
 暫く飲んでいると、調理場に居た女性が二人の前に来た。
「小母さん、ご無沙汰しております」
 昌孝は立ち上がって挨拶をした。
「此処の経営者の小母さんと、朱美さんです……幼馴染なんです」
 見ていた和久に紹介した昌孝。
 和久も立ち上がって挨拶をし、二人を交えて飲み始めた。
 暫く飲んでいたら、女将が思い出したように昌孝に問い掛けた。
「昌! 今日、笹の屋で宴会が有ったやろ! 宴会に出た社長が帰りに寄って言っていたわ。 その社長は食通でなっ、笹の家は料理人が代わったって! 先代の後は味が落ちていたから客が減ったけど、今日の料理は凄かったって! 何年か前に食べた大阪の太閤楼に匹敵する味やって、良かったねっ! 私らも心配やったから……」
「はぁ……」
 女将の話に生返事をしたが、困った様子で飲んでいる昌孝。
 昌孝の表情を見詰めている女将。
「お母さん、社長さんが言っていた太閤楼のお料理って、そんなに美味しいの?」
 興味を持った様に問い掛ける朱美。
「私も食べた事は無いけど、日本一の料亭やから美味しいのやろねぇ……」
 話を聞きながら、昌孝の様子を見ていた和久。
「朱美ちゃん! 幾ら美味しいと言っても、毎日は食べられへんよねぇ。 それに比べて此処の料理は毎日食べても飽きが来ない! 太閤楼のお客の殆どが名前だけで美味しいと思っているのかもねっ……それに小母さんの料理には、客への思いやりが感じられる。 小母さんの料理の方が上だと思いますよ! 此れが料理だと思いますよ」
 昌孝に聞かすように話す和久。 和久の言葉を聞いた昌孝は、改めて和久の凄さを感じ取っていた。
 女将は、そっと目頭を拭っている。
「ありがとう! 昔、同じ事を言ってくれた人が居ましたよ。 私が大阪の友達と二人で小料理屋を始めた時やった! その太閤楼の近くでなっ……後で知ったのやけど、太閤楼のご主人やったのや! 二人で感激してなぁ……」
 女将の話を聞いて、大阪のオバちゃんの味に似ている事の謎が解けた和久。
 頃合いを見計らった和久は、昌孝にもサバの煮付を頼んだ。
 昌孝の前に、サバの煮付が置かれるのを見た和久。
「昌、食べてみぃ……今までの概念を捨てて、煮付のだしに何が使われているか言うてみぃ……」
 和久の言葉に従い、サバの煮付を食べる昌孝……神経を集中させて味を探った昌孝。
「んっ蜂蜜? まさか?」
 味を確かめた昌孝が、ぼそっと呟いた。
 その呟きを聞き取った和久。
「昌、今までして来た概念や、味付けの常識は捨てるのや!」
 和久の一言を聞いた昌孝。
「はい! 蜂蜜だと思います……前に、生姜湯を作った時に蜂蜜を使いましたが、その時と同じ味がしました。 間違っていますか?」
 和久を見詰めて、自信が無さそうに聞いた昌孝。
 返答を聞いた和久は、酒を飲みながら微笑んだ。
「昌、女将さんに聞いてみぃ……」
 一言言って、盃を口に運んだ和久。
「小母さん! どうですか?」
 女将を見詰め、祈るように聞く昌孝。
「この味付けに蜂蜜を使っていると聞いたのは、太閤楼のご主人とで二人目ですわ! この人には分かっていたようやけど……」
 和久を見ながら、昌孝の問い掛けに答えた女将。
 そして、昌孝を見た女将。
「昌孝! この人は何者や!」
 女将の問い掛けに、全てを話した昌孝。
「そうか! 今日の料理は霧野さんの指示か、どうりで……」
 女将は昌孝の心中を察した。 
そして先程、和久が昌孝の味覚を試した事も……
時が経ち、浮かぬ顔で店を出掛かる昌孝。
「昌孝、心配は要らんから……」
 女将は、安心するように言って二人を見送った。
 部屋に帰って来た和久は、窓辺の椅子に座り、チラホラと見えている街明かりを見ながら、明日からの事を考えている。
 翌日、朝食を済ませて部屋に帰った所に、千恵子と昌孝が来た。
 二人は和久の前に座り、深々と頭を下げて昨日の礼を言った。
 千恵子は顔を上げ、何かを決意してるような眼差しで和久を見詰めている。
「霧野様! 先程、料理長が来まして辞表を置いて行きました。 訳を尋ねましたところ(霧野様の料理を食べて目が覚めました……この程度の料理の腕で慢心していた自分が恥ずかしい! ご迷惑をお掛けして申し訳有りませんでした……もう一度、料理を見直したいので我がままをお許し下さい! 霧野様に宜しくお伝え下さい)そう言って出て行きました……霧野様!」
 千恵子が、そう切り出し掛けた時。
「お話は分かって居ります! 微力ながらお手伝いをさせて頂きます」
 千恵子の礼に答える和久。
「期間は五ヶ月です! 昌孝さん、如何ですか?」
 昌孝の気概を知ろうと、言葉を投げ掛けた和久。
「有難う御座います! 死ぬ気で付いて行きます……よろしくお願い致します」
 きっぱりと言い切った昌孝。
 安堵した眼差しで、和久を見詰めている千恵子。
 厨房に料理人を集めるよう昌孝に言い、千恵子と共に部屋を出て厨房に行く和久。
「霧野様、本当に五ヶ月で大丈夫なのでしょうか?」
 厨房に向かう途中、心配して問い掛ける千恵子。
「女将さん、ご子息には基本が出来ています……それに、ずば抜けた味覚の持ち主である事も分かっています! ご心配にはおよびません。 ただ、この期間は何が有っても見守るだけにして下さい……それから私とご子息は、今日から住み込みの部屋に移りますので、宜しくお願いします」
 母親の気持ちに釘を刺して安心するように言い、千恵子は住み込みの部屋に移ると言う和久に、恐縮しながらも従った。
 また、昌孝の味覚を、どうして和久が知っているのか不思議に思う千恵子。
 厨房には、笹の家の料理人が全て集まっている。
「皆さん! 今日から五ヶ月間、料理長として厨房を見て頂く事に成りました霧野様です……ご指示に従って下さい!」
 優しく美しい容姿に似合わず、威厳に満ちた態度で伝える千恵子は、改めて和久を紹介し、副料理長の梅田を和久に紹介した。
「梅田と言います! 霧野料理長、宜しくご指導下さい」
 五~六歳は年上と思われる梅田に、挨拶をされた和久。
「梅田さん、此方こそ宜しくお願い致します。 ちょっと出掛けたいので昌孝君をお借りします……後の事は宜しくお願いします」
 厨房を梅田に頼み、千恵子と昌孝と共に厨房を後にする和久。
 仕入れに使う車を昌孝に用意させ、笹の家を出る。
「昌、野菜農家に知り合いは居ないか?」
 車中、昌孝に問い掛ける和久。
「兄さん、二十分程行った所に農業と野菜を作っている親友が居ますが……」
「そうか! 其処に行ってみよう……」
 和久の言葉で、連絡を取った昌孝。
 暫く走ると、ビニールハウスが無数に建てられた、広大な田園風景が見えて来た。 
 市道から少し狭い農道に入り、農家の庭先に車を停めた昌孝。 其の農家の作業小屋と思われる入り口に、二つの人影が見える。 車から降りた昌孝は、小走りに二人の所に駈け寄り、車の方を指差しながら話し出した。
 暫く時間を置き、車から降りて三人の所に向かう和久。
 昌孝に紹介されて作業小屋に入った和久は、野菜の収穫の状況を聞いた。
 米田 一郎と紹介された昌孝の友人は、五軒の野菜農家で無農薬の野菜作りを目指していると言うのだが、収穫の二割近く出る出荷出来ない野菜の為に、皆が頭を痛めていると言う。 処分にも金が掛かる為に、利益が出ないと言うのだ。 
 話を聞いた和久は、出荷出来ないと言う野菜を持って来て貰らう事にした。 米田が其々の農家に連絡を取り、暫く待っていると野菜が運ばれて来た。
 確かに、米田が言うように曲がっている物や、虫が食っている物や不揃いの野菜ばかりである。
 その野菜を試食した和久は、頷きながら昌孝を見ている。
「美味い! 昌、お前も食べてみい……」
 和久に言われて野菜を食べた昌孝は、驚いた様な顔で和久を見た。
「兄さん、今までに食べて来た野菜とは違います! 甘いし美味いです!」
 驚いて素直に言った昌孝。
「昌! 此れが本当の野菜の味なのや! 農薬漬けで虫も食べん様な野菜とは違うのや! 此れが大地の力なのや!」
 和久の言葉を噛み締める昌孝。
 昌孝の言葉を聞いた和久は、其々の顔を見回した。
「米田さん出荷出来ない野菜を、笹の家で全部引き取らせて頂けませんか? 金額は其方で決めて頂いて結構ですので……」
 和久の申し出に驚いた米田は、五人で話し合いを始め和久を見た。
「料理長、お金は頂けません! 廃棄する労力を考えれば、引き取って頂けるだけで助かりますから……」
 米田の言葉に、皆が納得しているのを見た和久。
「皆さんが丹精込めて作られた野菜です! 無料で頂く訳にはいきません。 その代わりに、毎日届けて頂けませんか?」
 和久の提案に納得した米田達は、その提案を受け入れた。
 和久と昌孝は、試食して残った野菜を車に積んで帰路についた。
「兄さん、この野菜を如何されるのですか?」
 和久の考えが理解出来ずに聞く昌孝。
「昌、お前なら如何する?」
 逆に聞かれた昌孝は、暫く考へ込んでいた。
「野菜サラダか、ジュースですか?」
 自信なさそうに答えた昌孝。
「そうや! 昌、この野菜は宝の山や! 三種類のドレッシングを作って、女性客の心を掴むのや! それから、厨房に入ったらワシの側に居って、補佐をするのや! ええなぁ!」
「はい! 兄さん……」
 厨房に入った和久は、持ち帰った野菜でサラダを作らせ、昌孝の目の前で和洋中華三種類のドレッシングを作って見せた。
 また、サラダに使えない野菜は、蜂蜜を使ったジュースとして使った。
「昌! 此れを女将さんに試食して頂け……」
 昌孝が持って来たサラダとジュースを試食した千恵子。
「美味しい! 其々に違った味が楽しめて女性が喜ぶ味ですねっ。 それにジュースも野菜の味がして美味しい……」
「はい! 此れを大きめの器に入れて、食事に付けるそうです……お変りは自由で……」
 話を聞いた千恵子は、改めて昌孝を託した事を喜んだ。
 厨房に戻って来た昌孝に、千恵子の意見を聞いた和久。
「昌、此処にワシが作ったドレッシングの材料が有る! 同じ物を、お前も作ってみい……」
 手始めに、ドレッシング作りを命じた和久。
 仕事が終り、誰も居ない厨房で黙々とドレッシング作りをする昌孝の姿! 何回も作っては遣り直す昌孝……五ヶ月と言う限られた時間の中で、和久の調理を会得しようと、明け方まで精進する昌孝……それを陰で見守る和久が居た。
 千恵子は和久の姿に、涙を流して手を合わせた。
 和久が厨房に入り三カ月が過ぎた……その頃から、笹の家は満室の状態が続き、宴会に至っては三カ月待ちの状態が続き出している。
 昌孝の精進も並みの事ではなく、太閤楼の料理長である小竹 正晴に匹敵する位の腕になっていた。
 和久は最後の試みに、昌孝を誘って朱美の店に行く。
 店は相変わらずの満席だったが、朱美が席を作ってくれた。 
 閉店が近付き誰も居なくなった頃、前で飲んでいた女将を見る和久。
「小母さん、済みませんが煮込みの持ち帰りは良いですか?」
 帰り間際に、持ち帰りが出来ない事を知っていて頼む和久。
 和久の心情を察した女将は快く承諾して、朱美に持ち帰りの用意をさせる。
「昌! 此の煮込みと同じ物を作ってみい……味に対して謙虚に成らんと出来んぞ!」
「はい! 兄さん……」
 和久の意図が分からないままに返事をした昌孝。
 再び味に対する挑戦を始めた昌孝……試行錯誤を繰り返しながら、寝る間も惜しんでの挑戦である。
 一週間が過ぎようとした夜も、厨房に昌孝の姿が有った。 昌孝は出来ない苛立ちの中で(味に対して謙虚に成れ!)と言った和久の言葉を思い出して噛み締めた。
 次の日、千恵子と献立の打ち合わせをしている所へ、昌孝がドアをノックして入って来た。
 和久の前で正座をした昌孝。
「兄さん! 申し訳有りません……私には出来ません!」
 昌孝を見て、少し笑みを浮かべた和久。
「昌! 何で出来んのやっ!」
「はい! 似た様な味には出来ますが、あの煮込みは注ぎ足しては煮込みを繰り返して出来た味だと思います。 兄さん、申し訳有りませんが力不足です! すみません……」
 土下座をしたまま詫びる昌孝。
 会話をする二人を心配そうに見ている千恵子。
「昌、よう言うた! その通りや……あの味は誰にも作れんのや! ああして出来た味も有ると言う事を忘れるなよ! 味に対する謙虚な気持ちを忘れるなよ!」
 我が事のように喜び、手を差し伸べて昌孝を立たせる和久。
 立ち上がった昌孝は、一礼をして和久を見詰めた。
「はい、兄さん! ありがとうございます……生涯、肝に銘じておきます」
 昌孝の決意を聞き、嬉しそうに微笑む和久。
「女将さん、もう私が教える事は何もありません……後は昌の精進だけです。 今の昌は太閤楼の料理長にも匹敵する力を付けて居ります。 最後の仕事が終ったら料理長にしてやって下さい」
「最後の仕事?」
 和久の思惑が分からない千恵子は、和久を見詰めて問い掛けた。
「昌、今日の調理は手伝う必要は無い! その代り、献立と同じ料理を三人分作るのや、お前一人で……それと、調理場に居る皆の試食を! ええかっ!」
「はい、兄さん! 分かりました……」
 千恵子にも昌孝にも、和久の意図は分からなかったが、昌孝は気持ち良く返答して部屋を出て行った。
 全ての料理を出し終えた和久と梅田は、千恵子が待っている部屋に行く。
 千恵子に挨拶をした二人が席に着くと、直ぐに料理が運ばれて来た……客に出す料理の手順と同じように出された料理。
 三人は、昌孝が一人で調理した料理を味わった。
「女将さん、梅田さん……昌孝の料理は如何でしたか?」
 満足したように聞く和久。
「料理長、まるで料理長の料理を頂いているようでした! 昌孝さんの精進には感服いたしました……申し分の無い料理でした」
 梅田の言葉に耳を傾けていた千恵子。
「霧野様、ありがとうございました」
 礼を言った千恵子は、そっと目頭を抑えた。
「梅田さん、此れまでの様に昌孝を助けてやって頂けませんか? お願いします……」
 昌孝の調理を見せ付けた上で、梅田に頼む和久。
「料理長、ありがとうございます……精一杯務めさせて頂きます」
 快く承諾した梅田。
 一方で、昌孝の料理を試食した料理人達は、誰もが昌孝の料理に感服していた。
 和久は言葉ではなく、昌孝の実力を見せ付ける事で、その力を認めさせたのである。
 調理場に来た千恵子は、全料理人の前で、昌孝の料理長就任を伝えた。
 満足して千恵子の訓示を聞いた和久。
「皆さん今の笹の家は、大阪の太閤楼にも匹敵する位に成っています! 此れからも精進して、新しい料理長の手助けをして下さい……お願いします」
 和久の挨拶が終るや、昌孝も深々と頭を下げた。
「皆さん! 若輩者ですが、宜しくお願い致します!」
 短いが、心の籠った挨拶をした昌孝。 
 昌孝の挨拶を聞いた料理人から拍手が起こり、昌孝の料理長就任を心から認めたのである。
 全てを昌孝に託した和久は、風呂に行き部屋で休んでいた……暫く休んでいると、ドアがノックされて千恵子が入って来た。
 和久の前で正座をして、両手を付いた千恵子。
「霧野様、この度は誠に有難うございました! 何とお礼を申し上げれば良いのか……」
 言葉に詰まり、深々と頭を下げた千恵子。
「女将さん、顔を上げて下さい……全ては御子息の精進です。 私は少しだけ提案をしただけです。 御子息は良く精進をしました! 素晴らしい御子息です……」
 息子の為に礼を尽くす千恵子を見て、心地よい安らぎを感じた和久である。
「霧野様、ありがとう御座います……」
 我が子が精進する姿を、陰で見守ってくれた和久……和久への感謝を伝えたかった千恵子だが言葉が続かなかった。
「女将さん、御心配には及びません……口出しはしませんが、お約束の期日までは調理場に居ますから……それから霧野様は照れ臭いですから、和久とか和で良いですから……」
 千恵子の心配ごとを汲み取って、安心させる和久。
「何から何まで御心配りを頂きまして、有難う御座います! 和さん……」
 千恵子は照れながらも、和久の名を呼んで頭を下げた。
 子を思う親の気持ちに触れた和久は、千恵子と共に部屋を出て、朱美の店に歩いて行く。 店は相変わらずの満席で、和久を見た朱美は大きく手を上げて手招きをしている。
 何時もの席に座り、何時もの肴を頼んで飲んでいると、客の一人が立ち上がった。
「朱美ちゃん、悪いがテレビを点けてよ! 引退した茜 夕子の特集が有るから……」
 客が言った途端に、店内から大きな拍手が起こった。
 テレビに映し出された夕子……夕子が歌い出すと、店内は静まり返って夕子の歌に聞き惚れている。 
 歌を聞きながら、夕子との出会いを思い起こす和久。
 番組が終り、客も減り始めた頃に昌孝が来た。
「兄さん! 有難う御座いました。 小母さん、朱美ちゃん、お疲れ様です」
 和久に頭を下げて横に座る昌孝。
 二人の前に女将が来た。
「小母さん、新しい料理長です! 宜しく引き立ててやって下さい!」
 立ち上がって、誇らしげに紹介する和久。 昌孝も立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「そうですか! 昌、おめでとう……それでは煮込みは出来たのですねっ?」
 目を細めて聞く女将。
「小母さん、残念ながら出来ませんでした! あの煮込みは誰にも出来ないそうです! 兄さんにも……」
 自信を持って経過を話す昌孝。
「出来なかったのに料理長になれたの? 昌ちゃん、どうして?」
 不思議そうに問い質す朱美。
「うん、兄さんに言われた言葉の意味が分かったから……(味に対して謙虚に成れ)と言う……」
 昌孝の話に半信半疑の朱美だったが、全てを理解した女将。
「そうか昌、よう精進した! おめでとう!」
 女将は自分の事の様に喜び祝ってくれた。
 翌日から、笹の家の厨房には、料理長として指揮を取る昌孝の姿が有り、何も言わずに、昌孝を見守る和久の姿が有った。
 昌孝が料理長として指揮を取り、一ヶ月が経とうとしていたが、依然として客足の絶える事は無く、予約で埋まっている。
 約束の期日まで3日に迫った日、千恵子が昌孝と一緒に部屋に来た。
「霧野様、お願いが有って来ました! お部屋を移って頂きたいと思います。 此れだけは、是非にもお聞き入れ下さいませ!」
 断り切れない千恵子の眼差しを見て、言葉に従う和久。
 千恵子に案内された部屋は、露天風呂付きの特別室であり、夕食は一晩だけの約束で甘える事にした。
 部屋を移り、露天風呂で体を癒した和久は、昌孝の指揮する料理に満喫した。 
旅立ちの前日、厨房から帰って来た和久は、風呂から出て朱美の店に行く。
客が居なくなった所へ昌孝が来た。
女将と朱美に頭を下げて、和久の横に座った昌孝。
「兄さん、いよいよですか! 寂しくなりますが、有難う御座いました」
 それだけ言うのが精一杯で、寂しさを隠すようにビールを飲み干した。
「霧野さん、どちらに行かれますか?」
 前に座って、話を聞いていた女将が問い掛けた。
「はい、朝霧の里に行こうと思っております。 猪鍋とソバが美味いと聞いたものですから……」
 和久の言葉に頷く女将。
「ああ、源さんの所ですか……」
 懐かしそうに言った女将。
「小母さんは朝霧と言う店を御存じなのですか?」
驚いたように女将を見詰めて問い掛けた。
「その、源さんと言う人とは幼馴染でねえ……大谷 源三と言って、代々の大地主ですよ。 色々と失敗して、殆どの土地は手放したと言って笑っていましたがねっ、今住んでいる所を除いてね! 観光客を目当てに『朝霧』と言う店で、猪鍋とソバを出しているらしいがねっ! 変り者だが良い人ですよ!」
 女将の話を聞いた和久は、直ぐにも出掛けたい衝動に駆られていた。
 別れの時が来て、椅子から立ち上がった和久と昌孝。
「小母さん、朱美ちゃん! お世話に成りまして有難う御座いました。 昌の事を宜しくお願いします。 体に気を付けられて下さい……お元気で!」
 気持ちを伝え、昌孝の事を頼んで頭を下げる和久。 涙ぐんでいる朱美と女将に別れを告げ、二人は笹の家に帰って行く。
 翌日、朝食を済ませ旅の支度を終えた所へ、千恵子と昌孝が入って来た。
 千恵子は袱紗の掛かった盆を持ち、昌孝は紙袋を持っている。
 二人は和久の前で正座をし、両手を付いて頭を下げた。
「霧野様、この度は何とお礼を申し上げれば良いのか分かりません! 本当に有難うございました。 付きましては誠に失礼とは存じますが、何とぞご笑納頂ければと思います……」
 千恵子は持って来た盆をテーブルに置いた。 置かれた盆の袱紗を取ると、盆の上には大金が置かれている。
 千恵子を見詰めた和久。
「女将さん、有り難く頂きます!」
 千恵子の決意を汲み取った和久は、いとも簡単に大金を受け取った。
 そして、従業員の人数を聞き、その分の金額を取って昌孝に渡した。
「昌、此れを封筒に入れて、お世話に成りましたと言って渡してくれないか! 其れから、お前の料理長の就任祝いをして無かった! 此れは就任祝いや! 受け取って欲しい……」
 貰った全額を渡した和久。
 黙って和久の言動を見ていた千恵子。
「霧野様! 其れでは……」
 言いかかった千恵子の言葉を制した和久。
「女将さん、女将さんの誠意は確かに受け取らせて頂きました。 有難う御座いました……楽しかったです。 昌、料理に限界は無い! 精進してなっ! ところで其れは何や?」
 昌孝が持って来た紙袋を見て、問い掛けた和久。
「あっ兄さん! 此れは、お袋が作った握り飯です。 お口には合わないかも知れませんが、昼飯にと……」
 昌孝の返答を聞いた和久。
「アホか昌、其れを先に言わんかい! 女将さん、昌、此れは頂いて行きます」
 嬉しそうに、握り飯が入った紙袋を受け取った和久。
 子供の様に喜んだ和久を見詰めて、目頭を拭う千恵子。
 和久の荷物を持って、一足先に昌孝が部屋を出た。
 和久が千恵子と共に部屋を出掛かった時。
「和さん、本当に有難うございました……でも、どうして助けて頂けたのかと、ご迷惑をお掛けしたのではと考えていました」
 見知らぬ自分達を助けてくれた事が理解出来ずに、尋ねる千恵子。
 千恵子の問い掛けに、少し間を置いた和久。
「境遇が太閤楼と似ていたのと、太閤楼の母さんの面影に、女将さんが似て居られたので、何とかお手伝いが出来ればと思いまして……お陰で楽しい時を過ごす事が出来ました。 有難う御座いました……」
 千恵子の真剣な問い掛けに答えた和久。
「和さん……」
 謙虚な和久の言葉を聞いて言葉に詰まった千恵子は、綺麗な目に涙を溜めて和久の胸に顔を埋めた。
「和さん、必ず帰って来て下さいねっ!」
 やっとの思いで其れだけを言った千恵子。
 和久は、女手一つで笹の家を守って来た千恵子の小さな背を、そっと抱き締めた。
 少しの時が流れ、部屋を出た二人は玄関に向かって歩き出す……長い廊下の途中、そっと和久の手を握り締める千恵子。
 玄関に着くと、泊り客が帰ったロビーに全従業員が集まっている……和久は礼を言い、昌孝の事を頼んで車を出した。
 四月の爽やかな風が、笹の家に福を残して駆け抜けて行った。
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