数日間、元の生活に戻った和久と夕子……和久は今後の相談に、夕子とダイスケを残して診療所に出掛ける……武は和久の話を聞いて、夕子が所属する事務所に連絡を取り、事の一部始終を社長に話した。
「和さん、社長が感謝していたよ! 宜しく伝えて欲しいとの事だ!……明日迎えに来ると言っていた!」
報告を聞いた和久は黙って頷き、大きく溜息を吐いた。
「武さん、今から用意をするので、後で加代さんと来てくれや! 夕子に送別会をして遣りたいから……」
急な出来事の中、和久の誘いを快く受ける武夫妻……朝霧に帰って来た和久は、夕子に事の説明をして調理に掛かった。
武夫妻と共に送別会を終えた和久と夕子は、ダイスケと共に武夫妻を見送り、ベランダの椅子に腰を下ろした……大きな月が朝霧を照らし、和久と夕子を優しく照らしている。
「綺麗なお月さま……」
ぽつりと呟いた夕子は静かに立ち上がり、ベランダの手摺に両手を突いて月を見ている……その様子を見て立ち上がった和久は、月を見上げる夕子の肩にそっと手を掛けた。
「本当に待っていてくれるのよねっ!」
静かに振り向いた夕子は、和久を見詰めて問い掛ける。
「うん、ずーと待っている! 夕子が帰って来るまでなっ!」
和久の返事に小さく頷き、見詰めていた目を閉じて佇む夕子……佇む夕子を抱き締めた和久は、夕子の唇にそっと唇を重ねた。
翌朝、何時もの様にダイスケを連れて散歩に行く和久と夕子……明日からは夕子の居ない山道を登る和久! 和久は、そっと夕子の手を握り締め、ゆっくりと階段を上って行く。
山頂に着くまで何も言わなかった夕子……山頂で和久を見詰める夕子は、涙を滲ませている。
「行きたくない! 此処に居たい! 和さんと居たい!……」
消え入る様な声で言い、和久の胸に顔を埋める夕子……夕子をそっと抱き締めた和久は、夕子の黒髪を優しく撫でて無言で夕子を諭した。
山頂から帰り朝風呂を勧めた和久は、朝食の支度に掛かった……支度をして部屋から出て来た夕子は、調理をしている和久の前で佇んでいる。
「一緒に入ろう……」
寂しそうな眼差しで見詰め、呟くように声を掛けて来た。
「うん、入ろう……直ぐに終わるから、ダイスケと先に行っててくれるか……」
「うん、和さん……」
嬉しそうに答えた夕子は、爽やかな笑顔を投げ掛けて居間を出た……風呂に入り夕子の背を流す和久は、夕子と暮らした日々を振り返り、一筋の涙を流した。
風呂から上がり自分の部屋を片付けた夕子は、荷物の準備をして囲炉裏の側に座った……ダイスケは、夕子との別れを感じているのか、夕子に纏わり付いて離れない。
無言の内に朝食を終えた和久と夕子……夕子はダイスケを膝に乗せて、優しく全身を撫でている。
互いの感情を労わる重苦しい空気の中で、ダイスケの仕草が和久と夕子を和ませた。
「そろそろ社長達が着く時間や……」
夕子を見詰めて、重い口を開く和久。
「うん、和さん……」
寂しそうな眼差しで、呟くように答える夕子……二人が外に出ると、武の車の後に迎えの車が見える……車は朝霧の入口を曲がり、奥の駐車場で停まった。
車を降りた社長は、迎えに出ている和久に頭を下げて礼を言い、夕子に歩み寄る……夕子は挨拶の後、満面の笑みを浮かべて社長の温情に応えた。
社員が夕子の荷物をトランクに積み、武と和久に挨拶をした社長も、後部座席に乗り込んだ。
夕子を見送る和久と武夫妻……車に乗り掛けた夕子は、足元で自分を見詰めているダイスケを抱き上げる。
「ダイちゃん、元気で居るのよ! 病気をしない様にねっ……ありがとう、ダイちゃん……」
優しく礼を言う夕子の頬を、ペロっと舐めたダイスケ……ダイスケを加代に渡した夕子は、武に礼を言い加代に別れを告げて、後部座席に乗り込んだ。
愛しそうな眼差しで、和久を見詰める夕子……和久は、二度三度と大きく頷いて、夕子の気持ちを和らげた。
車が動き出し、和久の前をゆっくりと通り過ぎる。
「夕子! 待って居るからなぁ……」
涙を流して叫ぶ和久……和久の声に振り返った夕子は、涙を流して和久を見詰めて頷いている……ダイスケは吠えながら車を追い、その姿を見た夕子も手を振ってダイスケに応えていた。
朝霧の入り口を曲がり、夕子を乗せた車は朝霧の里を後にした……吠えながら、入り口まで追い掛けて行ったダイスケは立ち止まって、夕子の後ろ姿に吠えている。
そして、此の別れが今生の別れに成ろうとは、誰も知る由が無かったのである……朝霧を旅立ち、再び和久の元に戻る事を誓った夕子は、生きて再び朝霧の土を踏む事は無かった。
夕子の車が見えなくなっても、ダイスケは後を追う様に見詰め、その場を動こうとはしなかった。
「ダイスケ! おいで!」
大声でダイスケを呼び戻す和久……和久の声を聞いたダイスケは、入り口を振り返り振り返り、和久の所に駆け戻って来た。
ダイスケを抱き上げた和久は、旅立った夕子の面影を追っている。
「寂しく成るなぁ……」
和久の肩を軽く叩き、慰める様に呟いた武……武の言葉に黙って頷く和久。
空は良く晴れ、温かさを増した一陣の風が、爽やかな笑顔を残して旅立った夕子の笑顔と共に、青葉を揺らして見送る三人の頭上を吹き抜けて行った。
そして、歌謡界に戻った夕子は、再び復帰公演を催した……朝霧の囲炉裏の側で公演の中継を見る和久と武夫妻。
夏が過ぎて、秋風が心地よい朝霧の里……優しく朝霧を照らす中秋の名月! ダイスケを膝に乗せ、期待を込めて見詰める和久……超満員の観衆が見詰める中、舞台に立った夕子は深々と頭を下げて顔を上げた。
夕子の顔が大きく映し出される……その顔は自信に満ち溢れ、人を和ませ人を引き付けた天才演歌歌手、茜 夕子に違いが無かった。
曲に乗り歌い始めた夕子……静まり返った観客は、茜 夕子の世界に引きずり込まれ、魂を揺さ振る歌に聞き入っている。
夕子の歌が流れだすと、膝の上に居たダイスケはそろりと降りてテレビの前に座った……夕子の声を聞き、振り向いて和久を見るダイスケ。
曲が終った……だが、誰一人として拍手をしない! 深々と頭を下げた夕子が顔を上げて微笑んだ途端、感動の余り、拍手をする事さえ忘れていた観客から地響きを立てる様な拍手が起こった。
鳴り止まない怒涛の拍手の中、にっこり微笑んで涙を流す夕子……涙を流しながら、カメラを見詰める夕子の瞳が大きく映し出された……其の瞳は、遠く離れた和久に(和さん、聞いてくれた? 歌えたよ……ありがとう和さん!)と、言っている様に見詰めている。
夕子の気持ちを感じ取った和久は、テレビに向かって大きく頷いた……和久に気持ちが伝わったのを確信した様に、涙も拭わずに二度三度と頷いた夕子。
夕子の姿を見守っていた観客から、再び怒涛の如き拍手が起こった。
「夕子君は凄いなぁ和さん……此れがスーパースター茜 夕子か!……本当に素晴らしい歌手だ!」
夕子の復活を確信した武が、我が事の様に褒め称えて和久を見た……目が合った和久は目を瞑って頷き、武に応えている。
「素敵ですねぇ夕子さんは、ねっ和さん……」
苦しみ抜いた夕子の姿を知っている加代も、目を潤ませて夕子の復活を喜んでいる。
次々と歌う夕子のヒット曲、会場を興奮の坩堝に巻き込み、不死鳥の如く蘇った茜 夕子!……夕子に魅せられた観客は放心しているかのように、舞台で輝く夕子を見詰めている。
歌い終えた夕子は、怒涛の歓声の中で何度もカーテンコールを受け、満面の笑みで観客に応えた……放映が終り、画面から夕子の姿が消えると、テレビの前に居たダイスケは、皆を見回して加代の膝に上がって目を閉じている。
復帰公演の成功を果たした夕子は、再び歌謡界の頂点に返り咲く……復帰後数々のヒット曲を世に送り出し、時代を駆け抜けて行く天才、茜 夕子。
朝霧を旅立って一年数カ月が経ち、桜が蕾を付け始めた頃、疲労感を訴えて検査入院をした夕子……心配する和久の元に、病床の夕子から電話が掛かって来た。
「どうや夕子、大丈夫か?」
「うん、大丈夫!……検査だけだから! ダイちゃんは元気?」
「うん、ダイスケは元気やでっ……山女と遊んどるよ!」
夕子を元気付ける様に、明るく話す和久。
「良かった!……和さん、朝霧の桜はもう咲いている?」
「まだ蕾で咲いては無いけど、夕子が帰って来る頃には満開に成ってるやろなぁ……夕子に見て貰おうと思うて、咲き誇るやろなぁ……」
少しの冗談を交えて、夕子を和ます和久。
「和さん、今でも私の事を大切な人だと思ってくれている?……」
約束を確かめる様に問い掛ける夕子。
「当たり前や夕子! 夕子はわしの大切な人やっ、誰よりも大切な人や!……言うたやろ夕子! 夕子が帰って来るのを待ってるって……」
気弱になっている夕子を、元気付ける和久。
「私の事、好き?……」
「うん、好きや! 誰よりも夕子が好きや!」
「ありがとう和さん! 私も、和さんが好き!……帰りたい! 和さんの所に、朝霧に帰りたい!……和さん、私、疲れた……」
泣きながら訴え掛ける夕子。
「分かったでっ夕子……元気に成ったら帰って来い! 夕子が元気に成ったらダイスケと迎えに行ってやる!……一緒に暮らそうなっ夕子! そやから元気に成らんとなっ……」
精一杯の言葉で、夕子を励ます和久。
「うん、和さん……待ってるから……」
力無く言った夕子は、電話を切った……夕子の言葉に不安を感じた和久は、ダイスケを車に乗せると、急いで診療所に向かった。
「和さん、良い所に来た! 先程、事務所の社長から電話が有った。 検査入院をしている夕子君の事だが、余り良くは無いらしい……知り合いの病院だから院長に問い質したら、今のところは何とか持ちこたえている、と言う事だ! 肺炎を併発しなければ良いのだがと言っている……後で詳しく知らせると言っていた!」
武の言葉を聞き、その場に座り込んだ和久……暫くして電話が掛かり、武が受話器を取ったが、話す武の顔に不安の色が漂っている。
聞いている和久を見て受話器を置いた武。
「武さん、如何や?」
立ち上がった和久が、不安そうな顔をして問い詰める。
「うん、今のところはなっ……だが、予断は出来ないと言っている……」
武の言葉に、不安を募らせる和久。
「武さん、明日行って来るわ!」
「そうか! 其れまでに何か連絡が入ったら、直ぐに知らせるから……」
「和さん、心配ですねっ……」
顔を曇らせて聞いていた加代が、言葉少なに呟いた……武に病院の住所を聞き、家に帰った和久は、迎えに行く支度に掛かった。
桜が蕾を付ける季節なのに、夕子の病を知った和久の心に、北風が吹き抜けて行く……朝霧の夜は静かに更け、小川のせせらぎが悲しみを囁く様に聞こえて来る。
眠れぬまま時を過ごす和久の元に、武からの電話が入った。
「和さん、私だ! 夕子君の容体が変わった! 肺炎を併発したと知らせが有った! 急を要するとの事だ!」
沈着冷静な武が、興奮した様に知らせて来た……連絡を聞いた和久は、支度をしていた荷物を車に積み、ダイスケを助手席に乗せて夜道を走り出す……山道を走り高速道路に乗った和久は、少しの休息を取っただけで夕子の居る病院に着いた。
車を停めて病院に行くと、連絡をしていた社長が玄関で迎えてくれる。
「霧野さん、遠路ありがとう……疲れたでしょう……」
悲痛な面持ちで和久を見詰め、労いの言葉を掛けて来た社長。
「社長さん、夕子は?……」
挨拶もそこそこに、夕子の容体を聞く和久。
社長は黙って首を振り、ぽつりと呟いた。
「意識がねっ……」
社長の意図を汲み取った和久は、夕子の待つ病室に急ぐ……院長に連絡を取っていた武の計らいで、ダイスケも連れて行く。
病室のドアをノックして中に入る和久……和久が病室に入った途端、意識の薄れている夕子が布団から手を出した。
「和さん……和さんが迎えに来てくれた……」
病室に居た親族らしき人達が驚いて、和久とダイスケを見た……周りの人達に頭を下げた和久は、手を出している夕子に近付いて、手を握り締めた。
「夕子、わしや……和久や! 分かるか? ダイスケも居るでっ……」
和久の言葉を聞いた夕子は、ゆっくりと目を開けて微笑んでいる。
「和さん、迎えに来てくれたの? 嬉しい……ダイちゃんも来てくれたの?」
愛しそうに和久を見詰め、ダイスケを探す夕子……和久は、ダイスケを抱き上げて、夕子の枕元に下ろした。
久し振りに夕子を見たダイスケは、懐かしそうに尾っぽを振り、夕子の顔を舐め回している。
「あっは、ダイちゃん! 好き好きしてくれたの……」
力無く微笑んだ夕子は、ダイスケの頭を撫でた。
「そうや、夕子……迎えに来たのや、元気出しやっ!……夕子の好きな朝霧に帰るのや、武さんも加代さんも夕子の帰りを待って居るでっ……一緒に暮らそうなぁ夕子! そやから、元気に成らんとあかんでっ……」
和久の言葉に頬笑みを返した夕子は、小さく頷いて和久の手を握り、安心した様に眠り出した。
診察に来た院長に呼ばれて、廊下に出る和久。
「霧野さんですねっ、山野君に色々とお聞きしています……」
挨拶を済ませ、夕子の容体を聞く和久。
「残念ながら、今夜が……」
院長の言葉が残酷に聞こえ、天井を見詰めて大きく溜息をついた和久……病室に戻ると、夕子は良く眠っていた……院長の許しを得て、夕子の病室で一夜を過ごす和久。
皆が帰った後、夕子の寝顔に見入っている……誤診では無いのか、と思わせるほど綺麗な寝顔の夕子! 和久は夕子の寝顔に顔を近づけ、そっと唇を合わせた。
夕子を見守る和久は旅の疲れで眠り込み、名前を呼ばれて目を覚ました……目を覚ました和久は、爽やかな笑顔で自分を呼ぶ夕子に気が付いた。
「おはよう……どうや? 気分は!」
院長の言葉が信じられない様に、夕子を見詰める和久。
「ずーと付いて居てくれたの和さん?……和さんとダイちゃんが来てくれたから、元気になったよ!」
夕子は微笑み、愛おしそうに和久を見詰めている。
「そうか、良かった!……夕子、後で夕子の好きなスープを温めてやるからなっ、夕子が何時帰って来ても良い様に作り直したんやっ!……夕子を喜ばせようと思って、一緒に持って来たんや!」
ベッドに横たわる夕子の黒髪を撫でながら、優しく伝える和久。
「本当、和さん……嬉しい……和さんの奥さんに成る人は幸せだろうねっ! その時は教えてねっ……」
布団の上で目を瞑っているダイスケを撫でながら、嬉しそうに答えて問い掛ける夕子……夕子の言葉は和久に対して、言い様の無い後悔と、申し訳なさを抱いている様に聞こえた。
「其れは無理やで夕子……」
和久は微笑みながら夕子を見詰め、夕子の後悔を拭い去る様に言った。
「如何して?」
和久を見詰めて、心の内を問い掛ける夕子。
「わしなぁ……まだ返事は聞いてないけど、心に決めてる人が居るんや……」
夕子から少し目を逸らして、照れる様に話す和久。
「そう……でも、和さんが好きになった人だから、きっと素敵な人でしょうねっ……」
見詰めていた目を逸らし、小さな声で寂しそうに問い掛けた夕子。
「うん、素敵な人や! 優しいし、可愛いしなぁ……綺麗な優しい目をしているのや、笑ろうた顔が好きなんや! 茜 夕子と言う人やけど、命よりも大切な人なんや!」
夕子を見詰め、目を細めて心の内を告げた和久……驚いた様に和久を見詰めた夕子の目に涙が滲んで来た。
「夕子! わしの奥さんに成ってくれへんか?……」
和久の赤心を聞いた夕子は、涙を流して和久に抱きついて来た。
「駄目か?……夕子」
抱き締めている夕子の黒髪を撫でながら、優しく問い掛けた和久。
「駄目じゃない! 駄目なんかじゃない!……和さん……」
抱きついている手に力を込め、流れる涙を拭こうともせづに、濡れた瞳で和久を見詰めた夕子は、何度も何度も大きく頷き、喜びを確かめている。
和久とダイスケが来てから、日増しに容体が良くなって行く夕子……夕子の病室から頻繁に笑い声が聞こえ出し、院長も首をかしげている。
穏やかな日が続き、病室から見える桜が満開を迎えていた。
「桜が満開になったねっ……朝霧の桜も綺麗だろうねぇ……」
「そうやなぁ、夕子に負けん様に、夕子に見て貰おうと思うて、咲き誇っているやろうなあ……夕子、もう直ぐ朝霧に帰れるぞ!……先生が言うとった、見違えるほど良く成って居るって!」
夕子の回復に、院長が驚いていた事を告げる和久。
「本当、和さん!……また、キャンプがしたい! 和さんと見た山頂の星が見たい……綺麗だろうねっ和さん……」
目を輝かせて、懐かしい朝霧の話をする夕子。
「そうや、夕子……帰ったらキャンプに行こうなっ! 食べる物を一杯持ってなっ、夕子の好きな酒も持って行こうなっ……綺麗な星を見に行こうなっ! そやから、もっと元気に成らんとなぁ夕子!」
和久の言葉に頷き、笑顔で応える夕子……和久は夕子を見詰め夕子の手を握り、そっと唇を近付ける。
「駄目! 和さん、病気が移るよ……」
心配した夕子が咄嗟に言った。
「大丈夫や夕子……夕子の病気やったら、何ぼでも移して欲しいわ!」
夕子を諭す和久は愛しむ様に夕子を見詰め、目を閉じた夕子の唇に、そっと唇を重ねる……唇を重ねる夕子の目から、一筋の涙が頬を伝った。
「少し寝た方がええ……起きたらスープを温めるからなっ……」
和久の言葉に頷き、目を瞑る夕子……少しの眠りから覚めた夕子は、ダイスケを抱いてベッドを起し、外の桜に目を移している。
院長に呼ばれていた和久が、病室に戻って来た。
「起きてたんか! 直ぐにスープを温めて来るからなっ……」
和久は、ポットに入れて持って来たスープを持って、部屋を出掛かった。
「良いお天気だから、桜の下で飲みたい……」
和久を見詰めて、甘える様に言った夕子。
「そうやなっ、風も無いしなぁ……寒む無いから、そうしょうか! 温めて来るので少し待っていてなっ夕子……」
暫くして、温めたスープを持って病室に戻って来た和久……夕子は、和久が居ない間に薄化粧をしていた。
「夕子、お待たせ……さぁ行こうや……」
夕子を車いすに座らせ、膝に毛布を掛けた和久……ダイスケを夕子の膝に乗せて病室を出ると、親族が入れ違いに入って来た。
訳を話して、外に出た和久と夕子……外は暖かく風も無かった! 車椅子を桜の木の下で止めた和久は、ダイスケを下ろして夕子を見ている。
「綺麗やなぁ夕子……化粧したんか!」
しみじみと夕子を見詰めて問い掛ける和久。
「うん、和さんが恥をかかない様に……」
恥らいながら、愛しむ様に和久を見詰めて呟いた夕子……夕子の優しさに触れた和久は、そっと夕子の手を握り締めた。
その頃、夕子の診察に来た院長は、親族の者と話しをしていた。
「院長、夕子は助かりそうですねっ? 連絡を頂いて五日に成るが、有り難い事に、日に日に元気に成って来ている……失礼ですが、もしや?……」
言葉を濁す親族の話を聞いている院長は、黙って俯いている。
「そうであってくれれば、と願っております……」
病室から二人の姿を見ていた院長は、其れだけを言って病室を出た……桜の木の下で、走り回るダイスケの仕草を見て、夕子が笑っている。
陽の光を浴びる夕子の瞳が輝き、愛しむ様に和久を見詰めていた。
「桜って綺麗ねっ和さん……優しい色だし、散る時まで心を和ませてくれるから……」
優しく語り掛ける夕子は、舞い落ちる桜の花弁を見詰めている。
「夕子、スープ飲むか? 今までのより美味いでっ……」
ポットのスープを注いで夕子に手渡した。
「熱いからなぁ、ゆっくり飲むんやでっ……」
一口飲んだ夕子は、和久を見詰めて綺麗な目を潤ませた。
「美味しい……ありがとう和さん! 和さんと出会えて良かった!……生まれ変わっても和さんと逢いたい……」
呟くように話す夕子はスープを飲み、和久に微笑み掛けた。
「何を、あほな事を言ってるのや夕子! 元気に成って朝霧に帰るのやろ? 一緒に帰るのやろ夕子?……」
気弱になっている夕子を、元気付ける様に諭す和久……夕子は微笑み、和久の問い掛けに小さく頷いている。
陽が傾き始め、空が茜色に染まり出した……夕子は陽に照らされて茜色に染まる小さな桜の小枝を見ている。
「和さん、あの桜の枝を持って帰りたい!……お部屋に飾りたい……」
夕子が指差した、小さな桜の枝を見た和久。
「よっしゃ夕子、ちょっと待っときや! 内緒で取って来てやる!」
夕子に片目を瞑って、悪戯っぽく笑った和久は、咲き掛けの小枝を取りに行く……小枝を取った和久は、笑いながら夕子の側に戻って来た。
「夕子取って来たでっ!」
夕子に小枝を渡し掛けた和久は、眠る様に目を瞑っている夕子を見て、その場に膝から崩れ落ちた。
「夕子、どうしたんや? 寝たんか! 夕子、目を開けてくれ……朝霧に帰るんやろ? 一緒に帰るんやろ?……夕子、わしを一人にするなっ! わしを置いて逝くなっ夕子! あほぉー夕子のあほぉー 何でわしを置いて逝くのやっ! 夕子……夕子ぉー……」
膝を揺すり泣き叫ぶ和久の声は、最早夕子には聞こえていなかった……和久の声を聞いたダイスケは、眠る夕子の足下で、じっと夕子の顔を見上げて見詰めている。
桜の花の下で、茜色に輝く夕日に照らせれる夕子……歌謡界の頂点を極め、時代を駆け抜けた天才、茜 夕子!……夕子は静かに、短い生涯の幕を下ろした……自らが愛した霧野 和久に、綺麗な優しい寝顔を残して……
少しの時が経ち、気を取り戻した和久は、夕子の膝の上にダイスケを乗せ、走馬燈の様に駆け巡る夕子への思いを胸に、ゆっくりと車椅子を押した。
部屋に戻って来た夕子の枕元に、取って来た桜の小枝を活け、朝まで語り尽くした和久……事情の分からないダイスケは、和久に抱かれて悲しそうな声を出し、夕子の寝顔を見詰めている。
夕子に寄り添っている和久は、院長に呼ばれて院長室に行く。
「霧野さん、此れは茜さんが生前託されたものです! 霧野 和久さんに渡して欲しいと……年は若いが立派な方でした! 死と直面していても、平然として居られた……流石は頂点を極められた方だった……」
院長は目頭を赤くして、夕子を褒め称えた……和久もまた、小さな体で頂点を極め、時代を駆け抜けた天才、茜 夕子を愛した事に誇りを感じていた。
夕子の遺品は、和久が夕子に貰い、夕子に渡した指輪と手紙だった……院長に礼を言い、夕子の待つ病室に戻って来た和久……夕子が眠る部屋で、手紙を見る和久。
(和さん、私の大好きな和さん……和さんのお陰で、歌謡界に戻る事が出来ました! 好きな歌が歌えるようになりました! ありがとう和さん……朝霧では酷い事を言ってご免なさい!……こんな私を大切な人だと言ってくれた和さん……風呂で背中を流してくれた時、嬉しくて泣いていました! 綺麗な星空を見せてくれた和さん……美味しいお料理を食べさせてくれた和さん! 山小屋でのキャンプは楽しかった! 可愛いダイちゃんと会わせてくれてありがとう……ダイちゃんには、何時も癒されていました!……もっともっとお礼が言いたいのだけれど!……朝霧に帰れなくてご免なさい! 和さん、本当にありがとう! 大好きな和さん!……夕子)
夕子の手紙を読んだ和久は、夕子に縋って涙を流した。
数日後、夕子の盛大な葬儀が行われ、夕子のヒット曲が流れる中、数千人の人が別れを惜しんで涙した……その中に、夕子が別れた男が居た。
テレビカメラの前に立った男は、此の時とばかりに悲劇の主人公を演じている。
斎場のテレビで、此の報道を見た和久……夕子に体罰を加えた男に怒りを覚えた和久は、形見の指輪を握り締めて男に近付いて行った。
涙を流しながら演技をする男に、震える拳を上げた和久!
『駄目っ! 和さん止めて!……こんな人に手を上げて、和さんの手を汚さないでっ! 美味しいお料理を作る手を汚さないでっ!……』
拳を上げた和久の心に、夕子の叫びが聞こえた!……指輪を握り、振り上げた拳を下ろした和久は、静かに其の場を離れて、ダイスケが待つ車に乗り込んだ。
形見の指輪と共に、朝霧に帰る和久……夕子の面影を偲びながら、朝霧を目指す和久とダイスケ……途中の休息場で見上げた星空! 大きな星が一つ、輝きを放ちながら朝霧に向かって流れて行った。
形見の指輪を見詰める和久。
「夕子、帰ろうなっ……夕子の好きな朝霧に帰ろうなっ……」
夕子に語り掛けた目から、大粒の涙が光って零れ落ちた……夕子の歌を聞きながら走り続けた和久は、夕子が愛した朝霧の里に戻って来た。
湖に沿って咲く満開の桜、夕子が好きだった朝霧の桜……だが、夕子の居ない今、全てが空しく見える和久である……ダイスケを連れて風呂に行き、長旅の疲れを癒した和久は、夕子の香りが残るベッドに倒れ込んで眠った。
小川のせせらぎと、微かに擦れる木の葉の音が、子守唄の様に和久を和ませている。
どれ位眠ったのであろうか、小鳥の囀りで目を覚ました和久……外はまだ明るい! 傍らで眠っていたダイスケは、和久を見て頬を舐める……ダイスケを胸の上に乗せ、優しく撫でる和久。
夕子の香りが残る部屋で、せせらぎを耳にした和久の目から、一筋の涙が頬を伝った。
気だるさの残る体で起き上がり、キャンプの支度をして、ダイスケと共に山頂に向かう和久……久し振りに会った山女に向かって、大きな声で吠えているダイスケ。
形見の指輪をそっと握った和久は、ダイスケの仕草に目を細めている。
「夕子、見てみぃ……お前が好きやったダイスケの仕草や、可愛いなぁ……」
心の中で、夕子に語り掛ける和久……山頂に着き、山小屋に荷物を下ろした和久はダイスケに水を飲ませ、小屋の戸を全て開けた。
陽は西に傾き始めている……囲炉裏に火の準備を始めた時、小屋の中が真赤に染まった! 準備の手を止めて外に出た和久……沈む大きな夕日が真っ赤に燃えて、大空を茜色に染めている。
自然の奇跡に見入られた和久は、夕子の指輪を握り、ぼーぜんと立ち尽くした。
「夕子、綺麗やなぁ……帰って来たんやでっ、夕子の好きな朝霧の山頂やっ! 夕子、帰って来たんやでっ……」
語り掛ける和久の涙が真っ赤に染まり、零れ落ちる涙が山頂の大地に吸い込まれて行く……ダイスケを抱き上げて、ベンチに腰を下ろした和久は、沈む夕日を空しく見詰めていた。
陽が落ちて、囲炉裏に火を熾した和久は、ダイスケに食事をさせ、囲炉裏の縁に盃を置いた……盃に酒を注ぎ、指輪を取り出して盃の側にそっと置いた。
「夕子、お疲れさん……よう頑張ったなぁ夕子、お疲れさん夕子……」
夕子を労った和久は、注いだ酒を一気に飲んだ。
「美味いでっ夕子……お前が好きやった酒や! 夕子も飲みっ……」
涙で見詰める形見の指輪に、優しく語り掛ける和久……夕子と過ごした日々を振り返り、一人盃を空ける和久。
何時の間に来たのか、和久の膝の上で目を瞑っているダイスケ……和久はダイスケの全身を優しく撫でた。
闇に包まれた山頂の山小屋……開けていた戸を締め、置いて有った形見の指輪を持って外に出た……満天の星空を見て佇む和久。
「夕子、見えるか!……綺麗やなぁ……」
指輪を握り締め、呟くように語り掛ける和久……見上げる満天の星空、夕子を偲ぶように無数の星が流れて行った。
小屋に戻り、夕子と語る和久は眠れぬ夜を過ごし、一人寂しく酒を飲んでいる……心の中をすきま風が吹き抜け、埋められる事の無い空しさが、時を静かに刻んで行く。
眠れぬまま、闇が明るさを取り戻し始めた時、プレーヤーを持って外に出た和久……見渡す限りの木の葉に、朝露が付いている。
プレーヤーをベンチに置き、見詰めるダイスケを抱き上げた……朝日が昇り朝露が光る山頂……音量を上げて再生ボタンを押した。
夕子のヒット曲が、朝露の中で流れ出す……曲は風に乗り、朝霧の里を駆け巡り、山間を抜けて響き渡った。
歌謡界の頂点を極めた天才、茜 夕子……人を引き付け、人を和ませ魅了した夕子……朝露が光る山頂で、歌う夕子の姿を見た和久。
曲が終り、優しい眼差しで微笑み掛ける夕子……天才、茜 夕子が満面の笑みを、霧野 和久に投げ掛けて微笑んでいた。
了
「和さん、社長が感謝していたよ! 宜しく伝えて欲しいとの事だ!……明日迎えに来ると言っていた!」
報告を聞いた和久は黙って頷き、大きく溜息を吐いた。
「武さん、今から用意をするので、後で加代さんと来てくれや! 夕子に送別会をして遣りたいから……」
急な出来事の中、和久の誘いを快く受ける武夫妻……朝霧に帰って来た和久は、夕子に事の説明をして調理に掛かった。
武夫妻と共に送別会を終えた和久と夕子は、ダイスケと共に武夫妻を見送り、ベランダの椅子に腰を下ろした……大きな月が朝霧を照らし、和久と夕子を優しく照らしている。
「綺麗なお月さま……」
ぽつりと呟いた夕子は静かに立ち上がり、ベランダの手摺に両手を突いて月を見ている……その様子を見て立ち上がった和久は、月を見上げる夕子の肩にそっと手を掛けた。
「本当に待っていてくれるのよねっ!」
静かに振り向いた夕子は、和久を見詰めて問い掛ける。
「うん、ずーと待っている! 夕子が帰って来るまでなっ!」
和久の返事に小さく頷き、見詰めていた目を閉じて佇む夕子……佇む夕子を抱き締めた和久は、夕子の唇にそっと唇を重ねた。
翌朝、何時もの様にダイスケを連れて散歩に行く和久と夕子……明日からは夕子の居ない山道を登る和久! 和久は、そっと夕子の手を握り締め、ゆっくりと階段を上って行く。
山頂に着くまで何も言わなかった夕子……山頂で和久を見詰める夕子は、涙を滲ませている。
「行きたくない! 此処に居たい! 和さんと居たい!……」
消え入る様な声で言い、和久の胸に顔を埋める夕子……夕子をそっと抱き締めた和久は、夕子の黒髪を優しく撫でて無言で夕子を諭した。
山頂から帰り朝風呂を勧めた和久は、朝食の支度に掛かった……支度をして部屋から出て来た夕子は、調理をしている和久の前で佇んでいる。
「一緒に入ろう……」
寂しそうな眼差しで見詰め、呟くように声を掛けて来た。
「うん、入ろう……直ぐに終わるから、ダイスケと先に行っててくれるか……」
「うん、和さん……」
嬉しそうに答えた夕子は、爽やかな笑顔を投げ掛けて居間を出た……風呂に入り夕子の背を流す和久は、夕子と暮らした日々を振り返り、一筋の涙を流した。
風呂から上がり自分の部屋を片付けた夕子は、荷物の準備をして囲炉裏の側に座った……ダイスケは、夕子との別れを感じているのか、夕子に纏わり付いて離れない。
無言の内に朝食を終えた和久と夕子……夕子はダイスケを膝に乗せて、優しく全身を撫でている。
互いの感情を労わる重苦しい空気の中で、ダイスケの仕草が和久と夕子を和ませた。
「そろそろ社長達が着く時間や……」
夕子を見詰めて、重い口を開く和久。
「うん、和さん……」
寂しそうな眼差しで、呟くように答える夕子……二人が外に出ると、武の車の後に迎えの車が見える……車は朝霧の入口を曲がり、奥の駐車場で停まった。
車を降りた社長は、迎えに出ている和久に頭を下げて礼を言い、夕子に歩み寄る……夕子は挨拶の後、満面の笑みを浮かべて社長の温情に応えた。
社員が夕子の荷物をトランクに積み、武と和久に挨拶をした社長も、後部座席に乗り込んだ。
夕子を見送る和久と武夫妻……車に乗り掛けた夕子は、足元で自分を見詰めているダイスケを抱き上げる。
「ダイちゃん、元気で居るのよ! 病気をしない様にねっ……ありがとう、ダイちゃん……」
優しく礼を言う夕子の頬を、ペロっと舐めたダイスケ……ダイスケを加代に渡した夕子は、武に礼を言い加代に別れを告げて、後部座席に乗り込んだ。
愛しそうな眼差しで、和久を見詰める夕子……和久は、二度三度と大きく頷いて、夕子の気持ちを和らげた。
車が動き出し、和久の前をゆっくりと通り過ぎる。
「夕子! 待って居るからなぁ……」
涙を流して叫ぶ和久……和久の声に振り返った夕子は、涙を流して和久を見詰めて頷いている……ダイスケは吠えながら車を追い、その姿を見た夕子も手を振ってダイスケに応えていた。
朝霧の入り口を曲がり、夕子を乗せた車は朝霧の里を後にした……吠えながら、入り口まで追い掛けて行ったダイスケは立ち止まって、夕子の後ろ姿に吠えている。
そして、此の別れが今生の別れに成ろうとは、誰も知る由が無かったのである……朝霧を旅立ち、再び和久の元に戻る事を誓った夕子は、生きて再び朝霧の土を踏む事は無かった。
夕子の車が見えなくなっても、ダイスケは後を追う様に見詰め、その場を動こうとはしなかった。
「ダイスケ! おいで!」
大声でダイスケを呼び戻す和久……和久の声を聞いたダイスケは、入り口を振り返り振り返り、和久の所に駆け戻って来た。
ダイスケを抱き上げた和久は、旅立った夕子の面影を追っている。
「寂しく成るなぁ……」
和久の肩を軽く叩き、慰める様に呟いた武……武の言葉に黙って頷く和久。
空は良く晴れ、温かさを増した一陣の風が、爽やかな笑顔を残して旅立った夕子の笑顔と共に、青葉を揺らして見送る三人の頭上を吹き抜けて行った。
そして、歌謡界に戻った夕子は、再び復帰公演を催した……朝霧の囲炉裏の側で公演の中継を見る和久と武夫妻。
夏が過ぎて、秋風が心地よい朝霧の里……優しく朝霧を照らす中秋の名月! ダイスケを膝に乗せ、期待を込めて見詰める和久……超満員の観衆が見詰める中、舞台に立った夕子は深々と頭を下げて顔を上げた。
夕子の顔が大きく映し出される……その顔は自信に満ち溢れ、人を和ませ人を引き付けた天才演歌歌手、茜 夕子に違いが無かった。
曲に乗り歌い始めた夕子……静まり返った観客は、茜 夕子の世界に引きずり込まれ、魂を揺さ振る歌に聞き入っている。
夕子の歌が流れだすと、膝の上に居たダイスケはそろりと降りてテレビの前に座った……夕子の声を聞き、振り向いて和久を見るダイスケ。
曲が終った……だが、誰一人として拍手をしない! 深々と頭を下げた夕子が顔を上げて微笑んだ途端、感動の余り、拍手をする事さえ忘れていた観客から地響きを立てる様な拍手が起こった。
鳴り止まない怒涛の拍手の中、にっこり微笑んで涙を流す夕子……涙を流しながら、カメラを見詰める夕子の瞳が大きく映し出された……其の瞳は、遠く離れた和久に(和さん、聞いてくれた? 歌えたよ……ありがとう和さん!)と、言っている様に見詰めている。
夕子の気持ちを感じ取った和久は、テレビに向かって大きく頷いた……和久に気持ちが伝わったのを確信した様に、涙も拭わずに二度三度と頷いた夕子。
夕子の姿を見守っていた観客から、再び怒涛の如き拍手が起こった。
「夕子君は凄いなぁ和さん……此れがスーパースター茜 夕子か!……本当に素晴らしい歌手だ!」
夕子の復活を確信した武が、我が事の様に褒め称えて和久を見た……目が合った和久は目を瞑って頷き、武に応えている。
「素敵ですねぇ夕子さんは、ねっ和さん……」
苦しみ抜いた夕子の姿を知っている加代も、目を潤ませて夕子の復活を喜んでいる。
次々と歌う夕子のヒット曲、会場を興奮の坩堝に巻き込み、不死鳥の如く蘇った茜 夕子!……夕子に魅せられた観客は放心しているかのように、舞台で輝く夕子を見詰めている。
歌い終えた夕子は、怒涛の歓声の中で何度もカーテンコールを受け、満面の笑みで観客に応えた……放映が終り、画面から夕子の姿が消えると、テレビの前に居たダイスケは、皆を見回して加代の膝に上がって目を閉じている。
復帰公演の成功を果たした夕子は、再び歌謡界の頂点に返り咲く……復帰後数々のヒット曲を世に送り出し、時代を駆け抜けて行く天才、茜 夕子。
朝霧を旅立って一年数カ月が経ち、桜が蕾を付け始めた頃、疲労感を訴えて検査入院をした夕子……心配する和久の元に、病床の夕子から電話が掛かって来た。
「どうや夕子、大丈夫か?」
「うん、大丈夫!……検査だけだから! ダイちゃんは元気?」
「うん、ダイスケは元気やでっ……山女と遊んどるよ!」
夕子を元気付ける様に、明るく話す和久。
「良かった!……和さん、朝霧の桜はもう咲いている?」
「まだ蕾で咲いては無いけど、夕子が帰って来る頃には満開に成ってるやろなぁ……夕子に見て貰おうと思うて、咲き誇るやろなぁ……」
少しの冗談を交えて、夕子を和ます和久。
「和さん、今でも私の事を大切な人だと思ってくれている?……」
約束を確かめる様に問い掛ける夕子。
「当たり前や夕子! 夕子はわしの大切な人やっ、誰よりも大切な人や!……言うたやろ夕子! 夕子が帰って来るのを待ってるって……」
気弱になっている夕子を、元気付ける和久。
「私の事、好き?……」
「うん、好きや! 誰よりも夕子が好きや!」
「ありがとう和さん! 私も、和さんが好き!……帰りたい! 和さんの所に、朝霧に帰りたい!……和さん、私、疲れた……」
泣きながら訴え掛ける夕子。
「分かったでっ夕子……元気に成ったら帰って来い! 夕子が元気に成ったらダイスケと迎えに行ってやる!……一緒に暮らそうなっ夕子! そやから元気に成らんとなっ……」
精一杯の言葉で、夕子を励ます和久。
「うん、和さん……待ってるから……」
力無く言った夕子は、電話を切った……夕子の言葉に不安を感じた和久は、ダイスケを車に乗せると、急いで診療所に向かった。
「和さん、良い所に来た! 先程、事務所の社長から電話が有った。 検査入院をしている夕子君の事だが、余り良くは無いらしい……知り合いの病院だから院長に問い質したら、今のところは何とか持ちこたえている、と言う事だ! 肺炎を併発しなければ良いのだがと言っている……後で詳しく知らせると言っていた!」
武の言葉を聞き、その場に座り込んだ和久……暫くして電話が掛かり、武が受話器を取ったが、話す武の顔に不安の色が漂っている。
聞いている和久を見て受話器を置いた武。
「武さん、如何や?」
立ち上がった和久が、不安そうな顔をして問い詰める。
「うん、今のところはなっ……だが、予断は出来ないと言っている……」
武の言葉に、不安を募らせる和久。
「武さん、明日行って来るわ!」
「そうか! 其れまでに何か連絡が入ったら、直ぐに知らせるから……」
「和さん、心配ですねっ……」
顔を曇らせて聞いていた加代が、言葉少なに呟いた……武に病院の住所を聞き、家に帰った和久は、迎えに行く支度に掛かった。
桜が蕾を付ける季節なのに、夕子の病を知った和久の心に、北風が吹き抜けて行く……朝霧の夜は静かに更け、小川のせせらぎが悲しみを囁く様に聞こえて来る。
眠れぬまま時を過ごす和久の元に、武からの電話が入った。
「和さん、私だ! 夕子君の容体が変わった! 肺炎を併発したと知らせが有った! 急を要するとの事だ!」
沈着冷静な武が、興奮した様に知らせて来た……連絡を聞いた和久は、支度をしていた荷物を車に積み、ダイスケを助手席に乗せて夜道を走り出す……山道を走り高速道路に乗った和久は、少しの休息を取っただけで夕子の居る病院に着いた。
車を停めて病院に行くと、連絡をしていた社長が玄関で迎えてくれる。
「霧野さん、遠路ありがとう……疲れたでしょう……」
悲痛な面持ちで和久を見詰め、労いの言葉を掛けて来た社長。
「社長さん、夕子は?……」
挨拶もそこそこに、夕子の容体を聞く和久。
社長は黙って首を振り、ぽつりと呟いた。
「意識がねっ……」
社長の意図を汲み取った和久は、夕子の待つ病室に急ぐ……院長に連絡を取っていた武の計らいで、ダイスケも連れて行く。
病室のドアをノックして中に入る和久……和久が病室に入った途端、意識の薄れている夕子が布団から手を出した。
「和さん……和さんが迎えに来てくれた……」
病室に居た親族らしき人達が驚いて、和久とダイスケを見た……周りの人達に頭を下げた和久は、手を出している夕子に近付いて、手を握り締めた。
「夕子、わしや……和久や! 分かるか? ダイスケも居るでっ……」
和久の言葉を聞いた夕子は、ゆっくりと目を開けて微笑んでいる。
「和さん、迎えに来てくれたの? 嬉しい……ダイちゃんも来てくれたの?」
愛しそうに和久を見詰め、ダイスケを探す夕子……和久は、ダイスケを抱き上げて、夕子の枕元に下ろした。
久し振りに夕子を見たダイスケは、懐かしそうに尾っぽを振り、夕子の顔を舐め回している。
「あっは、ダイちゃん! 好き好きしてくれたの……」
力無く微笑んだ夕子は、ダイスケの頭を撫でた。
「そうや、夕子……迎えに来たのや、元気出しやっ!……夕子の好きな朝霧に帰るのや、武さんも加代さんも夕子の帰りを待って居るでっ……一緒に暮らそうなぁ夕子! そやから、元気に成らんとあかんでっ……」
和久の言葉に頬笑みを返した夕子は、小さく頷いて和久の手を握り、安心した様に眠り出した。
診察に来た院長に呼ばれて、廊下に出る和久。
「霧野さんですねっ、山野君に色々とお聞きしています……」
挨拶を済ませ、夕子の容体を聞く和久。
「残念ながら、今夜が……」
院長の言葉が残酷に聞こえ、天井を見詰めて大きく溜息をついた和久……病室に戻ると、夕子は良く眠っていた……院長の許しを得て、夕子の病室で一夜を過ごす和久。
皆が帰った後、夕子の寝顔に見入っている……誤診では無いのか、と思わせるほど綺麗な寝顔の夕子! 和久は夕子の寝顔に顔を近づけ、そっと唇を合わせた。
夕子を見守る和久は旅の疲れで眠り込み、名前を呼ばれて目を覚ました……目を覚ました和久は、爽やかな笑顔で自分を呼ぶ夕子に気が付いた。
「おはよう……どうや? 気分は!」
院長の言葉が信じられない様に、夕子を見詰める和久。
「ずーと付いて居てくれたの和さん?……和さんとダイちゃんが来てくれたから、元気になったよ!」
夕子は微笑み、愛おしそうに和久を見詰めている。
「そうか、良かった!……夕子、後で夕子の好きなスープを温めてやるからなっ、夕子が何時帰って来ても良い様に作り直したんやっ!……夕子を喜ばせようと思って、一緒に持って来たんや!」
ベッドに横たわる夕子の黒髪を撫でながら、優しく伝える和久。
「本当、和さん……嬉しい……和さんの奥さんに成る人は幸せだろうねっ! その時は教えてねっ……」
布団の上で目を瞑っているダイスケを撫でながら、嬉しそうに答えて問い掛ける夕子……夕子の言葉は和久に対して、言い様の無い後悔と、申し訳なさを抱いている様に聞こえた。
「其れは無理やで夕子……」
和久は微笑みながら夕子を見詰め、夕子の後悔を拭い去る様に言った。
「如何して?」
和久を見詰めて、心の内を問い掛ける夕子。
「わしなぁ……まだ返事は聞いてないけど、心に決めてる人が居るんや……」
夕子から少し目を逸らして、照れる様に話す和久。
「そう……でも、和さんが好きになった人だから、きっと素敵な人でしょうねっ……」
見詰めていた目を逸らし、小さな声で寂しそうに問い掛けた夕子。
「うん、素敵な人や! 優しいし、可愛いしなぁ……綺麗な優しい目をしているのや、笑ろうた顔が好きなんや! 茜 夕子と言う人やけど、命よりも大切な人なんや!」
夕子を見詰め、目を細めて心の内を告げた和久……驚いた様に和久を見詰めた夕子の目に涙が滲んで来た。
「夕子! わしの奥さんに成ってくれへんか?……」
和久の赤心を聞いた夕子は、涙を流して和久に抱きついて来た。
「駄目か?……夕子」
抱き締めている夕子の黒髪を撫でながら、優しく問い掛けた和久。
「駄目じゃない! 駄目なんかじゃない!……和さん……」
抱きついている手に力を込め、流れる涙を拭こうともせづに、濡れた瞳で和久を見詰めた夕子は、何度も何度も大きく頷き、喜びを確かめている。
和久とダイスケが来てから、日増しに容体が良くなって行く夕子……夕子の病室から頻繁に笑い声が聞こえ出し、院長も首をかしげている。
穏やかな日が続き、病室から見える桜が満開を迎えていた。
「桜が満開になったねっ……朝霧の桜も綺麗だろうねぇ……」
「そうやなぁ、夕子に負けん様に、夕子に見て貰おうと思うて、咲き誇っているやろうなあ……夕子、もう直ぐ朝霧に帰れるぞ!……先生が言うとった、見違えるほど良く成って居るって!」
夕子の回復に、院長が驚いていた事を告げる和久。
「本当、和さん!……また、キャンプがしたい! 和さんと見た山頂の星が見たい……綺麗だろうねっ和さん……」
目を輝かせて、懐かしい朝霧の話をする夕子。
「そうや、夕子……帰ったらキャンプに行こうなっ! 食べる物を一杯持ってなっ、夕子の好きな酒も持って行こうなっ……綺麗な星を見に行こうなっ! そやから、もっと元気に成らんとなぁ夕子!」
和久の言葉に頷き、笑顔で応える夕子……和久は夕子を見詰め夕子の手を握り、そっと唇を近付ける。
「駄目! 和さん、病気が移るよ……」
心配した夕子が咄嗟に言った。
「大丈夫や夕子……夕子の病気やったら、何ぼでも移して欲しいわ!」
夕子を諭す和久は愛しむ様に夕子を見詰め、目を閉じた夕子の唇に、そっと唇を重ねる……唇を重ねる夕子の目から、一筋の涙が頬を伝った。
「少し寝た方がええ……起きたらスープを温めるからなっ……」
和久の言葉に頷き、目を瞑る夕子……少しの眠りから覚めた夕子は、ダイスケを抱いてベッドを起し、外の桜に目を移している。
院長に呼ばれていた和久が、病室に戻って来た。
「起きてたんか! 直ぐにスープを温めて来るからなっ……」
和久は、ポットに入れて持って来たスープを持って、部屋を出掛かった。
「良いお天気だから、桜の下で飲みたい……」
和久を見詰めて、甘える様に言った夕子。
「そうやなっ、風も無いしなぁ……寒む無いから、そうしょうか! 温めて来るので少し待っていてなっ夕子……」
暫くして、温めたスープを持って病室に戻って来た和久……夕子は、和久が居ない間に薄化粧をしていた。
「夕子、お待たせ……さぁ行こうや……」
夕子を車いすに座らせ、膝に毛布を掛けた和久……ダイスケを夕子の膝に乗せて病室を出ると、親族が入れ違いに入って来た。
訳を話して、外に出た和久と夕子……外は暖かく風も無かった! 車椅子を桜の木の下で止めた和久は、ダイスケを下ろして夕子を見ている。
「綺麗やなぁ夕子……化粧したんか!」
しみじみと夕子を見詰めて問い掛ける和久。
「うん、和さんが恥をかかない様に……」
恥らいながら、愛しむ様に和久を見詰めて呟いた夕子……夕子の優しさに触れた和久は、そっと夕子の手を握り締めた。
その頃、夕子の診察に来た院長は、親族の者と話しをしていた。
「院長、夕子は助かりそうですねっ? 連絡を頂いて五日に成るが、有り難い事に、日に日に元気に成って来ている……失礼ですが、もしや?……」
言葉を濁す親族の話を聞いている院長は、黙って俯いている。
「そうであってくれれば、と願っております……」
病室から二人の姿を見ていた院長は、其れだけを言って病室を出た……桜の木の下で、走り回るダイスケの仕草を見て、夕子が笑っている。
陽の光を浴びる夕子の瞳が輝き、愛しむ様に和久を見詰めていた。
「桜って綺麗ねっ和さん……優しい色だし、散る時まで心を和ませてくれるから……」
優しく語り掛ける夕子は、舞い落ちる桜の花弁を見詰めている。
「夕子、スープ飲むか? 今までのより美味いでっ……」
ポットのスープを注いで夕子に手渡した。
「熱いからなぁ、ゆっくり飲むんやでっ……」
一口飲んだ夕子は、和久を見詰めて綺麗な目を潤ませた。
「美味しい……ありがとう和さん! 和さんと出会えて良かった!……生まれ変わっても和さんと逢いたい……」
呟くように話す夕子はスープを飲み、和久に微笑み掛けた。
「何を、あほな事を言ってるのや夕子! 元気に成って朝霧に帰るのやろ? 一緒に帰るのやろ夕子?……」
気弱になっている夕子を、元気付ける様に諭す和久……夕子は微笑み、和久の問い掛けに小さく頷いている。
陽が傾き始め、空が茜色に染まり出した……夕子は陽に照らされて茜色に染まる小さな桜の小枝を見ている。
「和さん、あの桜の枝を持って帰りたい!……お部屋に飾りたい……」
夕子が指差した、小さな桜の枝を見た和久。
「よっしゃ夕子、ちょっと待っときや! 内緒で取って来てやる!」
夕子に片目を瞑って、悪戯っぽく笑った和久は、咲き掛けの小枝を取りに行く……小枝を取った和久は、笑いながら夕子の側に戻って来た。
「夕子取って来たでっ!」
夕子に小枝を渡し掛けた和久は、眠る様に目を瞑っている夕子を見て、その場に膝から崩れ落ちた。
「夕子、どうしたんや? 寝たんか! 夕子、目を開けてくれ……朝霧に帰るんやろ? 一緒に帰るんやろ?……夕子、わしを一人にするなっ! わしを置いて逝くなっ夕子! あほぉー夕子のあほぉー 何でわしを置いて逝くのやっ! 夕子……夕子ぉー……」
膝を揺すり泣き叫ぶ和久の声は、最早夕子には聞こえていなかった……和久の声を聞いたダイスケは、眠る夕子の足下で、じっと夕子の顔を見上げて見詰めている。
桜の花の下で、茜色に輝く夕日に照らせれる夕子……歌謡界の頂点を極め、時代を駆け抜けた天才、茜 夕子!……夕子は静かに、短い生涯の幕を下ろした……自らが愛した霧野 和久に、綺麗な優しい寝顔を残して……
少しの時が経ち、気を取り戻した和久は、夕子の膝の上にダイスケを乗せ、走馬燈の様に駆け巡る夕子への思いを胸に、ゆっくりと車椅子を押した。
部屋に戻って来た夕子の枕元に、取って来た桜の小枝を活け、朝まで語り尽くした和久……事情の分からないダイスケは、和久に抱かれて悲しそうな声を出し、夕子の寝顔を見詰めている。
夕子に寄り添っている和久は、院長に呼ばれて院長室に行く。
「霧野さん、此れは茜さんが生前託されたものです! 霧野 和久さんに渡して欲しいと……年は若いが立派な方でした! 死と直面していても、平然として居られた……流石は頂点を極められた方だった……」
院長は目頭を赤くして、夕子を褒め称えた……和久もまた、小さな体で頂点を極め、時代を駆け抜けた天才、茜 夕子を愛した事に誇りを感じていた。
夕子の遺品は、和久が夕子に貰い、夕子に渡した指輪と手紙だった……院長に礼を言い、夕子の待つ病室に戻って来た和久……夕子が眠る部屋で、手紙を見る和久。
(和さん、私の大好きな和さん……和さんのお陰で、歌謡界に戻る事が出来ました! 好きな歌が歌えるようになりました! ありがとう和さん……朝霧では酷い事を言ってご免なさい!……こんな私を大切な人だと言ってくれた和さん……風呂で背中を流してくれた時、嬉しくて泣いていました! 綺麗な星空を見せてくれた和さん……美味しいお料理を食べさせてくれた和さん! 山小屋でのキャンプは楽しかった! 可愛いダイちゃんと会わせてくれてありがとう……ダイちゃんには、何時も癒されていました!……もっともっとお礼が言いたいのだけれど!……朝霧に帰れなくてご免なさい! 和さん、本当にありがとう! 大好きな和さん!……夕子)
夕子の手紙を読んだ和久は、夕子に縋って涙を流した。
数日後、夕子の盛大な葬儀が行われ、夕子のヒット曲が流れる中、数千人の人が別れを惜しんで涙した……その中に、夕子が別れた男が居た。
テレビカメラの前に立った男は、此の時とばかりに悲劇の主人公を演じている。
斎場のテレビで、此の報道を見た和久……夕子に体罰を加えた男に怒りを覚えた和久は、形見の指輪を握り締めて男に近付いて行った。
涙を流しながら演技をする男に、震える拳を上げた和久!
『駄目っ! 和さん止めて!……こんな人に手を上げて、和さんの手を汚さないでっ! 美味しいお料理を作る手を汚さないでっ!……』
拳を上げた和久の心に、夕子の叫びが聞こえた!……指輪を握り、振り上げた拳を下ろした和久は、静かに其の場を離れて、ダイスケが待つ車に乗り込んだ。
形見の指輪と共に、朝霧に帰る和久……夕子の面影を偲びながら、朝霧を目指す和久とダイスケ……途中の休息場で見上げた星空! 大きな星が一つ、輝きを放ちながら朝霧に向かって流れて行った。
形見の指輪を見詰める和久。
「夕子、帰ろうなっ……夕子の好きな朝霧に帰ろうなっ……」
夕子に語り掛けた目から、大粒の涙が光って零れ落ちた……夕子の歌を聞きながら走り続けた和久は、夕子が愛した朝霧の里に戻って来た。
湖に沿って咲く満開の桜、夕子が好きだった朝霧の桜……だが、夕子の居ない今、全てが空しく見える和久である……ダイスケを連れて風呂に行き、長旅の疲れを癒した和久は、夕子の香りが残るベッドに倒れ込んで眠った。
小川のせせらぎと、微かに擦れる木の葉の音が、子守唄の様に和久を和ませている。
どれ位眠ったのであろうか、小鳥の囀りで目を覚ました和久……外はまだ明るい! 傍らで眠っていたダイスケは、和久を見て頬を舐める……ダイスケを胸の上に乗せ、優しく撫でる和久。
夕子の香りが残る部屋で、せせらぎを耳にした和久の目から、一筋の涙が頬を伝った。
気だるさの残る体で起き上がり、キャンプの支度をして、ダイスケと共に山頂に向かう和久……久し振りに会った山女に向かって、大きな声で吠えているダイスケ。
形見の指輪をそっと握った和久は、ダイスケの仕草に目を細めている。
「夕子、見てみぃ……お前が好きやったダイスケの仕草や、可愛いなぁ……」
心の中で、夕子に語り掛ける和久……山頂に着き、山小屋に荷物を下ろした和久はダイスケに水を飲ませ、小屋の戸を全て開けた。
陽は西に傾き始めている……囲炉裏に火の準備を始めた時、小屋の中が真赤に染まった! 準備の手を止めて外に出た和久……沈む大きな夕日が真っ赤に燃えて、大空を茜色に染めている。
自然の奇跡に見入られた和久は、夕子の指輪を握り、ぼーぜんと立ち尽くした。
「夕子、綺麗やなぁ……帰って来たんやでっ、夕子の好きな朝霧の山頂やっ! 夕子、帰って来たんやでっ……」
語り掛ける和久の涙が真っ赤に染まり、零れ落ちる涙が山頂の大地に吸い込まれて行く……ダイスケを抱き上げて、ベンチに腰を下ろした和久は、沈む夕日を空しく見詰めていた。
陽が落ちて、囲炉裏に火を熾した和久は、ダイスケに食事をさせ、囲炉裏の縁に盃を置いた……盃に酒を注ぎ、指輪を取り出して盃の側にそっと置いた。
「夕子、お疲れさん……よう頑張ったなぁ夕子、お疲れさん夕子……」
夕子を労った和久は、注いだ酒を一気に飲んだ。
「美味いでっ夕子……お前が好きやった酒や! 夕子も飲みっ……」
涙で見詰める形見の指輪に、優しく語り掛ける和久……夕子と過ごした日々を振り返り、一人盃を空ける和久。
何時の間に来たのか、和久の膝の上で目を瞑っているダイスケ……和久はダイスケの全身を優しく撫でた。
闇に包まれた山頂の山小屋……開けていた戸を締め、置いて有った形見の指輪を持って外に出た……満天の星空を見て佇む和久。
「夕子、見えるか!……綺麗やなぁ……」
指輪を握り締め、呟くように語り掛ける和久……見上げる満天の星空、夕子を偲ぶように無数の星が流れて行った。
小屋に戻り、夕子と語る和久は眠れぬ夜を過ごし、一人寂しく酒を飲んでいる……心の中をすきま風が吹き抜け、埋められる事の無い空しさが、時を静かに刻んで行く。
眠れぬまま、闇が明るさを取り戻し始めた時、プレーヤーを持って外に出た和久……見渡す限りの木の葉に、朝露が付いている。
プレーヤーをベンチに置き、見詰めるダイスケを抱き上げた……朝日が昇り朝露が光る山頂……音量を上げて再生ボタンを押した。
夕子のヒット曲が、朝露の中で流れ出す……曲は風に乗り、朝霧の里を駆け巡り、山間を抜けて響き渡った。
歌謡界の頂点を極めた天才、茜 夕子……人を引き付け、人を和ませ魅了した夕子……朝露が光る山頂で、歌う夕子の姿を見た和久。
曲が終り、優しい眼差しで微笑み掛ける夕子……天才、茜 夕子が満面の笑みを、霧野 和久に投げ掛けて微笑んでいた。
了