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一方、太閤楼の調理場を任されている和久は、料亭の料理に対して少なからず、疑問を感じ始めていた。
「太閤楼と言う名前だけで、満足している客が多いのではないか?」
客の反応が見えない事への苛立ちが有った。
料理とは何なのか……今の調理場は、自分が居なくても献立に差し支えが無い様にはしていた。
「自分は、料亭の料理人には向いてないのではないか? もう一度、原点に戻って料理を見直したい!」
そう思う気持ちが、日増しに大きくなって行く事を感じていた。
悩んでいた和久は、見習いの頃に先代が連れて行ってくれた近所の居酒屋に足を運んだ。
『和! オバはんの料理と客の顔を、よう見とくのやでっ!』
先代の口癖だったが、その時には先代の気持ちが和久には分からなかった。
戸を開けると、店内は客で埋まっている。
和久を見た女将は、調理の手を止めてにっこり笑った。
「和! 久し振りやなぁ……此処に座り!」
嬉しそうに言って、店を手伝っている娘の明美にカウンターの端を空けさせた。
「オバちゃん、ご無沙汰ばかりですみません……」
恐縮した様に言った和久。
「何を言う! 太閤楼の料理長が来てくれただけで、店の格が上がるがねっ」
女将の一言で、客の視線が和久に集まった。
「オバはん、太閤楼ちゅうと、あの高級料亭の太閤楼か?」
和久の隣に居た客が、驚いたように聞いた。
「そうや、その太閤楼や! この人が、そこの料理長で店の常連や!参ったか!」
自慢そうに紹介する女将。
「参ったっ! そんな凄いとこの料理長が食いに来るのやから、オバはんとこも大したものやっ」
やり取りを聞いていた和久が店内の客を見ると、みんな満足そうに食べて飲んでいる。 すると、一人の客が立ち上がり和久を見た。
「あんたん所の料理は日本一やてなぁ、美味いのやろなぁ!」
その客は、問い掛ける様に聞いて来た。
「はい! 美味いですよ! そやけど、オバちゃんの料理には敵いません!」
さらりと言ってのける和久。
「何でや?」
不審がる客に、笑って応える和久。
「オバちゃんの料理は毎日でも食べられます……お客さんの体調に合わせた味が付けてあります。 思いやりと優しさのある料理です、しかも美味しい!この味には敵いません」
説明しながら、先代が言っていた意味が分かった様な気がしてきた。
「そんなら、オバはんの料理が日本一や言う事か! わしらは凄い物を食わせてもろてる訳や!」
「はい! 此処のお客さんは幸せだと思います」
嬉しそうに答えた和久。
「日本一の料理長のお墨付きや! みんな心して頂けよっ!」
この一言で、店内は大賑わいである。
やり取りを聞いていた女将は目頭を抑えた。
「和、おおきに……ありがとうさんやでっ……」
小さな声で言い、その場に座り込む女将。
「料理長がオバはんを泣かしたでっ! 鬼の目に涙やっ! わっはっは」
女将を見ていた客が大声で言ったものだから、またまた店内は笑いに包まれた。
「あほか! 目にゴミが入っただけや! 明美、あいつの勘定は倍にしとけ!」
立ち上がった女将は嬉しそうに言った。
「うん、おかあちゃん分かったよ!」
女将の言葉に、笑いながら答える明美。
「そらー殺生やでオバはん。 ごめんごめん、わしが悪かった、堪忍や!」
謝る様子が可笑しくて、再び店内は大爆笑である。
「これも料理や、ええ味や!」
羨ましそうに、ぽつりと呟いた和久。
閉店時間が迫って来ると、一人二人と客が帰り始め、店内には和久が一人になった。
和久が立ち掛けるのを見た女将。
「和、ちょっと待っとき直ぐに終るから。 明美、暖簾を入れて閉めなはれ」
明美に言って、調理場を片付ける女将。 片付けが終った女将はカウンターの中の椅子に腰を下ろした。
明美は和久から少し離れた椅子に腰を下ろしている。
「和、どうしたのや? 料亭の料理に悩んでいるのか?」
和久の心中を見透かしたように聞く女将。
「オバちゃん……」
それだけ言うと黙ってしまった。
「和、お前幾つに成った?」
突然、年を聞く女将。
「はい、28に成りました」
「そうか、あれから10年か! 早いものやなぁ……初めて此処に入って来て(オバちゃん何か食べさせて下さい! お金は無いけど、その分働かせて下さい!)そう言うた子が、今や日本一の料亭太閤楼の料理長か! 和、よう精進したなぁ……先代の目に狂いは無かった。 その時店に来ていた先代が(幾つや、何処から来た、両親は知っているのか?)と聞いたら、お前は小さな声で(18です、九州から来ました。 二人とも亡くなって……お金を落として)そう言うたなぁ」
女将は懐かしそうに話す。
「話を聞いた先代が、わしの目を見て合図した。 わしが直ぐに、ご飯とおかずを出したら(オバちゃん先に仕事を!)そう言うて手を付けんかった。 そしたら先代が(ええから食べ! 仕事はそれからや!)と言うた。 それでもお前は箸を取らん。 わしが、腹が減っては働けん、先に食べ! と言うた。 そしたら、やっと食べたなぁ……美味い、美味い、言うてなぁ。 食べ終わって、溜まっていた食器を一生懸命に洗ってくれた。 その仕事振りを見た先代が、小さな声で(この子を試してみよう)そう言うた。 椅子に座ったお前に(何が美味かった?)そう聞いたら(はい、大根の煮付が! 魚と一緒に食べているようで美味かったです)お前がそう答えた。 次に井戸水を出したら一口飲んで(美味しい、そして甘い!)そうお前が答えた。 それを聞いた先代が嬉しそうに(そうか! 水が甘いか……そうか、そうか、水が甘いか!)そう言って喜んでいた。 そしてお前を太閤楼に連れて帰った。 あれから10年か、早いものやなぁ……」
女将は感慨深げに言った。
「和、先代が亡くなる前に来てなぁ(女将、和久が相談に来たら宜しゅう頼むわ)そう、言い残した。 後5年だけお礼奉公をしなはれ、先代の一人息子も給料取りを辞めて、太閤楼で見習いをしとる。 先代に代わって一人前にしてからや!」
そこまで気を使ってくれていた先代に、万分の一でも恩返しが出来ればと、女将の言葉に従う和久。
5年の歳月は瞬く間に流れた。
一人息子の小竹 正晴は和久の年季を知って、血の滲むような精進をし、和久もまた労を惜しむ事無く、先代の教えのままに正晴を鍛えた。
先代の血を受け継いだ正晴は、精進のかいも有って瞬く間に先輩達を超え、和久の後を継いで太閤楼の料理長に成った。
和久が退社する前日、麗子に呼ばれて社長室に行くと、麗子と正晴が応接椅子に座って待っていた。 正晴は立ち上がって和久に頭を下げ、和久に座るよう勧めた。 麗子の前に座った和久。
寂しそうに和久を見詰めている麗子。
「和さん、いよいよやねぇ……長い間ご苦労さんでした! 正晴の事もありがとう。 それから此れは、あんたが来てからのお給料です。 食を探しての旅に出るのなら、住所が必要になる時が有る。 落ち着く先が見つかるまで、此処の住所を使いなさい。 何か有ったら何時でも戻って来るのやでっ……あんたの家なんやから……」
和久を労った麗子は、通帳と印鑑、それに保険証を手渡した。
「女将さん、何から何までありがとうございます。 何と言って良いのか分かりません……大恩が有るのに、勝手を許して頂いて申し訳ございません」
やっとの思いで、此れだけを言った。
「兄さん、ありがとうございました。 まだ自信は有りませんが、親父と兄さんが守って来た太閤楼の調理場を守って行きます」
「正、お前なら大丈夫や! そやけど大任やから精進してなっ。 何か有ったら何時でも知らせてなっ……わしに出来る事なら何でもするからなっ」
実の弟を励ますように言う和久。
最後の調理が終った後、和久は持ち場を磨き上げ、正晴を誘って居酒屋のオバちゃんを訪ねた。 10時過ぎだが、店内に客の姿が無い。
「おおっ和、来たか! 待っていたでっ、此処に座り!」
いかにも待ちかねて居た様な、オバちゃんの笑顔。
「オバちゃんお客は?」
心配顔で聞く和久。
「お母ちゃんなぁ、和さんが来るからみんな10時で帰らした」
笑いながら説明する明美。
「無茶しよるなぁオバちゃんは……」
そう言いながらも、和久はオバちゃんの気持ちが嬉しかった。
「オバちゃん、太閤楼の料理長です!」
嬉しそうに正晴を紹介した和久。
「おおっ、あんたが先代の息子さんか! 親父さんより男前や!」
「小竹 正晴です! 親父や兄さんと同じように、宜しくおねがいします」
「こっちこそ、よろしゅうなっ……これは娘の明美です」
紹介された明美は、微笑みながら頭を下げた。
「明美、あんたも座りなはれ! 和の門出を祝って宴会や!」
寂しさを隠すように、はしゃいでみせる女将。
出された料理に箸を付けた正晴は、料理を見詰めている。
「美味い! 親父や兄さんが通って来たのが分かります。 兄さん、世の中には凄い人が居るものですねっ、良い勉強になります」
正晴の言葉に、改めて安心した和久。
「正! それ以上言うな、オバちゃんが泣きだすから……」
女将を見ると、下を向いて目を拭っている。
「おおきに正晴! 先代も喜んでいるわ。 よう精進したなぁ、和! ようやった!」
言って目頭を拭う女将。
女将を見た和久は、ゆっくりと立ち上がった。
「オバちゃん、明美ちゃん、長い間ありがとうございました。 明日出掛けます。 正晴の事よろしくおねがいします……正、女将さんにも相談が出来ん事が起こったら、オバちゃんに相談したらええからなっ!」
そう言って、深々と頭を下げた和久。
「はい! 小母さん明美さん、よろしくおねがいします!」
立ち上がった正晴も、深々と頭を下げた。
二人の言葉に感極まった女将。
「うんうん、おおきに……こんなオバはんに、ありがとうなっ……」
女将の言葉に、明美も涙ぐんでいる。
別れの時が来て、二人が出掛かった。
「和、よう精進した! 気を付けて行くのやでっ!」
和久の手を握り締めた女将! 温かい優しい手であった。
「オバちゃん、体を大事になっ! 行って来ます」
握り返した和久の目から、光るものが落ちた。
翌朝、住み慣れた部屋を片付け、出発の準備が終った時。
「兄さん、おはようございます。 女将が朝食を取る様に言っています」
正晴に案内されて朝食を取った和久は、先代に別れを言うべく、仏間で手を合わせた。
長い沈黙の後、麗子と正晴が待つ応接間に行き、大事そうに持って来たノートを出した和久。
「正、此れにはワシが調べた文献が書いてある。 何かの役に立つかも分からん、暇な時に読んだらえから……」
正晴にノートを手渡す和久。
「そのノートは、あんたが一生懸命に調べたものやろ! そんな大事な物を」
恐縮したように言って、和久を見詰める麗子。
「はい! そやけど、正の役に立つならその方がええですから……」
「兄さん、ありがとうございます。 兄さんに少しでも近づける様に精進致します」
ノートを受け取った正晴は、深々と頭を下げた。
嬉しそうに正晴を見る和久。
「正! 女将さんと太閤楼を頼んだでっ! 女将さん、長い間可愛がって頂きまして、本当にありがとうございました。 行って来ます!」
挨拶をして、部屋を出掛かる和久。
「和久、体に気を付けてなぁ……何時でも帰って来るのやでっ!」
涙をこらえて、実の子を送り出すように言った麗子。
「はい! ありがとうございます……女将さんも、お体を大切にして下さい」
麗子と先代に別れをした和久が、正晴と共に駐車場に行くと太閤楼の全従業員が見送りに来ていた。 一人一人に挨拶をした和久は、正晴の事を頼んで車に乗り込み玄関を出る。
玄関を出た所で車から降り、太閤楼に向かって深々と頭を下げた。