田舎暮らしするなら、こんな家に住みたいと言う願望があります。まず玄関を入って広い土間のある家。中で子供たちがキャッチボールできるくらいの。
今時広い土間で何をするのかと言われるでしょうが、機能ばかりが優先した家など住みたいとは思いません。無用の空間というのがあっても構いやしません。住み手が気に入っているのですから。
次に、柱や梁、桁などは全て太くて真黒にいぶし出されたもの。何十年もかかって出来上がったあの重厚感ある黒い骨組み。
玄関戸も腰板のある縦格子の重そうな木製ガラス戸がいいでしょう。アルミサッシなどはいけません! 商品カタログから出てきたような建具にはうんざりです。品もなにもあったもんじゃありません。
部屋と部屋を仕切る壁がすくなくて、襖や障子で囲われた開放的な空間というのは如何様にも対応可能でした。
我が故郷群馬は昔養蚕が盛んで、かいこ様のために1階の座敷の間も飼育場と様変わりし、時には刈り取った稲穂もたたみを撤去したその座敷の間に、うずたかく積まれたのを見たことがあります。
耐震構造という面では、壁が少なくて開口部が建具で仕切られているばかりの家は危険なのかもしれませんが…
かと言って、部屋がすべて壁で区切られているのも、息苦しくてなりません。
次に欲しいのが縁側。しかも直角に折れ曲がっていること。縁側に囲まれた角部屋で外の庭木など眺めながらゴロンと横になりたいものです。
縁側は建物内部と外部の自然との緩衝地帯とでも言えるような所ですから、昼間は建具などは引かずに外部に開放しておきたいものです。
私は幼い頃、そんな縁側に座っていたような記憶があります。日が暮れてくると子供たちが木製の雨戸を引く音がして、忽ちのうちに縁側が消えてなくなりました。
そして、どうしても欲しいものが『いろり』。いろりだけは、まだ経験がないのです。ちろちろと燃えている炎を、親かあるいは祖父母の誰かに抱かれて眠そうに見つめている子供。いろりを囲む家族の姿、郷愁の思いここに極まれり! といったところです。
暮らしてみたい想像の中の家というのは、小さい頃脳裏に焼きついた空間や思い出の中から生まれているようです。
今時広い土間で何をするのかと言われるでしょうが、機能ばかりが優先した家など住みたいとは思いません。無用の空間というのがあっても構いやしません。住み手が気に入っているのですから。
次に、柱や梁、桁などは全て太くて真黒にいぶし出されたもの。何十年もかかって出来上がったあの重厚感ある黒い骨組み。
玄関戸も腰板のある縦格子の重そうな木製ガラス戸がいいでしょう。アルミサッシなどはいけません! 商品カタログから出てきたような建具にはうんざりです。品もなにもあったもんじゃありません。
部屋と部屋を仕切る壁がすくなくて、襖や障子で囲われた開放的な空間というのは如何様にも対応可能でした。
我が故郷群馬は昔養蚕が盛んで、かいこ様のために1階の座敷の間も飼育場と様変わりし、時には刈り取った稲穂もたたみを撤去したその座敷の間に、うずたかく積まれたのを見たことがあります。
耐震構造という面では、壁が少なくて開口部が建具で仕切られているばかりの家は危険なのかもしれませんが…
かと言って、部屋がすべて壁で区切られているのも、息苦しくてなりません。
次に欲しいのが縁側。しかも直角に折れ曲がっていること。縁側に囲まれた角部屋で外の庭木など眺めながらゴロンと横になりたいものです。
縁側は建物内部と外部の自然との緩衝地帯とでも言えるような所ですから、昼間は建具などは引かずに外部に開放しておきたいものです。
私は幼い頃、そんな縁側に座っていたような記憶があります。日が暮れてくると子供たちが木製の雨戸を引く音がして、忽ちのうちに縁側が消えてなくなりました。
そして、どうしても欲しいものが『いろり』。いろりだけは、まだ経験がないのです。ちろちろと燃えている炎を、親かあるいは祖父母の誰かに抱かれて眠そうに見つめている子供。いろりを囲む家族の姿、郷愁の思いここに極まれり! といったところです。
暮らしてみたい想像の中の家というのは、小さい頃脳裏に焼きついた空間や思い出の中から生まれているようです。