ここに一枚の人物写真があったとしよう。その眼には、無数の針が突き刺してある。写真を見た人は背筋が震えてしまうに違いない。これが例えば、頭に突き刺してあるならば、さほど恐怖感はないはずである。冗談にもみえるかもしれない。だが、「眼に突き刺してある」となると、それはその人物の、存在の否定にすら見えてくるはずだ。視覚を奪われた人間ほど、悲惨なものはない。
以上は、三浦雅士「幻のもうひとり」に収録されているエピソードである。人は「眼」によって対象を把握する。対象を把握し、ときには自己をその対象と同化させようと努力を重ねる。そのことにより、新しく自己を更新していく。それはまさしく、「学び」と呼ばれるものの本質にほかならない。マルクスが夥しい経済学の書物を残したのも、労働者の受難を見たからであろう。実際の労働者の悲惨を見た訳ではなく、おそらく労働の実態を文書で読んだのであろうが。しかし、読むことにより、見ることにより、眼球の運動により、マルクスが「悲惨な労働者」を把握したのは間違いないと思われる。「見ること」は、時に人を革命家に変えてしまうというわけだ。
話は変わるが、物を学ぶときに有効なのは「筆写と音読」と言われる。評論家の佐藤優によれば、彼の知り合いの作家たちはほぼ全員、筆写と音読を習慣にしているそうだ。私も、よく筆写と音読を試みる。宮沢賢治だったり、漱石だったり、丸山真男の政治思想だったり、メニューはいろいろだが、筆写をしていると妙な気分になる。なぜか。たとえば、ノートに賢治の詩を手書きで筆写したとしよう。それを後から見直す。そのとき、ある落差が生まれるのだ。明らかに自分の筆跡であるのに、いまの自分ではとうてい書けない内容の文章がそこに現れるからである。そしてそこには、賢治の詩と私の筆跡が融合しているという現象がおきているのだ。こうして私は、少しずつではあるが、宮沢賢治という人間の言語に染まっていく。これが、筆写という一見単純な行為の持つ威力なのだ。それを可能にしているのは、手と眼である。とりわけ、眼で見ることは重要である。眼で見る。眼で確認する。そのことにより、私たちは、新しく自分を更新していくのだ。
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