「党生活者」に描かれた、毒ガス戦準備と闘う反戦活動家たち
小説「党生活者」は、32年春にプロレタリア文化運動に下された天皇制権力による大弾圧をのがれたものの警察に追われる潜伏生活に追い込まれた小林多喜二が『中央公論』編集部に送ったもので、同誌編集部は当時の検閲事情から掲載を見合わせ、多喜二が33年2月に虐殺された後になってようやく前編9章を「転換時代」の仮題で前半(1章~4章)を4月号に、後半(5章~9章)を5月号に発表したものである。
後半の最後には(前編おわり)とし、「一九三二・八・二五」と日付が記されている。後編の存在は、いまも確認されていない。
発表された『中央公論』4月号掲載分の前半は、警察権力に追われても生活擁護・反戦活動を展開する佐々木安治を主人公に、彼が指導する民間軍需工場〈倉田工業〉での闘争を描いている。
舞台となっている倉田工業は毒ガスマスク、パラシュート、飛行船の表皮を製造している。描かれた時代は、1932年春から。
1931年9月の満州事変以来、拡大されてきた中国への侵略戦争は工場から若い労働者を出征させた結果、軍需品製造の需要が急増し臨時工の大量雇用でまかなうほどになった。
一方、〈平和〉が訪れると急減し臨時工は解雇された。この民間軍需工場・倉田工業も臨時に労働者600名の大量採用をした。
本来100名規模の施設に700名がひしめいても対応できず、深夜業を含めた長時間、危険な労働を強制した。ここに労働者の不安定な雇用への不安と過酷な過密労働への不満が生み出された現実をリアルに描いている。
また後半は、上級機関指導者「ヒゲ」の黙秘の闘い、ヒロイン笠原と伊藤ヨシとその母、佐々木の母を登場させ、反戦運動に献身する佐々木の革命的人間像とその人間関係をとりまくドラマを描き感動の場面を形象化している。
当時のプロレタリア文学運動の指導的評論家である蔵原惟人は、戦後民主的言論が自由になった54年6月発行の新潮文庫版『蟹工船・党生活者』の「解説」で、「作中の「倉田工業」は作者がかつて関係をもっていた藤倉電線をモデルにしたものであるが、彼はそれをすでに「満州事変が発展していたこの時代の「国策」化された工場の一つの典型として描いている。ここにも小林がつねにその時代の最も中心的な課題に自分の作品の主題を結び付けようとする努力が見られる」と評している。
◇
倉田工業は戦争が始まってからは、それまでの電線を作るのをやめ、防毒マスクとパラシュートと飛行船の側を作り始めた。最近その仕事が一段落し、600人の臨時工のうち400人を解雇するらしかった。
倉田工業が防毒マスク、パラシュートや飛行船の表面の皮などを作る軍需品工場なので、戦争の時期にそこに党や労働組合などの組織の重要であると考えた。佐々木たちは戦争が始まってから、軍需品工場(主に金属と化学)と交通産業(軍隊と軍器の輸送をする)へ、組織化の重心を置いて仕事を進め、倉田工業に佐々木や須山、太田、伊藤などが入り込んだのだった。佐々木たちはみんな臨時工だったので、半月もしないうちにクビになる。その間に少しでも組織の根を作らなくてはならなかった。そのためには本工を獲得することが必要だった。そうすれば佐々木たちが解雇されても、残っているメンバーと外部との緊密な連携ができるならば、少しの支障もなく反戦・生活擁護闘争を継続することが出来るからである。
闘いは緊迫の度を増し、ビラは継続に発行する工場新聞に発展した。その名は倉田工業が防毒マスクの製造工場ということで『マスク』と名付けられた。佐々木はその編集を引き受け、刷り上げた『マスク』を朝早くに伊藤ヨシに渡し、それを受け取った工場内の活動家須山らが労働者たちに配布したのである。会社の方も刻々と対策を練った。工場では「600人を最初の約束通りに仕事に一定の区切りが来たら、やめて貰うことになっていたが、今度方針を変えて成績の優秀なものと認めたものを200人ほど本工に繰り入れることになったから、各自一生懸命仕事をしてほしい」との噂を工場中にまき散らした。明らかにその〈噂〉は、首切りの瞬間まで反抗の組織化されることを妨害するためだった。その一方で、本工に編入するかもしれないというエサで一生懸命働かせ、モット搾りとろうという魂胆であることは明らかだった。会社側はいよいよ最後の攻勢に出た。伊藤と一緒に働いているパラシュートの女工が、今朝入った『マスク』の第3号を読んでいると、新しく工場に入った男子工が、いきなりそれをふんだくり、その女工を殴りつけた。それを見ていた伊藤はどうも様子が変だと思った。女工は、オヤジ(工場長)にこそ用心しても、同じく働く仲間には気を許す。それでうっかり警戒しなかったのであった。その男を調べてみた。するとその男子工はこの地区の青年団の一員で在郷軍人でもあり、戦争が始まってから特別に雇われて入ってきたことがわかった。伊藤ヨシがその男に注意していると、第1工場にも第3工場にも仲間がいるらしい。時間中でも仕事台を離れて、他の工場に出かけていたが、オヤジはそれをみても黙って許していたのである。それに大衆党系〈僚友会〉の清川、熱田らの連中と往き来しているらしいことが分かった。工場内に軍籍関係者で在郷軍人の分会をつくろうという動きが出ていることもわかった。〈僚友会〉がそれに助力していることは確かだった。ただそういうことは会社が表だってやったのでは効果が薄いので、労働者のなかから自発的に出てきたようにカモフラージュしていることもハッキリしていた。
佐々木達は今や正面の資本・特高側、労働運動の右翼、在郷軍人の会の三方から、敵と対峙していた。敵の攻撃は巧妙だった。
今までのようにただ「忠君愛国」の幼稚な感情にうったえるのではなく、「今度の戦争は以前の戦争のように結局は三井とか三菱が、占領した処に大工場をたてるためにやられているのではなくて、無産者の活路のためにやられているのだ。満州をとったら大資本家を排除して、我々だけで王国をたてる。内地の失業者はドシドシ満州に出かけてゆく、そうして日本から失業者を一人もいなくしよう。ロシアには失業者が一人もいないが、我々もそれと同じようにならなければならぬ。だから、今度の戦争はプロレタリアの戦争で、我々もおよばずながら、その与えられた部署部署で懸命に働かなくてはない」と左翼的な言葉を使って侵略戦争を「社会主義的」な言葉で美化し、動員しようとしているのだった。
月末が近づき、首切りをやるらしかった。臨時工が主なので、首切りが発表されてからでは団結力が落ちる。この2~3日に事をきめなくてはならなかった。佐々木たちはビラやニュースで、戦争に反対しなければならない事をアッピールしてきたが、労働者たちが一度その首切りのことで立ち上がったら、それはレーニンの言い草ではないが、なぜ戦争に反抗しなければならないかを「お伽(とぎ)話のような速さで」教える。殊に軍器を作っている工場であるだけ、ハッキリと意識的な闘争が出来るのだーまず事を起こさなくてはならぬ。佐々木は最後の肚(はら)をきめた。それは伊藤や須山の影響下のメンバー、新しい細胞に各職場を分担させて一斉に「馘首反対」の職場の集会を持たせる事だった。
「前編」の結びの9章はこう描かれている。
――倉田工業の屋上は、新築中の第3工場で、昼休みになると皆はそこへ上がっていって、はじめて日の光りを身体一杯にうけて寝そべったり、話し込んだり、ふさげ廻ったり、バレーボールをやったりしていた。その日はコンクリートの床に初夏の光が眩しいほど照り返っていた。須山は自分のまわりに仲間を配置して、いざという時の検束の妨害をさせる準備をしておいた。
昼休みが終わる丁度15分前、須田大声をあげて、ビラを力一杯、そして続けざまに投げ上げた。―「大量馘首反対!」「ストライキに反対せ!」……その叫びは、労働者たちの喚声でかき消された。赤と黄色のビラは陽をうけて舞った。ビラがまかれると、みんなはハッとしたように立ちどまったが、次にはワァーッと云って、ビラの撒かれたところへ殺到した。すると、そのうちの何十人もの人々が、拾い上げたビラをてんでに高く撒きあげた。それで最初一カ所に撒かれたビラは、またたく間に600人の従業員の頭の上に拡がってしまった。―あらかじめ屋上の所々に立ち番をしていた守衛は、「こら、こら!ビラを拾っちゃいかん!」と声を限りに叫んで割り込んできたが、さてだれが撒いたのか見当がつかなくなってしまった。見ると、誰でも、かれでもビラを撒いているのだ。
多喜二の命がけの闘争に対し、戦争を推進する勢力は問答無用の暴力でその存在を亡きものにしたばかりか、その著作の抹殺を図った。
そればかりか、政府のテロルの前に恐怖した文学運動の右翼的潮流は、多喜二の文学世界を、不当な女性への態度をしめした作としてゆがめ、その存在を無視した。
そして、特高によって共産党中央委員になりおおしたスパイM、松村(本名飯塚延盈)は10月銀行ギャング事件を引き起こさせ、その罪を共産党指導部になすりつけて逃亡した。
これを理由に共産党の組織的な壊滅作戦を発動させたのである。
この結果10月末から12月下旬にかけて、共産党員の検挙が頻々と相次ぎ、検挙者は1500人を超えたのである。
こうしたこともあって、作家同盟指導部内部にも右翼的偏向の潮流が強まっていった。
多喜二は「右翼的偏向の諸問題」「続右翼的偏向の諸問題」などの評論を連続して執筆し、文学・文化運動の階級的発展の指導に献身するとともに、自分自身も小説「地区の人々」、「転形期の人々(断稿)」などの執筆に果敢にとりくんだ。
中国の政治情勢の変転をあらまし理解しておくことが必要である。では、この時期に日本は、中国との関係でどのような行動をとってきたのか。その中心点をあげると、次のとおりです。
中国侵略の最初の中心部隊となった関東軍は、日本が日露戦争のあとロシアから遼東半島南部の租借地を取り上げてこれを「関東州」と呼んで日本の支配下におき、1919年ここに天皇に直結した軍隊として「関東軍」をおき、関東州の防衛とロシアから譲り受けた南満州鉄道の保護にあたらせた。この関東軍は、発足当時の公式の任務を越えて、満州(中国の東北部)から華北(北京、天津をふくむ中国の北部)、モンゴル内蒙古)にまで政治・軍事工作の手をのばし、中国にたいする侵略を拡大する中心部隊となった。
(二)「北伐」を口実に山東出兵。蒋介石の国民政府軍の軍事クーデターのあと、「北伐」再開を宣言して、揚子江をこえて華北への進撃を開始したとき、日本は、在留する日本人の安全のための「自衛」措置だと称して、ただちに山東省の青島(ちんたお)に関東軍の一部を派遣した(山東出兵・27年5月)。これは、中国に租借地や権益をもつ「外国勢力」のなかでも突出した行動であった。日本軍の山東省出兵は一回にとどまらず、翌28年4月、5月と3回にわたってくりかえされ。とくに第三次の出兵では、総攻撃で山東省の首都済南市をほとんど壊滅させた。この乱暴な軍事行動は、中国の人民のあいだに「排日」の気運を一気にひろげ、日本軍の暴虐ぶりは世界でも有名なものとなった。
(三)生命線論を国策に満州とモンゴル(内蒙古)は、日本が早くから侵略の第一の対象地域としてねらっていた地域だった。 第一次山東出兵のさなかの1927年6月〜7月に、田中義一首相(陸軍大将)の主宰で「東方会議」が開かれ、「対支〔中国〕政策綱領」が指示されたが、ここでは、“「満蒙」地方は日本の国防上も国民的生存の上でも重大な利害関係のある地方だから、この地方における日本の「既得権益」「特殊権益」を確保するためには、必要な場合、軍事行動も辞さない覚悟をする必要がある”と、強調した。日本政府は、中国の領土である「満蒙」(満州とモンゴル)を日本の支配下におくことを、公然と日本の国策とするにいたったのだった。
(四)満州支配をねらって当時、満州の軍閥の一人で力をもっていた張作霖(ちょうさくりん)を日本は最初味方につけて満州に支配の手をひろげるつもりで、いろいろ工作したものの張作霖がそう簡単には日本の言いなりにならないことがわかると、一転して関東軍は秘密工作で張作霖を消すことにし、1928年6月張が乗っていた列車が通る線路に爆弾をしかけ爆殺してまった(この真相が明らかになったのは、戦後)。しかし、父のあとを継いだ張学良が、国民党政権の一翼をになう立場をとったので、爆殺によって満州の実権をにぎるという関東軍の思惑は成功しなかった。
中国人民の抗議と怒りが日本のこの帝国主義的行動に集中したのは、あまりにも当然のことで、日本の侵略行動は、その他の「外国勢力」が「不平等条約」によって租借地などの「権益」をもっていたこととはまったく比較にならない中国の主権と独立にたいする野蛮な攻撃だったのである。
日本の中国侵略が公然と侵略戦争の形で展開したのが、1931年に始まった満州事変でした。31(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側のしわざだとして、ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍がみずから爆破したものだった(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。この満州事変は、日本政府の方針とは無関係に日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大して全満州を占領した。満州事変は、まさに謀略で世界をあざむきながら全満州を占領したという戦争であった。
柳条湖事件と呼ばれる線路爆破事件が、関東軍のしわざであることは、軍の中央部はもちろん、政府のあいだでも、秘密のことではなかった。
そして1937年、いよいよ日中全面戦争が本格的に始められたのだった。
●登場人物
太田
佐々木
伊藤
須山
母
下宿のおばちゃん
宮本 顕治「党生活者」の中から(多喜二と百合子 4(7) 1956-10 )
ヒゲ
桑原 正二「滝子其他」と「党生活者」の滝子と伊藤の造型について( 日本文学 / 日本文学協会 編 16(2) 1967-02 p.1~10)
宇佐美 千恵子「党生活者」と母( 多喜二と百合子 (通号 8) 1955-01 p.547~549)
右遠 俊郎「党生活者」私論--ふたたび「私」の功罪について(民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (64) (通号 114) 1971-03-00 p.138~150)
北村 隆志「党生活者」の弁証法--「私」と「物語」をめぐって( 民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (496) (通号 546) 2007-02 p.90~102)
浦西 和彦小林多喜二「党生活者」のヨシ (名作の中のおんな101人)( 國文學 : 解釈と教材の研究 / 學燈社 [編] 25(4) 1980-03 p.p110~111)
吉本 隆明党生活者・小林多喜二--低劣な人間認識を暴露した党生活記録( 国文学 : 解釈と鑑賞 / 至文堂 編 26(6) 1961-05)
津田 孝「党生活者」論と愛情の問題 (小林多喜二没後40周年記念(特集))( 民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (87) (通号 137) 1973-02-00 p.50~64)
篠原 昌彦1930年代における反ファシズム文学論--『党生活者』をケース・スタディとして
( 苫小牧駒澤大学紀要 / 苫小牧駒澤大学 編 (11) 2004-03 p.1~14)
大田 努「党生活者」を読みなおす--いわゆる「笠原問題」に触れつつ (特集 小林多喜二没後七十五年)(
民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (508) (通号 558) 2008-02 p.85~97)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます