2010赤旗まつり多喜二「蟹工船」ノート公開!!
2010赤旗まつり多喜二「蟹工船」ノート公開!!
本日(27日)付『赤旗』紙に、以下の記事が掲載された。
小林多喜二「蟹工船」自筆ノート稿の見どころ
――第四〇回「赤旗まつり」の特別展示にあたって
島村 輝
一一月六、七日の二日間にわたって東京・夢の島公園で催される第四〇回「赤旗まつり」に、小林多喜二の小説「蟹工船」の自筆ノート稿が展示されることになった。今回「複製」とはいえ、一九八三年一〇月の「赤旗まつり」での「没後五〇年記念小林多喜二展」で初公開されてから二七年ぶり、二回目となる。二〇〇八年に社会現象にまでなるほどの注目を浴びた「蟹工船」の草稿部分が、多くの人々の集う場に出展されるのは、まことに喜ばしい。文庫本などの整えられた本文とは違って、多喜二のノート稿類には、普段一般読者の目に触れることのない、作家の血のにじむような文学的営みの痕跡が、赤裸々に残されているからである。このノート稿を多くの人が見ることで、「蟹工船」という作品についての従来の読み方が、変わってしまう可能性もあると考えられる。
【「蟹工船」の登場人物には名前があった】
扉の「蟹工船」というタイトルの直下には、社会主義思想の象徴としての「鎌とハンマー」による図像が描かれ、署名の強い筆圧から作者の込めた思いが読みとれる。メモや本文の一部には登場人物の名前が見られ、最終ページには「浅川」の姓の人物の名があるなど、手塚英孝による『全集』解題では触れられていない情報は多い。構想では一人一人を描き分けようとの意図があったのだろうが、おそらく稿を進める間に、労働者たちを「集団」(グループ)としてとらえ、名前を書かないという方法にいたったものと思われる。
また、完成稿では削除されてしまった冒頭の「新聞記事」の後に、当初の段階では、蟹工船に乗って争議を経験し帰ってきた漁夫の一人(小樽時代の恋人・タキの姓「田口」が冠されている)がこの記事を見て、それが真実を報じていないことに憤慨し、自分が見聞きしたことを手記として書くのだという「枠物語」が設定されていたことも分かる。
【構想の深化と「語り」の変化】
この「枠物語」は、執筆を進めていく段階で、「手記」であるが故の記述の不自由さを感じた作者の判断で、現在のような語りに変更されたものと思われる。そのことによって映画的な視点移動や、五感を駆使した語りの言葉が可能になったといえるだろう。その他にも下書き段階にあって、完成稿では採用されなかったいくつものエピソードが、草稿には見出される。全編にわたっての、ほとんど原形をとどめないほどに行われた推敲のあとも一目瞭然である。
【多喜二「自筆草稿」公開の社会的意義】
作家のノート稿、下書き、浄書稿、その編集者手入れ、ゲラ、その手入れ、初出、初版、その後の収録本などを精密に追いかけていくことは、研究上「社会的テクスト生成論」とでもいうべき、未踏の領域に入っていくことになる。そこには作家個人の内面の問題だけでなく、文学作品が、人間関係などを含めた広義の「メディア」を通じてどのように社会化するのか、そのメディアにどのような「力」が加わってテクストが変形していくのかといった、歴史の力学の解明へのルートがある。弾圧下で執筆した多喜二の場合にはその過程全体がひとつの典型的なケースとして研究の対象になると考えられ、探究の意義はきわめて大きい。多喜二の自筆稿等については、保存と活用のためにデジタルでの複製プロジェクトが始まっているが、今回の「蟹工船」ノート稿展示が、その研究の画期的端緒となることを期待する。
(2008年10月27日付「しんぶん赤旗」 しまむら・てる フェリス女学院大学 教授)
2010赤旗まつり多喜二「蟹工船」ノート公開!!
本日(27日)付『赤旗』紙に、以下の記事が掲載された。
小林多喜二「蟹工船」自筆ノート稿の見どころ
――第四〇回「赤旗まつり」の特別展示にあたって
島村 輝
一一月六、七日の二日間にわたって東京・夢の島公園で催される第四〇回「赤旗まつり」に、小林多喜二の小説「蟹工船」の自筆ノート稿が展示されることになった。今回「複製」とはいえ、一九八三年一〇月の「赤旗まつり」での「没後五〇年記念小林多喜二展」で初公開されてから二七年ぶり、二回目となる。二〇〇八年に社会現象にまでなるほどの注目を浴びた「蟹工船」の草稿部分が、多くの人々の集う場に出展されるのは、まことに喜ばしい。文庫本などの整えられた本文とは違って、多喜二のノート稿類には、普段一般読者の目に触れることのない、作家の血のにじむような文学的営みの痕跡が、赤裸々に残されているからである。このノート稿を多くの人が見ることで、「蟹工船」という作品についての従来の読み方が、変わってしまう可能性もあると考えられる。
【「蟹工船」の登場人物には名前があった】
扉の「蟹工船」というタイトルの直下には、社会主義思想の象徴としての「鎌とハンマー」による図像が描かれ、署名の強い筆圧から作者の込めた思いが読みとれる。メモや本文の一部には登場人物の名前が見られ、最終ページには「浅川」の姓の人物の名があるなど、手塚英孝による『全集』解題では触れられていない情報は多い。構想では一人一人を描き分けようとの意図があったのだろうが、おそらく稿を進める間に、労働者たちを「集団」(グループ)としてとらえ、名前を書かないという方法にいたったものと思われる。
また、完成稿では削除されてしまった冒頭の「新聞記事」の後に、当初の段階では、蟹工船に乗って争議を経験し帰ってきた漁夫の一人(小樽時代の恋人・タキの姓「田口」が冠されている)がこの記事を見て、それが真実を報じていないことに憤慨し、自分が見聞きしたことを手記として書くのだという「枠物語」が設定されていたことも分かる。
【構想の深化と「語り」の変化】
この「枠物語」は、執筆を進めていく段階で、「手記」であるが故の記述の不自由さを感じた作者の判断で、現在のような語りに変更されたものと思われる。そのことによって映画的な視点移動や、五感を駆使した語りの言葉が可能になったといえるだろう。その他にも下書き段階にあって、完成稿では採用されなかったいくつものエピソードが、草稿には見出される。全編にわたっての、ほとんど原形をとどめないほどに行われた推敲のあとも一目瞭然である。
【多喜二「自筆草稿」公開の社会的意義】
作家のノート稿、下書き、浄書稿、その編集者手入れ、ゲラ、その手入れ、初出、初版、その後の収録本などを精密に追いかけていくことは、研究上「社会的テクスト生成論」とでもいうべき、未踏の領域に入っていくことになる。そこには作家個人の内面の問題だけでなく、文学作品が、人間関係などを含めた広義の「メディア」を通じてどのように社会化するのか、そのメディアにどのような「力」が加わってテクストが変形していくのかといった、歴史の力学の解明へのルートがある。弾圧下で執筆した多喜二の場合にはその過程全体がひとつの典型的なケースとして研究の対象になると考えられ、探究の意義はきわめて大きい。多喜二の自筆稿等については、保存と活用のためにデジタルでの複製プロジェクトが始まっているが、今回の「蟹工船」ノート稿展示が、その研究の画期的端緒となることを期待する。
(2008年10月27日付「しんぶん赤旗」 しまむら・てる フェリス女学院大学 教授)
なかなか、スケールの大きいイベントで、驚きました。本当に、行かれなくて残念に感じています。。
(第五福竜丸も見たかったです。。。)
多喜二だけでなく、槇村浩や山宣さんのコーナーなど、運動家たちの足跡をダイジェストで辿れるようになってるんですね☆これは素晴らしいです!ほんとうに、行きたかった。。。(←しつこくてすみません)
ノートの公開の様子もわかって、とても興味深かったです。人出もなかなかのものでしたね。
島村先生の記事を読んでこられた方は、殊の外興味をそそられるのではないかと思いました。
「ありがとうございます!」にしたかったのですが。。。