山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

伊太・天神原

2025-02-26 15:06:15 | Ryoウォーク

2/24(祝)
伊太・天神原まで梅見のウォーク。

伊太・天満天神宮 丸石を撫ぜると頭が良くなる・・・?

梅の花も、そこそこに開いてきた。春も間近!

天神原公園で一休み。約8.5km、2時間30分、上出来でした。


友人の四十九日

2025-02-10 16:02:13 | 日記

8日朝、八幡山展望台からの富士山

安倍奥(遠景)も白くなってきた

今日向かう松風閣は遠景(高草山)右端の小さな突起・虚空蔵山の場所にある

2/8、昨年暮れに脊髄腫瘍で亡くなった友人Suyの四十九日法要を宗傳寺で、その後、お膳上げを焼津・松風閣で行った。
昨年秋に母親を亡くしたSyoに身寄りはなく、友人葬とでもいったところ。地元在住の友人4人(とその家族)、東京から足を運んできた大学時代の友人、ShyとTumとは40年ぶり近くの再会となろうか。こうして旧交を温められたのも、まめな付き合いをしていたSyoのおかげだ。それぞれが彼の思い出を語り、彼の好きだった芸をして小さいながら良い供養の宴だった。

松風閣窓越しの富士山

Ryoも一緒に供養してくれた

9日帰宅後、伊太まで散歩、梅がチラホラと咲き始めた

伊太八幡神社


精進湖へ続く巡拝の道

2025-02-02 11:17:40 | エッセイ

 1/26阿難坂峠から「三方分山」山頂へと急坂を上がっていく途中、この山名について話題となった。私は「三方を分ける山」という命名は、何のひねりもなく少し残念な名だと思っていたのだが、同行のNayさんは子供の頃に訪れた時から、そのものズバリの名が逆に印象に残ったと話した。山頂で北へ釈迦ヶ岳へと続く道を見送り、パノラマ台へと尾根を南下した。途中、精進峠と根子峠で精進湖からの道が上がっているが、いずれの峠でも西へ反(そり)木川の谷へと下っていくには急な斜面で、すでに道形も失せてしまっているようだった。
 翌日、山行の報告をまとめるために地理院地図を眺めていてふと思ったのは、どうも「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)としての中道往還、阿難坂越えの道ばかりを気にしていたが、精進湖へと繋がる道は他にもあった、ということだった。だいぶ昔になるが、やはり会の山行で四尾連(しびれ)湖から蛾(ひる)ヶ岳へと歩いたことがあった。そして、その先の尾根道が大平山や釈迦ヶ岳をとおって三方分山へと続くことを知って、いつか歩いてみたいと思っていた。
 その尾根の南側が反木川の谷で、パノラマ台途上の峠名ともなっている「根子(ねっこ)」地名もここにある。国道300号(身延山麓・下部温泉と本栖湖を繋ぐ道)から小関で分かれた県道416号(折門小関線)が谷沿いに通り、精進峠西側の下り先となる反木川最奥の三ッ沢まで小さな集落が散在している。夏作、蔵屋敷の小字名をはじめ、奥には折門(おりかど)、御弟子(みでし)など、いかにも謂れのありそうな地名が多く見られる。どうも身延山と本栖湖・精進湖を繋ぐ古い信仰の道があったように思われた。
 富士山北麓に点在する湖が「富士五湖」と総称されるのは周知のとおりだが、この名称は近代になって富士山麓の観光開発が進むなかで定着していったもので、それ以前には富士山やその周辺に修行の場を求めた行者にとっては、巡拝、修行の場としてあった。そうした信仰の対象としての富士山周辺の湖沼には、今日の富士五湖に加えて志比礼海(四尾連湖)・明見(あすみ)海・須戸海(富士市・愛鷹山麓、須津川の出口付近)があって「富士八海(内八海)」と呼ばれていた。八海は富士山頂に参拝する際の身を清める「垢離精進(こりしょうじん)」の場所として認識され(「精進湖」の名はそのもの)、ことに江戸時代に富士講が盛んになると、行者たちは八海を結び巡拝するようになったという。

 先に記した四尾連湖から蛾ヶ岳、釈迦ヶ岳をとおって三方分山に至る尾根道も、そういう巡拝道のひとつであったことは間違いないだろう。してみると、精進湖から阿難坂を経てくる尾根道、本栖湖方面からの尾根道、そして四尾連湖からの尾根道が交わるジャンクションピークである「三方分山」の名は、それを示す道標としての役割があったように改めて思われた。富士講の成立以前においても、日蓮宗との関連や山岳密教の修験者たちの往来や、もちろん「塩の道」としての性格もあったことだろう。
 もうひとつ、これはGoogleマップを見ていて気づいたのは、「諏訪神社」の多さだった。県道416号沿いの反木谷には狭い範囲に6社が集中している。もっと古い時代に諏訪方面との結びつきがあった土地なのか、その地名などと共に興味がそそられた。

 以下、山梨県立富士山世界遺産センターの令和3年度企画展『富士八海を巡る』展示解説より「精進・本栖から志比礼海へ」を参考に掲げる。

 志比礼海(四尾連湖、市川三郷町)へ巡拝するには、精進海(精進湖)や本栖海(本栖湖)方面から険しい山道を行かなければならなかった。精進海からはまず阿難坂(女坂)を甲府方面に上り、途中、三方分山を目指して西に折れる。その後、尾根づたいに釈迦ヶ岳・八坂峠・アンバ峠・折門峠と進み、蛭ヶ岳(*蛾ヶ岳)から下る。一方、精進海の北西から三ッ沢峠(*現・精進峠)を越えて八坂・御弟子・折門の集落を抜け、蛭ヶ岳の西の西肩峠を目指す道もあった。
 文政6年(1823)、芙蓉亭蟻乗(ふようていぎじょう)は本栖海から志比礼海へ巡拝した。その道は「難所」が多く、「いこうべき茶店」もないと聞いて、馬を雇っている。帰りも本栖海へ出た。芙蓉亭が通った具体的なルートは明らかではないが、彼が信奉する「不二孝」(不二道)を開いた小谷三志(こたにさんし)も、文化5年(1808)、本栖海から志比礼海へ参った。そのルートは、本栖海北岸を西進、古関から芝草へ出て、蛭坂峠を越え久保へ下りる(いずれも身延町)。そして堀切・藤田(いずれも市川三郷町山保)の集落から志比礼海に至っている。道程は9里(約35km)余りとあるので、芙蓉亭が6里(約23.5km)と記したことに比べると遠回りになる。また三志は本栖からの「ねつこ(根子、身延町)越」の道があることも示している(「裾野八湖。豆州修行記」)。この根子に宿泊したのが大正初年に八海巡りをした大町芳衛(桂月)である。本栖海北畔から反木峠(*現・根子峠?)を越えて根子の集落に入り、「旅店」に投宿する。そこは「部屋というよりもむしろ物置」といった風情で、宿泊客も年間数十人という。宿の息子のオルガン、蒸し暑さ、蚤の多さに閉口しながら、翌日は峰山(身延町大磯小磯)から蛭ヶ岳を越えて志比礼海に着く。帰りは反木峠を下り、本栖海から足を延ばして精進海へ宿を取った(『絵入訓話』)。
 現在、根子の字山伏屋敷に「御内八海道供養」碑が立つ。大磯小磯村の「講中」の岸右衛門・小左衛門が「本願人」となり、50両以上の寄付金を集め、嘉永元年(1848)8月に建立したものである。寄付者には市川大門村(市川三郷町)の富士講・大我(たいが)講の講員と思われる者もいる。大我講は同村の大寄友右衛門が始めた講で、天保14年(1843)に忍草の八海(忍野八海)を「再興」したことで知られる。険しい山道の志比礼海に至るルートでは、行き倒れてしまう者もいたのだろう。供養碑は甲斐河内地方の富士講の活動を今に伝えている。

*印はtakobo4040の註

 

 

三方分山・パノラマ台 - 山の雑記帳

パノラマ台からのこの日の子抱き富士所属会の1月定例山行はスノーハイキングを期待しての企画であったが、残念ながら下見時(1/5)と同様に積雪は全く無し。三方分山に限ら...

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三方分山・パノラマ台

2025-01-30 17:17:59 | 山行

パノラマ台からのこの日の子抱き富士

所属会の1月定例山行はスノーハイキングを期待しての企画であったが、残念ながら下見時(1/5)と同様に積雪は全く無し。三方分山に限らずここより高い御坂の山々や毛無山塊も黒い姿だった。まず諏訪神社境内の国天然記念物「精進の大スギ」を見学。樹高約40メートル、根元周囲13メートル、目通10メートル、樹齢1200年以上といわれている杉の巨木だ。雪化粧していたら、さぞや美しいことだろう。諏訪神社と隣接する龍泉寺本堂は共に茅葺の屋根で、中道往還の坂下集落である居村の歴史を感じさせる。

精進の大スギ(1/5)

その中道往還は駿河・甲斐を結ぶ街道の一つで「魚の道」でもあった。吉原(富士市)を起点に富士山西麓を通り、精進湖西岸から女坂1215mの峠を越え、さらに古関(旧上九一色村)からは右左口(うばぐち)峠855mを越えて、甲府まで20里の道程だった。朝、沼津沿岸から揚げられた海産物は、暑い日中を避けて夕方から夜通し馬などを使って運ばれ、翌朝には甲府の魚問屋に並んだという。甲府周辺は、内陸へ生魚を運べる限界である「魚尻線」にあたり、中道往還は別名「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)とも呼ばれた。現在、山梨県は人口あたりの寿司屋の件数が日本一、またマグロの消費量が静岡に次ぐというのは、中道往還あってのことだったのだ。

阿難坂峠の石仏(1/5)

道を保護する石垣や石仏など、往時の名残りを感じさせる坂道を登り切ると女坂(阿難坂)峠に出た。峠の石標と共に首の落とされた3体の石仏が祀られている。ゆっくりしようと思ったが、甲州側から吹き上げてくる北風が冷たく、立ち止まっての一服だけに留め、御坂山地の稜線を西に三方分山へと歩を進めた。葉をすっかり落として清々とした様相の樹間からは八ヶ岳連峰の白い峰をはじめ、甲府盆地の街並や奥秩父の山々がチラチラと見える。急登となった山道を40分ほど上りきると1422メートルの三方分山山頂に着いた。山名のとおりここは、北の釈迦ヶ岳からの尾根が合わさるジャンクションピークとなっている。山頂からパノラマ台へと南下するようになると、樹間からは西面の展望が開け、富士川の谷を隔てて南アルプスの白峰が頭を覗かせてくる。まず目に付くのは北岳、間ノ岳、農鳥岳の白根三山、その右の鳳凰三山は雪が少なく黒っぽい。左に目をやれば奥に尖った山容の塩見岳があり、さらに悪沢岳・荒川岳、赤石岳、聖岳は奥聖・前聖が重なって見慣れた家形の山容とは違って見える。錚々たる峰々を眺めながらの歩きは、適度なアップダウンもあって飽きることはないし、雑木の道は南面の尾根となって、暖かさも増して気持ち良い。この尾根には精進峠、根子峠の二つの峠があって、今は西側の道形は失せているが、かつては富士信仰の道者たちがここを越え、反(そり)木川の谷と精進湖、本栖湖とを結ぶ古い巡礼の道があったらしい(身延町根子には「御内八海道供養碑」が建つ)。

パノラマ台にて

順調に歩き、予定よりだいぶ早く正午前にはパノラマ台に到着した。定番の大室山を前景にした子抱き富士の姿が青空に映えるが、大室山に雪がなく、富士山にも雪が少ないの少々残念なところだ。とは言え、王岳から三ツ峠山の御坂の山々から、竜ヶ岳、毛無山の本栖湖周辺の山々などの展望は、パノラマ台の名前に恥じない。暖かな日差しの下、眺望を充分に楽しみながらゆっくりと昼食を摂った後、精進湖駐車場に下った。

 

No.541根子の道供養碑

 


山を彫る(番外篇)乗鞍岳

2025-01-23 15:18:32 | 山を彫る

東海フォレストツアーとして乗鞍高原スノーシューハイキングの案内があった。友人夫妻と共に我々夫婦も申し込んだが‥‥。妻が帯状疱疹に罹り取り止めて、我が家は私だけの参加となる。ロッジ「ふもと」到着後は、早い時間から飲みながら談笑。上等な宿とは言えないが酔ってしまえば、なんていうことはない。
2日目、観光センターが起点。スノーシューを借り衣装を整えた。私は積雪期登山や高遠少年自然の家での経験から難なく支度できたが、中にはスノーシューは初めてと言う人もいて手間取った。目が届き易いようにA,B2班に分けられた。ガイドの後に続いて参加者が、えっちらおっちら歩を進める。スノーシューは大きくて足にまとわりつく。多少の上り下りでも、それなりのテクニックが要る。間もなく牛留池に到着。氷結した上に真っさらな雪、Yonさんの計らいで向う岸までのかけっこ、よーいドン。こけつまろびつ各人好きなところをドタバタ、ドタバタ。「ここで後ろを振り向きましょう」の合図に振り返ると‥‥、わーお、林の上に乗鞍岳が、素晴らしい!要所々々でガイドがあり楽しい。おっ、熊の食事処(熊棚)だ。楢の木の梢に枯れた枝が広がっている。あんなに高い細枝の所まで上れるのだ。熊に遭遇して木の上に逃げたとしても追いつかれてしまう。もっとも、この姿では木に上れそうにもない。小さなコブを上がったり下がったり進み一ノ瀬遊園地に到着。ここは、更に開けていて絶景の場所だ。弁当を食べながら良い時間を過ごした。この後急降下して善五郎の滝へ。氷瀑を登っているところを初めて見た。14時スタート地点に戻り道具を返却。乗鞍岳には不気味な雲が現れていた。天気が崩れる予兆とか、天気に恵まれスノーハイクを充分楽しむことができた。
乗鞍岳は姿が良い。一ノ瀬遊園地からの眺めを彫ることにした。先生から中景に樹林を置くようにアドバイスを受けた。美しい峰を、それなりに表現できたと思っている。
2018/7SHC夏山合宿で乗鞍岳に登った。乗鞍高原が眼下にあった。

追記
このツアーに一緒に参加したT夫妻とは長きに亘り旅行を共にした。7月乗鞍高原泊、シャトルバスで畳平へ、富士見岳下のコマクサ群を見てもらいたいと宿の予約をしたのに‥‥。奥様が病に罹り予約をキャンセル、10月亡くなられた。版画の師に続いて大切な友人を失い、とても悲しい。今になって乗鞍岳は様々な想いが重なる山となっている。

(2025年1月・IK記)

*  *  *

この画の素材となった乗鞍高原は、IK氏の個人的なツアー参加ゆえに、それがいつのことか、また元になった写真など全く分からないのだが、2012年3月、会の合宿山行で乗鞍岳西麓の乗鞍青少年交流の家に泊まった。丸黒山を目指してのスノーシューハイキングは、時間と天候の関係もあって3分の1ほどの行程で終わったが、フカフカの積雪の中のどこを歩いてもOKという自由な感覚は、初心者を混じえて楽しいものだった。

 昨年の高見山に続いて今回の冬期合宿にも大勢の方が参加され、企画した者として嬉しく思います。今回のテーマは、「スノーシューを使って雪の上に自分達のトレールを刻む」ということでした。交流の家備品のスノーシューはあまり上物ではなく、装着に手間取ったり、最初は足の運びに戸惑ったりしましたが、時間が経つにつれ、皆さん人の踏んでいない所をどんどんと進んで行きました。雪の上を自由に歩き回る愉しさを覚えたことが、皆さんの感想から伝わってきました。力にあった場所を選び、充分な用意をし、そして少しだけ大胆な気持を持って臨めば、雪の野山ほど心が解放される所はないと思います。
 帰りの時間や下り坂の天候のこともあり、目的地の半分くらいの地点で引き返しましたが、なだらかで静かなこの尾根は気持ち良く、冬のこんな遊びには最適のフィールドと感じました。ぜひとも機会を作ってあの続きを歩きたいものです。(『やまびこ』No.182)

この3月「あの続き」を歩けることになった。どんな景が待っているだろうか。