山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

大日ヶ岳

2025-04-03 15:39:26 | 山行

山頂より白山方面を望む

3月末の土日に飛騨高山にある国立乗鞍青少年交流の家に宿泊しての今季最後の雪遊びを企画した。初日は行き掛けの駄賃にと、ひるがの高原近くの高鷲スノーパークからゴンドラを利用して大日ヶ岳へとお手軽なスノーハイク。大日ヶ岳は白山・御前峰の南南西約18kmに位置する両白山地の山で、白山と同様に717年、泰澄上人により開山されたと伝えられる。

前大日辺りを進む

山頂まであとわずか

ゴンドラの山頂駅の標高はすでに1520m、スキーヤーやスノーボーダーで賑わうゲレンデから離れ、尾根を登り始める。予報に反し上空は快晴で風も無く、少し歩けば汗ばんでくるほどの陽気だ。雪面の状態は所々にクラックが発生し地肌がのぞいている箇所もあり、陽気と共に春の山の様相。1時間ほどで1709mの山頂に到着した。山頂の一等三角点の標柱は頭だけ出ているが、山頂に祀られる大日如来石像や展望図は雪に埋もれていた。北側には稜線の向こうに少し雲がかかっていたが白山が大きく、また両白山地の白い峰々が幾重にも連なっていた。東側北アルプス方面は最初に乗鞍岳を望んだが、残念ながら雲が多く山頂から望むことはできなかった。

絶景をおかずに昼食

景色を眺めながらゆっくりと昼食を摂っていると、山頂から青年がパラグライダーで飛び立つ準備をしている。タイミングよく北西方向に離陸すると風を掴み、旋回しながらあっという間に青空に上がっていった。雪の状態では北西の尾根を天狗山まで足を伸ばそうかとも考えていたが、こちらの尾根はさらにクラックでズタズタでここまでとした。とはいえ、僅かな歩行時間で充分な展望が得られ、満足できた1日目だった。

パラグライダーはあっという間に上空に舞い上がった


伊太・天神原

2025-02-26 15:06:15 | Ryoウォーク

2/24(祝)
伊太・天神原まで梅見のウォーク。

伊太・天満天神宮 丸石を撫ぜると頭が良くなる・・・?

梅の花も、そこそこに開いてきた。春も間近!

天神原公園で一休み。約8.5km、2時間30分、上出来でした。


友人の四十九日

2025-02-10 16:02:13 | 日記

8日朝、八幡山展望台からの富士山

安倍奥(遠景)も白くなってきた

今日向かう松風閣は遠景(高草山)右端の小さな突起・虚空蔵山の場所にある

2/8、昨年暮れに脊髄腫瘍で亡くなった友人Suyの四十九日法要を宗傳寺で、その後、お膳上げを焼津・松風閣で行った。
昨年秋に母親を亡くしたSyoに身寄りはなく、友人葬とでもいったところ。地元在住の友人4人(とその家族)、東京から足を運んできた大学時代の友人、ShyとTumとは40年ぶり近くの再会となろうか。こうして旧交を温められたのも、まめな付き合いをしていたSyoのおかげだ。それぞれが彼の思い出を語り、彼の好きだった芸をして小さいながら良い供養の宴だった。

松風閣窓越しの富士山

Ryoも一緒に供養してくれた

9日帰宅後、伊太まで散歩、梅がチラホラと咲き始めた

伊太八幡神社


精進湖へ続く巡拝の道

2025-02-02 11:17:40 | エッセイ

 1/26阿難坂峠から「三方分山」山頂へと急坂を上がっていく途中、この山名について話題となった。私は「三方を分ける山」という命名は、何のひねりもなく少し残念な名だと思っていたのだが、同行のNayさんは子供の頃に訪れた時から、そのものズバリの名が逆に印象に残ったと話した。山頂で北へ釈迦ヶ岳へと続く道を見送り、パノラマ台へと尾根を南下した。途中、精進峠と根子峠で精進湖からの道が上がっているが、いずれの峠でも西へ反(そり)木川の谷へと下っていくには急な斜面で、すでに道形も失せてしまっているようだった。
 翌日、山行の報告をまとめるために地理院地図を眺めていてふと思ったのは、どうも「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)としての中道往還、阿難坂越えの道ばかりを気にしていたが、精進湖へと繋がる道は他にもあった、ということだった。だいぶ昔になるが、やはり会の山行で四尾連(しびれ)湖から蛾(ひる)ヶ岳へと歩いたことがあった。そして、その先の尾根道が大平山や釈迦ヶ岳をとおって三方分山へと続くことを知って、いつか歩いてみたいと思っていた。
 その尾根の南側が反木川の谷で、パノラマ台途上の峠名ともなっている「根子(ねっこ)」地名もここにある。国道300号(身延山麓・下部温泉と本栖湖を繋ぐ道)から小関で分かれた県道416号(折門小関線)が谷沿いに通り、精進峠西側の下り先となる反木川最奥の三ッ沢まで小さな集落が散在している。夏作、蔵屋敷の小字名をはじめ、奥には折門(おりかど)、御弟子(みでし)など、いかにも謂れのありそうな地名が多く見られる。どうも身延山と本栖湖・精進湖を繋ぐ古い信仰の道があったように思われた。
 富士山北麓に点在する湖が「富士五湖」と総称されるのは周知のとおりだが、この名称は近代になって富士山麓の観光開発が進むなかで定着していったもので、それ以前には富士山やその周辺に修行の場を求めた行者にとっては、巡拝、修行の場としてあった。そうした信仰の対象としての富士山周辺の湖沼には、今日の富士五湖に加えて志比礼海(四尾連湖)・明見(あすみ)海・須戸海(富士市・愛鷹山麓、須津川の出口付近)があって「富士八海(内八海)」と呼ばれていた。八海は富士山頂に参拝する際の身を清める「垢離精進(こりしょうじん)」の場所として認識され(「精進湖」の名はそのもの)、ことに江戸時代に富士講が盛んになると、行者たちは八海を結び巡拝するようになったという。

 先に記した四尾連湖から蛾ヶ岳、釈迦ヶ岳をとおって三方分山に至る尾根道も、そういう巡拝道のひとつであったことは間違いないだろう。してみると、精進湖から阿難坂を経てくる尾根道、本栖湖方面からの尾根道、そして四尾連湖からの尾根道が交わるジャンクションピークである「三方分山」の名は、それを示す道標としての役割があったように改めて思われた。富士講の成立以前においても、日蓮宗との関連や山岳密教の修験者たちの往来や、もちろん「塩の道」としての性格もあったことだろう。
 もうひとつ、これはGoogleマップを見ていて気づいたのは、「諏訪神社」の多さだった。県道416号沿いの反木谷には狭い範囲に6社が集中している。もっと古い時代に諏訪方面との結びつきがあった土地なのか、その地名などと共に興味がそそられた。

 以下、山梨県立富士山世界遺産センターの令和3年度企画展『富士八海を巡る』展示解説より「精進・本栖から志比礼海へ」を参考に掲げる。

 志比礼海(四尾連湖、市川三郷町)へ巡拝するには、精進海(精進湖)や本栖海(本栖湖)方面から険しい山道を行かなければならなかった。精進海からはまず阿難坂(女坂)を甲府方面に上り、途中、三方分山を目指して西に折れる。その後、尾根づたいに釈迦ヶ岳・八坂峠・アンバ峠・折門峠と進み、蛭ヶ岳(*蛾ヶ岳)から下る。一方、精進海の北西から三ッ沢峠(*現・精進峠)を越えて八坂・御弟子・折門の集落を抜け、蛭ヶ岳の西の西肩峠を目指す道もあった。
 文政6年(1823)、芙蓉亭蟻乗(ふようていぎじょう)は本栖海から志比礼海へ巡拝した。その道は「難所」が多く、「いこうべき茶店」もないと聞いて、馬を雇っている。帰りも本栖海へ出た。芙蓉亭が通った具体的なルートは明らかではないが、彼が信奉する「不二孝」(不二道)を開いた小谷三志(こたにさんし)も、文化5年(1808)、本栖海から志比礼海へ参った。そのルートは、本栖海北岸を西進、古関から芝草へ出て、蛭坂峠を越え久保へ下りる(いずれも身延町)。そして堀切・藤田(いずれも市川三郷町山保)の集落から志比礼海に至っている。道程は9里(約35km)余りとあるので、芙蓉亭が6里(約23.5km)と記したことに比べると遠回りになる。また三志は本栖からの「ねつこ(根子、身延町)越」の道があることも示している(「裾野八湖。豆州修行記」)。この根子に宿泊したのが大正初年に八海巡りをした大町芳衛(桂月)である。本栖海北畔から反木峠(*現・根子峠?)を越えて根子の集落に入り、「旅店」に投宿する。そこは「部屋というよりもむしろ物置」といった風情で、宿泊客も年間数十人という。宿の息子のオルガン、蒸し暑さ、蚤の多さに閉口しながら、翌日は峰山(身延町大磯小磯)から蛭ヶ岳を越えて志比礼海に着く。帰りは反木峠を下り、本栖海から足を延ばして精進海へ宿を取った(『絵入訓話』)。
 現在、根子の字山伏屋敷に「御内八海道供養」碑が立つ。大磯小磯村の「講中」の岸右衛門・小左衛門が「本願人」となり、50両以上の寄付金を集め、嘉永元年(1848)8月に建立したものである。寄付者には市川大門村(市川三郷町)の富士講・大我(たいが)講の講員と思われる者もいる。大我講は同村の大寄友右衛門が始めた講で、天保14年(1843)に忍草の八海(忍野八海)を「再興」したことで知られる。険しい山道の志比礼海に至るルートでは、行き倒れてしまう者もいたのだろう。供養碑は甲斐河内地方の富士講の活動を今に伝えている。

*印はtakobo4040の註

 

 

三方分山・パノラマ台 - 山の雑記帳

パノラマ台からのこの日の子抱き富士所属会の1月定例山行はスノーハイキングを期待しての企画であったが、残念ながら下見時(1/5)と同様に積雪は全く無し。三方分山に限ら...

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三方分山・パノラマ台

2025-01-30 17:17:59 | 山行

パノラマ台からのこの日の子抱き富士

所属会の1月定例山行はスノーハイキングを期待しての企画であったが、残念ながら下見時(1/5)と同様に積雪は全く無し。三方分山に限らずここより高い御坂の山々や毛無山塊も黒い姿だった。まず諏訪神社境内の国天然記念物「精進の大スギ」を見学。樹高約40メートル、根元周囲13メートル、目通10メートル、樹齢1200年以上といわれている杉の巨木だ。雪化粧していたら、さぞや美しいことだろう。諏訪神社と隣接する龍泉寺本堂は共に茅葺の屋根で、中道往還の坂下集落である居村の歴史を感じさせる。

精進の大スギ(1/5)

その中道往還は駿河・甲斐を結ぶ街道の一つで「魚の道」でもあった。吉原(富士市)を起点に富士山西麓を通り、精進湖西岸から女坂1215mの峠を越え、さらに古関(旧上九一色村)からは右左口(うばぐち)峠855mを越えて、甲府まで20里の道程だった。朝、沼津沿岸から揚げられた海産物は、暑い日中を避けて夕方から夜通し馬などを使って運ばれ、翌朝には甲府の魚問屋に並んだという。甲府周辺は、内陸へ生魚を運べる限界である「魚尻線」にあたり、中道往還は別名「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)とも呼ばれた。現在、山梨県は人口あたりの寿司屋の件数が日本一、またマグロの消費量が静岡に次ぐというのは、中道往還あってのことだったのだ。

阿難坂峠の石仏(1/5)

道を保護する石垣や石仏など、往時の名残りを感じさせる坂道を登り切ると女坂(阿難坂)峠に出た。峠の石標と共に首の落とされた3体の石仏が祀られている。ゆっくりしようと思ったが、甲州側から吹き上げてくる北風が冷たく、立ち止まっての一服だけに留め、御坂山地の稜線を西に三方分山へと歩を進めた。葉をすっかり落として清々とした様相の樹間からは八ヶ岳連峰の白い峰をはじめ、甲府盆地の街並や奥秩父の山々がチラチラと見える。急登となった山道を40分ほど上りきると1422メートルの三方分山山頂に着いた。山名のとおりここは、北の釈迦ヶ岳からの尾根が合わさるジャンクションピークとなっている。山頂からパノラマ台へと南下するようになると、樹間からは西面の展望が開け、富士川の谷を隔てて南アルプスの白峰が頭を覗かせてくる。まず目に付くのは北岳、間ノ岳、農鳥岳の白根三山、その右の鳳凰三山は雪が少なく黒っぽい。左に目をやれば奥に尖った山容の塩見岳があり、さらに悪沢岳・荒川岳、赤石岳、聖岳は奥聖・前聖が重なって見慣れた家形の山容とは違って見える。錚々たる峰々を眺めながらの歩きは、適度なアップダウンもあって飽きることはないし、雑木の道は南面の尾根となって、暖かさも増して気持ち良い。この尾根には精進峠、根子峠の二つの峠があって、今は西側の道形は失せているが、かつては富士信仰の道者たちがここを越え、反(そり)木川の谷と精進湖、本栖湖とを結ぶ古い巡礼の道があったらしい(身延町根子には「御内八海道供養碑」が建つ)。

パノラマ台にて

順調に歩き、予定よりだいぶ早く正午前にはパノラマ台に到着した。定番の大室山を前景にした子抱き富士の姿が青空に映えるが、大室山に雪がなく、富士山にも雪が少ないの少々残念なところだ。とは言え、王岳から三ツ峠山の御坂の山々から、竜ヶ岳、毛無山の本栖湖周辺の山々などの展望は、パノラマ台の名前に恥じない。暖かな日差しの下、眺望を充分に楽しみながらゆっくりと昼食を摂った後、精進湖駐車場に下った。

 

No.541根子の道供養碑