山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

広重・五十三次の山(9)

2024-09-08 12:57:38 | 浮世絵の山

金谷・大井川遠岸 江戸より24番目の宿

 さて、広重はいよいよ遠州に足を踏み入れ、大井川の渡し金谷側の高みから我が島田の山を眺望する。前回の岡部宿から一気に金谷宿に飛ぶのは、藤枝、島田の両宿では背景に山が描かれていないからにすぎない。ちなみに、藤枝宿では伝馬の様子、島田宿では川越しの様子が前面に描かれている。
 この連載のきっかけとなった「岳人」(669号)掲載の玉置哲浩氏『広重・東海道五十三次の山その3』では「金谷宿の大井川の対岸の山、舞阪宿の浜名湖岸の岩山は実景では存在しない」と書かれているのだが、地元の我々にとっては背景となっているこの山は一目瞭然である。言わずと知れた千葉山であろう。左の大井川岸から緩やかに上がっていく主尾根は、赤松から柏原、どうだん原、そして山頂へと続くものだ、よく見れば、矢倉山らしきものも判るし、右隅のピークは双子山と思われる。
 以前、読図講習の場で話した覚えがあるが、開山以来千葉山は島田周辺の宗教的、政治的、地誌的なシンボルであった。広重は「実景では存在しない」架空の山を描いたわけでなく、かなり意識して正確に描き込んでいるように思うのだ。江戸期の人々にとって「山」とは、富士山を筆頭に即ち信仰の対象であり、里から仰ぎ見られる顕著な峰は、なおさらである。また、こうした紀行物の浮世絵は、旅行ガイドのような役目もあったのだろうから、その地の名所旧跡などは描かれていることが多いだろう。
 それでは、背後の黒くとてつもなくでかい山影は何か。こちらは随分とデフォルメされている。想像ではあるが、方角的に、また前述のように五十三次に描かれているのは信仰対象となっている山が多いことを併せて考えると、大無間山(諏訪信仰)と読む。とすると、左の端正な三角形は黒法師、千葉山と双子山鞍部から覗いているのは七ツ峰あたりか。実際にはどの程度見えるのか、冬の晴れた日、牧ノ原公園に出かけ山座同定するのも愉しいだろう。

(2003年12月記)

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 ブログ『島田ハイキング』の1月3日付記事「大井川を歩いて渡る」内に、坂田幸枝さんが広重『東海道五拾三次之内金谷 大井川遠岸』を掲げ、背後中央の「この高い山は何と言う山でしょうか」と問いを発した。広重画は、島信のカレンダーシリーズとなっていて、わが家ではトイレに貼られ、ここで一時、山座同定なども楽しんでいる。また、『金谷』に対しては、だいぶ昔となるが、上記の文を『やまびこ』に寄せたことがあった。
 『金谷』が昨年の島信カレンダーになった時から、再度の山座同定をトイレで進めていたこともあって、幸枝さんのブログアップは嬉しいことだった。また、ブログ記事に対して早速に立川さんより反応があったことを聞き、さらに嬉しさが倍増した。

カシミール3Dにより描画した展望図

(立川 博道)

 広重の「金谷 大井川遠岸(遠州側の岸の意味)」に描かれている山には定説がないようです。多数派は、手前の彩色された山にある集落が金谷宿であるというもの。正反対の金谷(遠州側)から渡しを見た図という説もあります。但し、いずれの説でも遠景の黒い山並は広重の作意であり実在しないとしています。
 そこで、諸説とは関係なく、3次元地図ソフトのカシミール3Dで探索してみました。川越遺跡付近の大井川河原から360度展望カメラで見たところ、ほぼ真北の展望(高度100m、28㎜レンズで撮影)が広重の絵に似ているようです。広重は山を誇張して描画していることが多いので、さらに縦方向を2倍に伸ばしたのが添付図です。彩色された山は「矢倉山」と「千葉山」その後ろの尖った黒い山は「高根山」か? SHCブログでご質問の「この高い山」は「高山」の稜線に似ていますが、如何でしょうか?

地理院地図3Dにより描画した島田スカイライン

 さすがに立川さんは、実証的で説得力がある。これに倣って私も別のツールで立体化(3D化)してみた。今の国土地理院HPには、地理院地図を3D化する機能が用意されている。これによって立体化された島田スカイラインが〔上図3〕(立川画像と同様に縦方向2倍)である(この機能は範囲に制限があって、遠距離のものを含めた展望図にはならないが、角度を変えたり方角を変えたりと、いろいろいじれるのが面白い)。両図を比較してみると、視点の位置、高度、方位、俯角などが異なっているから、全く同様の図とならないのは当然のことであるが、概ね前景山並が千葉山であることはほぼ相違ない。ただ、私は前景山並の最も高く、はっきりと描かれている峰が千葉山であり、尾根続きの右端なだらかなピークは双子山ではないかと判断している。この両峰の間には、現実には443.8m三角点峰が存在するが、これは画上省略されていると考える。従って、これが「高根山か?」とする立川説には、そうだろうと納得した。

『東海道五拾三次 小田原酒匂川』

 問題は背部山並のどでかい山体である。なるほど、二つの画像を見ると、高山は私の想像をはるかに超えて大きく眺望できることは、驚きの再認識だった。画に描かれる形も二つのCGに似通っている。うーん、立川説の高山で決まりかな、とも思うが、やはり気になることがある。一つは、仮に先程の千葉山右背後の山を高根山とするならば、千葉山とはより近く、相賀谷一つ隔てているだけの高山に霞が掛かっているように描かれているのは何故か。もう一つは、同じく広重・五十三次の『小田原 酒匂川』との比較である。『金谷』と『小田原』が、同じ構図で描かれていることは一目瞭然で、思うに、詳細に彩色されている前景山並は実景(無論、誇張や省略は画法としてあるだろうが)として、影ベタの背景山並はその彼方のあるべき山を心眼で描くという作法ではないかと私は想像するのだ。『小田原』においては前景が箱根外輪山、そして背後の『金谷』同様のばかでかい山体は、その先にあるべき神山、駒ヶ岳の中央火口丘、その左のさらに遠くの山は、富士山と愛鷹山塊と想像する(位置的には、このようになる筈はないが)。これと同じく、『金谷』のばかでかい山体は、やっぱり大無間山、その左が黒法師岳だよと、深南部ファンとしては願望してしまうのだ。諸兄姉の更なる検討が寄せられることを期待している。

(2015年3月・SHC会報『やまびこ』№215より)

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【2024年9月追記】

歌川国貞『五十三駅景色入美人画・金谷』

歌川芳盛『東海道名所風景・金谷』

 歌川一門の別の絵師による「金谷」の画である。国貞の美人画の背景は、『広重・大井川遠岸』を借用しているもののようで、全く同じ構図になっている。芳盛の画は将軍・家茂の上洛を描いたものということだから、行列は大井川を駿河(嶋田)側から遠州(金谷)側へと渡り西進していることになる。行列の先頭部分が越えている山の形が、『広重・大井川遠岸』の手前の彩色された山と似ているようにも感じられるが、もちろん、実際の東海道は金谷宿から牧之原台地に上がっていくのであって、このような山は存在しない。

 『大井川遠岸』とセットの画のように思われる対岸の画は『嶋田・大井川駿岸』で、「遠岸」・「駿岸」とはアングルとした地点を言っているようだ。金谷側の渡河地点堤防(遠江側の岸=遠岸)から大井川を前景とした北方の景観をGoogle Earthで描画した(縦方向を1.5倍)。やはり、これが『大井川遠岸』の構図に一番近いようだ。今まで見てきたように、東海道五十三次においては広重が実景に近い山を描いていることも併せて考えると、2015年の立川説が有力ではないかと今は思っている。

『東海道五拾三次 嶋田 大井川駿岸』


広重・五十三次の山(8)

2024-09-06 14:06:47 | 浮世絵の山

岡部・宇津之山 江戸より21番目の宿

 駿府を立ち西へ向かうと、最初に越える峠が宇津ノ谷峠(宇津ノ山)だ。この道は、豊臣秀吉の時代辺りから使われ始めた江戸期東海道であるが、その東の谷には在原業平の「駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にもあはぬなりけり」の歌で有名な蔦の細道、さらに下れば焼津の花沢の里へ抜ける日本坂峠には古代東海道が通っていたから、峠越えの道は時代と共に随分と変遷してきたのだ。宇津ノ谷峠に現存する明治、昭和、平成の三つのトンネルは有名で、近代以降もルートを変えながら大動脈東海道の増え続ける需要に対応してきた。
 この山域は藤枝の最北端清笹峠から発し、大崩海岸で駿河湾に没する、いわば安倍川水系と大井川水系とを分けている山並である。静岡で大雨でもこちら側は大したことはないなど、標高500メートルにも満たない山並ではあるが、はっきりと自然の境界線にもなっているのだ。我が志太側から見た時、ランドマークのような存在が焼津の高草山である。高校時代に「高草山に雪が降ると春が来る」という言葉を聞いたことがあるが、近年ではとんと経験しない。

(2003年11月記)

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宇津ノ谷峠の変遷

宇津ノ谷峠の一席。

鈴木 雅春

 皆さんは、宇津ノ谷越えと問われれば、何と答えますか? 建設省が発行した「東海道宇津ノ谷峠」によれば、東西交通の街道は、奈良時代の万葉の官道日本坂、平安・鎌倉・室町期の蔦の細道、江戸時代の旧東海道と変遷したとある。更に交通量の変化に伴い、東海道の鞠子宿と岡部宿を挟むこの難所の通過には、明治、大正、昭和、平成のトンネルが登場する。宇津ノ谷の地名は、旧東海道と蔦の細道のある地域を指し、また宇津ノ谷峠と呼ばれる場所は、岡部の谷川へ通じる峠、旧東海道の峠と蔦の細道越えの峠の3か所にある。静岡近郊にある東海道の有名な峠と言えば、小夜の中山、薩埵峠、そしてこの宇津ノ谷峠。これらの峠には、道祖神や地蔵信仰とともに、境にまつわる伝説や習俗が古代から育まれてきた。

広重「行書東海道 岡部 宇津の山之図」
宇津ノ谷名物は軒先に並ぶ人食鬼供養の厄除け十団子

 宇津ノ谷峠は、鬼と地蔵が登場する十団子(とだんご)の物語として、また在原業平が都落ちする感慨を詠んだ場所として名を馳せてきた。絵画から文学まで文化の缶詰である宇津ノ谷峠は、歌舞伎では陰惨な人殺しの舞台となる。前述の「東海道宇津ノ谷峠」本の中で、山川静夫が黙阿弥の名作「蔦紅葉宇津谷峠」の解説文を執筆している。ただ私自身、残念ながら歌舞伎には縁もなく、又、やや敷居が高く鑑賞しようという気になれない。
 今年、講談「慶安太平記」の第7話「宇津谷峠」を聴く機会があった。歌舞伎では長い上演時間の物語である。しかし講談では題名とは異なり、宇津谷峠が登場する場面は、暗闇の峠道と、人が殺される情景が、ほんの7、8分程度語られるにすぎない。だが緊迫感ある語り口の講談を聴くと、無性に宇津ノ谷峠に興味が搔き立てられる。
「浅草のマツノジョウが最高だった」知人からそんな言葉を言われ、「そんなに鰻がうまかったのか」と問い返したのは何年前だっただろうか。コロナ禍の巣ごもり生活の中、松之丞改め天才講談師神田伯山の連続物の講談、YouTubeやラジオに今はまっている。
 慶安太平記は、由井正雪が幕府転覆を謀る物語で、落語でも、歌舞伎でも扱われている。神田派の講談では19話の連続物となるが、残念ながら通して聴いたことはない。講談の解説書を読むと、由井正雪の悪事の企みと金をめぐる物語が繰り返される内容のようだ。コロナ収束の折には、是非連続物の演目会場に通い、生の講談を聴きたいと狙っている。
 講談を聴くようになって、初めて理解できたことは、大利根月夜の平手造酒、講談・落語との関係。明治から昭和初期まで落語を凌ぐ人気を呈した講談話は、多くの庶民の常識だったようだ。しかし、昭和20年代には「講談師ただいま24人」と題する本が出版される。絶滅危惧職と言われ、講談師を人間国宝と崇め、その文化を保護しなければとまで言われる。そんな中で彗星のように現れた待望の男性講釈師が皆様ご存じの伯山である。宇津ノ谷越えの道が様々な変遷を経てきたように、1983年生まれの真打神田伯山が、年齢を重ね、大成し、老成するごとに、語ってくれるであろう講談「宇津谷峠」の演目を、今後、聴き重ねていければと、心から願っている。「講談の話、これからが本当に面白いところになるのでございますが、何と何とお時間となりました。又の機会にお話しするとして、本日はこれにて、書き終わりといたします。パンパン」

(SHC会報2021年7月号『やまびこ』№291「巻頭エッセー」より)

講談「慶安太平記〜宇津谷峠」▼


広重・五十三次の山(7)

2024-09-05 15:25:05 | 浮世絵の山

鞠子/丸子・名物茶店 江戸より20番目の宿

  梅わかな丸子の宿のとろろ汁  芭蕉
 今や全国的に有名になり、県外からも団体バスで食しにくる丁字屋のかつての姿。近くには島田出身の連歌師・宗長ゆかりの吐月峰柴屋寺があり、丸子富士を借景とした庭園で有名だから、背後の端正な山もそれと思われる。日本国中に○○富士と名の付く山は数多くあるが、本家本元の富士山がドンと見える静岡では少ないのではないか。私が知っているのはこの丸子富士だけだが、他にもあるのだろうか?

(2003年9月記)

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【2024年9月追記】

 広重・東海道五十三次に描かれている山は、その場所で著名な山を嵌め込むのではなく、どうも実景に忠実に配しているようだ。この「名物茶店」のモデルとされる丁字屋は現在、丸子橋の東袂の丁字路に南を向いて建っている。広重の画もその通りだとすると、背景の小山は北側裏山の240メートル峰にあたり、このピークが各解説でいう「横田山」なのだろう(丁字屋の250メートルほど東には「丸子宿横田本陣跡」がある)。

横田山(Google Earth作成)

柴屋寺庭園から望む丸子富士

 丁字屋の辻を北に進んだ横田山西麓には吐月峰柴屋寺があって、国指定史跡である庭園からは丸子富士が借景として望まれる。柴屋寺からさらに北へ歓昌院坂を越えて木枯ノ森から羽鳥へと至る道は、(6)のリンク記事(駿河国中部の地誌と……)で示したように古東海道(奈良時代)のルートであった。

 上記「古代(奈良時代)東路推定略図」には宇津ノ谷コースから勧昌院坂を経由して羽鳥に向かい安倍川を上流で渡って国府に向かうコースが示されている。これは東海道の間道の一つとして古くからあったものと思われる。特筆すべきは藁科川の中州である“木枯森”が清少納言の『枕草子』に取り上げられていることである。森は…の段で他の名所と共に列挙されているに過ぎないが、少なくとも「木枯森は素晴らしい」と書かれた本か歌が当時流布していたことを示している。

満観峰から望む丸子富士

 ところで、○○富士は「郷土富士」と呼ばれるらしいが、地理学者の田代博によれば400峰以上で、うち約40峰は日本国外にあるそうだが、玉山=台湾富士のように旧植民地や占領地の山に付けられていることが多いようだ。
 ウィキペディアによると、静岡県の郷土富士は丸子富士を含め10峰が挙げられていたが、真富士山はいわゆる富士山を模しての命名ではないし、異議がある所もある。

下田富士(岩山/下田市)、千頭富士(黒法師岳/川根本町)、川根富士(朝日岳/川根本町)、第一・第二真富士山(静岡市)、伊豆小富士(小室山/伊東市)、伊豆富士(大室山/伊東市)、三坂富士(南伊豆町)、長津呂富士(恒々山/南伊豆町)


広重・五十三次の山(6)

2024-09-01 11:28:54 | 浮世絵の山

府中・安倍川 江戸より19番目の宿

 安倍川の渡しであるが、背後の山は何だろうか? 前面が賤機山、それに続く背後の高い山が竜爪山と見るのが常識的か? しかし、そうすると川の流れが何か不自然。どうも藁科川と合流する流れのように見えるのだ。手越・現安倍川橋辺りから北北西の方角に牛ガ峰(高山)があるが、この線も濃厚ではないか。牛ガ峰はカヤトの広い山頂で安倍奥の好展望台。ちなみに、高山・大山などの名は全国に多いが、里から見上げられる高いピークに付けられていることが多い。

(2003年8月記)

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【2024年8月追記】

 府中から安倍川を渡った(現・安倍川橋付近)先の手越の西側に、古東海道といわれる「手児の呼坂[てごのよびさか]」があり、小さな峠道となっている。峠の北側に尾根を進むと中腹に今川家所縁の徳願寺があって、さらに尾根を登った標高352メートルのピークが徳願寺山と呼ばれている。徳願寺山からは300〜500メートル弱の尾根が宇津ノ谷峠に向かって伸びていて、近年は「丸子アルプス」と称して地元のハイカーに歩かれているようだ。府中・安倍川の背景の山は、この徳願寺山ではないかという説を目にした。ウィキペディアによれば

歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の19番「府中」において安倍川の渡しの背景に描かれた山がこの徳願寺山とされる。この背景の山を「賤機山」とする解説も見られるが、賤機山は安倍川左岸(東側)のやや離れた位置にある低山で、このように迫るように見えることはあり得ない。

とある。

安倍川渡渉点(現・安倍川橋付近)から西方向の展望図

徳願寺山(Google Earth)

 これを見ると山の迫り方と安倍川の流れのかかり方という点で、確かにそのように感じられるが、山の形が少し違うようにも見える。

北北東の展望図

賤機山・竜爪山(Google Earth)

 こちらは賤機山から続く竜爪山だが、山そのものの形は双耳峰の山頂部など近いように感じられる。また広重画の左奥の山並が、安倍奥の十枚山・真富士山との解釈もできるが、やはり実景的には徳願寺山説が有力かなと思える。

「手児の呼坂」について

 

手児の呼坂 - 神が宿るところ

手児の呼坂(てごのよびさか)。場所:静岡市駿河区北丸子1丁目~向敷地。国道1号線「金属団地入口」交差点から北に向かい、突き当りを右折(東へ)。駐車場なし。「手児...

goo blog

 

安倍川西岸(丸子)地域の古東海道について

 

駿河国中部(安倍川西岸、丸子地域)の地誌と古代東海道、鎌倉街道

  駿河国府のある静岡県中部は後世も駿府城が置かれるなど、この地域の政治的中心地であった。その駿府の西部を流れる、安倍川は古来暴れ川として流域に...

更級日記紀行

 

広重・五十三次の山(5)

2024-08-28 13:03:54 | 浮世絵の山

江尻・三保遠望 江戸より18番目の宿

 江尻は今の清水だが、静岡県の一番薄くなった部分に位置している。駿河、遠江内の東海道から北へ抜ける数少ないルートの起点の一つであり、現在では興津から国道52号線が貫かれている。この道は我々の山行においては、山梨南部の山はもちろん、南北アルプス、八ヶ岳などへ行く折に随分と利用していて、沿線の風景も馴染みのものとなった。いわば我らの山街道でもある。江尻は駿府の手前にあって、海上交通と東西ルート、南北ルートのジャンクションという、絶好のポジションにあることが分かる。湾の向うの山並は愛鷹山塊か、現代では富士の煙突群も望められるだろう。
 清水とくれば今はサッカーでの知名度が高いが、それ以前は何といっても海道一の大親分次郎長だろう。次郎長一家にとっても、東海道の港湾江尻と山国甲州を結ぶこのルートは重要だったようで、ライバルの甲州・黒駒の勝蔵とは盛んに抗争を起こしている。博徒といっても一家を構えれば賭博だけで成り立つものではなく、荷役や交易など様々な利権に絡んでいたのだろう。従って彼らの活動範囲は極めて広く、現代の新聞用語でいえば「広域暴力団」の様相を示す。その広域性の故か子分達の出身地も様々である。最初の子分、桶屋の鬼吉は尾張の出で遠州秋葉山の縁日賭博で拾っているし、大政も尾張の武士くずれ、関東綱五郎は名前のとおり、法印大五郎は大阪の坊主くずれとくる。
 生まれた場所と環境の中で生きざるを得ない封建社会の中で、裏街道とはいえ身軽にあらゆる道を往来する彼らアウトローたちの旅姿は、後世になってもある面で憧れであり、爽快なものとして映ったのは理解できる。秩父困民党をはじめ明治の自由民権運動に、少なからざる博徒が関わったことも故ないことではあるまい。
 我らもまた道を歩く者。裏街道のさらに奥深く、獣しか通わぬ道を行くこともあるが、精神の自由さを希求することにおいては、山屋もまたアウトローたちと同じ系譜を引くのかもしれない。

(2003年7月記)

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【2024年8月追記】

日本平から望む富士山

 上の文で「湾の向うの山並は愛鷹山塊か」と書いたが、これがどうも引っ掛かっていた。沼津以西の駿河湾沿岸で愛鷹山が富士山の左にあることはあり得ず、そんな全くの虚構のアングルを広重が採ることは無いだろうと。もちろん、これは画の中央奥に小さくではあるが描かれた尖った峰が富士山であるという前提による。WEB上にあった幾つかの解説の中から、画の視点と背景の山に関することを拾ってみた。

○東京富士美術館
江尻は現在の清水港。中央には有名な三保の松原が見え、遠方には愛鷹山がごつごつとした山並みが見える。おそらく愛鷹山の左側には富士も見られたに違いない。
○アダチ版画研究所
江戸幕府の初代将軍・徳川家康が最初に埋葬された東照宮のある久能山から、清水港を眺望した図です。
○東京伝統木版画工芸協同組合
本来は富士の眺望が良いはずだが、意図的に外した様だ。
○文化遺産オンライン
白い船の帆や港に停泊する船のかたちが様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景を描いている。
○kanazawabunko
この風景絶佳の展望は、久能山・日本平あたりからのものでしょう。(中略)遠景は愛鷹山らしい山並みの展望から霞を隔てた海上に数多くの帆影で賑やかさを見せています。
○地図から見る「東海道五十三次の旅」(Canon Creative Park)
家康の霊廟のある久能山から三保の松原を遠望した図です。左奥の山塊は愛鷹山です。本来は右手にあるはずの伊豆半島は描かれていません。
○Google Arts & Culture
遠景に見える伊豆半島は、実景では右に伸びていくはずですが、広重はこれを省略して水平線の広がりを表現しました。

 まとめると、⑴左に描かれた山は愛鷹山、⑵富士山は(意図的に)描かれていない、⑶久能山・日本平辺りからの景、といったところだろうが、どうも納得がいかない。だいたい富士山の見える場所で、扱いの大小はともかくとしてこれを画の中に置かないわけがない。江尻から見える景で、シンボルチックな円錐形に描かれる山は富士山をおいて他にはない。もっと大きく見える富士山を広重が意図的に小さく(しかし中央に)置いているのは、駿河湾の奥深さと、そこを白帆を立てて進む何艘もの船を主題としたからではないだろうか。つまり海上交通の要地としての江尻の賑わいである。

三保・御穂神社から北北東方向の展望図

 では、左の山並は何だったのか。愛鷹山塊ではなく、掲げた展望図に示されるように浜石岳と大丸山の山塊で間違いないだろう。浜石岳については前回(4)「由井・薩埵嶺」で述べたように、遮断性のある大きな山塊だ。愛鷹山は画では富士山右側の裾野と一体化して描かれている部分だろう。実景では、さらにその右に箱根の山並があって、伊豆半島へと続いていくのだが、これは春霞の中で見えないのだろう。波もなく穏やかでキラキラ輝いている水面は、春の海そのもののようだ。
 最後に画の景がどこからのものかだが、日本平辺りからの景であるとすると、写真のように浜石岳と大丸山が富士山に被りすぎてしまい、もう少し東に寄る必要がある。また、画の家並や停泊する船の描かれ方を見ると、2、3百メートルの高さから見下ろしているとは思えない。現在の三保の地形とはだいぶ異なっているだろうが、砂嘴に囲まれた折戸湾最奥部の少しの高みからではないかと想像する。展望図は、仮に御穂神社から高度20メートルで作成したものだ。