山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

御塔処参りの道

2024-08-04 11:27:42 | エッセイ

 コロナ禍での帰省控えもあってのことなのか、いつもはごった返す盆の御塔処(おたっしょ)参り(墓参り)は、今夏(2020年)は静かなものだった。こうした盆の風習も、地域や宗派、寺によって異なっているようで、祖霊をお迎えに行くタイプとお送りするタイプがあるが、家(うち)のお寺さんは15日が恒例で、「ご先祖さんは家に帰っていてお墓は留守じゃないのか……?」と思えてしまう。以前、前の方丈(ほうじょう/住職)さんに伺ったら、「この寺は、元は街中にあったので檀家に商売屋が多く、盆休み明けにすぐ店ができるように一日前倒ししている」とのこと。七年前、老父が亡くなり墓所を旗指(はっさし)の法幢寺(ほうどうじ)とした。前住職が言うように、法幢寺は元々は本通一丁目北側の大村酒造の建つ場所にあって、現在地の旗指に移ったのは昭和50(1976)年、都市計画による道路拡張に伴うものだった。同様に旗指に移転した寺は、現在地で法幢寺の向かいに建つ敬信寺や、中央幼稚園西側の康泰寺があって、谷奥の古刹・静居寺(じょうこじ)と共に寺の集中地域となっている。

 さて、掲載した空中写真は地理院地図の「年代別の写真 1961年~1969年」で、島田地域が載る最も古い年代となる。1961年に建てられたばかりの我家が米粒ほどに写っていて、他にこの道沿いに農家以外の住宅が見当らないところをみると、60年代もごく早い時期の撮影だと思われる。当然ながら国一バイパス、はなみずき通りや島田大橋はまだ影も形もない。目立った道を黄色にトレースしてみた。都市計画の整備前で、島田駅から現ばらの丘方面へ北に向かう道も、まだ貫かれていない。島田の中心街(旧東海道沿いの宿場)から直接北方面に向かう道は三本しかないことに気づいた。即ち大津の谷へ向かう大津通、江戸期当初の大井川渡し場であった向谷・大鳥、また伊太の谷に向かう向谷街道、そして旗指・静居寺方面に向かう道だ。この三本の道が、江戸期においても島田宿と北側の村々とを結ぶ道ではなかっただろうかと想像するが、旗指に向かう道だけが唯一、駅から直接出ている道となっている。現況では、駅西から本通りを渡り、大井神社東側を抜け向谷街道を渡り、アポロン先で伊太谷川を渡った所で二手に分かれ、左手の道は静居寺に行き当り、右手の道は現在の法幢寺が建つ場所に行き当っている。右手の道の途中には地蔵堂があって、子供の頃、盆のお祭りは結構な賑わいを見せていた。余談となるが、この地蔵堂は明治の中頃、疫病が流行したためその平癒を祈念して、遥々下北半島の恐山から本尊の分身を譲り受け建立されたと言われているから、コロナ退散にもあるいはご利益があるのでは……。

 こうしてみると、法幢寺は元々あった大井神社東側の場所からまっすぐ北への道を辿って、山の端の現在地に移ってきたことになる。前住職は「たまたま、檀家さんの紹介があって……」と言っていたが、法幢寺は曹洞宗で静居寺の末寺として開山(1601年)されたのであるから、本寺近くの場所に移ってくるのも自然なことかもしれない。静居寺の開山は永正七(1510)年、この地域の曹洞宗の伸張に影響を持った格式のある寺で、江戸期になって東海道五十三次として島田宿が発展し人口が増加するのに伴い末寺が宿内に開山されていった。二丁目裏の康泰寺、普門院、三丁目裏の快林寺、福泉寺など含め、いわば静居寺の出張所のようなものだったかもしれない。そう考えると、この道は宿から静居寺へ向かう参道としての意味もあっただろうし、山の端の旗指という場所は死者の魂が集まり山に登っていく、また祖霊が正月、彼岸、盆にと里(宿)に下りてくるのに都合の良い地形ではなかったかと思えてくる。そんなこともあってか、静居寺には町屋の檀那衆の古い立派な墓も多い。この〝都合の良い地形〟は、何も江戸時代になって島田宿が確立されて以降のことではなく、例えば古墳時代から律令時代にかけての墳墓遺跡(旗指古墳群、旗指蔵骨器埋葬墳墓)が、国一バイパス旗指インターの周辺に分布されていたことにも見てとれる。(同地からは弥生時代、縄文時代の住居跡の遺跡、さらに旧石器時代の遺物も発見されていて、太古からの生活の痕跡がある)

 さて、今の法幢寺西側の丘陵に上っていく入口には秋葉さんの祠と共に小さな祠が建っている。Googleマップには「左軍神社」と記されているが、前住職によれば通称「おしゃもじさん」と呼ばれ、いつの時代からか分からないがずっとここに在ったと言う。これを拝めば食べる事に困らないのだそうだ。少し調べてみると、どうも「ミシャグチ(ジ)神」に由来するのではないかと思われた。ミシャグチ神の大元は諏訪・神長官守矢史料館の南側(山側)に「御左口神(ミシャクジ)神社」がある。柳田國男によればミシャグチ(ジ)は、元々は塞ノ神=境界の神であり、侵攻氏族と先住民それぞれの居住地の境に立てた石の標識であると考察している。ミシャグジ→シャ(サ)グンジ→シャクシ→シャモジ、当てられた漢字に意味はないので、音が時代や地域の変遷に従って変化し、もう当初の意も分からなくなって「飯が食える」という庶民の信仰にまで行ってしまったのだろうが、確かに旗指のこの場所は山の端にあって、山間部と大井川の沖積平野との境のモニュメントとして相応しい位置と思える。あるいは魂の彼岸と此岸との境界なのやもしれない。

 この「おしゃもじさん」の裏を丘陵へ上っていくと、突然小広い平らに出て、竹林の中に幾基もの古い墓石が並んでいる。江戸期に島田宿一丁目の大檀那であった稲葉屋・桑原家の墓所だという。この墓所は、今はすっかり廃屋のようになってしまった傳心寺(でんしんじ/静居寺末寺)の境内で、この寺は稲葉屋分家・仁兵衛正直(明和元・1764年没)によって再興された。稲葉屋は一丁目交差点の辺りにあったというから、例の宿からの道をまっすぐに北上し、山に突き当たったその場所を一族の墓所としたのだった。桑原分家(上の稲葉屋)四代目・伊右衛門正作宣之(1767~1832)は、伊豆の山根氏の生まれだったが三代目の跡取りが幼少であったため中継ぎとして養子に入るが、33才で家督を譲り、桑原家の墓所近く現在の法幢寺東側の金子沢に閑居を構え隠居する。この人こそが地誌『駿河記』37巻を著した桑原藤泰(ふじやす)=桑原黙斎(もくさい)である。島田宿から旗指に続くこの道は、なかなか面白い道だと墓参りの度に思うのだ。

(2020年10月記)